■第十夜:胎動
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さて、時空は大きく巻き戻る。
すなわち、刻はひと月ほども。
場所はカテル島へと。
あの奇跡の夜よりすでに二月。
厳冬期のことである。
その日、カテル島大司教にして、グレーテル派の首長たるダシュカマリエに神託が降りた。
すなわち、
「残雪の地、サムサラの宮より出でて、黒白の美姫の元に、土蜘蛛の王は現れるであろう」
この予言が、ノーマンを導いた。
端的に言えば、厳冬期の出立をうながした。
春は目前に迫っていたが、年末に受けた月下騎士団の襲来に伴う寒波の影響か、いつもであれば膨らみ始めるアーモンドのつぼみも、まだまだ固いままだ。
さまざまな意味で難しい時期の出立であった。
秋から冬季に特徴の嵐の影響だけではなく、時代的な逆風がカテル島には吹いていたのである。
その最たるものが、法王庁からの十字軍編成に関する通達だ。
現在、ミュゼット商業都市国家同盟の盟主:ディードヤームの造船工場は、フル稼働で法王庁から発注された軍船を建造中だ。
巨大な大型帆船を三日に一度のペースで進水させる驚異の生産速度は、ディードヤームならではだ。
干潟に浮かぶ島丸々ひとつを、機能的な造船工場として運用する海運国の底力を見せつけられる思いで、ノーマンは報告を聞いた。
そのせいで軍需物資である木材の価格も高騰している。
見渡す限りの山林が丸裸になってしまうのではないか、という冗談を商人たちが飛ばしあう。
この時代、戦争となればもっとも必要とされた軍需物資は鉄ではない。
糧食をのぞけば、最たるものは木材だったのだ。
船も、攻城兵器も、最終的には戦後の復興にもなにしろ木材が必要だった。
イダレイア半島に特徴的なあの草原地帯は、都市建設と過去の戦争で切り開かれた山林のなれの果てなのである。
木材商といえば、まずまちがいなく大富豪であった時代だ。
大規模な戦乱が巻き起こる前夜の、あの異様な興奮が西方、東方を問わず満ちている。
おそらく四月の声を聞くと同時に、両軍が進軍を始める意向なのであろう。
まるで、年末の土蜘蛛と夜魔によるカテル島強襲と、それに伴って起こった法王庁枢機卿使節団の退去などなかったとでも言わんばかりに、新法王:ヴェルジネスからは十字軍への参画を促す督促状が届いた。
ついては、法王庁の庭先であるアストラ湾での観艦式に列席せよと書いてよこしたのである。
これに対し、カテル島大司教であるダシュカマリエは、カテル島が対アラム勢力最前線に位置していることを理由に、艦隊の移動を固辞しながらも、十字軍への参画そのものに関しては全面的な支持を約束したのである。
カテル島の首都:カテルの港湾部でも急ピッチで船団の編成が行われ、艦船の補充もひっきりなしだ。
そのような状況下で、ノーマンはアシュレをはじめとして、散り散りになってしまった仲間たちの捜索に出向くことを決めたのである。
顔はともかく、その腕に義手として収まっている《フォーカス》:〈アーマーン〉の展開した姿を見れば、これはもう知らぬものなどアラム世界にさえおらぬ騎士:ノーマンであったから、行動には細心の注意を払わなければならなかった。
同行者も最小限の少数精鋭である。
戦闘能力の高さよりも、語学や現地知識、交渉能力に長けた人選がなされた。
もうひとつ求められたことは年齢の幅と、男女比である。
これは昨年、急派されてきた法王庁側の特使=たとえば、ジゼルテレジアのように「女性しか潜り込めぬ場所」という可能性を考慮してのことでもある。
サムサラ宮といえば、現在はともかくかつてはハレムのあった場所だ。
男性が侵入するのは、限りなく難しい。
当然のように強行突破は最後の手段であり、そこを担当するのはノーマンである。
