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■第十二夜:獅子の乳を酌み交わして

         ※


 物語の時間はふたたび、アシュレたちの主時間へと、宴の席へと戻る。

 

「あのときは、たいへん申し訳なかった。シオンザフィル公女殿下。このとおりだ」


 宴もたけなわを過ぎ、甘いデザートを堪能した全員が、ゆっくりと蒸留酒を酌み交わしていたときのことである。

 アラム・ラーは飲酒を禁ずる神であったが、また同時に寛容な神でもある。

 昼間、親密でないものと、おおっぴらに、というのならばともかくも、夜間、奥まった場所で親しい間柄でたしなむことにまで、口を挟んだりしない。

 きちんと人間用の抜け道を用意してくださっているのだ、とはアスカの言葉だ。

 もっとも、これも砂漠に暮らす者たちのなかには、厳しく戒める部族もあるという。

 ともかくも、ここでは酒は許容されていた。

 

 ラク、あるいはラキと呼ばれる酒はブドウを原料とした蒸留酒で、アニス(ウイキョウ)で薫りがつけてある。

 水や炭酸泉で割ると白濁する様子から獅子の乳の愛称で親しまれ、爽快感のある飲み心地となる。

 食前酒としてもよいし、このように親しい友人たちと酌み交わすにはもってこいの、気取りのない酒なのである。

 

 割り水をしたあとで長く置くと、白を通り越し灰色に変わることから、受けた杯をいつまでも干さずにいると勝利を逃す、というような格言まである。

 ようするに、ごたくはいいから飲めよ、ということであろう。

 友の杯を受けるにためらいは無用、という信用や信頼に根ざす言葉であろう。

 戦友や親友の信を受けられぬものに勝利など訪れない、というほどの言葉である。

 なるほど、この場には似つかわしい酒であった。

 

 その酒宴のさなか。

 場の空気が落ち着くのを見計らったかのように、シオンのかたわらにおもむいたエレが、地べたに額を擦り付けて謝罪した。

 

「御身に埋設されたままになっているはずの忌むべき魔具:〈ジャグリ・ジャグラ〉。すぐにも摘出の処置を取らせていただきたく」


 切り出された案件は、なるほど確かに緊急性の高い、しかも非常に重要な申し出であった。

 エレの申し出のとおり、シオンの体内にはおぞましき人体改造の魔具:〈ジャグリ・ジャグラ〉が埋められていた。

 都合十三本のそれは、定期的に現在の主であるアシュレが御さぬ限り暴走し、シオンの肉体を取り返しのつかぬ状態に改変する。

 最近でこそアシュレの回復とともに、支配率が向上し、丸一日程度は暴走を押さえ込むことができるようになってきたものの、日に一度は調律・調教を受けねばならぬのがシオンの現実である。

 そして、シオンの肉体にこの許されざる魔具を埋め込んだ主犯こそ、当のエレであった。

 いかに当時は敵対関係にあったとはいえ、もはや根治できぬ改変をシオンは受けている。

 エレの申し出は、摘出は当然として、その後の成り行き次第では斬首もあろうかと覚悟してのものであった。

 

 腹を括りきったエレの態度に、シオンは杯を置き、向き直って応じた。

 

「エレヒメラ姫、どうか面を上げていただきたい。ことの子細を、すでにイズマより聞いた。すなわち御身を襲った不幸のすべてを、だ。

 人生のすべてを踏み躙られ狂わされ、あまつさえ愛した男の心までも奪ったのだと思われていたのなら──その女の気持ち、いまのわたしには痛いほどわかる。

 顔を上げて、どうかわたしの杯を受けてくれ。今宵は語り合い、わだかまりを少しずつでよいから、溶かそうではないか。おねがいだ」

 

