表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
186/782

■第三夜:追憶のジャドゥーブ

         ※


 アシュレがようやく人心地つけたのは浴場で汗を流してからだ。

 総大理石の広大な浴室に、ひとり。

 天井に切られた四つ葉のクローバーを思わせるちいさな窓から、湯煙がもくもくと出て行くのが見える。


 壮麗な、と形容するのがふさわしい内装であった。

 ただ、アスカに言わせると、これでも相当につつましやかな空間であるのだという。

 オズマドラ帝国という国家の、底力を見せつけられるような思いがした。

 アラム式の幾何学模様で彩られた空間は、壁画や彫刻が並ぶこともある西方諸国の王族たちの浴室の趣味より、じつはアシュレは好みだ。


 なぜか森林や、星空の下にいるかのような気持ちになれるのだ。

 湯船に束にして浮かべられた薬草のせいもあっただろう。


 アシュレの出血に考慮して、湯温もややぬるめで加減され、薬草から昇り立つ爽快な薫りが、鼻腔にこもる鉄錆の匂いを打ち消してくれる。

 揮発し蒸気に混じった薬効が傷ついた場所にやさしくあてがわれるようだ。

 そういえば──とアシュレはその薫りにカテル島大司教にして、薬草学の天才:ダシュカマリエを、そして、カテル島で待つであろう婚約者:イリスベルダのことを思い出していた。

 あのカテル島攻防戦から、すでに三ヶ月が過ぎようとしている。


 その間に、アシュレとシオンは西方世界の西端・深い森の国:トラントリムで忘れられない体験をした。


 シオンに匹敵するほどの高位夜魔にして、人類との共存を試行し続けてきた英雄:ユガディールとの邂逅。

 その彼が提唱し実現せしめた運命共同体としての相互互助組織:“血の貨幣共栄圏”。

 夜魔と人類とが共存できる世界を目指したユガディールの理想の背後に、あの《ポータル》:〈ログ・ソリタリ〉と《御方》の影を見いださなければ、いまでもアシュレたちはユガとの友情を育んでいたかもしれない。

 

 そして、ユガディールの隠された事実をアシュレに示唆しさし、偽りの理想郷を打ち破るため手を貸してくれたのが、軍事行動の尖兵・偵察部隊的な役割を担っていたオズマドラ帝国の第一皇子=じつは男装の麗人であるアスカリアだった。

 失地回復レコンキスタを掲げるエスペラルゴ帝国の東進に対抗すべく行動していたアスカは窮地きゅうちにあったアシュレを救い、手助けしてくれた。

 イグナーシュ領からの脱出、その途上に立ちふさがったフラーマの漂流寺院ですでに知己を得ていたアシュレとアスカは共闘し、ユガディールに捕らわれの身となっていたシオンを奪還することに成功する。

 

 だが、その代償として、トラントリムはその国土をオーバーロードに転生したユガディールの封土:《閉鎖回廊》と化してしまった。

 ユガディールの転成アセンションを防げられず、トラントリムを《閉鎖回廊》に取られたアシュレたちは、大局的な見地から見て、一敗地にまみれたのである。

 

 事態の急変とともに部隊を後退させたアスカとともに、オズマドラ支配下の交易都市:ジラフ・ハザにある離宮=サムサラ宮に逗留とうりゅうし、疲弊した肉体と精神を回復させるべく静養に努めていた。


 しかし、雌伏のときは終わりつつある、とアシュレは思う。

 

 もう、アスカの献身──その身に流れる真騎士の血がなせる業=《ヴァルキリーズ・パクト》の恩寵なくとも、アシュレの肉体は十二分に機能する。

 身体を動かしても、どこにも痛みやひきつれはない。

 むしろ以前より、精度高く肉体が機能するのがわかる。

 痛んでいた肉体のあちこちがきちんとメンテナンスされ、潤滑油を注されたように滑らかに動かせる。

 

 完全復活だった。

 そうであれば、一刻も早く、カテル島に帰還し、イリスベルダの無事を確認したいと望むのは自然な心の動きというものだ。

 

