■第四十三夜:ふたりの王
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おおおおおん、と深淵から吹き上がる風が巨獣の咆哮のように大気を震わせる。
土蜘蛛の暗視・遠視の能力を持ってしても見通すことのできぬ果てなき闇が、そこにはわだかまっている。
土蜘蛛の氏族:ベッサリオンの民が〈無貌の淵〉と、その穴を呼ぶには理由がある。
古文書を紐解く限り──すくなくともベッサリオンの血統がこの地に社を構えてより、底を覗いて帰ってきた者が存在しない不帰の穴だからだ。
幾人もの王が、王位を王子に譲った後、その穴の果てを見いだそうと遠征を行った。
けれども、ひとりとして帰ってきたものはいなかった。
覗き込んでも覗き込んでも、己の顔を映すことのできぬ鏡のようなものだ。
また、それゆえにか、この巨大な穴の直上は古来より、戴冠の大祭、その舞台とされた。
王の血を、地に流すことは許されない。
王は死ぬのではなく深淵に消え去らねばならない。
そんなしきたりを後付けで生み出すほどに、決着を着けるという意味でこれほど最適な舞台はなかった。
もっとも、ここ二百年で、王位を譲る側の老王であれ、挑む側の王子であれ、この淵に呑まれたものはいない。
形式、形骸としての模擬戦が、そして遠征の記憶・伝承が残るばかり。
土蜘蛛たちの血統をして、強力な《スピンドル能力者》が輩出されにくくなっているという証拠でも、それはあったかもしれない。
その大穴に数十年ぶりで足場が渡される。
磨き抜かれた漆も見事な渡し木が、格子状の舞台を形作る。
朱塗りと黒塗りの二色にそれは塗り分けられている。
すべてが樹齢数百年を超えた巨木・霊木ばかりであり、土蜘蛛たちの価値観に従えば、この舞台の材だけで王国ひとつが賄えると言われるほどのものだ。
カルカサス指導下の流浪時代にあってさえそれを手放さなかったことからも、暗殺教団:シビリ・シュメリを成すベッサリオンの民が、己の血統・伝統にいかほどの誇りを抱いているのか、わかるというものであろう。
普段は保存のために取り払われている舞台が、急ぎ組み立てられた。
篝火と陣幕とで飾り付けられた舞台に、ふたりの巫女が進み出てくる。
純白の巫女服に緋袴、烏帽子。
黄金の神楽鈴と扇をたずさえ、しずしずとその不安定な足場を進んでゆくのは荒神:〈イビサス〉の姫巫女──エレとエルマではないか。
イズマは、姫巫女にしてエルマの姉:エレを、その手に奪還したことを公表しなかった。
一方でカルカサスもその事実を公表し、イズマの所業を決戦前の騙し討ちだと非難することもなかった。
土蜘蛛社会では出し抜いた側を戦巧者・戦上手と称賛することはあっても、騙し討ちだと騒ぐ側に同情することなどありえなかったからだ。
むしろそれは、己の間抜けさ加減を世に吹聴して廻ることだと考えられていた。
種族としての常識の話だ。
逆にいえば、エルマがイズマに向ける絶対の忠誠・献身が、土蜘蛛の社会においてどれほど尊く得難いものであるかは、理解にたやすいだろう。
他者の上に君臨するには否応なく《ちから》が求められる社会である、ということだ。
武においても、智においても、為政者の技術と資質に──たとえばそれは残酷さも含む──劣ったものを土蜘蛛たちは決して上位者と認めない。
王として戴かない。
それを公然と示す場が、すなわち戴冠の大祭であったのだ。
城の結界が切れる境界ギリギリまで、イズマは己の意識を宿らせた人形を遣い、エルマとエレを迎えに来ていた。
すでに周囲に発散する強大な気を抑えることをやめた〈イビサス〉ボディのまま、イズマが本陣を離れれば、これはとうてい隠身など望むべくもない。
いわゆる、からくり傀儡=《スピンドル》による有線結合で操ることのできるこの人形たちは、遠隔操作の宿命で反応が1拍遅れるうえ、《フォーカス》でないから一度異能を使えば導線となって焼き切れてしまうが、それでも敵情偵察や遠距離での情報交換などには重宝される。
