■第十六夜:理想の果てに(2)
※
意識が覚醒と混濁とを繰り返した。
生きているのか死んでいるのかわからないまま、〈デクストラス〉の切っ先に穿たれたアシュレは真っ白なシーツの海にたゆたう。
かたわらに女がいた。
よく知っている女だったが、だれであるか思い出せなかった。
従順で献身的でたおやかな娘だった。
懐かしい香りがしてアシュレは顔を埋める。
アシュレを王と呼んだ。
呼ばれてみれば、たしかに、そうであったような気がした。
強いてください、と懇願された。組み敷いてください、と哀願された。《ねがい》を叶えてやれなければならないと感じた。
それが王の責務だった。
アシュレは応じた。
幾度も幾度も。恐いくらいよかった。
アシュレに射込まれるたび、娘は歓喜に泣いた。
名工の創り上げたヴィオラのように鳴いた。
アシュレは応じた。
なんども娘の《ねがい》に応じた。
そのたびに娘は隷属の誓いを立てた。
思うようになさってください。
歓喜の頂きで娘はすべてを許す誓いを立てた。
最後に意識が途切れる直前、アシュレは娘の名を問うた。
妻になってほしいと告白した。
応えてやらなければならない娘だと思った。
なぜか、涙を浮かべ、はかなげに笑って娘は答えなかった。
※
ユーニスは思い出している。
ずっとまえのことだ。
まだ、国境の村パロでのことだ。
アシュレと騎士たちが民主主義と革命について話をしていたときのことだ。
自由、という言葉が耳に飛び込んできた。
そのとき、給仕の手を止めユーニスは思わず質問してしまった。
自由とはなにか、と。
身分に関係なく、だれが、どんな職についてもよく、どんな場所に住んでもよく、だれと恋に落ちてもよいことだと彼らは説明した。
その後で、説明した後で狂気の沙汰だと頷き合った。
同調したふりをした。ありえないことだと追認するふりをした。
じっさい、それは狂気の沙汰だろう。
だが、本心は、違った。
窮屈すぎる世界の破滅を願っている自分を、そのとき自覚してしまった。
自由になりたかった。家も身分も全部捨てて、逃げたかった。
アシュレにそう持ちかけたかった。
いっしょに逃げてはくれないヒトだからこそ、そんな夢を見てしまった。
生まれ変わった世界で、別人になって生きたかった。
ささやかでいい。自由がほしかった。
無理だと諦めていた。
だが、この地の底で、その方法を思いついてしまった。
救い主を造ればよいのだ。
他に並びうるものなきふたつの《フォーカス》:〈パラグラム〉と〈デクストラス〉、そしてアシュレがいてくれればできる。
あとはわたしが生めばよい。孕めばよい。
救い主を。
救国の、救世の、主を。
「よきかな」と声がした。
「あとは、倒されるべき《悪》があればよい」
それは我が引き受けよう、とグランが言った。我が身が一身に。
※
人気の絶えた中央区画のドアが開く。
這いずるような音がして、血塗れの男が転がり込んでくる。
ナハトだった。
粉砕された左腕の傷は上腕にまで及び、肉が割け、骨が剥き出しになっていた。左の頬骨が削れ、歯が露出し怪物じみた形相となった男が地面を這う。〈キュドラク〉が左上腕部を絞めて止血していなければ、とっくに失血死しているほどの傷である。
ナハトは這いずった。
這いずりながら考えることは三つあった。
その三つがそれぞれが分け隔てなく混淆・混濁し、反応して雷光を飛ばす。
そのおかげでナハトは意識を保っていられた。
いや、すでに一種の狂気が彼を支配していると、それは表現すべきだったかもしれない。
ひとつは、憤怒。
己の腕を奪い、怪物のごとき形相におとしめたアシュレへの憎悪。
ひとつは、独占欲。
アルマステラへの。かつて自分が隷属させた女を再び組み敷く妄想。
ひとつは、野心。
強大な力を得、王として君臨した自分を思った。
だから、こんなところで死ぬはずがない。
そうナハトは狂信した。
狂信のままに〈パラグラム〉の祭壇に収まった。