 イリスとは、カテル島の大司教:ダシュカマリエが行った聖母再誕の儀式以来、再会できていない。

 その身に宿した“運命の子”の母体として、生まれ変わるための儀式、その結果をアシュレは自分の目で確かめることが、いまだできずにいる。

  

 カテル島で行われた聖母再誕の儀式リチュアル

 その舞台となったカテル島最深部で、アシュレたちは土蜘蛛の凶手、ガイゼルロンの夜魔の騎士、そしてエクストラム法王庁の聖騎士にしてかつての許嫁であったジゼルテレジアと対決した。

 

 その果てに、すべてを護るべくイズマの発動した《大転移》により、アシュレたちはバラバラに転送された。

 そのときすでに重体に陥っていたアシュレは、あの事件の真相──本当はなにが起ったのかを詳しくは知らないのだ。

 

 シオンに問いただしても「儀式は成功した。イリスは無事だ」としか答えてくれない。

 

 もちろん、シオンもあのとき絶対的な窮地にあり、生き残れたこと自体が奇跡のような状況だったのである。

 詳しい事情を把握できていなくても、それはしかたのないことだ、とアシュレは納得している。


 だからこそ、一刻も早くカテル島に帰り着き、全員の無事を確認し、互いの生還を祝福しあいたい。

 ずっと胸中にあったその思いが、ここ一週間ばかり、急速にカタチを成して心を占めていくのをアシュレは感じていた。

  

 長かった冬も、終わりを告げようとしている。

 日差しは日増しに温かく、水もぬるみ始めているようだ。

 こうなれば春はもうすぐそこだ。

 そうすれば航路が復活し、船を使えば──このジラフ・ハザから馬でも川船でもかまわないから港町まで行き、商船に便乗させてもらえば、二週間でカテル島には帰還できる。

 

 ただ、問題があった。

 それは新法王:ヴェルジネス一世が即位とともに発布した十字軍発動の報である。

 

「ゾディアック大陸、そして、この世界より全ての不浄、人類の敵を掃滅そうめつする。これはその先駆けとなる戦い──人類の総意を揺るぎなきたったひとつの真理にまとめ上げ、束ねるための戦いである。誤った信仰に囚われる人々に覚醒を促し、全人類を我らが真の主:聖イクスの教えのもとに統合するのだ」

 まだ少女の域を脱したばかりの、十八歳の乙女が朗々たる声を大聖堂に響かせたとき、その場に居合わせた群衆は水を打ったように静まり返り、一秒、一転して大歓声を上げたという。

 

 心揺さぶられ震えた、という意味ではアシュレも同じであった。

 ただし、最悪の事態という意味で。

 その報を受けたとき、アシュレは思わず左手を額に当て、呻いてしまった。

 

「なぜだ」

 苦渋に満ちた問いかけがこぼれた。

 もし、声に色というものがあったのだとしたら、どす黒く変色した血液を受けた布を絞ったような、そんな色だったことだろう。

 信じられなかった。

 新生法王:ヴェルジネス一世とは、ほかでもない、アシュレの幼なじみであるレダマリアのことだったからだ。


 カテル島攻防戦の発端のひとつとなった法王庁使節の来訪、それはカテル島大司教:ダシュカマリエにこの報を知らせるものであったはずだ。

 だが、アシュレが正しい意味でその事実を知ったのは、ずいぶんと後になってからだ。

  

 おそらくカテル島で肩を並べて戦ったノーマンはこのことを知っていたはずだ。 

 だが、あえてアシュレには告げなかった。

 それは死地に赴く騎士の心に、いらぬ動揺を与えてはならないという配慮からだっただろう。

 

 たしかにその通りだった。

 自分の手の届かぬ場所で行われた過去の事実であり、まさに囚われていてはならない場所、そして時、そして事件だったのだ。

 アシュレが事実を知らされたのはつまり、新法王の誕生から二ヶ月以上も後、それも本来敵側であるはずのオズマドラの皇子を通して、である。

 

「この発布を受け、現在オズマドラ帝国領内でのイクス教徒の渡航が商業、巡礼の別なく禁じられた。まだ、正式の宣戦布告を受けたわけではないが、オズマドラ帝国皇帝:オズマヒム・イムラベートルはすでに西方諸国からの軍事侵攻に備え、大掛かりな行動の準備に入っている。