揉め事は起こさぬことが大前提だった。
そのなかに元バラージェ家の執事であり密偵であったバントライン(バートン)の姿もあったのは頷ける話である。
カテル病院騎士団にしてみれば、最強の駒のひとつを動かすという賭事だが、それでも同等の戦力を常人で揃えれば実に数百名から一〇〇〇人に上ることになる。
こうなればもう、秘密裏にことを運ぶことなどできはしない。
苦肉の策であった。
そして、隠密行動である以上、この捜索行に軍船を使うわけにはいかなかった。
そこで白羽の矢が立ったのが、商船であった。
もっとも、十字軍発動の報以来、直接の東西貿易は極端に難しくなっている。
そのせいでビブロンズ帝国を間に挟んだ中間貿易が、その主となり始めていた。
ビブロンズ帝国はイクス教側であったが、エクストラム正教とは派を別とし、皇帝にして大僧正であるルカティウス十三世の外交手腕により、アラム勢力とも比較的以上に良好な関係を保ち続けてきた国家である。
アラム勢力の海に浮かぶようなカタチでありながら首都:ヘリアティウムとその領土、そして、隣国である小国家群は、オズマドラによって侵食され、年貢金を要求されながらも、いまだ完全に併呑されていなかった。
それこそは、ルカティウスをはじめとする歴代のビブロンズ皇帝たちの政治手腕によるところであると評価する歴史家たちと、実際にはことあるごとにその領土を、まるで男を焦らす舞姫のようにすこしずつ剥ぎ取らせて与える様子をして、「淫売」と揶揄するエクストラム教派高僧たちの間で口論の種となるのが常であった。
このような状況下で、土蜘蛛の王=イズマの現われる場所が、交易都市:ジラフ・ハザに造営されたサムサラ宮であると特定できたこと。
これは、数少ない幸運な要素であった。
ジラフ・ハザはアラム教圏ではあっても、イクス教徒との交易を正式に認める交易都市である。
この時点ではまだ、オズマドラ帝国内でも渡航禁止令は発布されておらず、身分さえ隠し通すことができれば、困難はしかたないにしても、渡航は不可能ではなかった。
そのためにもまず、橋渡し的役割を果たしているビブロンズ帝国を経由する。
仲間たちの探索において、捜査能力と転移能力を兼ね備えるイズマガルムを最優先するすべし、という結論がカテル病院騎士団の上層部会議において、満場一致で可決された。
冷静な判断と称賛すべきであろう。
ノーマンにとって、これは僥倖以外のなにものでもなかった。
オズマドラ帝国深部への強行偵察・探索行に比べれば、これは格段に確実性の高い作戦を練ることができるからだ。
そこから、航路、道程が逆算された。
もっとも確実性の高い道程としてビブロンズ帝国の首都:ヘリアティウムへ上陸。
陸路で黒曜海沿岸の小国家群を北上。
危険な亜人種、異種族、魔物の領域であるハダリの野を貫き通すいくつかの回廊のひとつを潜り抜け、ジラフ・ハザへ入国する。
船旅、陸路を合わせみてもひと月以内の旅路である。
法王:ヴェルジネスの突きつけた十字軍の行動開始が四月以降だとすれば、どんなに早くともカテル病院騎士団への合流は五月。
イズマの転移能力を行使すれば、それまでの帰還が可能になる。
法王庁の思惑がどのようなものであったにせよ、ノーマンがその場に居合わせるかどうかで、物事の推移は大きく変わるだろう。
消滅の異能を行使可能にする〈アーマーン〉の存在は、強力な抑止力になる。
さらに、幸運だったことは、その旅路の途中に位置する小国家:トラントリムは、アシュレとシオンが飛ばされた地でもあったのだ。
ただ、おおよその位置を掴んだ直後、ふたりのその後を知る手だてはなぜか失われてしまった。
ダシュカマリエの《ちから》をもってしても見通せぬ、複雑に絡まりあった運命の帳に阻まれて。