 額を絨毯にすりつけたままだったエレの肩が、びくり、と震えた。

 驚愕と感激に、である。

 許す、とシオンは言ってのけたのだ。

 誤解から生じたエレの妄念によって、己がどれほどの恥辱をその身に受けたのか、いや、いまも受け続けているのもかかわらず、だ。

 並大抵の器にできることではない。

 エレは面を伏せたまま、目を見開き、震えた。


「どうか、おねがいだ」

 ふたたびシオンが促す。

  

 被害者、当の本人であるシオンにそう促され、さらに手をとられては、いかに恐縮していようと、これは固辞するほうが礼を失することとなる。

 三度めの懇願を、口にさせては非礼が過ぎる。

 エレは促されるまま面を上げた。

 かつては腰に届くまであった燻されたような銀色の頭髪は、いま肩口のところで切りそろえられている。

 カテル島での直接対決のとき、シオンを捕らえる呪術の触媒として切断したためだ。

 

「《ブラックウィドウズ・ソーサリー》──だったな。見事な拘束術であった。あのとき、わたしは頭に血が上っていた。呪術系の異能は夜魔には効果が薄い。だから、耐えきれると高を括ってもいた。毒や病魔などに脅かされるわけがない、と。この宝冠:〈アステラス〉に護られているわたしの心に隙などないと。そして、少々の呪いなら、力ずくで突破してやると」

 

 結果的にそれはすべて誤りであったな。

 己の不明をはっきりと認め、相手の技量をシオンは褒めた。

 そのシオンに、エレが答えた。

 

「怒りと憎悪で目が曇っていたのは、わたくしめでございます。思えばもう、あのとき、頭のなかは、イズマさまを寝取られたと──あさましい女の嫉妬で、狂わんばかりでした」


 シオンを見つめたまま、エレがはらはらと涙を流した。

 いまでもあの時のことを思い出すと、胸が苦しくなるのだ。

 

「知らぬこととはいえ、誤解からあのような所業に及びましたこと、まことに申し訳なく。それなのに、シオン殿下の温情厚きお言葉を賜り、なるほど、わたしのような女では、イズマさまに愛想を尽かされても当然と、思い知りました」

「よい。過ぎたこと。ただ、はっきりとさせておきたいのだが、イズマに関して……わたしは、まったく、完全に、眼中にない。というか、そういう感情を抱いたことすら皆無だ。むしろ、どちらかというと、そなたのようなかわいらしい姫巫女をほったらかし、あげく恋の病に苦しめ、思い詰めさせたあの男に非常な怒りを抱いているほどだ。それも妹御にまで手を出したというではないか。たらし・・・が過ぎる。もっと許せぬのは──そなたたち姉妹を嬲った同族どもだがな」

「シオン様のお目にはそのように映りましょう。しかれども、わたくしと我が妹:エルマにとりましては、もう、かけがえのない御方なのでございまする」

「そういうのをなんといったかな、そなたら土蜘蛛の言葉で。たでくう虫もズキズキ? だったか?」

たでくう虫も好きずき……でございますね。ただ、それには悪食だというような揶揄やゆも含まれておりますれば」

「おや、そうだったか? とにかく、アレはわたしの眼中にない。的ですらない、ということだ」

「安心いたしました」

 

 ころり、と笑うエレ。

 差しつ差されつのやりとりに、強ばっていた空気がほころぶ。


「そなた……苦しかったであろう」


 自らの凶行の被害者であるシオンに逆にいたわられ、抱きすくめられ、エレはついに泣いてしまった。 

 かわいらしい、というエレに対するシオンの表現は的を射ている。

 凶手として戦場に赴くにあたって、エレは呪術的な化粧を全身に施す。

 その化粧がエレの硬質な美を際立たせるため、戦場で彼女と相対したものは禍々しくも獰猛な怒れるバジリスクと相対したときのような戦慄を感じるはずだ。

 