 動員数は総勢二十万を越えるかもしれない。このままいけば、全面戦争は避けられまい。なにしろ、新法王猊下はイクス教以外のあらゆる信仰を“誤ったもの”と断言したに等しいのだからな」

 淡々と告げるアスカの瞳が、自分への心配で揺れていたことにさえ、アシュレは気がつかなかった。

 

 あまり口数の多くない──ユーニスとは対照的に物静かで読書の時間を愛する少女だった。

 早くに父母を亡くしたものの、伯父である前法王マジェスト六世の庇護のもと、十四歳のとき、突然枢機卿に抜擢された。

 親族主義マチズモと揶揄される法王着任時の新枢機卿任命だが、レダマリアのそれは単なる親族、血縁優遇の悪癖からではなかった。

 彼女こそ法王庁アカデミーを三段階飛び級で卒業した天才だったのである。

 おまけに名家の出、ひるがえって、知識人・趣味人の多い枢機卿団のお歴々が、舌を巻くほどのチェス・サーヴィスの名手だった。

 実をいうと、アシュレは彼女にチェス・サーヴイスで一度も勝ったことがない。

 まさしく、黒白こくびゃくの盤上に君臨する女王クィーン

 

 彼女の盤面は常に整然としていて、特に駒の位置直しジャドゥーブを一度もしないことで有名だった。(注・ジャドゥーブとは:歪んで置いてしまった駒の位置を正すこと。チェス・サーヴィスでは触れた駒は「選択した」ものと見なされるため、勝手に駒の位置を直すことはできない。事前に「駒の位置を直してよろしいか?」とお伺いをたて、相手の承諾を得てからでなければ駒の位置の歪みやズレを直してはならない。不正や曖昧さを回避するためのルール)

 アシュレなど迷いの揚げ句、駒を掴みそうになってなんどもレダマリアに忠告されるのだ。

 いいの? と。

 

「あー、ごめん、考える。いつもごめんね、レダ」

 アシュレのしどろもどろの返答に、しかしレダはにこやかに微笑むのだ。

「いいの。お茶でも点ててくるから。いつまでかかっても、わたしはだいじょうぶだから」


 チェスと長考とはまあ、一組のようなものなのだが、それにしてもアシュレの長考は酷かった。

 気がつくと晩鐘は鳴り終わり、日が暮れかけていた。

 エクストラムを囲む城壁の門が閉じてしまう時刻だった。

 

「うわわわっ、まずいっ、帰らないとっ、またユーニスに怒られるっ」

 父であるグレスナウが生きていた頃、そして在宅であったなら、夕食に遅れることは厳罰の対象だった。

 遅れるなら遅れると、なぜ事前にきちんと言わないのか。

 グレスナウが怒るところはそこに集約しており、つまり、自分の行動に主体性を持たせようという教育ではあったのだろう。

 

 父の死後、その役目をまるで姉さん女房のようにユーニスが引き継ぎ、アシュレは教育されたものだ。

 どんなに手をかけて作ったか、どれだけ帰りを待ったか、ほら、シチューがついてる。

 そんな感じで愛の告白なのか、お小言なのか、世話を焼いているのか、子供扱いなのかわからない感じでユーニスのお説教は続くのだ。

 

「アシュレを立派な紳士にすると誓ったの──グレスナウさまの墓前で」

 まなじりを固めて、それなのにどこか嬉しそうに言うユーニスを見ると、胸の奥がきゅうと苦しくなって、ああ、ボクはこの娘が好きなのだな、とアシュレは思うのだが──遅れる連絡を忘れたときのユーニスは、それはもう、恐かった。

 

「バラージェ家には、お手紙してあるから。もう、来るんじゃないかな、ユーニス。今夜は、うちに泊まりなさいと、伯父様が」

 そして、レダといえばこのように、なにからなにまで、手回しのよい娘なのだ。

 

