■第四十七夜:満願成就のからくり
イズマが変わり果てたラッテガルトの瞳を覆う帳に手をかける。
そうして《夢》は唐突に終わる。
「ああああああああああああああああああああああああああ」
傷ついた指に引き剥がされるそれは、温められたミルクの上にできた被膜のように柔らかく、繊細で、それゆえに無残に引きちぎられた。
どうして、とラッテガルトは思う。
いま、たったいままで、自分は愛しい男に包まれ、愛されていたはずだった。
狂おしいほど求められ、それに応える喜びに満たされていたはずだ。
なにもいらない、とそう思った。
もう、このまま、ここに縛りつけられていたいと願った。
ずっと幼い頃から心の片隅に開いていた閉じようのない隙間を、そっとそのひとは塞いでくれた。
種族を違えていても、その傍らで生きたいと心の底から思えるほど──その生き方にラッテガルトは魅かれてしまった。
だから、せめて、ふさわしい存在でありたいと思った。
隣に並んだとき、あのひとが誇りに思えるような存在でありたいと願った。
それは──ずっと幼い頃から聞かされ、躾けられてきた真騎士の乙女としての──理想を追求することにもつながるのだと思った。
いつか、母たちの眼前に立っときなんら恥じるところのない、いや、それどころか誇りを持って胸を張り、自分の生き方を主張するためにも。
わたしは、気高く、清らかで──愛に応えるのは、この男にだけでなければならない。
母たちの掲げた理想を越える。そんな愛のカタチでなければならない。
涼やかで芳しい薫りの風のなか、清潔なシーツと陽光にくるまれて愛されることは、至上の喜びだ。
ラッテガルトは全身全霊でその求めに応じる。
ただ、ときどき胸の不安を煽るように、遠雷が聞こえる。
ずっと遠いあの鋭く尖った峰々のあたりだ。
雷轟、そして稲光、真っ赤に燃え立つ炎。その光景を見ると、ずくずくと胸の奥が脈打って痛む。
見てはいけない、とあのひとの掌が優しく目隠ししてくれて、ラッテガルトを痛みから遠ざけてくれる。
はい、と従順に頷くと、官能が高まることをラッテガルトは憶えてしまった。
ごうらん、とひときわ大きく稲妻が轟いて、びくり、とラッテガルトは震えた。
その耳障りな音は、ラッテガルトの心の深い部分、触れられたくない傷に触れて、忌まわしい記憶を呼び覚まそうとするのだ。
聞こえないようにしてほしい、とラッテガルトは言う。
怯えないですむように、頭のなかが真っ白になってしまうまで愛して欲しい──そう懇願する。
だが、いつもなら、その《ねがい》に応じてくれるはずのあのひとは答えない。
気がつくと、ラッテガルトはその温もりが失われ、シーツを引き剥がされ、ひとりで裸身で取り残されたことに気がつく。
そして、目が、見えない。目隠し。手足には枷。動けない。
ひとりにしないで。
思わずあのひとを呼ぶ。これが《夢》なら醒めて欲しい。あのしあわせの場所に戻して欲しい。
その《ねがい》に応えるように、荒々しく枷が引きちぎられ──目隠しを奪い取られた。
そして、ラッテガルトは現実に放り出された。
喉を焼く熱い大気、地獄の底かというような光景を観衆が取り囲み、怯えた犬のように目を剥き出し声を殺してこちらを見ている。
ラッテガルトを抱くのは、血にまみれ大きく背中に傷を負い、指の幾本かがちぎれかけるほど歪んだあのひと──イズマ。
相対するのは──同じく土蜘蛛の王:カルカサス。異形、異相の佇まい。
そして、ラッテガルトは己の姿に、無意識に絶叫している。
ドレスのようになびくそのヒダは、すべて彼女の感覚器。
官能を貪るためのそれにすげ替えられていた。
内側を開けば、頭足類のように発達した器官の心奥で際限なく欲望が脈打つのがわかる。