それをイズマは、ここに伏せておいた。
ベッサリオンの氏族には優秀な索敵能力者:〈僻目〉と〈僻耳〉がおり、これらの監視を欺きながら、かつ、単独潜入と虜囚を連れての脱出という難しいミッションを成功に導くため、これがイズマにできる最大限のバックアップだった。
結界を抜け出たところで人形に持たせた次元潜航能力のための羽衣を触媒に使い、姫巫女たちは安全にイズマの元へと帰還したのだ。
これは次元境界面を水面とみなして潜航可能にする技だが、転移系の能力ではないので、いまだその肌に拘束の刻印を受けたままのエレがカラム宮に引き戻されることもない。
だが、再会を悦ぶイズマとエルマの足元に第一にエレが身を投げ出して懇願したことは、まず真騎士の乙女:ラッテガルトの救出であった。
身代わりとなっておぞましい改変施術の検体となった彼女を、助けてくださいと嘆願した。
直前まで監禁されていたエレは、ラッテガルトの現在を知らなかったのである。
「おねがい、おねがいでございます。どうか、どうかあの方を、誇り高きあの方をお救いくださいまし!」
「もちろんだ。キミを救い出したいま、ボクちんの闘う理由はそれだけだヨ」
そうイズマに固く約束されて初めて、エレは我に返ったかのように地面にひれ伏し、これまでの非礼を詫びた。
無理もない。
エルマと違い、カテル島のあの日以来、再会は一週間以上ぶり、そしてエレは誤解を解くまでイズマの命を狙い続けた暗殺者だったのである。
実際にすんでのところまでイズマとその仲間たちを窮地に陥れた。
イズマの現在ここに至るまでの窮地は、おおかたエレにその責任があるといっても過言ではなかったからだ。
気を抜けば倒れてしまいそうな疲労と消耗の極みにあったはずだ。
けれども、それを支えたのは元とはいえ姫巫女の矜持であった。
「どうぞ、首を、首をお刎ねになってください。恥知らずの、恩知らずのエレの首ひとつで贖える罪とは思っておりません。ですが、ですがもう、わたくしには、イズマさまに他に差しあげられるものがないのです。どうか、どうか、わたくしの首ひとつで、お収めください──民は、無辜でございます」
だが、そんなエレを抱き起こすとイズマは言ったのだ。
無数の理不尽な欲望に汚されたエレを抱きしめて。
「謝るのはボクのほうだ。ごめんよ。待たせた。不安にさせた。でも──ボクは還ってきた」
そして、ボクはもう、ここにいる。
わかるかい、とイズマは問うた。
はい、とエレは震えて言った。
その意味するところを理解して。
君臨する、というメッセージを間違いなく受け止めて。
「お仕えさせて、いただいてもよいのですか?」
エレにしてみれば、イズマが命がけで救出に来てくれたことだけで望外のことだったのだ。
いまふたたび、こうしてそのかたわらに侍ることなど、脳裏にすらなかったことなのだ。
ましてや、愛を受けるなどと。
「いま、ボクちん、すっごい独占欲が強くなってるから、どうなってもしらないよん?」
「すごく、すごくうれしいです。身も心も、骨の髄まで──占有されたいです」
わーお、とイズマがおどけてみせる。
エレの頬を伝うのは涙だ。
「そんなにされたいなら、死んでも操ってあげる。エレもエルマ──ボクちんが消えてなくなるとき、一緒に逝くようにしちゃおうか?」
にへら、とスケベなにやけ顔で提案したイズマの顔面に、鉄拳がめり込んだのはそのときだ。
「エ、エレ姉さま?!」
ぶべらっ、と言葉にならないサウンドを発したたらを踏んだイズマが顔をのけ反らせる。
そこに腰の入った一撃を見舞ったエレが、どんっ、と体を浴びせる。
さすがに〈イビサス〉の肉体だから、倒れはしなかったが絶妙のタイミングで間合いに入る技は、熟練の凶手のもの。
呪術を得意とするエルマに対し、体術を極めた暗殺者であるエレの妙技だ。
