■第十六夜:四月の天気はわからない
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「それで、カテル島への帰還は先送りにしちゃっていいのかな?」
まとまりかけた場に水を差したのは、しかし、アシュレを舞台に引きずり出したイズマ本人だった。
一瞬、アシュレは返答に詰まる。
イズマの指摘がアシュレの頭のなかにイリスの笑顔を──聖母再誕の儀式を決意したときの、強く、しかしやつれて儚げな、それを──喚起させたからだ。
「まあ、どのみち《転移門》を開くには、あと一月近く待たなきゃならんわけだけれども」
ここまでぶっ飛んでくるのに、使っちゃったからね。
開いていた親指と人さし指をくっつける仕草をしながらイズマは言った。
使用者だけでなく、複数の人員をその装備品とともに長距離転移させる《転移門》は《スピンドル能力》のなかでもとびきり高度で、制御・習得の難しい異能だ。
その使用には月の盈虚(満ち欠けのこと)や、星の運行など、さまざまな要因が関係している。
その絶技を《閉鎖回廊》外にあっても、軽々と使いこなすイズマは、やはり達人中の達人なのだ。
そして、その発言の意味するところは、こうだ。
『カッコいいこと言っているけど、覚悟はあるの? しばらく《転移門》は使えない。いま、突入したら、緊急脱出手段はないよ? 敗退からの再チャレンジなんて、甘い目はないかも? それに戦争は一月で終わるかな。なによりキミは、同じイクス教徒の国を攻めるんだよ?』
そして、なにより重要なことはこうだ。
「ボクちんがキミに同行するかどうかは、わからんぜ?」と。
たしかに、そうだ。
アシュレは思う。
いまアシュレが述べた所信は、アシュレ自身のものだ。
たとえ、イズマに誘導されたものだとしても「アシュレがオズマドラの皇子:アスカとともに戦う」という言葉は、アシュレ自身のものだし、そうでなければならない。
イズマやエレ、そしてシオンのそれではない。
だから、アシュレは自分が信じる仲間たちに向かって言った。
「もちろん、今の言葉は、ボク個人の所信だ。トラントリムは夜魔の騎士たちと手を結んでいて、さらにそのうえで正確には派が違うとはいえイクス教徒の国だ。つまり、ボクは同胞に弓引くことになる。正直、とても心苦しい。
だが、ボクには、アスカリア皇子にこの命を救ってもらった恩義がある。その恩に槍働きで応えると約束した。オズマドラに下ることはできないけれど、今回の侵攻作戦の先鋒は務めさせてもらう」
それから、と言葉を継いだ。
「ここに集ってくれた仲間たち、イズマ、シオン、それからエレがどうするかは、別のことだ。ボクたちは友人だが、友人であるがゆえに、それぞれの動向に強制する言葉をボクは持たない」
ボクにはボクの信じる道を行くことしかできないんだ。
アシュレはそう宣言した。
は、と呆れたように笑ったのはイズマだった。
「ちょっとは言うようになったじゃん。ただねえ、キミぃ、前回負けてんでしょ? それもオーバーロード化する前のユガディールに。勝算あんの?」
あいかわらずの軽薄な口調だったが、それが逆にアシュレの胸には鋭く突き立った。
そうだ。自分は負けたのだ──追憶する。
ユガディール・アルカディル・マズナブ。
人間との共存を夢見た夜魔の騎士。
理想を掲げて人類と交渉・共闘し、隣国をまとめあげ、“血の貨幣共栄圏”を現実のものとした。
人間の妻を三度娶り、そのすべてに、互いの愛ゆえに裏切られ、死別してもなお、彼女たちへの愛を忘れなかった。
そして、アシュレとシオンに出会い──残されていた《夢》の残滓を燃やし尽くして──オーバーロード:〈ログ・ソリタリ〉に成り果てた。
控え目に表現しても傑物。
英雄にして王の器。
そして、いまや人類に敵対するオーバーロードの一柱。
イズマの指摘はもっともだった。
ボクは、ボクは勝てるのか、あのヒトに。
ユガディール・マズナブという男に。