やりかたはアルマの前例を観ていたから、わかっている。
どうやら、これは〈デクストラス〉を介して〈パラグラム〉に溜め込まれた《ねがい》を流入させる仕組みらしい。
そして、《ねがい》は《ちから》だから、使用者の望みを叶える奇跡を起こすのだ。
それにしたって、アルマには笑わせてもらった。
まさか、他者の救済がお望みだったとは。
つまらなさすぎて、笑わずにはいられなかった。
思い返すだけで腹筋が痙攣を起こす。
一番笑わせてもらったのは〈パラグラム〉を動作させるのに王家の血筋など不要だったということだ。
最初からアルマは用無しだったのだ。
傷の痛みにナハトは苦笑した。早くしないと笑い過ぎで死んでしまう。
「さっさとやってくれ」
はたして〈パラグラム〉は起動した。
面倒な手続きがないのは、じつにありがたい。
時間がないときは特にそうだ。
「不死身の偉大で強力な王、それがご所望だ。早く叶えてくれ。逝っちまいそうだ」
ナハトが言い終えるより早く〈デクストラス〉が反応した。
ナハトは背を反らして、打ち込まれた《ねがい》を味わう。
強大な力が無制限に流れ込んでくるのがわかる。
あっという間に出血が止まり、頬が再生した。
早くこうすればよかったぜ、とナハトは思った。
騎士の演技などと馴れぬ芝居のせいだ。
「すげえ、すげえぞ」
だが、それは再生というよりもっと別の現象であった。
変形というべきもの。
ナハトは異変に祭壇から転げ落ちる。
全身がかゆくて堪らない。
甲冑が肉体の再構築に取り込まれていた。
ありえない場所がばくり、と開きそれが口になった。何ヶ所も。
のぞいた骨が乱杭歯に作り直されていく。
握ったままだった魔剣:〈ニーズホグ〉が残った右腕と同化して新たな前腕となった。
「な、なんじゃこりゃああ」
転げ落ちた〈パラグラム〉の底をのたくるナハトはたしかに、不死身で、強力な、王に変貌しつつあった。
ただし、異形で、醜い。
偉大かどうかは、ついにわからなかったが。
「はやまったことを」
いつの間にか、その後方上空にグランがいた。空中を歩くように進んだ。
「どおおお、なってんだよおお、これはああああー、ぐうううらああああんんん」
かろうじて人語と解せる言葉でナハトが言った。
グランは深い憂慮の溜息をつく。
「だれの《ねがい》か、それが舵の役目をする。そなたはそれを知らずに〈パラグラム〉を行使した。なぜもう少し待てなかった」
「死ぬっってんだろーおおーがあああああ」
グランの目が細まった。
「この窮地にあって、己のために身を投げ打ってくれるほどの友や、愛する者を得られなかったそなたは、あまりに不憫。しかし、それは自業自得ぞ」
奪い続けてきた者は、いずれ、だれからか奪われる。
「いまのそなたを救おうという友か、愛する者か、いずこかにおらぬのか?」
「あんたがああ、やってくれえええ」
「それは、できぬ」
ごああああああああッ、ともはや怪物の咆哮にしか聞こえぬ声でナハトが叫んだ。
「我はすでにして〈パラグラム〉の一部。《投影》(プロジェクタイル)に過ぎぬゆえ」
そなたらのことなど、だれひとりとて、想うことなどできぬゆえ。
「だが……このままでは〈パラグラム〉が危ういか」
がごん、と途端に〈パラグラム〉の底が抜けた。
かつてナハトであったバケモノは奈落に向かって転げ落ちていった。
怨嗟の咆哮を上げながら。
※
「キリがないッ」
ビュウと唸りを上げ剣閃が骸骨の一団を切り裂いた。
たちまちのうちに青い炎を上げて亡者たちが消滅する。
だが、空いた隙間は瞬く間に補充される。
物量がケタ違いなのだ。
戦いはすでに半刻にも及んでいた。
文字通り絶望的な二騎対一万の戦いを、シオンとイズマは戦い生き抜いていた。
屠った亡者の数は少なくとも二千は下るまい。
卓抜した技量と連携、伝説に語られた武具と惜しみなく蕩尽される貴重な貴石、霊薬によってふたりは絶望的な戦いを支え抜いた。
「喚起せよ。紅蓮の石に封ぜられし業火よ。壁となれ」