「まさか──暗示による精神操作?!」
ベッサリオンの一族きっての呪術専門家であるエルマが青ざめたのも無理はない。
兄:カルカサスの罠が最後の最後、こんなところに仕掛けられていたなどと、どうしてよそうできるだろうか。
だが、たしかに、罠として用いるならばこれ以上ないほどに完璧なシチュエーションであった。
完全にカルの裏をかいたと確信しての潜入救出行。
それが成功したと思わせ、安堵させてからの奇襲。
完璧すぎる読みと、容赦ない指し手。
エルマの背筋を寒気が走り抜けた瞬間だった。
ぽかり、と子供のようなグー握りの拳が、イズマの胸板を打ったのは。
ぽかり、ぽかり、とエレが両手を振ったのは。
どうして、どうして、と泣きながら訴えたのは。
「どうして、最初からそうしてくださらなかったのですか! エレは、エレは、ずっとずっとそうしてほしかったのに! どうして最初から全部、奪って、さらっては……くださらなかったのですか!」
ぽかん、と妹であるエルマさえあっけにとられて口を開けずにはいられないほど純粋な恋慕の吐露に、イズマはたじたじだ。
にやけ面にめり込んだ鉄拳のせいで風刺画みたいな相貌になった直後に、この血を吐くような告白だ。
いくら荒神:〈イビサス〉の肉体、その防護と加護があろうと鼻血くらい、出る。顔面がマヌケになるのも不可避だ。
それほどのパワーが乙女心にはあるのである。
これはワールズエンデにおける世界法則的な真実であるから充分な注意が必要だ。
対処がわからず呆然としているのは、妹:エルマも同じである。
なるほど、たしかに自分の姉であるエレヒメラという女性は、冷酷さ、怜悧な思考、そして激発したときに見せる恐るべき憤怒の裏側に、このように妹であるエルマであっても当てられて頬を上気させてしまうような乙女の部分を同居させるヒトだったなあ、と思い出させたものだ。
こんな真心をぶつけられて、動揺しない男はいない。
イズマとしてはあきれて欲しかったのだろう。
独占欲丸出しの、おバカな男の願望丸出し、ナルシズムの極みで冷めて欲しかったのだろう。
こんな男についていってはいけない、と。
なにが死んでも操るだ、バカじゃないのか、と。
なにが死ぬときはいっしょにだ、あほうもたいがいにしろ、と。
それなのに、エレとエルマの姉妹に取りすがられて悦ばれてしまった。
なるほど女心は男にはとうてい計り知れない。
かなうわけがない、とイズマは苦笑する。
困り果てるイズマと、歓喜で涙を止められない美人姉妹ふたり。
変わった絵図だったが、明日も知れぬ戦いに身をおく者たちの生き方にあって、世間様の定める規範など、破るためにある横紙のようなものなのかもしれなかった。
しあわせの定義は、他人がどうのこうのと口を挟めるものでも、挟んでよいものでもない、ということだろう。
「まいったなー。どーなってもしらないよ?」
「めちゃくちゃにしてください。手酷く、容赦なく──徹底的に」
そんなことを言われて、イズマがエレを大事にしないわけがないのだ。
もちろん、エレが強奪されたことをシビリ・シュメリの教主にして棟梁:カルカサスは二重に知ることになる。
ひとつは自身の仕掛けた警報と、続く巣の炎上で。
もうひとつは、イズマの陣幕からの演奏が二重奏になったことで。
イズマたちの策略は、この時点では暗殺教団:シビリ・シュメリの棟梁:カルカサスのそれを、すこしだけ上回っていた。
カルはこのとき、イズマの計略の手の長さ、踏み折っても踏み折っても巻き返してくるタフネスに恐れを抱いただろうか?
それとも憤怒に臓を煮やしただろうか?
その心中を推し量ることはできない。
身にまとう最終形態:〈グルシャ・イーラ〉の調整を待つカルは、その場を動けなかったからだ。
ただ、確実にラッテガルトの琴線に加えられる運指が、狂的な色を帯びていくのだけはやめられない。