そこに、予言が降臨された。
黒白の美姫。
その意味するところを、ダシュカをはじめカテル島首脳部は、シオンのことだと解釈した。
これはシオンの与える黒衣と純白の肌の印象からだ。
もし、さらなる幸運が味方してくれたなら、イズマとの合流を前にアシュレ、そしてシオンとの合流を果たせるやもしれぬ。
ノーマンはそう考えていた。
そうなれば、戦力は一挙に三倍、いや、相乗効果を考えれば、これは一万の軍勢に匹敵する。
これは、敵の正面戦力を瓦解させるだけの戦闘能力である。
多少の障害などものともせず、己の進路を切り開けるに疑いない。
ただ、そのためにはアラムの海賊、そして十字軍の発布とともに行動範囲を拡大させてきたエスペラルゴの私掠船が跳梁跋扈する海域を潜り抜けなければならなかった。
異教徒であるアラムの海賊は言うまでもなく、エスペラルゴの私掠船も厄介な存在であった。
まるで法王庁の了解を取りつけたと言わんばかりに領海の外であっても、否応無しに船を乗りつけ、臨検を強要してくる。
それも正当性のあるものであるならともかく、難癖をつけて金品をピンハネするような真似をする。
さらに青髯のガラベリアム指揮する一団に至っては、武力を行使することもあり、同じイクス教圏の船であってもこれは同じであった。
己ひとりなら、たとえ武装した兵数百に取り囲まれようと堂々と受けて立つノーマンである。
しかし、今回の旅路は違った。
まず第一に船であるから、その外は海。
逃げ場がないうえに、同行者たちがいる。
己が切り抜けられても、彼らの無事は保証できない。
第二に、エスペラルゴとの外交問題である。
私掠船と海賊の大きな違いはただひとつ。
その背後、後ろ盾の有無である。
破竹の勢いで勢力を拡大するエスペラルゴ帝国は、エクストラム法王庁の枢機卿団が尻込みするほどの、原理的なイクス教信奉国家である。
新法王:ヴェルジネス一世は、その原理主義者たちと手を組んだらしい。
この法王庁と、ことを構えた上で、探索行を率いる長がカテル病院騎士団筆頭騎士:ノーマンだと知れれば、聖俗を問わぬ、深刻な国際問題に発展することは必定だ。
このように複雑に絡まりあった情勢下を、しかもいつ未曾有の大戦の火蓋が切って落とされるかわからぬ時世をかいくぐっての探索行なのである。
命を賭けるだけでは済まされぬ。
そういう場所と時代とへ乗り出すことになる。
それが、英雄たちの探索行という言葉の意味するところであった。
エクストラム法王庁、エスペラルゴ帝国、加えて商業都市国家同盟の雄:ディードヤーム。
対するオズマドラ帝国に、挟まれたカタチとなる落日のビブロンズ帝国。
そして、そこに巻き込まれる小都市国家群。
時代という巨大な嵐が、その猛威を振るいはじめる前夜のことだ。
さらに問題があった。
同行者である。
「わたくしも参ります」
その発言に跳び上がったのは、ノーマンだけではない。
カテル病院騎士団の重鎮たち、数万のアラム勢力に包囲されようと顔色ひとつ変えない歴戦の騎士たちが腰を浮かした。
昨年、月下騎士:ヴァイデルナッハとの死闘のすえ隻腕となった騎士団長:ザベルザフトまでが立ち上がりかけたのである。
席に腰を着けていられたのは大司教:ダシュカマリエただひとり。
だが、そのダシュカさえ、白銀の仮面:〈セラフィム・フィラメント〉の奥で見開いた瞳を閉じるのに、ずいぶんと時間を要したのだ。
その声の主こそ、ダシュカマリエを首長とするイクス教:グレーテル派が“再誕の聖母”と崇める聖なる存在:イリスベルダ・ラクメゾン──イリスだったのだ。
再誕の儀式に際して剃毛した頭髪はきれいに生え揃い、ふわふわとヒヨコの柔毛を思わせる。
イリスの垂れ目がちな双眸と相まって、慈愛の聖母にふさわしい優しげな印象を作り出す。
