■第九夜:王の定義
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宴は続く。
ひさしぶりの再会に沸き立つアシュレとシオン、イズマの話題は、すでにカテル島での出来事に移っていた。
口火を切ったのはアシュレである。
ほかでもない。イリスのことだ。
アシュレが意識を失ったあと──あの地下聖堂:奥の院でなにが起ったのか。
すなわち、“聖母再誕”の儀式。
その全貌。
あのとき起こった出来事の結末を、現場に立ち会ったメンバーのなかで、意識不明に陥っていたアシュレだけが知らないことになっている。
正確には、シオンも肉体の再生途中にあり、朦朧とした意識のなかでの出来事だ。
それでも聖母として再誕したイリスから、桁違いの《ちから》と、圧倒的な浸透性、そして、完全に無垢であるとはいったいいかなる状態であるのか──という恐怖だけを、強烈な印象として受け取ったのである。
そのうえで完全記憶という種族的特徴を持つ夜魔であればこそ、混乱した記憶から事態を把握、推測できたのである。
だが、だからこそ、この真実をアシュレに告げてよいのかどうか、シオンには確信が持てなかったのだ。
己の記憶から導き出された推論と仮説で、アシュレにいらぬ心痛を抱かせたくない。
真実を知らされたときのアシュレの苦悩を想像するだけで、胸がきゅう、と痛くなってしまう。
その想いが、今日までシオンに秘密を作らせてきた。
だが、
「イリスは無事だよ。儀式は成功した。というか、聖母として再誕したイリスのおかげで、ボクらはいまこうして生きていられると言っていい」
核心をズバリ、とイズマは告げた。
そこに嘘はない。
シオンが口ごもり、これまでごまかし続けてきた部分だった。
「よかった」
ほっ、とアシュレが胸をなでおろすのを、シオンは複雑な気持ちで眺めていた。
「でも、聖泉の水瓶:〈ハールート〉を携えた本気のジゼル姉を退けるなんて──本物の聖母さま、なのか」
「本物かどうか、は後の歴史が証明してくれるだろう。けれども、アシュレ、これだけは釘を刺しておくよ。次に出会ったとき、イリスはもうキミの知る彼女じゃないかもしれない。超常の側へ、すでに踏み出してしまった存在であるかもしれないんだ」
イズマは噛んで含めるように言った。
カテル島での最終決戦で、正しい意味で聖母再誕を果たしたイリスと正対したのは、イズマただひとりであった。
イズマはそこで、エクストラム法王庁の聖騎士であるジゼルテレジアの最終形態=“聖泉の使徒”として強力な広範囲殲滅兵器:〈ハールート〉の最大奥義と相対している。
そして、その最中、ジゼルを制止したのが、儀式を終え聖母となったイリスだったのだ。
たしかにイリスは、死に瀕したアシュレやノーマン、危地にあったシオン、イズマを救おうとした。
救おうとはしたが──その手段をただひとり直視し、理解したイズマはアシュレに警告せざるをえない。
アシュレがイリスをほんとうに愛している、と知ればこそ、だ。
そして、その警告にアシュレの視線が鋭くなった。
「《ねがい》に囚われているかもしれない、とイズマは言うんだね」
「あるいは、だよ、アシュレ。その後いろいろ情報を探ろうとしたんだけど──上手くいかないんだ。まるで──」
「《閉鎖回廊》のように?」
イズマが口にしかけた事実を、先んじてアシュレは言い当てた。
イズマの瞳が、すこしだけ揺動した。
このお坊ちゃんは、こんなに鋭いコだったかな? という感じの。
「うん。そう。そうだ」
「それは、聖母再誕の儀式開始から感じてはいた。巨大な《ポータル》:《フォーカス》:〈コンストラクス〉を動かしたんだ。つまり、あの儀式は人外・超常の《ちから》を持って、この世の因果を無視して、望んだ結果を手繰り寄せるためのものだったんだ」
それほどの奇跡がヒトをどう変えてしまうのか。
予想しないほうがおかしい。
動じた様子もなくイズマの瞳をはっきりと捉えて、ひとことひとこと確かめるように告げるアシュレに、今度こそイズマの瞳が大きく見開かれた。
賛嘆したのだ。
「キミってやつは……」
「痛めつけられた身体を、ただ療養していただけじゃないんだ。ボクなりに、学んだつもりだよ」
そうしないと、ボクを想ってくれるヒトたちに、ボクは自分が負うべきものを、ボクの責任を、なすりつけてしまうことになるから。
懐にしまい込んだユガのメモワールを服の上から押さえて、アシュレは言った。
受け継いだものから学んで、それを自らの責任として進めていくこと──未来をつくることだとボクは思うんだ。
ああ、なんということだろうか。
トラントリムで巻き起こった一連の事件、夜魔の騎士:ユガディールにまつわる友情と、思慕と、悲劇の物語を経るなかで、アシュレは皆が言いよどみ、告げ損ねてきた真実のカタチをおぼろげながら探り当て、対峙する決意を固めていたのだ。
『だれも“庭園”と“接続子”──このふたつからは、逃れられぬ』
あの雪深き森の国にかつて君臨したという狂王:バラクールが、夜魔の騎士:ユガディールに告げたふたつの単語。
受け継がれた手記には、この世界の秘密が残されていた。