「ごめん、ボクは、ひとりで考え込んでしまって」

「一度没頭し始めると、周囲を忘れてしまうほど集中してしまう──アシュレのその癖、かわいくて好きよ、わたし」

「よくそれで怒られるんだ、ユーニスに」

「すごく男らしい真剣な顔してるの、知ってるのかしら、ユーニスは」

「また、うつつを抜かしてる、って怒られるんだけどな」


 ふふふ、とレダマリアは笑った。

 アシュレは照れて頭を掻いた。

 それから謝罪した。

 

「いつも、ごめんね。こう、キミとチェスをしてるとき、ボクだけが考え込んじゃって。退屈だろう。のろまな対戦相手は」

「その間に、わたしはアシュレが考えていることについて考えているの。ちっとも退屈なんかしないわ」

「そう言ってもらえると、助かるよ」

「だって、その間はアシュレの時間を──心をわたしが独占できるでしょ?」


 たぶん、それは丘だらけのエクストラムの、その上方に位置するこの館だからこそ差した太陽の最後の一片だったのだろう。

 レダマリアのあの端正な顔に朱が差したようにアシュレには見えた。

 それって、どういう意味、とアシュレが問いかけたところに、玄関のノッカーを打ち付ける音が響いた。

 

「あら、もう来たのね──さすが、アシュレのお目付け役。抜け駆けは許さない、ってことね」


 屈託ない笑みを浮かべ、レダマリアは身を翻してしまった。

 腰を浮かべかけた姿勢のまま彼女を呼び止めようと伸ばした手のやり場に困って、アシュレは視線を彷徨わせた。

 呼び止めて、ボクはいったいどうしようとしたのだろうか、それがわからなくなって。

 どの駒を動かすべきか迷う、あの癖にそっくりだと、その仕草のことに気がついてアシュレは赤面した。

 

「冷たっ」

 ぽつり、と背中に落ちてきた水滴でアシュレは回想から帰還した。

 追憶にはまり込んでしまっていたのだ。

 

 それほどに、あの優しいレダマリアの思い出と新法王着任と同時に発布されたという十字軍発動の演説がもたらした衝撃と差異に、アシュレは違和感を感じていたのだ。

 アシュレが法王庁を旅立つとき、よろめいたマジェスト六世を補佐するため走り出た彼女、アシュレに「ご無事で」との祈りを込めて送ってくれた視線──立場上言葉にできなかった想いで見つめてくれたレダマリアを、アシュレは忘れない。

 

 だからこそ、胸が掻きむしられるように痛んだ。

 だれかが、彼女を陥れているのではないか。

 脅されて、レダマリアは無理やり十字軍などという世迷言に加担させられているのではないか。

 そんな思いが肺腑の内側で渦を巻いた。

 

 アシュレが法王庁を出立したとき、彼女の隣には法王:マジェスト六世がいた。

 アシュレは法王庁に属していたし、ユーニスもそうだ。

 アルマステラだっていた。

 同じ組織に属しているという帰属感があった。

 

 だが、いま彼女のそばにはだれもいない。

 尼僧:アルマステラは聖遺物奪取の共犯者として、神敵とされた。

 アシュレの従者だったユーニスは、アルマと融合し、正しい意味ではもういない。

 アシュレは法王庁から離反し、いまや反逆者として追われる身だ。

 

 そして、レダマリアを庇護し続けてきた賢人法王:マジェスト六世は崩御した。

 結果として、アシュレはレダをひとりにしてしまった。

 

 たおやかな立ち振る舞いの奥に、レダマリアが強い芯を秘めていることをアシュレは知っている。

 そうでなければあの魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする法王庁の宮廷陰謀劇の舞台で、少女ひとりが立ち回ることなど到底できはしない。

 しかし、それでもレダマリアは女のコだ。

 荒事など経験したことさえないはずだ。

 そんなが、全世界を相手取った戦争を起こそうなどと考えられるとは到底思えなかった。

 心細さに震えているに違いない。

 もしかしたら、いまこうしている間もアシュレに助けを求めているかもしれない。

 

「レダマリア」

「それはまたどこの女だ──ご主人さま」

 突然背後からかけられた声に、アシュレはいま自分がレダの名を呼んだことを忘れて飛び上がった。

 





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