いや、調和と安寧を謳う旧世界の《ポータル》:〈ログ・ソリタリ〉とそこに注がれた《そうするちから》=人々の《ねがい》に。
「ふーん。だいぶやるようになったけど、まだまだだね」
黙り込んだアシュレに対し、意地の悪い感じに口を曲げるイズマには凄みがあった。
謀略と策略をもって世界の裏側に潜む“ほんとうの敵”と対峙し続けてきた者だけが持ちえる矜持が、そこにははっきりとあった。
すなわち、《御方》と《そうするちから》と《ねがい》という、強大な敵と、だ。
その困難が、いまはもうアシュレにも、ハッキリとわかる。
アシュレはその眼光を真っ正面から受け止める。
だが、イズマの言わんとすることがわからない。
そう思った瞬間、イズマはにやり、と笑みを広げた。
「一緒に来てくれって、言やあいいんすよ、このチビッコが! ボクちんとどんだけ歳の差あると思ってんだ? 甘えとけ甘えとけ。どーせ、人間の一生は短いんだ、そいつは若いうちだけ使えるカードなんだからさ!」
イズマの口調は皮肉たっぷりの軽薄具合だったが、それが逆にアシュレには効いた。
涙腺が決壊しそうになる。嬉しさでだ。
「ありがとう。イズマ」
涙声になりそうな語尾を必死で支えた。
まったくイズマの言う通りだ。ボクはまだまだ甘ちゃんだ。
「およよ? 泣きそう? 泣きそうなのかい、アシュレたん?」
「バカ」
声が詰まって女のコみたいな反応になった。
だけど、嬉しいと思う気持ちは止められない。
「ありがとう」
深呼吸して、アシュレはもう一度、言った。
「そんな泣き虫騎士のアシュレたんを笑わすことができるのは、このイズマ様しかおるまいよ。つまり、ボクちんはムードメーカーのポジションで決定だよね?」
けらけらと笑うイズマをアシュレは認めるしかない。
それからシオンを見た。
ぎくり、とした。
氷のように冴えた瞳で、虚空を睨んでいらっしゃる。
アシュレと目線を合わせようともしない。
もしかして、怒っていらっしゃる?
「シ、シオン、さん?」
反応がなかった。アシュレはもう一度、呼んでみる。こわごわ、とだ。
「シ、シオン?」
ぴくりっ、と特徴的な眉が動いた。
アシュレはシオンの眉をとても愛しく、愛らしいと思うのだが、いま、それは明らかに不機嫌な引きつり方で動いた。
こんなシオンを、アシュレは見た事がない。
助けを求めるようにイズマを見たが、そのイズマも同じく助けを求める顔でアシュレを見ていたのだから、これは相当にマズイ事態であろう。
『なにか、まずいことを言ったんじゃないの、イズマ』
『うええ、ボ、ボクちんかよっ、いや、この場合はアシュレでしょ』
目線と互いの額を伝い落ちる汗。
頬の引きつりで、この程度の意思疎通は言葉を解さずともできる間柄に、いつのまにかふたりの男はなっていたのだ。
「シオン?」
アシュレの三度目の呼びかけに、シオンはゆっくりとアシュレに向き直った。
その紫色の瞳の奥で怒りの炎が轟々と燃え盛っていた。
ひたり、とその双眸が見据えたのはアシュレだった。
横でイズマがほー、と溜息をつく。
安堵だ。
よかった、ボクちんじゃない。
そういう声が聞こえそうなくらい、わかりやすかった。
アシュレは前言を撤回しなければならないか、と思った。
これはあれだ。
イズマは、男の友情とか言いながら、いざとなったら真っ先に裏切るタイプだ。
だが、シオンに睨め付けられたアシュレは、蛇ににらまれた蛙のように動けなくなってしまった。
ああ、となぜか走馬灯のように記憶が過る。
さらに前言を撤回しなければならない。
こんなシオンを、アシュレは一度だけ見た。
カテル島へ向かう船:エポラール号のなかで、だ。
たしかあの時は、宣言されたのだ。
復讐を。
死ぬまで愛し尽くす、と。
夜魔の姫君がいかにして人間の騎士を愛すのか、教えてやる、と。
あのときアシュレは、このまま自分は死ぬのではないか、生きながら天の國に迎えられてと、そう思ったのだ。
「お、怒っているの?」