それはあの遠雷の轟きが呼び起こす悪夢──いや、現実の光景だった。
この忌まわしき所業を施した“狂える老博士”:イダはその所業の一切を、実例を示しながらラッテガルトに解説した。
文字通り、身体でわかるまで。
それから、あの《夢》のなかに落としたのだ。
ラッテガルトのなかで、すべての事象が一瞬にして結びつき、理解に、そして拒絶反応となって現れた。
「ああ、あああ、ああああああ、あああああああああああああああああああああああ」
頭蓋を両手で挟み込み、ラッテガルトは絶叫している。
己が何者になってしまったのか。
己がどうされてしまったのか。
そして、たったいままで、己が愛する男だと思い込んで、なにに奉仕していたのか──。
裏切りの自覚、背徳の自覚、絶望の自覚。
それが土石流のようにラッテガルトの理性を打ち壊しながら流れ込んできた。
気づかうようにイズマが視線を向け、ラッテガルトの名を呼んだ。
「ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう」
その優しい視線と、呼び方がいっそうラッテガルトを追いつめた。
あまりにもうしわけなく、あわせる顔がなくて、ラッテガルトは両手でイズマから逃れようとする。
それなのに、下半身はまるで飢えた頭足類が相手を取り込むかのようにイズマに張り付き、ふしだらにヒダの下の触手を這わせ愛を貪ろうとする。
イズマの左腕を心奥が銜え込み、はしたなくしゃぶるのをラッテガルトは止められない。
逃げることもできず恥じ入って、ラッテガルトは消え去りたいと《ねがい》を抱く。
それに反応するように、異能が発動した。
最後の罠:《エナジー・ドレイン》──相手の精を吸い尽くす邪法。
エネルギーバイパスの違いが、どのような結果をもたらすのか。
ラッテガルトは、エルマとイズマのやりとりで、それを知っている。
※
「だめだ、ラッテ──吸精はいけない、出力が、エネルギーバイパスの太さが違いすぎるんだ──キミが、壊れてしまう!」
切迫した声でイズマが言った。
「だから言ったのだ。死なせてやれ、イズマガルム。その娘の体内は次元のねじれによって繋がれた巨大な《スピンドル》反応炉と直結している。わたしのこの〈グルシャ・イーラ〉に《ねがい》のエネルギーを供給するためのものだ。
貴様とわたしに《ヴァルキリーズ・パクト》を介して《ちから》を与え続けていたその娘の肉体は、いまや枯渇の極みにある。肉体がその生存のために強制的に《スピンドルエネルギー》を吸収しようとしているのだ。それも、劇的に急激に。
もはや〈傀儡針〉も効かんぞ! その娘の絶望が貴様から吸い上げた《ちから》を炸薬に、やがて臨界で爆発する。
そうすれば、その爆発を発火プラグとして仮死状態だった反応炉に火が入る──いかなる《ねがい》をも叶える《門》:この世界の裏側に死蔵された遺産。“神”から吸い上げたエネルギーが絶望によって着火され、我々の新たな“神”の誕生のための導きの光となるのだ」
「カルカサスッ! それは──」
「この世にオーバーロードを生み出す理だ、とそう言うのだろう、イズマガルム。いいや、違う。わたしはそれらを一足飛びに飛び越えて行くのだ。知っているか、《御方》のことを! この世をだれがいまのカタチにしたもうたかを!」
カルカサスの口から迸り出た言葉に、イズマは目を剥いた。
「なぜ……それを」
「知らいでか。我らが地の底を何十年も這いつくばりながら歩んだのはなんのためか。不本意にも“狂える老博士”どもと手を結びながら、その実、やつらに依存するばかりでいたとでも思うか?
我らは独自にその秘跡を探り当てた。そう、かの国、失われし帝国:ウルを支えた秘密を──な!
