■第四十八夜:不帰王の帰還(sideBエピローグ)
イズマが目覚めたとき、それは来るべき新年を祝う神事の最中だった。
粛々とした祝詞とふたりの姫巫女が舞いを披露する舞台の奥から、全裸のイズマが寝癖でぼさぼさの頭を掻きながら現れたおかげで、現場は爆笑の渦に叩き込まれ、神事は台無しとなった。
おまけに混乱が収まると大事な新年を迎える瞬間が過ぎてしまっていて、これまた二重に台無しなのであった。
「眠るときも起きるときも、ほんとうに予告のないかたですのね」
エレとエルマふたりの巫女に付き添われ潔斎(注・穢れを払い身を清める儀式ほどの意)のための禊を行うイズマは、まだ半分夢の世界にいるように頭をぼりぼりと掻き、むにゃむにゃと口を動かしていた。
「なーんか、大事なことがあって起きたような気がするんだけれど?」
あの日、カルの心を屠り、シビリ・シュメリの棟梁、そしてベッサリオンの民の王として君臨したイズマは、“狂える老博士”どもの鏖殺を済ませ帰還したエレとエルマに両手を握られるや、糸が切れた人形のように頽れた。
気がつけば一ヶ月以上も眠りこけていたのである。
その間、祭事を執り行い、イズマの世話を働き、民の求心力を束ね続けたエレとエルマの実行力にはイズマは平身低頭するしかない。
「ほんっと、ゴメンネ」
「いいえ。ずーとあれこれ理由を見いだしてはお祭りしていただけですから。アイドルの復活ツアーみたいなものですわ」
「あ、アイドルというと……よ、汚れてしまっていますがっ」
いつもは強気なエレが、イズマの前だと緊張でしおらしい調子になってしまうのが、妹であるエルマには可笑しいらしい。
「姉さま、照れて、かわいっ」
「だっ、だって、そのっ、あのっ」
イズマの背中を流している最中に真っ赤になって縮こまるエレを見たら、一体誰がシビリ・シュメリ最強の凶手だと信じるだろうか。
だが、イズマの心中は、この禊に向かう途中、エレやエルマ、近習の者たちから聞かされた、今回の出来事の顛末に掻き乱されていた。
「カル……」
ほんとうにごめんよ。湯船に滴る水滴とその波紋をじっと見つめたままイズマは言った。
あの日、カルカサスをこの世から消し去ったのはイズマだったが──その異能:《コンプリート・ワールド》は、そこにまつわるいっさいの経緯をイズマとエレ、エルマという当事者三名のものを除いて、この事件に関わったすべてを『書き換えて』しまった。
カルという存在は、とうのむかしに操り傀儡とされており、実質的にシビリ・シュメリに巣くいベッサリオンの民を欺き、許されざる人体実験に邁進していた“狂える老博士”どもこそが、この悲劇・諸悪の根源であるとされた。
姫巫女たちを貶めたのも。
カルをあのような姿としたのも。
そして、数十年前、“神”を失い流浪を余儀なくされた辛苦すら、そのすべてが“狂える老博士”たちの奸計・所業であると結論されたのだ。
すべての記憶が書き換えられていた。
結果として、イズマガルムは姫巫女ふたりを救い、ベッサリオンの正統を取り戻した英雄として持ち上げられた。
かつて、彼らに“神”の簒奪とそこから始まる没落と流浪の辛酸を舐めさせた過去は、綺麗さっぱり拭われて──。
エレ、エルマ、ふたりの姫巫女はイズマと三人だけになってからようやく、皆が口裏を合わせているようだ、と違和感を教えてくれた。
たしかに、“狂える老博士”どもの所業ではあった。
許されざる悪業であった。
だが、それを選び取り、推し進めてきたカルも、あるいはダジュラの、そして、民のため氏族のためとそう信じ、我が身を犠牲にしてその身に〈グリード・ゲート〉を埋め込んだセルテやイオの《意志》を──だれも覚えていなかった。
物語を大きな塊として捉えたとき、もしかしたら第三者から見れば、それはさほどには大きな差異ではないのかもしれなかった。
たとえば、史書のような視点で捉えたとしたなら。
ことの結果だけを書き出したなら、ほとんど事実なのかもしれなかった。
当事者たち以外の──《皆》という視点から見たのなら──それでよいのかもしれなかった。
自分たち民衆は被害者であり、同時に救われるべき存在であり。
カルカサスをはじめとする指導者層は、これもまた同情すべき被害者であり。
その犠牲は悼むべきであり。
帰還王:イズマガルムとそのかたわらに侍るふたりの姫巫女は、救世主であり、また、これから来るべきベッサリオンの繁栄を象徴する存在であり。
