■第一夜:聖なる夜の密約
「法王:ヴェルジネス一世聖下におかれましては、このたびの即位、まこと歓喜の極み。すべてのイクス教者の希望の光とならせられることでありましょう。このメルセナリオ・エルマドラ・エスぺラルゴ、そのお姿、ひとめ御拝謁賜りたく、馳せ参じたしだいにございます」
帽子を胸におき、跪いて法王の座を見上げる男の肌は日に焼け、礼装の上からであっても引き締まった肉体が見て取れた。
宮廷人と言うには、体格も容貌も野性味を帯び過ぎていた。
彫りの深い美貌の奥、黒き瞳にたたえられた光は、たとえ、その唇から淀みなく湧き出してくる祝辞・賛辞の数々を持ってしても、ごまかせないほどの不敵。
声色も振舞いも堂々として落ちついているのに、見るものの心に波風を立てる。
そういう存在感を帯びていた。
ひとことで言うのなら、硝煙に似た気配を、男は周囲に振りまいていたのである。
エスペラルゴ帝国現皇帝:メルセナリオ・エルマドラ・エスペラルゴがイクス聖誕祭を新法王とともに迎えたい、と打診したのはヴェルジネスの即位を報せた大使に対してだった。
法王庁大使は全権を委任された上級大使であったのだが、この申し出には即答しかねた。
なにしろ、この直前、聖騎士:アシュレダウ・バラージェの働きによりオーバーロード:グランの《閉鎖回廊》から解放されたイグナーシュ領は、法王領に編入されたのである。
そのため、エスペラルゴと法王庁とは、これまであった人外魔境という意味で巨大な緩衝地帯が人類世界に取り戻されたことにより、図らずも国境を隣接する間柄となったのだ。
版図の拡大とは、それによる税収入や労働力、資源、食糧生産量の増大というメリットと同時に、新たに国境を接することとなった国家との軋轢という問題を避けて語ることはできない。
たとえ、法王というイクス教会圏における最上位者であったとしても、物理的な版図を持つ存在であるのだから、これは変わらない。
オーバーロードによって奪われた土地を人類圏に取り戻しただけだ、という大義名分を鵜呑みにするような国家など、地上には存在しない。
商業都市国家の連合であるミュゼット商業都市国家同盟であればあるいはとして、新興国家として近年、破竹の勢いで東進・勢力を拡大しつつあったエスペラルゴが、これを無視できるはずがない。
加えて、北方にイシュガルの峰々を挟んでとはいえ夜魔の国:ガイゼルロンとも、エクストラム法王庁は国境を接することとなってしまったのである。
巨視的な観点から述べれば、かつて降臨王と呼ばれた名君としてのグランは、死せるのちも己が国土すべてを要害と変じて、異種族の侵攻と各国の直接的な対決を防いできたのである。
その降臨王の封印が、期せずして解けた。
動乱の時代という猛獣が目覚め、身震いした瞬間だった。
さらに、解放されたイグナーシュ領の生存者、なかでも各国の国境付近で困窮の極みにあった約一万にのぼる難民の救済、および設備施設の改修、そして治安秩序の回復。
これはもまた、手をこまねいているわけにはいかぬ大事であった。
冬将軍の到来が、もうすぐそこまで迫っていたからだ。
法王庁は降ってわいたこの事態への対応に、おおわらわだったのである。
そこへ、もうひとつ、予期せぬ大事件が重なる。
法王:マジェスト六世の崩御。
慈悲と思慮の深さによって内外から慕われたイクス教世界の精神的支柱。
その急逝。
一月以上に渡った法王選定会議が、その混乱ぶりを表している。
唯一、まるで予言であるかのようにマジェストの残した勅詔によって、イグナーシュ領への進駐の準備だけは整えられており、どの国にも先んじて駆けつけることができた。
だが、その素早さは当然、隣国を刺激せずにはいなかった。
当時、はるか東方の移動宮廷でアラム勢力との闘争に明け暮れていたエスペラルゴ皇帝:メルセナリオをして、戦火が下火になる冬の訪れとともに、真意を問い質すべく、法都:エクストラムを来訪させるほどには、それは事件だったのだ。
困ったのは全権を委任された大使である。
メルセナリオは三十代なかば。
