■第三十六夜:祖国への侵攻(1)
暗殺教団:シビリ・シュメリの棟梁:カルカサスに囚われた姫巫女:エレヒメラと真騎士の乙女:ラッテガルトを救出すべく、抜け道を探り当てたイズマたちは一路、教団の本拠地であるカラム宮へと急ぎ向かう。
だが、その道程には幾多の罠とともに、〈グリード・ゲート〉を施術によって埋め込まれた兵たちが伏せていたのである。
「おどきなさいッ! わたくしは、エルマメイム・シュメリ・ベッサリオン──かつて我が“神”であった〈イビサス〉の姫巫女にして、いまや我が主:イズマガルムさまの御使いである。そなたら、ベッサリオンの民はわたくしにとっての同胞。傷つけたくない。武器を捨て、我に恭順せよ!」
エルマが朗々たる声で呼びかける。
元姫巫女であるエルマは当然のように声楽にも通じており、どうすればヒトの心に言葉が届くものかを心得ている。
けれども、そのピンと伸びた背筋を支えているものは、疲労困憊の肉体をがちがちに締め上げる腰帯であり、ほとんど気力だけなのだとイズマにはわかっている。
無数の罠と結界に守られた抜け穴を、イズマは的確に見抜いた。
ラッテガルトの脚にはめられた荒神:〈イビサス〉のアンクレットがその軌跡を残してくれていたこと、また、地衣類で覆われた地面に残された奇妙な足跡と粘液をトラッキングし、その一致によって進むべきルートを割り出していた。
残された痕跡は途切れ途切れで、おそらく敵は短距離型の転移や物質透過を駆使しているのだろうと推察される。
抜け道内部の位置座標と罠と結界がどこにどのように配置されているのか、そのすべてを把握していなければ不可能な芸当だ。
その知識のないイズマとエルマは曲がりくねった抜け道を地道に踏破していく他ない。
抜け道には罠が満載されていた。
足を踏み入れた途端地面から跳ね上がる地雷。
結界と思わせておいて調べると起動する猛毒のシンボル。
断崖絶壁に仕掛けてあり、使用中の移動能力増補系異能をことごとく打ち消してしまう解呪系。
異能だけで防御できぬよう物理作用とミックスで配置された恐ろしい致死の罠を掻い潜り、指向選択性の結界を破り、これまでの倍以上の速度でイズマとエルマは侵攻する。
その行く手にシビリ・シュメリの暗殺者たちが立ちふさがりはじめたのは、侵攻開始から、すくなくとも十二時間以上経ってからだ。
罠と結界を解除し終えたあとの、短い休息時間を狙われた。
通常レベルの疲労であれば、脚長羊の体毛には素晴らしい回復効果があり、それにくるまって眠るだけで問題なく回復してしまう。
だが、強力な異能を次々と行使する《スピンドルエネルギー》の消耗は、戦場での全開戦闘に似ている。
それがどれほどに苛烈で肉体を痛めつけるか、そして、その回復にどれほどの時間を要するかは言うまでもない。
試しに四百メルテほど全速力で走ってみるといい。
おそらく、普段からよほど鍛えていないかぎり、半分行かぬうちにひどい体験をすることになる。
手足が鉛のように重く、太股が引きひきつれるように痛み、咳き込んで、酸素欠乏から来る視野狭窄を実体験することができる。
そして、一週間以上に渡る強烈な筋肉痛を被るだろう。
限界に近い負荷を《意志のちから》で連続的に強いつづけること。
それが《スピンドル》だ。
その回復には充分な休息と肉体の建材である食料・飲料水の補給は当然として、疲弊した精神をトリートメントしてくれる癒し……効果的な例をあげれば、大切な人々との語らいや、芸術、娯楽の観賞が必要だった。
ケアを怠れば過労から気を失ったり、最悪心臓マヒで死に至ることさえある。
エルマはここまで、疲労はともかく、肉体が苦痛から上げる悲鳴を〈イビサス〉の神気、つまり、イズマの肉体から放たれる寵愛の呪いで騙し騙し強行軍を続けてきたのだ。
気を失いそのまま小一時間ほど眠ったあとだった。
鋭い殺気に目を見開いた瞬間。
びょう、と黒塗りの太矢、そのたっぷりと出血毒を塗られた鏃が眼前で停止していた。
イズマが広げた異能の網:《バインド・ネット》が高速で飛来する暗殺者の攻撃を掴み取ったのだ。
あっという間に、流された《スピンドル》エネルギーの伝達で矢は塵に還る。
エルマの意識がそれを認識するよりも速く、全身から冷や汗が噴き出していた。
血流に乗って移動し先々で血管組織を直接破壊する出血毒は、神経伝達を疎外し呼吸困難を引き起こす神経毒に比べ致死性こそ低いものの、傷口付近から血管組織を着実に破壊していくため、ひどい後遺症を残しやすい。
手足なら壊死した箇所を切断しなければならなくなる。
また、その過程で激しい苦痛をもたらす。
そうやって敵を弱らせ確実に仕留めるのが土蜘蛛の戦い方だ。
あっ、と思うまもなく、通路の奥から真っ黒な驟雨を思わせる石弓の一斉射撃が始まった。
「エルマ──眠っていてもいいよ。キミには指一本ふれささないし、毛の先ほども傷を負わせやしない」
イズマは、あっというまにエルマの周囲に《バインド・ネット》の防御壁を張り巡らせると、剣呑すぎる毒矢の豪雨をなぎ払った。