シオンが敵陣に作り出したわずかな隙を、イズマは無駄にしなかった。
装飾品の宝石のひとつをちぎり取ると呪いを起動させ、滑らせるように放つ。
たちまちのうちに炎の壁が二階建ての住居ほども立ち上り、敵の足を止めた。
巻き込まれた骨たちが苦悶の叫びを上げる。
返す刀で、イズマは技を放った。
「招来せよ。暗き奈落の淵より――貪る者ども。その長き手に贄を捧げん。存分に喰うがよい!」
相手も定めず、イズマは掌に生じた三つの黒球を放った。
それは炎の壁のむこうに飛び去りながら、見る間に姿を増大・変形させておぞましい混沌の怪物に育っていく。
ごあああああああッ、と咆哮が響き渡り、骨と錆びた甲冑・武具の砕ける胸の悪くなるような音が谷にこだまする。
炎の壁の向こうから、ときおり長く伸びた触手のようなものが見えた。
「……イズマ……貴様のほうが悪役のような技だな」
「《アビサル・トーク・ウィズ・テンタクルス》。まあ、ほら地下王国と彼らはお隣さんなんで、よしみというか。でも、これでちょっと息がつけるでしょ」
「たしかに……そうか」
シオンの黒髪が汗で額に貼りついていた。
夜魔の姫が肩で息をするなど、尋常なことではない。
戦いはそれほど想像を絶する熾烈さだったのである。
イズマも息は荒かったが、疲労はあきらかに軽い。
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉の広範囲殲滅技で敵を圧倒するシオンに対し、数多くの呪具を投入し効果的な局面を見据え、最小限の技で対応するイズマとでは消耗の度合いが違うということだろう。
「手を抜いている、と言わんか、それは」
「帰りのことも考えてるんスよ。ボクぁ、こんなところで差し違える気はないもんで」
でも、ほとんど手持ちのヤツは使いきっちまった。あとは、ほんと切り札が幾枚ってとこで。
不敵に笑いながらイズマが言った。
「まあ、さいわいなことは、最初の接触の後はグランが本陣に下がっちまって、出てこないってことですか。おかげでやたらと長引いちまっているが、持ちこたえてもいられる」
「アシュレ……まだ、かかるか」
陽動にも、限界がある。シオンが焦りの滲む声で言った。
「どっちが陽動だったか、ってことですかね」
イズマの発言にシオンが鋭い目を向けた。
「なんだと?」
「腐っても降臨王。坊やの、にわか戦術なんて、お見通しってことも、って話です」
シオンの視線など、どこ吹く風といった様子でイズマは手元の呪具を数えなおしている。
口調は極軽だが、炎の壁が切れるタイミングを計っているのは明白だった。
「知っていたのかッ。知っていて、行かせたのかッ!」
「んなわきゃないでしょ。そこまで読めれば、ボクがグランになれますって。ただ、それぐらいの保険、王たる者はかけてるんじゃないですかね、と」
「貴様ッ、悪党め! アシュレを捨て駒にしたな」
シオンのそのセリフに、今度は前方を見据えるイズマの瞳が鋭いものになった。
口調に暗い響きが乗る。
姫、と確認を取るようにつぶやいた。
「共闘の申し出を受けたとき、ボクぁ言いましたよね、はっきりと。ボクたちを《そうする》力の源を叩き潰す、と。そのためなら、ボクは手段を選ばない、と。ボクはそのようにしているだけです」
それからね、とシオンを睨みつけて続ける。
「どう誤解されてもけっこうですが、ひとつだけ、はっきりさせときますヨ。ご指摘通りボクは悪党かもしれませんが、仲間を売るような小物じゃない」
その語気の鋭さに、シオンは気圧された。
そのときだった。
姫ッ、とイズマが叫んだ。
「来るッ」
数秒遅れて、地鳴りがした。
地震と勘違いしてしまうほどの。
そして、炎の壁が効果時間を過ぎて消滅し、戦場がふたたび姿を表した。
地獄の淵から召喚された長い無数の口を持つ触手を、グランの黒雲が押し返しつつあった。
グランの技:《エクスターミネーション・イルネス》に相違なかった。