そして、仮死状態で保存された《門》のひとつへと辿り着いた。我が肉体を成す:〈グルシャ・イーラ〉は〈グリード・ゲート〉であるだけではない。
そもそもが、その反応炉の外部出力器なのだ。中継器──奇跡を、この世に顕現するための」
この《疑似スピンドル回路》:〈グリード・ゲート〉は、その下部機関──土蜘蛛という種族をさらなる上位種へと導くための、きざはしに過ぎない。
その材料を“狂える老博士”どもに提供したのは、このわたしだ。
やつらはそれを埋め込むための技術者であるというだけだ。
自嘲して言うカルに、いけない、とイズマは叫ぶ。
「カル、それは心得違いだ。キミたちは蛇蝎と手を切ろうとして、悪魔と契約しようとしているんだ。ボクらの國は、そのせいでこの世界から消えてしまったんだぞ? 国ごと、そこに生きた人々ごと。だいたい、キミたちが自力で辿り着いたと思っているその場所だって──“狂える老博士”どもの手引きだと、どうして言いきれない? やつらは、《御方》の──ッ」
ぐうううっ、とイズマが胸を抑え片膝をついた。
左腕はねじり上げられるように吊り上がり、そこにラッテガルトの肉体が絡みついている。
内側から発光する《スピンドル導体》が見える。
ほとんど恐慌状態に陥ったラッテガルトはイズマから己の肉体を引き剥がそうと、ヒダを引っ張るが、わずかに触れただけでも電流のように感じて余計に心乱されるだけだ。
「殺して、イズマ──お願いだ、死なせてくれッ」
悲痛なラッテの叫びがイズマを責める。
イズマはいまや三つの呪いに縛されていた。
ひとつはラッテガルトの肉体が起こす《エナジー・ドレイン》。
ひとつはその身にかけられた《御方》の呪い。
そして、最後のひとつはこの状況を覆すための方法に踏み切ることができないという呪い。
苦悶するイズマの眼前でカル:〈グルシャ・イーラ〉の背面が展開し、光背のように構造体が姿を現した。
おそらくそれはいましがたカルの語った《門》から溜め込まれた《ねがい》を受け取るための器官だ。
これこそが、カルの策、イズマ、そして〈イビサス〉をも喰らってみせると断言したカルカサスの謀略。
その最終形態だった。
「どうした、古代の王。いかんというのなら──実力で止めてみろ」
トドメを刺すつもりなら、この瞬間、カルにはあるいはそれができたのかもしれなかった。
だが、そうしなかった。
それは慢心から来たものではなく、己の仕上げた謀のその揚げ句を見守ろうとする態度。
そして、もうひとつにはこの苦境を覆しえるものであるのなら、それを見てみたいとカルが無意識にも望んでいた現れ。
カルという男は、どうしようもなく土蜘蛛であったのだ。
異邦人であるイズマに“神”を奪われて後、不名誉の王としての誹りを受けながら各地を放浪したカルには、王としての重責について胸襟を開いて話すことのできる存在が、ついに現れなかった。
実働隊長としてのダジュラはいたが、主に戦を担当し政にはほとんど口を出さなかった男である。
本来はその補佐役を務めるふたりの姫巫女は──カルにとって懲罰の対象と成り果てていた。
いまや、三重苦の呪いに捕らわれ苦しむイズマの姿は、これまで棟梁としての重責と血統の誇り、屈辱と不名誉と憎悪にがんじがらめに縛られ続けてきたカル自身の姿、その投影だった。
「ならば、あのとき、貴様ならどうしたというのだ」
その問いを、カルは言葉によらず突きつけていたのだ。
「どうした、イズマガルム──もう猶予がないぞ」
ますます光量を増す体内のエネルギーラインに、ラッテガルトが長く尾を引く声をあげる。
全身に流れ込んでくるイズマの強大で過剰なエネルギーが神経伝達の限界を振り切るほどの官能を与えるのだ。
自制することも自刃することもままならず、真っ白な喉を弓のようにのけ反らせ、泣きながら懇願することしかできない。
「殺して、殺してください」
たしかに、それが唯一無二の解決策ではあったのだ。
カルはその可能性に気がつかなかったわけではない。
むしろ、この策を組み上げるとき、その可能性を、唯一の希望を軸とした。
絶望を極めるには、まず希望を明示することがなによりも重要であることを、カルはその身を持って知っていたのだ。
そして、もし、イズマがその希望を選び取ったならば──それはその精神に消すことなどできない傷を与えることとなる。
イズマがかつての己と同じように屈辱と憤怒、そして憎悪にまみれながら堕ちるところをカルは見たいと願っていたのだ。
ラッテガルトの死を選べなければ、完全体となったカルは〈イビサス〉を上回る存在として降臨する。
ラッテガルトの死を選んだとしても、イズマガルムの心に消えぬ傷を刻むことができる。