「そうとも」
「な、なんでかな?」
アシュレの間抜けな問いかけに、シオンが大きく息を吸った。
胸郭が膨らみ、その姿が怒れる雪豹のように一回り大きくなったようにアシュレは錯覚した。
地雷だ、地雷を踏んだのだ。
ちなみに、地雷とはアラム勢力、とくに近年、オズマドラ帝国が城塞攻略に用い始めた爆弾で、工兵に掘らせた坑道を伝い城壁の地下にそれをセットして爆破し、これを打ち崩す最新兵器だ。
そんなうんちくを脳が自動的に検索するようになったら、もうダメだ。
「なぜ、そのようなことを聞くのか」
地の底から響くような声で、シオンが言った。
有無を言わさぬ、ほとんど異能めいた重圧がそこには込められていた。
「いやっ、だだだ、だって、ほら、シオンやイズマの意志は……ボクとは別なわけで」
「そそそ、そなんですよー、ひめー、こうアシュレくんは、姫やボクちんの意志をですね、尊重しようとそういう、まったくの善意で、むしろヒトとして、たいへん分別と良識ある、ですね?」
「この男──イズマの意志を尊重することが問題なのではないッ!!」
びりびりびりっ、と大気が震えた。
実際、内張に使われている織物が振動して音を立てたのだ。
シオンの一喝だった。
「なぜ、なぜ、わたしに問うのか!」
シオンの目の端に涙が溜まっているのに気がついて、アシュレはようやくシオンの怒りの理由を悟った。
だが、ようやくその怒りの根源に至ったアシュレが言葉を見つけるより速く、イズマがふたりの間を遮るように言った。
「わかる、わかります。つまり、あれだ。姫は、アシュレの他人行儀に怒ってるんですよねー。ボクちんたちは仲間じゃないか、と。死地をともに潜り抜けた戦友ではないか、と。そうですよ、ボクちんがイラッとしたぐらいだから、これはもう、アシュレが悪い」
アシュレを悪者と断定しながらも、間に入って壁のように手を振りまくるイズマは、あきらかにアシュレを庇おうとしていた。
だが、とっさの出来事にアシュレが呆気にとられていると、物凄い激突音がして、一秒、ぺらり、と欠き割りの舞台みたいにイズマが倒れた。
シオンの投げつけたゴブレットが、その顔面を強打したのだ。
ちなみに純金製のそれは相当な質量がある。
金の比重がどの程度かとっさに想像し難いむきには、延べ棒一本の重量が約十九ギロス=五歳児ひとり分に匹敵する、と言えばわかりやすいだろうか。
三本も持たされれば、小柄な大人ひとり分。
持ち上げることすら、困難だ。
だからまあ、金貨でぱんぱんに膨らんだ袋を担いで逃げる泥棒の図は、風刺画のなかにしか存在しないファンタジーである。
イズマの顔面を強打したそれは、つまり下手をすると小型の鉄球ほどの質量はあったわけだ。
ぐえ、と潰れたカエルの断末魔のような声が、その口から漏れた。
そして、シオンはその場から《影渡り》で飛び去ってしまった。
長距離の外部からの転移などに対しては位相をずらしてしまう結界を持つ宮殿も、内部での短距離転移である《影渡り》に対しては効果を発揮しない。
「ごめん、アスカ。ボクらは全員参加、ってことで話を進めて」
言い置き、潰れたイズマとテーブルを飛び越えてシオンを追うアシュレはもう、後ろを振り向かなかった。
「……ということだ、皆の者。アシュレ以下、イズマ殿と、シオン殿下、それにエレヒメラ殿下も参戦してくださる、という前提でこれ以降の軍議は進める。よいな」
言いながらアスカは苦笑した。
まったく、やってられない、という感じで。
あっさりと軍議を蹴ってシオンを追っていってしまったアシュレと、物理的ダメージよりも先日の精神的傷にさらに塩を塗られた様子で痙攣するイズマを見比べ困惑し、ことの成り行きを充分には把握できない様子だったアスカ臣下の全員が、主君の明言によって襟を正した。
「やれやれ」
痙攣するイズマを介抱するエレの姿を目の端に留めながら、アシュレの去っていった帳の向こうに意識を向け、アスカはちいさく呟くのだ。