猛威を振るった触手によって骨たちは総崩れになっていたが、その端から新たな軍勢が甦りつつある。
そんな苛烈を極める戦場へ、地鳴りの正体が突如として現れたのである。
割けた〈パラグラム〉の釜の底から転がり落ちてきた、それ。
それをなんと形容すべきだったろう。
シオンの目には、グランがたったいま退けた地獄の生物を、悪意を持ってよりいっそう凄惨に組み上げ直したような、そんな姿に映った。
同種の浅ましさとそれに倍する敵意――この世界のあらゆる他者に対する――が全身から瘴気となって噴き出している。
ヒドラとおぞましい深海の生物と、そしてヒトの臓器とを練り合わせ、その醜さだけを肥大化させたような存在が、そこにはあった。
生まれ出でたことそのものを怨嗟するような声で、それは啼く。
胸の悪くなるような怨恨に、硝子を刃で掻いたような不快さを何百倍も増強した、聞くだけで精神にヤスリがけされるような声。
全身に無数に空いた穴は乱ぐい歯を備えた口か瞼で、その奥にある目はひとつの例外なく、白濁し腐汁を流し続けていた。
「なんだ、あれは」
「姫、こっち、いまのうちです」
めざとくイズマがシオンの袖を引く。
戦場は混乱していた。
新たに〈パラグラム〉より現れたバケモノは、敵味方の区別なく、いや、むしろグランとその軍勢を敵と見なし攻撃を仕掛けているようだった。
ふたりはアシュレが使った高台へ避難する。
途端にヴィトライオンが泡を噴いて座り込む。
限界だったのだ。
イズマが革袋から水を飲ませてやると、がぶがぶと飲んだ。
気休めだが、ないよりはマシなはずだった。
いっぽうで羊は相変わらずフラフラとしており様子が掴めない。
「ぐえええええっ、あいつ、死体で冠を編むつもりか」
おええ、とイズマが悪態をついた。
バケモノは右腕を鞭のように振るいグランと対峙しながら、無数の副腕で頭部に周囲に散らばる骨を編み上げていくではないか。
それはたしかに、イズマの指摘通り冠に見えないこともなかった。
「《ねがい》が暴走しておるのか」
顔を蒼白にしてシオンが言った。
よくよく見れば、バケモノにはヒトの名残りが感じられた。
その怨嗟の声も、人語のようではある。
ふたりは知らぬことだが、このバケモノこそナハトベルグの成れの果てであったのだ。
「〈パラグラム〉のせいだ」
イズマがうめいた。
いくらなんでも、やりすぎだ。怒りと呆れがないまぜになった声だった。
「イズマ、貴様が《そうする》力に抗おうというのは、もしや、このことに起因しておるのか」
眼下の惨状を見下ろしながらシオンが言った。
ナハトの成れの果て、暴走した《ねがい》の因果と、グランという偉大な王の残骸――ともに夢の残滓に目をやりながら、シオンが言った。
「――そうだ。シオンザフィル。夜魔の姫よ」
膝立ちになり、同じように惨禍の嵐を見守りながらイズマは返した。
シオンはイズマという男の本性をやっと見た気がした。
口調が完全に変じている。
シオンは問うた。
「もしや、そなたには、われらが夜魔や土蜘蛛といった種族が、どうしてそうなったのか――その見当がついておるのではないか」
「なにによって《そうされた》のかなら、姫のご推察のとおり」
「なぜか、もか」
「ご明察です、姫」
もっともこれは、わたしの当て推量ですが。
「そして、いまはお話しているヒマがない」
拮抗するふたつのバケモノ同士の争いを見下ろしてイズマは答えた。
一拍おいて、ざくり、と刃が岩肌に突き立つ音がした。
途端に荊が茂りイズマとシオンを周囲から隠す。
シオンが〈ローズ・アブソリュート〉の顕現を解いたのだ。
「手を貸せ。時間がない」
イズマはシオンの意を汲んで立ち上がると、馴れた従者の手つきで〈ハンズ・オブ・グローリー〉を外すのを手伝った。
「行かれるので?」
「これほど待って返事がないなら、相当に困った事態に陥っておるはず。アシュレが《ねがい》に翻弄されておるなら、助けがいろう」
わたしの責任だからな。決然とシオンは言った。