結果として、同胞の肉体をいじくり回し、バケモノを生み出し続けてきた“狂える老博士”とその圧政こそが、打倒すべき“悪”であり。
じつにわかりやすい、矛盾のない、ストーリーであった。
ただし、そこからはごっそりと、善悪の彼岸に身を投じ、自らの生き方を賭けて闘ったカルやダジュラ、セルテやイオ、散っていったアラガミ兵たち、そしてラッテガルトの《意志》の記憶が、ごっそりと奪い去られていた。
都合よく、世界の側を改変してしまう《ちから》:《コンプリート・ワールド》──そのあまりのえげつなさに、イズマは吐き気を覚えたが、吐き戻すことさえかなわない。
これが己の所業か、と打ちのめされる。
同時に、あの最後の瞬間、《ねがい》の器と化したイズマのなかに流れ込んできた微細で卑小な《ねがい》の数々を思い出していた。
それはカルのすべてをなかったことにしてしまいたいという、観衆のそれだった。
自分たちにとって、傷つかず、わかりやすく、思い出して涙しやすい過去──そういう美しくも浸りやすい思い出と、直視しがたい現実とをすり替えてしまいたいという《ねがい》を、あのときイズマは、代償として叶えたのだ。
記憶が鮮明になるにつれて打ちのめされ、震えるイズマを、エレとエルマが気遣った。
そうだ、とイズマは思う。
まだ、ボクはひとりではない。
あの《意志》を、善悪の彼岸に身を置いた生き方──カルやダジュラ、セルテやイオ、名も知らぬアラガミ兵たちの選択を──憶えていてくれた存在が、ふたりもいる。
「なんか……涙出てきちゃった」
イズマがつぶやくと、姫巫女ふたりに手を取られた。
「今度こそ、最後までお供しますから」
イズマの目を見て言うふたりに、イズマはうん、と頷く。
結果としてそれは嘘になる。
だが、物語的には、まだすこし先の話だ。
禊を済ませ、清潔な衣に着替えたイズマはひとり暗い堂内を進む。
暗い穴蔵へと降りていく。
ここはかつてベッサリオンの氏族が、屍霊術を行使するのに使っていた祠だ。
戴冠の大祭の舞台となった巨大な窟:〈無貌の淵〉の縁に沿うようにして開けられた、いくつものちいさなくぼみに、横木を挿し込むことで階段が現われる。
堂内を吹き渡る風がまるで亡霊の叫びのようにこだまする。
エレとエルマ、ふたりの巫女から充分な《ちから》を注がれたせいだろう。
イズマの肉体はすでに荒神:〈イビサス〉のそれではない。
傷だらけで、裸身になれば継ぎ接ぎだとわかる貧相な肉体を、なんとかまとめあげるように白い礼装で包んでいる。
その社の心奥で、イズマは召喚門を開いた。
重力に囚われていない姿であらわれたものは、ラッテガルトだったものだ。
周囲にまとった赤い宝玉は、すべて傷口から流れ出た血液の玉。
イズマは自らが食い破った傷を再生させ、縫合してゆく。
そして、その失われた心臓のかわりに、本物の紅玉──小ぶりな林檎ほどの大きさのルビーを埋める。
それから邪法を用いた。
その精神を屍霊術で括り、しかるのち宝玉に《スピンドル》を流す──いまやラッテガルトの亡骸、その胸に納められたそれはただの貴石ではない。
荒神:〈イビサス〉の瞳、そのひとつをくりぬき、イズマは与えたのだ。
その代償に、イズマは左目を永遠に失う。
伝導される《スピンドル》エネルギーによってラッテガルトの遺体が反り返る。
がぶ、ごぶっ、と死の瞬間を再現するように、ラッテガルトが肺腑に溜まっていた血を吐いた。
瞳が見開かれる。
それから、大きく息を吸い込むと宙空に浮いたまま、くるりと一回転した。
まるで宙を泳ぐ人魚姫のように。
「イ、ズマ?」
血の気の失せた唇がイズマの名を呼んだ。
「ごめん」
と開口一番イズマは謝った。
「わたしは……どうして、ここに。死んだ、はず。貴方が、殺してくれたはず」
「殺したし、死んだ。間違ってない──そのあとで、いま、ボクがキミを骸傀儡にして、その心臓に〈イビサス〉の瞳を埋め込んで忠実なしもべ──召喚獣にしたんだ」
なぜそんなことを、とラッテガルトは聞かなかった。
どうして、死してなおこの醜い肉体に縛りつけておくのか、とも聞かなかった。
うつむいたイズマの、もうない左目が絶え間なく血を流していたからだ。
そっとその血を唇で受ける。
「じゃあ、わたしは、わたしの死骸で造られた貴方の忠実な下僕なのか?」
「そうだよ。命令には逆らえない」