それは心を踏み折るほどのものだ。
踏み折られた心は《意志》の《ちから》──《スピンドル》の安定を損なう。
それは勝機に繋がる。
カルにとって、この策はいずれに転んだとて損のないものであるはずだった。
けれども──この現状では、イズマは選べないだろう、とそう結論した。
このイズマガルムという男は、深く個人を愛しすぎる。
それは王という孤独・孤高に身を置かねばならぬものとしては致命的な弱点だ。
ひときわラッテガルトの声が高まり、佳境を知らせる。
光が集約し、世界が金色に染まる。
「臨界だ──」
カルがそう言い終える──直前だった。
ごぶり、とラッテガルトの喉から真っ赤な血が噴いた。
それから、撓められていたエネルギーがはぜ、光の奔流となって周囲を打ち据え、洗い流す。
カルは肌を焼くエネルギー奔流を〈ハリ・ハラル〉で受け止めながら、その金色と漆黒に明滅する世界のなかで見た。
獰悪なカタチに変形したイズマの左腕が、ラッテガルトの純白の胸乳を食い破り、その内側から心臓を貪りながら姿を現したのを。
凄惨な笑みが思わず口元に浮かぶのを、カルは止められなかった。
どうだ、と。
わたしが味わった屈辱と憤怒と憎悪の味は、と。
貴様もやはり同じ穴のムジナだったではないか。
口先ではどれほど偉そうなことをほざいても、結局、己の敵がより強大な《ちから》を得ることを妨害するためには、愛するものの命すら踏みにじるのではないか、と。
これで、これで、やっとわたしたちは同等だ。
臨界は来ず、すなわち《門》:〈バラン・シン〉は発動せず、つまり来るべき跳躍へのきざはしは現れず、高みへの道へは遠のいたが──奇妙な充実感がカルにはあった。
そういう喜悦が、胸中に間欠泉のように沸いた。
唯一無二の友を、真の理解者を得た気がした。
堕ちた者として。
こうなって欲しかった、という《ねがい》が自身の内にあったことをカルはこのとき、ようやく自覚したのだ。
がぶ、ごぶ、と己の血に溺れるラッテガルトの姿を、その腕に見るイズマの表情は、しかし、対照的な静けさに彩られていた。
言葉はなかった。
かわりにイズマは強力な異能を行使する。
──《次元門》。
それは己の配下に置いた召喚獣を呼び出すため異相空間との通路をこじ開ける能力である。
だが、イズマはなにかを呼び出そうというのではなかった。
ラッテガルトの亡骸をその穴に放り込んだのだ。
両手を打ち合わせて捻ると《次元門》は巨大な竜が顎門を閉じるように、がしゅり、と音を立てて閉じた。
それらを終え、カルに向き直ったイズマの瞳には、凍りつくような静寂があった。
深い虚無の色。
奈落の。
「折れたか、心が」
カルの問いかけに、イズマは静かな声で応じた。
「オマエは大きな心得違いをしている──ラッテガルトに仕掛けた策は、オマエの《意志》で操作できるものにすべきだった」と。
オレにはもう、折れるほど大きな心の破片は残っていない。
粉々に砕かれた心の残滓。
それを詰め込まれたがらんどうの器。
それがオレだ。
ラッテガルトや、エレやエルマ──関わってくれたひとびとの《ねがい》が、いまようやくオレを動かしているに過ぎない。
だから、折れることはない。
そして、オマエはいま、そこに関わってきた《ねがい》をひとり分、消し去り、入れ替わりにオマエの《ねがい》を差し込んだ。
ゆえに、オレは、オマエのためにその《ちから》を振るおう。
おまえが開いた《御方》とのチャンネルを、オマエと繋がったラッテガルトが開いたのだ。
オマエの真の《ねがい》を叶えるためだけの装置に、いま、このいっとき、オレはなろう。
その声はイズマの唇からではなく、その背に穿たれたままの傷痕から響いてくるようにカルには感じられた。
カルはイズマの背後に、その傷口から吹き出した光の粒が光輪をカタチ造るのを見る。
それはまるで曼荼羅のように輝いて──。
「これが──オマエたちが、真に対峙すべきだった敵の姿だ」
その光背が収まったとき、立ちすくむカルの肉体には、もうカルという人格は一片たりとて残されていなかった。
手を触れることさえなく、ましてや超破壊能力を行使したわけでもなく。
イズマはカルの精神だけを、完全に完膚無きまでに破壊したのだ。
「もう、オマエの心がこちら側に帰ってくることはない。決して、ない。これが《救済のちから》──」
つぶやくイズマの口調には、どうしようもない、がらんどうがあった。
これこそが、この界においてイズマだけが扱える異能:《ムーンシャイン・フェイヴァー》の最終形態。
カルという個体を制御する心を《そうするちから》によって破壊する禁呪。
すなわち、《偽神》たる《御方》を滅するため、その《ちから》を逆流させる所業。