「アレが、アシュレの成れの果てだとは思わないんで?」
イズマは茂みの隙間から見える怪物を指さす。
「なぜかな、まるでそうは思えん。そういうオマエはどうなんだ」
「さて、なんとも。姫の使い魔は、どうなんです?」
イズマの指摘に、憶えておったか、とシオンは笑う。
だから落ち着いていられるのだろう、とイズマ言っているのだ。
「めざとい男よ。そなた、目端だけは本当に利くのだな」
「生きているので?」
「それは間違いない、が……ヒラリのやつ、寝ておるようだ。呼び出しに答えぬ。普通はありえぬことだ。……なにか起こっているな」
武具を頼む。
シオンはそう言うと〈ハンズ・オブ・グローリー〉を放った。
白銀の装甲がアシュレの残した槍:〈シヴニール〉に触れて音を立てた。
「行ってくる。ここを死守できるか」
「状況次第ですが、粘ってみましょう。やばけりゃ逃げますが、それはご容赦を」
「そなたの騎士ぶりを期待しておる」
それだけ言い残すと、シオンは《影渡り》を使った。
自らを影と化しその中を自在に移動する簡易的な短距離転移法。
夜魔独自の技。
だが、聖遺物を携帯したままでは使用できないため、現在のシオンは徒手空拳と言ってよい。
危険きわまりない賭けだった。
だが、シオンは躊躇なくそれにすべてを賭けた。
※
ちょうどそのころ、アシュレは最悪の目覚めを体験していた。
まるで鳥の巣のようにシーツに囲われた寝台にひとり、転がされていた。
夢幻のなかにあったあの陶酔は跡形もなく消え去り、酷い吐き気がした。
わけもなく苛立ちや嫉みや恨みつらみが胸の内で湧き上がる。
それはアシュレ自身の記憶を借りて、別のだれか、不特定多数がそれを発露させているようにアシュレには感じられた。
悪意に嬲られる気分だった。
冷たい汗がとまらない。
アシュレはそのひどい苦痛のさなかで、徐々に記憶を取り戻していった。
ナハトとの死闘。グランとの邂逅。アルマ、ユーニスとの再会。悪寒と痙攣。〈デクストラス〉を備えた腕を持つ〈パラグラム〉。光の濁流に呑まれたこと。注がれる無制限な生の《ねがい》。
それから――理想の娘との逢瀬。王であった自分。
きっとその過程で自分のなかにあった尊いもの――《ねがい》の上澄みはすでにどこかへ流出してしまったのだ、とアシュレは得心した。
だから、いまの自分は“夢”の搾りかす、澱の塊なのだ、と。
“夢”の持つ負の部分を負わされた生贄なのだと。
がちがち、とひどくなる一方の悪心にアシュレは身を震わせた。
きっとだれかにぶつけてしまえば、もう少し楽になれただろう。
物に当たり、ヒトを打ち、あるいは斬り殺し、女を組み伏せ犯し抜けば、あるいは。
だが、そんなことをするくらいなら自刃したほうがマシだとアシュレは思う。
それなのに、なぜ自刃せずにいまだ自分はこんなところに埋もれているのか。
考えようとすると、ガンガンと頭が軋んだ。
アシュレはのたうち回った。
苦しみに胸を掻きむしりそうになる。
そのとき、指が柔らかいものに触れた。
そこに、小さな生物がいた。
「ヒラリ」
アシュレは、ひどい痛みと悪寒のなかでそれを両手で抱く。
すうすう、と信じきった様子でヒラリは眠っていた。
思わず、泣き笑いになってしまった。
シオンを思い出した。
シオンが手渡してくれた分身は、肝心なときに安心しきって眠っていたのである。
大胆不敵に相手を信じてしまう夜魔の姫と、ヒラリはなるほどそっくりだった。
アシュレが悪心の虜になってこのまま自分を握りつぶしてしまうなどと、考えることさえしないのだ。
アシュレはその柔らかさを支えに、苦痛の海を泳ぎきろうとした。
だが、途端にグランの顔が頭のなかいっぱいに広がった。
ごまかしようのない怒りと憎しみが湧き出すのをとめられない。
そこに、アシュレのなかに満たされていた《ねがい》たちが便乗してきた。
抑えがたい破壊衝動にアシュレは怯えた。《ねがい》たちはアシュレの憎悪に一見追従するようでいて、その実、アシュレを《そうする》力だったのである。