「へんだな。嬉しいとしか思えない」
「それは、キミがもう、ボクの完全な奴隷だからさ」
「心まで自由にできるのか?」
「…………」
「できないのだな?」
ごめん、とイズマはまた謝罪した。
道具として使うなら、心を与えてはならないことをイズマは知り尽くしていた。
物想う道具の残酷を、イズマはいやと言うほど知る男だった。
「愛しい──イズマ」
胸を抑えるラッテガルトの心の動きに従ってレースを模した触椀が、イズマの肉体を捕らえていく。
「ほら──やっぱり、心は自由にできないじゃないか」
胸を抑えて言うラッテガルトの瞳はこぼれてしまいそうな涙がたたえられている。
「命じないと──貴方の《スピンドル》を吸い上げようとして──肉体が」
「命令には代価が必要なんだ。前払いだよ」
ラッテガルトは胸の奥が燃えるように熱くなるのを感じる。
左胸の〈イビサス〉の瞳が耐えきれないほど熱く、拍動しているのだ。
「おねがいだ、イズマ、命じて。そうでないと、わたしは、貴方を、どうしてしまうか──わからない」
「そうする権利がキミにはあるし、あると思うからこうして、任せているんだよ」
それはラッテガルトの尊厳を辱めたイズマ自身が、その復讐を甘んじて受けるという宣言だった。
イズマは、イズマ自身の耐えられぬ欲望から、ラッテガルトを己専用の道具にした。
召喚門の奥、次元封牢にその遺体を保管していたのはそのためだ。
そこは世界法則が、イズマたちがその身を置く物理現実界とはすこし異なる場所だ。
次元と次元の間に作られたポケット。
死にかけた肉体も、そのなかに放り込んでおくことで限りなく新鮮に保つことができる。
ただ、この保存法と屍霊術には別の縛りがあった。
それひとつが、未処置のままで死者の精神を死体に留めおいたときに起こる精神の変調:パラノイア化だ。
次元の狭間で、生と死のあわいに爪先立ちする所業は、心を損ねる。
それはちょうど外部刺激から完全に切り離されたとき、ヒトの心が陥る状態に酷似している。
だから、イズマは目覚めたのだ。
この儀式だけは、どうしても、可能な限りはやく終えておかねばならなかったのである。
「命じて」
三度、ラッテガルトが懇願した。震えていた。
怪物となった己のすべてが恐いのだ。
それなのに、イズマと再会できた喜び、そして、肉体が貪るようにイズマを求めてしまう恥じらい──なにひとつ否定できずに、震えていたのだ。
だから、イズマは言った。
「愛せ。ボクを。貪ってくれ」
「そんな命令が、あるか。役得しかないではないか」
言葉と裏腹に互いが互いを与えるあうように、ふたりは結びつく。
これ以降、雷槍:〈スヴェンニール〉と大盾:〈ハリ・ハラル〉を携えた漆黒と純白の召喚獣が、イズマガルムの放浪には付き従ったという記録がある。
異形の甲冑姿。
この世のものではない美貌の乙女:〈グルシャ・イーラ〉。
後にそう語られる魔物だ。
これは後世、イズマガルムが真騎士たちの明確な敵対者として記録されていたことから、判明したものである。
おおお、と〈無貌の淵〉の底からどうしようないがらんどうを抱えた唸りが駆け上がってくる。
イズマは知っている。
〈無貌の淵〉の底に潜むもののことを。
それはカルが見出したという《御方》=《門》:〈バラン・シン〉にほかならない。
この窟に挑んだ王たちが帰ってこなかったのは、とうぜんだ。
《御方》たちは、その身を不可知領域でコートしている。
それは強力な《閉鎖回廊》にも似て、いっさいの知覚と認識を拒む。
《御方》がそこに居座るというだけで、その座標は世界から失われるのだ。
物理的には存在するのに、《皆》の認識からは消し去られる。
目の前にあるのに、触れているのに、なかったことにされてしまう。
ただひとつ、強い《意志》の持ち主だけが、認識の外へと現実を放逐する呪いに抗うことができる。
もっとも、その奥に鎮座する《ねがい》を叶える装置に、抗うことができるかどうかは──ほとんど不可能に近い。
歴代の王たちの末路が、それは示している。
だが、ボクは帰ってきた。
イズマは思う。
絶望的な戦いだとしても、ボクは抗う。
理由を問われたら──個人としての意地だ、としか言えないだろう。
なんという痴愚か、と笑ってくれ。
それでも、だ。
ラッテガルトの愛を甘受しながら、イズマは自嘲する。
世界はまたひとつ、真の姿に近づいていく。