それは微笑むと背後から後光が差すような笑みだ。
いまや大司教であるダシュカマリエと並んでグレーテル派の精神的象徴となった“再誕の聖母”。
イリスはその事実をもって、カテル島における重要な案件を討議する会合には、自由に出席する権利を与えられていた。
ただ、それにしても、である。
急ごしらえながらダシュカマリエの隣に席を設けられたとはいえ、それは具体的な方策、意見具申のためではない。
あくまで象徴として承認を与えるものとしての立場だと、列席する全員が暗黙のうちに了解していたはずだった。
歯に衣を着せぬ言い方をあえてするならば、政治的・軍事的にはお飾りとしての存在であるはずの“再誕の聖母”が、口を開いたとたん、重大すぎる方針を断言した。
その場に居合わせた全員が度肝を抜かれたのは、これはもう仕方のないことであろう。
ノーマンは己の発言の重大さに気づけていないイリスを見、そのあと同じく驚愕の表情のザベルと顔を見合わせ、最後に助けを求めるようにダシュカマリエを見た。
どう反応すべきか判断できず呆然と視線をダシュカに向けたのは、ノーマンとザベルのふたりだけではなかった。
イリスとダシュカ本人を除くその場の全員が、同じ視線を投げ掛けてきていたのだ。
ダシュカは全員を見渡すと、ほ、と息をついた。
それから破顔一笑、声を上げた。
「ははは、これはいい。傑作ではないか。イリス、貴女の言葉ひとつで、この場の男たち全員の肝を抜いてしまったようだぞ」
おかしくてたまらないという様子で笑い続けるダシュカに、イリスは曖昧な笑みを返した。
どこが笑いのツボなのか、よくわかっていない様子だった。
「ダシュカマリエ大司教、笑いごとではありません。聖母さまも、落ち着きになられてください。御自ら出向かれるなどと、とてもではないが承服できかねます」
ザベルが内心の呆れを隠しきれない口調で、上位者であるふたりの女性を諌めた。
豪胆で知られたカテル病院騎士団団長:ザベルをして血の気を引かせたのだから、ダシュカの評はこれは的を射ていたことになる。
「わたくしは落ち着いています。ザベルさまこそ、落ち着かれてください。……お茶を点てましょうか?」
「あっはっはっ、ザベル、ダメだ、貴公の負けだ。聖母さまにはかなわんよ」
イリスのほわわん、とした発言に毒気を抜かれたザベルを見て、ダシュカの笑いはますますエスカレートする。
自分たちの目の前で苦しそうに腹を抱えて爆笑するダシュカを、重鎮たちのだれもがはじめて見た。
もしかしたら、ダシュカのこういう気質を本当の意味で知っているのはノーマンとそれまで側仕えを通してきたごく少数の近習だけであったかもしれない。
再誕の儀式、その疲労からの回復に一月以上の時間を要したダシュカだったが、それ以降、まるでこれまでの重責を下ろしたかのように快活に人々に話しかける姿を目撃されるようになった。
それはカテル病院騎士団とその支持母体であるグレーテル派がその設立以来、夢見続けてきた聖母再誕を果たしたからであるのか、あるいはノーマンとの婚約が起因しているのか、わからぬことではあったのだが。
それまでも白銀の仮面の下にたぐいまれな美貌が隠されていることは周知の事実であったが、その美は近寄りがたい硬質なものであって、このように己の感情を他者に見せることなどほとんどなかった存在だった。
それがまるで大輪の花のような艶やかさを持って眼前に、突如として現れた。
男性諸氏の困惑は当然であろう。
「それから──ダシュカ。“聖母さま”はやめてください、と前にもお願いしたはずです」
「おっと、そうだったな、イリスベルダ」
「イリス、とだけ」
「わかったよ、イリス」
ダシュカはまだ笑いを殺しきれない様子で、目の端に浮かんだ涙を指先で拭いながら重鎮たちの方に向き直った。