どうしようもなかった。このままではグランのように、アシュレもまた《悪》を引き受ける者にされてしまう気がした。
アシュレはこのとき、唐突に理解してしまったのだ。
グランの末路を。
彼を《そうしてしまったもの》の正体を。
イズマが警告してくれていたではないか。
――《そうする》力。それこそが敵なのだと。
涙が止まらなかった。
どうすればいいのか、アシュレにはわからなくなっていた。
だれの《ねがい》がグランを《そうした》のか。
アシュレには、はっきりとわかってしまったのだ。
偉大な降臨王に奇跡を観、救国を《ねがった》すべてのものたちが、その主犯だった。
悪心に乗っ取られてしまいそうだった。
内側からはじけるように力がかかっていた。
これこそ《そうする》力に相違なかった。
だれかに助けを求め、弱音を吐きそうになる。
その瞬間だった。
清涼な空気がアシュレの鼻腔を通っていった。
陸に上げられた魚のように喘いでいた呼吸が一瞬、楽になる。
帳のうちに、バラの花が咲いたようだった。
とさり、と遅れて音がした。
瑞々しい花束がアシュレの腕のなかに飛び込んでくる。
あ、あ、あ、とアシュレは唇を震わせてその花束を抱きしめた。強く抱き返された。花束はシオンだった。
はじめて身を重ねた法王庁でのあの夜よりも、シオンは強く香った。
「《ねがい》にあてられたな。グランめ、〈パラグラム〉をヒトの子に振うとは」
抱擁をほどき、シオンがアシュレを覗き込む。
身を離されると悪心が戻ってきた。
アシュレは腕に力を込める。そうして自制しないと、シオンをどうしてしまうかわからない。
ぶるぶると唇が震えた。
うん、とシオンが頷いた。
「アシュレ、よく聞くがよい。そなたはいま、《ねがい》にあてられておる。〈パラグラム〉に溜められ、〈デクストラス〉によって打ち込まれた無数の《ねがい》が、そなたを《そうする》べく、その身のうちで渦を巻いておるのだ。
負けるでない。自らを強く持つがよい。
さもなければ、いかなる姿にあいなるか、見当もつかぬ」
アシュレはかろうじて頷く。
たったそれだけのことに驚くべき《意志》の力が必要だった。
うわごとのように自らに振るわれた所業の一切を説明する。
途切れ途切れに、たどたどしく。
それらは時列があっておらず、混乱していたが、伝わった。
シオンが汲み取ってくれた。
事情を飲み込んだシオンは頷き、噛んで含めるように、ひとことひとこと言った。
「そなたに打ち込まれた多数の無責任な《ねがい》は、言い換えれば責任の取りようのない夢想なのだ。御すにはそなた自身が主となる他にない」
アシュレは濁流に溺れる者のようにシオンの腕を取った。
すでに限界までアシュレが耐え続けてきたことはシオンにもわかっていた。
すまぬ。シオンは謝罪した。
つらすぎるな、と耳打ちした。
にげてくれ、とアシュレはシオンに言った。
このままではボクは《悪》の代行者に堕ちてしまう。キミを、どうしてしまうかわからない。そうなるまえに、ボクは自刃する。
アシュレは血を吐くように言葉にした。
「だから剣を、せめて剣をくれ。もう、保たない。はぜてしまいそうなんだ」
「ならぬ。簡単に死のうなどと思うでない。ともに戦うと誓ったこと忘れたわけではあるまいな。そなたを《そうさせ》はせん。わたしの誇りにかけて」
アシュレは呆然とシオンを見た。
「いずれかを選ぶがよい。どちらを選んでもそなたは助かる。わたしが助けてみせる」
決然とシオンは言い切る。
だが、その身体が震えていることにアシュレは気づいていた。
「飽和した“夢”を外に吐き出すのだ」
どうやって。目だけでアシュレは問う。
「忘れたか。我らが夜魔は“夢”を喰らうものぞ」
アシュレの瞳に動揺が走った。
「一つは、そなたの推測通り、わたしに血を捧げ、眷族となることだ。
その身に打ち込まれた夢のことごとくを喰らい尽してくれよう。
そのかわり、そなたはわたしの血を飲むのだ。