各国の国王にすれば弱冠もよいところだが、かつてはひしめく小国のひとつにすぎなかったエスペラルゴをたった一代で強壮な軍事国家に変貌させた英傑である。
第十一回十字軍の英雄でもある。
戦争の天才であり、芸術にも、きわどい遊びにも精通したこの男は、当然だがその名声と同じくらい悪名を轟かせていた。
ある意味、オーバーロードであったグランのほうが、政治の相手としてはマシかも知れぬほど厄介な相手だったのである。
数万に及ぶ軍勢を率いての上洛を許せば、それは祝辞を方便とした侵略を認めることになる。
法王庁の略奪を許しかねない、国家存亡に関わる事項だった。
到底、即答しかねる問題だったのである。
実際に、急ぎ持ち帰られたこの案件は、枢機卿団内でも喧々囂々の物議を醸した。
そんななか、方針を決したのは弱冠十八歳の少女法王:ヴェルジネス一世の鶴の一声である。
「歴代法王のなかでもっとも非力な女のわたくしに、強大な皇帝陛下から、どのような祝辞をいただけるものか、心待ちにしております、とお伝えせよ」
親書がしたためられ、法王自ら晩餐の用意をすること。ゆえに、我が家に帰るような気軽さで訪れて欲しいこと──枢機卿団の全員が目を剥くようなメッセージが書き記された親書が、早馬に乗せて届けられた。
これを一読するや、メルセナリオは口元をほころばせ、ごく家庭的な訪問の作法を遵守するつもりだ、という法王への返信を大使に託したという。
そして約束の期日に違わず、わずか十騎の供と捧げ物の輿を引き連れただけで、メルセナリオは法王庁に姿を現した。
その道程で、大量の補給物資をイグナーシュ領に駐屯する聖堂騎士団に下賜し、また行く先々で個人的な施しを与えながらの巡礼行である。
疲弊した国土で冬を迎えた旧イグナーシュの民草には、いまはなき前法王:マジェスト六世に成り代わり、聖誕祭の夜に現れて恵まれぬ子供たちに贈物を届けてくれる聖人の姿を見たものもいただろう。
付け加えておくならばヴェルジネス一世つまり、レダマリア・クルスは、前法王の姪である。
人心掌握と法王庁側の態度に働き掛ける駆け引きを、まるで余興を楽しむような態度でしおえたメルセナリオは一転、厳粛にして神妙な態度で、大聖堂でのミサに参列。法王自らの祝福を受け取った。
その後の会談である。
「どうか、その御手にくちづけをお許しいただきたく」
皇帝:メルセナリオの申し出に、ヴェルジネス一世はためらうことなく右手を与えた。
メルセナリオはそのかたわらに侍ると、両手でその華奢な手を押し頂き法王の証である“光臨者の指輪”にくちづけした。
謁見はこうしてつつがなく終わり、枢機卿団はほっと胸をなでおろしたわけだ。
政治的な見地で言えば、メルセナリオは法王庁によるイグナーシュ進駐を黙認。
引き換えに、法王庁はエスペラルゴの背中を護るべく、夜魔の国:ガイゼルロンへの警戒を強め、イシュガル山脈付近の防衛戦力の強化・増派を約束。
法王の権威に皇帝は敬意を示し、互いの協調関係を諸外国にアピールしたわけである。
法王の肩書きはあっても、小娘にすぎないヴェルジネスにメルセナリオが、政治闘争における初戦の勝利を贈ることで、そのひきかえに、さらなる利益を引き出そうとしているという見方も、これは当然であり、実際には双方さまざまな思惑があったのだ。
「では、かねてよりのお約束通り、メルセナリオ皇帝陛下を晩餐にご招待したい」
「聖下、どうかわたくしめのことはメナスとだけ、お呼びください」
「では、メナス、わたくしのことは、レダマリア──レダ、と」
醸成された親密な雰囲気のまま、ヴェルジネス一世──レダマリアは、メルセナリオを法王のための食卓に誘った。
その夜、ほとんどレダマリアとふたりきりで過ごしたメルセナリオが寝室に帰り着いたのは、夜が明ける頃になってからであったという。
親密な席に付き従ったのは給仕の少年少女と、ひとりの尼僧だけ。
アシュレたちがカテル島で、壮絶な防衛戦を繰り広げていたころのエピソードである。
どのような会談がなされたのか、世の人々が知るのは、もうすこし後のことだ。
ただひとつ、たしかなことがあった。
この日を境として、ついに巨大な戦乱の世が、その幕を開けたのである。