 だが、いったん化粧を落とし、姫巫女の姿となったエレはなるほど神殿の奥に秘められた土蜘蛛の至宝であったのだと納得せざるをえない美少女だった。

 背丈はシオンより高く、いまのアシュレと同等くらい。

 といってもそれは種族的特徴であり、すらりと長い手足を持つ彼女は大柄な印象は与えない。

 

 ちなみに、このふたりのやりとりは両サイドの席に、アシュレとイズマが割り当てられており、耳が痛い。

 

 当事者であるイズマはシオンの射掛ける言葉の矢に、次々と射貫かれ、すでに死体の態であり、泡を吹いて失神している。

 よんでも、へんじがないただのしかばねのようだ。

 ちなみに最大ダメージを引き出したのは「完全に眼中にない、どころかそれは的だったのか」というシオンの認識に関するお言葉だった。

 

 そして、本来なら完全に部外者であるはずのアシュレなのだが、好いた男の挙動に翻弄される乙女心、二股三股、背徳……などの身勝手な男の行動全般が列挙されるに及んで、イヤな汗が止まらなくなっていた。

 我が身に憶えがありまくるところだけに、流矢が的確に急所へとヒットする戦慄の継続ダメージで苦しめられる結果になった。イズマのように一撃で死に損なった分だけ、よけいにひどい。

 もちろん、そのふたりの男の様子に、アスカとアテルイ、ふたりの褐色美女は忍び笑いが止まらない。

 いい気味である。 

 

「あ、あの、イ、イズマさまは、わるくありません。わたしが、わたしたちがっ──勘違いして、ぜんぶ、ぜんぶっ」

 感情が昂ぶると、本来の乙女としての地金が出てしまうのだろう。

 姫巫女という純粋培養の神職として育て上げられたエレの根底は、ほんとうにまだ、箱入り娘のままなのだ。

「優しい子だ」

 シオンはエレの頭をかいぐる。

 種は違えど、極まったふたりの美姫が寄り添う姿はあまりに美しかった。


「それで、処置というのは?」

 その光景に見蕩れていたアシュレの耳朶を、シオンの落ち着いた声が打った。

「はい。取り急ぎ、《ジャグリ・ジャグラ》を抜き取ることでございます」

「それは、いますぐ、可能なことなのかな?」

「はい。──ただ、ここでは、殿方の目も耳もございますれば」

「ふむ。アスカ殿下、お聞きのとおりだ。お手数だが、別室をご用意いただけないか? それと、エレヒメラ姫。どうか、おねがいだ、いますこし砕けた言葉で、互いが語らないか。処置、というなら率直な物言いが必要な場面が多かろう。わたしのことは敬称を省いていただきたい。どうか、シオン、と。わたしも、エレと呼ばせていただくによって」

 シオンがエレの赤い瞳を覗き込んで言った。


 エレは数秒、ためらったようだ。

 だが、シオンの言葉はもっともだった。

 緊急手術に等しい現場において宮廷言葉、敬語の類いはいかにも回りくどい。

 時間が無駄だし、正確性を欠く。

 

「了承した。では、これよりはシオン、とだけ。敬語は改めさせていただく」


 即座にプロフェッショナルの顔つきとなってエレが言った。

 真の意味で聡明なのだ。

 