それで取引は完了する。そなたはわたしと同じ、夜を歩むものとなる」
真祖の娘の直系だから、純粋なデイ・ウォーカーは無理でも、陽光にさえかなりの耐性を持つ夜魔になれるであろうよ。
アシュレは震えた。己の中で《ねがい》が暴れ回り、判断がつかない。
「いやか」
シオンの瞳が感情に揺れているのをアシュレは見た。
であろうな、とシオンは独りごちる。
つぎの瞬間、シオンが身体を預けてきた。
「ならば、選択の余地はない」
アシュレを見上げて腕のなかから言った。
「強いるがよい。わたしに。そなたのなかの《ねがい》のすべて、悪心の源のすべてを。……射込むが……よい。
ぜんぶ――ぜんぶ、受けとめてみせようから」
シオンの身体から力のすべてが抜かれた。
観念した獲物のように、ちいさく震えて。
アシュレは自らのなかで荒れ狂う昂ぶりを意識した。
それは理性の制止をなどたやすく引きちぎる、手負いの狂獣のごときものだった。
アシュレにできたことは、ただ強くシオンを想うことだけだった。
※
気がつけばシオンを組み伏せた姿勢のまま、折り重なるように伏せている自分がいた。
シオンに背後から強いたまま、アシュレは意識を失っていたのだ。
どれくらいそうしていたのか、見当もつかない。
ふたりは両手を強く握り合っていた。
ゆっくりと身を起こしたとき、ようやく周囲のありさまが目に飛び込んできた。
引き裂かれた衣類とレースが、踏みにじられた花束を思わせた。
血痕がそこここにある。間違いなくアシュレ自身のしわざだった。
うん、とシオンがアシュレの下でちいさく身じろぎした。
染みひとつない、剥き身の卵のようにすべやかな肌がそこにはあった。
名を呼び、身を重ね、アシュレはシオンをいたわる。
「アシュレ……現世に……帰ってこられたか」
まだ夢のなかにいる口調でシオンが言う。
「また、助けてくれたんだね」
「もとはといえば、わたしの責任だと言ったはずだ」
すまなかった、とシオンが謝罪した。
「夜魔と――バケモノと肌を合わすなどと……おぞましかったろうに」
あぜんとするアシュレの下でシオンが言った。
まるで、自身の悪行を詫びる口調で。
「ぜんぜん。ぜんぜん、いやではなかった」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
驚いたシオンが振り返る。見開かれた瞳が揺れていた。
「きれいで、かわいらしくて、愛しかった」
言葉にするたびに、どうしようもなく愛しさが溢れてきた。
気持ちの偽りようがない。
照れたようにシオンが顔を伏せた。
それから、遠慮がちに言った。
「アシュレ……その……まだ、《ねがい》で繋がっておるのだ。あまり、その、そんなに、されると」
わたし、と身を反らしてシオンが身を震わせた。
アシュレもまた、シオンに同調してしまった。
※
「これほどの量の《ねがい》に、よく耐えた。つらかったであろう。さすが聖騎士だな」
どこかよそよそしい口調でシオンが言った。
アシュレはせき立てられるように衣類を身につける。
シオンはシーツを身体に巻きつけていた。
再利用できる着衣はない。
「一人の人間にこれほどの《ねがい》が注ぎ込まれたなら、普通は人格を保っておられぬはず。それどころか変形を遂げておってもおかしくはない。そなた……断じてこれは世辞ではないぞ」
そのような所業を人の子に強いるとは。グランめ、やはり許してはおけぬ。宙を睨み、シオンは独りつぶやいた。
なにか、無理やりにでも踏切りをつけようとする態度だった。
「シオン、ごめん。それから……ありがとう」
アシュレはその背中に謝罪し、改めて礼を言った。
それからシオンを案じた。
アシュレの気分は、爽快といっていいほどだった。
悪心のことごとくが去っている。
だが、その源である《ねがい》を、こんどはシオンが引き受けていた。
身を案じるのは当然だった。
「キミは、だいじょうぶなの?」
アシュレの問いに、シオンがちらとこちらを見る。
