■第八夜:ムカデの紋章と不和の帳簿
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なるほど腕に自信を持つわけだ。
アシュレは料理の数々を味わいながら思う。
宴はごく質素なものでアテルイの手料理が中心だった。
宮廷料理のようなきらびやかで手の込んだ料理より、家庭的で素朴だが質実剛健な料理をアスカは好んだため、主にこれまでの食事もアテルイが一手に請け負ってきたのである。
これにはじつはシオンも助けられていた。
夜魔の一族は血液に溶けている《夢》によって生きる。
その代替は人類の食事によっても可能であるのだが、食材そのものより、調理者が込めた《夢》こそがその栄養素となるもので、だからたとえばおざなりな料理ではその効率は極端に落ちる。
見栄えや、使われた材料の豪華さには比例しない。
宮廷の料理はその意味で、常に微妙にならざるを得ないものであったのだ。
その点、アテルイの料理はアスカのために親身になって作られたものである。
アスカの恋人でもあるアテルイのそれは、おしみなく注がれる偽りない愛の味がした。
これまでもシオンを血の渇きを充分に癒すほどのものだった。
なんというか、味の嗜好から生存に必要な要素までぴたり、と合うのだから、アシュレを取り巻く人間関係というやつは、なんともはや、である。
だが、その夜の料理は一味も二味も違っていた。
「うまい」
シオンが思わず賛嘆したほどだ。
「そうだな。いつもうまいが……今日のは格別よくできている」
「お褒めにあずかりまして」
ゲストと主君の称賛を受け、アテルイはかわいらしく身を屈めて礼を述べた。
ちなみにあの冗談のような奉仕奴隷の服装ではなく、女官としての常識的な礼装に前掛けを身に付けた給仕のスタイルだ。
「遠方からの特別のお客人のために腕を振るいました」
「いやあいやあ、奥さんすみませんなあ、あはははははー」
遠慮も慎みもなく、イズマは片っ端から料理に手をつけている。
その横ではかいがいしくエレが、イズマの皿に食事をとりわけてやっている。
凶手としての仮面を外したエレは、世話女房気質らしい。
くすり、とその様子に小さく笑ったアシュレの手元に、キレイに取り分けられた食事の皿がさりげなくおかれた。
それから、ほんの一瞬だけ、アテルイの手がアシュレのそれを握った。
当のアシュレが不意を打たれたくらいだ。
たぶん、アシュレ以外のだれも気づいていないだろう。
柔らかくすべやかな指先が、きゅ、とアシュレになにかを伝えるように小さく力を込めた。
その意味を問いかける暇さえ与えず、アテルイはシオンの方へ酌をしに行ってしまった。
どういうことですか、と間抜けな問いをしそうになって、アシュレは思わず口元を押さえねばならなかった。
「どうした?」
アテルイに酌をされながら、その仕草を見咎めたシオンが訊いてきた。
「いや……おいしいなーと思って」
「そなた……それ、ひとくちも食べずにわかるのか?」
「えっ、いっいやっ、こう優れた料理はこう、まずは視覚も嗅覚からして、美味しいっていうね?」
しどろもどろに答えるアシュレに、シオンは怪訝な顔をしたあとであきれたように笑い、その背後でアテルイが笑いを噛み殺すような仕草をしたのをアシュレは見てしまった。
「しかし、驚いたことだ。音に聞こえし暗殺教団:シビリ・シュメリの正体が土蜘蛛の人類世界侵略のための前線基地であったとはな──」
「オズマドラ帝国も依頼主のうちのひとつだからね──過去、幾度となく」
後ろ暗いコネクションというものを持たぬ王家などないよ。
光あるところ、影もまた必ずあるようにね。
アスカの問いに答えたイズマが、フォローのつもりか、付け加えながら言った。
「結局のところ、我らは自らの外敵や政敵を蹴散らすこと、そして叛旗の芽を摘むためと信じながら、人類世界の敵にせっせと資金を提供していたわけだ」
「まあ、そうなるかな。でもアスカ殿下、それはオズマドラだけじゃない。エクストラムの法王庁からの依頼だって過去にはあったそうだし?」
ぶは、と会話を聞いていたアシュレが赤葡萄酒にむせた。
そして、証拠を示すようにどこから取り出したのか、どさり、とイズマはぶ厚い帳簿を眼前に置いた。
アシュレの焦りを煽ろうというのではない。
ここは酒宴でもあるが、先立っての襲撃とこの先々の対策を討議する場でもある。
分厚い帳簿は、数々の契約書が綴じ込まれたものだ。
絡まり合う双頭のムカデ──その紋章はベッサリオンの氏族を表すものだ。
「んー、アシュレには、アレだけど記録があるからね」
証拠を示しながら言うイズマに悪意などない。
いつもどおりのひょうひょうとした口調だが、徹底して現実、事実を述べている。
「それで、さきほどの刺客……やつらの雇い主というのはわかるのか?」
そして、ひょうひょうとしていればこそ。
アスカの問いに、一瞬、イズマが言葉を切ったとき訪れた沈黙の重みが、はっきりとわかった。
「うん──オズマドラ宮廷の重臣:シドラーク・パシャの名があるね」
それでも、きっぱりと答えるイズマは、ここで言葉を濁すことの無意味さを知っている男だった。
「シドラーク……父の側近だな。ぬけぬけと名乗ったのか?」
「本人が出向いてきたわけじゃない。それに依頼主の名をあきらかにするような間抜けな客は、そもそも暗殺なんて頼みに来やしないよ。だから、これは裏帳簿なのさ。後の謀略のため、シビリ・シュメリは秘密裏に依頼主を特定、記録しておくんだ。