「いま、アテルイに別室を用意させた──わたしも、同行しようか?」

 シオンとエレは互いに死闘を演じた間柄である。

 それもエレの一方的な怨恨から。

 そして、シオンたちが陥った窮地きゅうちの責任の一端をエレはまちがいなく担っている。

 それが謝罪ひとつで腹の底から許しあえるほど簡単な事柄でないことを、アスカは知っていた。

 長く宮廷という場所に身を置けば、嫌でもそうなる。


 アスカの発言はつまり、オズマドラの第一皇子はまだ、エレヒメラという人物を全面的に信用したわけではない、という意思表明でもあった。

 イズマの同道者であるから、そして先ほど命を救われたから、という事柄とそれはまた別の次元の話だ。

 男女を問わず怨恨というものが、そう簡単に取り除ける類いのものではないことを、アスカは知り抜いていた。


「いや、それには及ばない。わたしも個人的にエレとふたりきりで話したい。お気遣いだけ、受け取っておく」

 艶然と微笑み、シオンはエレの手をとって立ち上がった。

 エレがアスカに一礼して立ち上がる。

 ふたりは連れ立って中座した。


「よかったのか?」

 やんわりとアスカから水を向けられて、アシュレは我に返った。

 行かせてしまってよかったのか、という意味だ。

 アスカはアシュレの代弁をしてくれていたのだ。

「いや、……心配じゃないか、と言ったら嘘になるけど……エレというヒトから、もうシオンに対する悪意は感じられない。むしろ、相手を信じて飛び込んでいくのは、シオンのいいところなんだ。見守るこっちは、ヒヤヒヤするところもあるけど」

「ふうん……惚れているのだな。ただ、経験から言うと──怒りや恨みは突然、沸騰する湯のようなものだ。ない、と見えてもあるものだぞ? なにも直接的な恨みツラミからだけではない。激しい恋慕は、それだけで突然の激情の温床なのだからな。この話、エレだけのことではないぞ」

「うん──その言葉、心に止めておくよ。今後の参考に」

 ふたりが出ていった方向を向いたまま受け答えする自分を、なんともいえない表情で見つめるアスカに、アシュレは気づけていない。


 ちなみに、イズマは傷心のあまり突っ伏したまま、立ち直るきっかけを掴めずにいた。


 ところが出ていったはずのエレだけが、血相を変えて帰ってきた。

 中座して四半刻もたっていない。

「アシュレ殿」

 むんず、と袖を掴まれた。

 積極的な働きかけとは裏腹に、エレの声は極限までひそめられ、顔色は真っ青だ。

「どうか、こちらへ。おはやく」


 敬語を排す、と言ったばかりなのにそうなってないのは、よほど動転してのことだ。

 可哀想なくらい狼狽している。

 どうしたの、とその場で聞き咎める愚を、アシュレは犯さなかった。

 緊急なのだ。

 そして、アシュレでなければならない。

 だから、エレが直接、自分を名指しで袖をとったのだ。

 そんなことがわからないようでは聖騎士は勤まらない。

 シオンの窮地──そう判断した。


 こんなときなにをおいても真っ先に駆けつけるだろうイズマだが──先ほどの精神的ダメージから立ち直れず、自失したまま床に転がっている。

 死にかけた……宴席で口走るべきではない黒光りする昆虫ラクカラーチャのように、ときおり脚が、ぴくっぴくっ、と痙攣するのが哀れを誘う。

 

 フォローは期待できそうにない。

 アシュレは次の瞬間にはエレの手をとり、中座の断りもそこそこに、部屋を飛び出していた。

 礼装をさばきながらエレが速度を合わせてくれる。


「こちらです。シオン──アシュレ殿だ。入ってよいか」

 切迫した声で扉に声をかける。

 鍵付きのぶ厚い扉は、アラムの貴族が寵姫と籠るためのものだ。

 部屋から応えはなく、入る、とエレは断り、薄く開けた扉の隙間からアシュレとともに入室した。

 すかさず、施錠する。

 厳重に、何箇所も。


 その理由が、アシュレにもすぐにわかった。




※作者注:作中に登場するラク、あるいはラキというお酒は実在のもので、トルコやギリシアで親しまれています。また東地中海地方では「アラック」「ウーゾ」などと呼ばれる近縁種が知られています。南仏地方のパスティスなども近しい味わいと薫り、特性を備えます(白濁する)。


格言につきましては「幸運を逃す」「幸運が訪れない」というような用法が正しいと思いますが、ここでは作品の方向性に寄り添わせるカタチで変更してあります。くれぐれも、誤用のないようご注意ください。

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