空間に真っ青な火線が走り、矢はイズマたちに到達する前に鏃まで燃え尽きる。
「そんなに死にたいなら、平らげてやる」
射掛けられた矢の本数からして五十名はくだらないだろう敵勢力に対し、イズマはそう宣言した。
もちろん、全滅させる気なら、とうのむかしにそうしている。
命を懸けた戦場で、わざわざ敵に自らの意図を知らせてやるバカはいない。
つまり、イズマの振る舞いは威嚇であり、警告だったのだ。
返礼は、再びの一斉射であった。
「命の貴さがわからんヤツは、死んでもしょうがないねえ」
珍しくイズマの口調にあきらかな険があった。
目に凶暴な光がある。
本気で怒っているのだ。
「イズマさま」
両手を広げ青い炎を収束しはじめたイズマの背中にエルマが声を投げ掛けた。
緩めていた帯を固く締め直し、身繕いをしながらのそれは懇願であった。
「どうか、どうか、民には手心を。お慈悲を。みな、命令されているだけです」
自らが殺されかけたにも関わらず、エルマがベッサリオンの民を案じて言った。
「責は──すべて指導者、支配者層のもの。わたくしを含め、民の頭上に君臨した者たちが取るべきこと。せめて、説得をお許しください」
頭を地面に擦り付け、イズマの足元にひれ伏すエルマに、イズマは振り返ろうともしなかった。
いつもひょうひょうと、おかしなことばかり吹聴しているイズマであるだけに、本当に怒りに火がついたときの恐ろしさは格別だった。
その背中からは鬼気迫る圧力だけが吹きつけてくる。
「お願いでございます。無理を承知の、都合の良い、手前本位のお願いであることは、わかっております。ですが、どうか、どうかお願いいたします。
陣頭に棟梁:カルカサスがおらぬなら、おそらく、ほとんどの兵が戦略的な意図で抗戦しておるのではありません。
実動部隊の長であるダジュラを失った恐慌から、各部隊の司令官が戦術的な見地からのみ、そして、カルカサスが掲げた理想への渇仰ゆえに武器を手にしておるのでございます」
説得を、いまいちどの説得をお許しください。
涙声で嘆願する。
「お怒り、お叱りは、後でこのエルマが、エレとともにご奉仕にてお受けいたします。どのような要求、お求めにも無限に永劫に命尽きるまでお応えいたします。ですから、ですから──」
エルマの懇願に、無言で聞き入っていたイズマの眼前から、いままさに放出されようとしていた炎がかき消えた。
はっ、と面を上げたエルマが見たのは相変わらずの背中であり降ってきた言葉は憤怒を含んでいたが、しかし、殺意は失せていた。
「じゃあ……予定を変更して撫でてやろう。たしかに、抜け道の座標を聞き出すのに、殺してからじゃ手間がかかりすぎるものね」
言い放ち、ゆっくりとイズマが前進を始めた。
矢が無駄だと悟ったのか、抜刀した数名が切り込んでくる。
イズマの拳が、肘が、脚が、膝が、そして背中が、唸りを上げ、無手のまま土蜘蛛の戦士たちを打ち倒していく。
恐るべき体術の冴え。
鞭のようにしなる蹴りと、とらえどころのない流れるような足運び。
円環の動きから打突へ、それが即座に投げ技へ。
振り上げられた手首が相手のみぞおちを強打し、肘撃ちの裏側に仕掛けられた脚が相手を仰向けに転ばせる。
固い岩盤に叩きつけられれば、投げ技の破壊力は他のいかなる打撃技をも簡単に凌駕する。
砂地や整えられた道場でのお稽古とは、次元が違う話だ。
全体重と位置エネルギーが打撃として転化・作用すると考えれば、これは当然だ。
鍛えられた戦士たちとはいえ、全身打撲、骨折、気絶は免れない。
エルマはそれでも、そこにイズマの底なしの優しさを見いだしてしまう。
聞き入れてくださった──やはり、この方こそ、我らの王にふさわしき方だと確信する。
だからこそ、泣いている場合ではない。
きっちりと帯を締め上げ、ふらつく身体を脚長羊にもたせかけると、ムームーは乗りやすいように身体を傾けてくれた。
「ありがとう」
十人以上の敵を相手取り戦うイズマへの感謝も込めて、エルマは礼を言った。
それから、鞍上に自らを括りつけ、恭順・降伏を勧告したのだ。
その呼びかけには一定以上の効果があった。
さすがにいきなり武器を手放す者まではいなかったが、やがて攻め手の攻撃がひとり、ふたり、と減り、やがて完全に止んだ。
がらん、と最初に武器から手を離したのはだれであったか。
恐らくは毒などの攻撃を想定してであろう、口元を面頬で隠しているせいで表情こそうかがえないが、掌を示しながらひとりが、イズマに敵意がないことを示した。
イズマは他の連中にも、うながすように視界を巡らせた。
その瞬間だった。
恭順を示したはずのひとりが、イズマに組み付いてきた。
イズマはとっさのことに相手を振り払えない。
ほとんど間をおかず、さらにふたりが組み付いた。
ひとりの額を肘で割り、振り払ったものの、残るふたりはイズマから離れようとはしない。
嫌な予感がした。