あとでしかるべき筋に情報を流して情勢不安を作り出したり。ときどき仕事を達成した後、依頼主が心変わりして証拠隠滅に出向いてきたりすることがあるんでね──保証だよ」
極めて事務的なイズマの対応に、こちらもすでに依頼主の予想は立てていたのだろうアスカも平然と相対した。
「よいのか、シビリ・シュメリ的には。顧客の名前は秘匿義務があるのではないのか?」
「これはあくまで前棟梁であるカルカサス時代の依頼だし、現棟梁として新生シビリ・シュメリの意向を示しただけだよ」
つまり、この一連の会話で、シビリ・シュメリの新たな棟梁としてのイズマは、オズマドラ帝国はともかく、アスカリア個人とことを構える気はない、との立場を表明したことになる。
「だが、イズマ殿。わたしはともかく本国:オズマドラ帝国とは事を構えることになるかもしれぬ決断だが。よかったのか?」
「んー、カードを伏せたままでは、どのみち、どちらかとは敵対することになるんでしょ? それなら美少女の側がイイッ!!」
冗談なのか本気なのかわからないところは、相変わらずのイズマの言葉だ。
一瞬、呆気にとられたアスカだったが、すぐに破顔一笑した。
「ついに暗殺者教団の首をすげ替えてしまったのか。とんでもない首領の交代劇だな。シビリ・シュメリ。あはは」
「アスカ殿下にはかなわないよー?」
上目遣いに問うイズマの真意を、いったいこのときどれほどの人間が理解しえたろう。
アスカ本人、そしてアテルイがその意味に気がついていたことだけはたしかである。
イズマは言外に、こう言ったのだ。
アスカリア殿下には、本国に対する叛逆の意志ありとお見受けする、と。
イズマは、やみくもにアシュレとシオンを追って転移してきたのではない。
事前に充分な下調べを行ってからの来訪であることを、それはうかがわせた。
その問いかけをアスカは笑顔で受け止めた。
ただし、どこか凄みを秘めた笑みではあったのだが。
「疑うわけではないが一応、その帳簿、あらためても?」
「そりゃこまる。こいつは言うなりゃ、古今東西、紛争の種を満載した玻璃の箱みたいなものだよ。蓋を開けたが最後、なにが起るか」
「友人でもダメか」
「友人なればこそ、さ。これを利用すれば、この世界に国家のあるところ、どこでも疑心暗鬼と火の粉をばらまけるんだ」
「褐色美少女のわたしの頼みでも?」
「うーん、心が揺らぐなー。でも、ダメ」
イズマは笑いで躱し、アスカもそれ以上食い下がったりはしなかったが、この一幕、実際には凄まじく剣呑なやりとりが為されていたのである。
「わかった。今回の件についてはすぐにも、しかるべき処置をしよう。刺客たちの処遇だが──」
「お任せ願えるとうれしいねい。彼らは命令に従っただけだ。トップダウン方式の組織では、責任はその命を下した本人が持つ。命令を実行する下位者の責任は問うべきじゃない。
そして、その責を問うべき人間は死んだ──先んじて、ボクが処断した。土蜘蛛は人類圏の君主であるアスカ殿下からみれば、排除すべき異人種なんだろうけど……ボクの同胞なんだ。お願いだよ。
そのかわり、この案件に関してあらゆる事実をボクはアスカに公表するし、シビリ・シュメリによるこれ以上の介入がないことを確約する」
しゅた、と右手の掌をまっすぐ立てて見せ、イズマが言った。
「わかった。同胞の身を案ずる気持ちは、種族の壁を越えて同じだと思いたい。呪具を飲まされた召使いたちも、命に別状はないということであるし。救われたことの礼と、帳消しでよいかな」
「あっらー、どうしよ。それって、もしかして同胞くんたちと、熱くて濡れ濡れのお礼とが、引き換えってこと? あー、悩むわー、まじで。んー、同胞二名と美少女の熱い褐色濡れ濡れ。んー、これわ、究極の選択だ」
前のめりに倒れ込み、本気で地面に頭を擦りつけてイズマが悩みはじめた。
その背後でエレがおろおろしているのがおかしくて、アスカもアシュレも笑ってしまう。
シオンは溜息まじりの苦笑だが、イズマのいつもの調子が懐かしく感じているのには違いがない。
どうしたら、喉元まで迫った暗殺者の凶刃、その処遇についてこれほど和やかに話し合えるものだろうか。
それは、この場に揃った全員が、すでに英雄と呼ぶにふさわしい、なかば常人の側から逸脱してしまった者たちであるからに他ならない。
「あーそだ! アスカ殿下、なんなら、死を装う手もあるよ? カバーストーリーを用意しようか?」
刺客たちは取り除けても、依頼主の殺意はそうではない。
その対処手段を、またあの人外な動きで起き上がりながらイズマが言った。
さすがにドリーム体験と人命を引き換えるプランは破棄されたようである。
よかったな、同胞二名の暗殺者さんたち。
「そうできれば楽なのだが。いや、やめよう。それにシビリ・シュメリを介しての暗殺が失敗に終わったとしれば、今度は、もうすこし、あからさまに動いてくるだろう。そこを押さえたい」
「でかい獲物を釣ろうとしてる漁師の顔だネ?」
「そのためには、かろうじて暗殺者を躱したものの、怯えきっているくらいの流言を放っておくほうがいいのかな?」
アスカは言い、イズマは屈託なく笑った。
だから、その後に続いた談笑と宴のなかでアスカの漏らしたひとことは、誰の耳にも届かなかった。
「命令を発した人間がその責に問われると言うのなら、父──オズマヒムなのだろうな、この責を問うべき相手は」
その言葉は、霜をまとった冬の落ち葉のように凍えて、強ばっていた。