ひとびとの心の深奥に秘された《ねがい》を結びつける因子:“接続子”。
そうして、注がれた《ねがい》によって造営された理想郷:“庭園”。
この世界:ワールズエンデを形作る多くの事象に、それが関与しているのではないか。
奇跡とも暴虐ともいえる超常の《ちから》によって歪められてしまった世界と、そこに生きるすべてのものと──運命には。
現実であるワールズエンデの側を“理想化”すべく、“庭園”側から《ねがい》を注がれた結果なのではないか。
それは夜魔の騎士:ユガディールが書き残し、至った過程と仮定である。
理想化された“庭園”を、こちらに喚び出すための装置:《門》。
起動した《門》が、現実と“庭園”を繋ぎ、こちらへと現われるための《通路》との関係。
そして、流入した理想世界に歪められ、押しのけられた現実が、世界から消失する災厄:《ブルーム・タイド》。
あの日、まだ、英雄であったユガは、友と見込んだアシュレに、それらについて己が一生をかけた研究と遺稿を手渡した。
それは、遺稿、で間違いない。
なぜなら、あの日、あのとき、アシュレの眼前でこの手帳を手渡してくれた八〇〇歳も年上の友は、正しい存在としては、すでに失われていたのだから。
注がれた《ねがい》によって、理想にされてしまっていたのだから。
これは、かつてこの世界の秘密を探り、理想を求め戦った男の、遺言そのもの。
アシュレはそれを受け取ったのだ。
だから、その秘密と、たとえ最後のひとりとなってでも、たたかう。
託すということ。
託されるということ。
受け継いだもののために。
その意味を。
だれかに教わるだけだった少年は、もうそこにはいない。
己の行動原理を、己で勝ちとる者だけが、そこにはいる。
世界にではなく、己の頭のなかに巣くう、逃避の理屈を超えて。
つまり、これこそが王の資質。
そのひとつを、アシュレは示したのである。
あるいは《魂》の秘密──そのひとつですらあったかもしれない。
「もしかしたら、その儀式の中心にいたイリスは、正しい意味での人類ではもはやないかも、とボクは予想している。でも、だからなんだい? そういう意味でならボクだってすでにそうだ。けれど、ボクは後悔なんかしていない。むしろ……シオンと肉体の一部を共有できていることに感謝している。誇りさえ感じる」
だから、とアシュレは続けた。
「ボクはイリスと正対する。まっすぐ向き合う。もちろん恐い、恐いよ。どんな結末がまっているのか。震えるほど恐い。でも、みんなが教えてくれた。恐怖は消し去るものではなく、対峙して乗り越えるものだと」
うん、とイズマは頷いた。感心したように。
「それに、ボクはまだ、再誕を果たしたイリスと言葉すら交わしていないんだ。言い換えてもいいかな──ボクらはまだ、出会ってさえいない。想いをぶつけあってさえいない」
だから──帰ろう。
カテル島へ。
どんなことが待っているにせよ。
愛した女性が、いったいいま、いかなる存在となったのか。
それについて真剣に考えることは、想像を絶する恐怖と苦痛をともなったはずだ。
だが、それどころか、アシュレはその現実と正対する、と宣言したのである。
へへ、へへへ、とイズマの唇がいい感じで歪んだ。
笑ったのだ。
思えば、いくらイズマであったとてアシュレに、イリスの実際を伝えることは、ためらいがあったに違いなかった。
端的に言えば、苦しかったはずだ。
だが、アシュレは自ら、その壁を乗り越えることで、アシュレを気づかう仲間たちの心痛を和らげてみせた。
それが、イズマをして感嘆に微笑ませた理由だった。
「なーんだ? ちっと見ない間に、えらく男があがったじゃん」
「いろいろあったからね。イズマも、なんだか最初のころより……凄みが増した気がする」
「にゃにおう、チビッコが。大人にはね、こう、無限の引き出しがあるんですよ」
イズマが無限の引き出しを演出しようと探った隠しからは、女物の下着が現れた。
「ん? それ?」
「おやややっ?! やっ、そのっ、これはっ──やっべ」
「貴様、それは──わたしのものではないか! さきほど風呂から上がったとき、ないと思えば! どさくさに紛れて!」
「いいい、いやっ、あのっ、あのですね。こう懐かしい薫りがするなーとこう、耐えきれず堪えきれずこの、左手めがッ、オイタはダメでしょッ、このッ、このッ!!」
「そう言えば、わたしのもなかったな」
シオンに引き続き、アスカが思い出したように呟くにいたって、イズマの隠しからこぼれかけていた二着目がふわりと落ちた。
「あれれ、これはー、へんだなー。暗殺未遂の証拠物件でしょかねー?」
アシュレとしては渾身の決意表明だったはずなのだが、その感慨はこのアクシデントにより爆砕されてしまった感がある。
イズマに詰め寄った姫君ふたりが、その隠しを漁ると、出てくる出てくるイケナイ感じのサムシングがこんこんと湧き出て、その場は一気に紛糾した。
「台無しだ……いろいろ」
アシュレは呟いて、しばらく収まりそうもない事態を眺めた。
そういえば、こんなに騒がしいの、久しぶりだな。
自然と苦笑がわいてくる。
そして、これほど騒がしいのに、それがちっとも煩わしく感じないのは、はじめてのことだとアシュレは気がついた。