「……それは……わからぬ」
「わからないって……」
アシュレは蒼白になった。
恐れていた通り、シオンはアシュレのために、その身を投げ打ってしまったのだと考えいたって。
「前にもすこし話したが、我ら夜魔は“夢”を糧にしておる。逆に言えば、注がれた“夢”は我らを形作る。そう言ったな。――これほど多量なら、影響がないとは言えぬだろう」
「ボクの責任だ」
急き込んで言うアシュレに、シオンは見返りながら微笑んだ。
「たしかに。だが……そなた、行為のさなか、ずっとわたしを想ってくれておったな」
なぜ、わかってしまったのか。
アシュレは言葉を失ってシオンを見た。
「わたしは高貴な“夢”を厳選する、と言ったであろう。味にはうるさいぞ」
ふふ、と笑いシオンが言った。
「そなたのなかで荒れ狂う《ねがい》のカタチのままなら、たしかにわたしでさえ危うかった。あれはほとんど毒液だ。
だが、そのすべてにそなたが介在してくれていた。わたしへの想いで、護ってくれていた。だから、耐えられたのだ」
ありがとう、アシュレ。シオンが頬を赤らめてつぶやいた。
「しかし、あれだな。ヒトの女性というものは大変だな、あのような求めにも献身的に応じねばならぬのか。うむ、異文化とはいえ、感服するところがあった」
はじめてのことばかりゆえ、いたらぬところもあったであろうが、許すがよい。なるべく、そなたらの文化を尊重したつもりだが。
シオンが、さらりととんでもないことを口走った。
アシュレは改めて自身の行いを思い出し、青くなったり赤くなったりした。
シオンとの間に、文化的誤解を生じさせてしまったことに焦りまくった。
だが、その誤解を解くための余裕は、シオンの発言によってあらかじめ奪われている。
それは重大な四文字だった。
「はじめて」
アシュレは阿呆のように繰り返し、固まった。
その様子が抜け穴でのイズマそっくりだったことは、ここだけの話だ。
「粗相は許されよ。緊急事態だったゆえ。殿方に恥をかかさなかっただろうか?」
シオンが向き直り深々と頭をさげる。
アシュレはシオンが公女であることを、あらためて認識しなおした。
「ぶ、文化的な質問ですが」
バカのようにアシュレは言う。
うん、とシオンは頷く。
「夜魔の一族における婚前での、このような行為とは」
ん、とシオンは虚を突かれた顔をし、それから火がついたように顔を赤らめて言った。
「き、厳しいぞ」
やはり、とアシュレは汗をかいた。
頭頂からいやな感じで、それはつぎつぎと垂れる。
「その……結婚してしまえばほとんど放任とでもいうべき状態になるのだが……だいたい、他の家の妻に手をつけるのが文化的に流行であったりするくらいだからして――略奪愛こそが真の愛だとかなんとかかんとか……わたしは、そういうところも夜魔を好かん理由なのだが、婚前はその反動ともいえるほど、厳しい」
ごにょごにょと聞き取りにくい口調でシオンはレクチャした。
「ど、どれくらいでしょう、か。厳しさは」
「階級にもよるだろうが」
「た、大公家は」
「イフ城地下での無期限の拷問か、婚姻か、いずれかだ。夜魔において死は一種の救いにさえなるゆえ、相手が他種族の場合、わざわざ下級の下僕に堕してから拷問に処す場合もある」
あ、安心せよ、わたしはすでに大公家とは関わりない身、そんなことにはならんし。
「こ、このことはふたりだけの秘事ゆえ」
シオンがアシュレを安心させようと手を振って言った。だいたいこんなものは、一夜の過ちと思うて忘れるのがよい。人生にはつきものぞ。
はじめてだというシオンが人生訓を垂れた。
「そ、それに夜魔はたいていの傷を瞬時に復元する。い、意味はわかるであろう。その、つぎはまたはじめてというわけで」
あきらかに動揺してシオンが言った。うわずった声で、な、なにを言っておるのだわたしは、と自らに突っ込んだ。
かちこち、という音が聞こえるくらいアシュレは硬直する。
「あ、アシュレ、だいじょうぶかや?」
本人も動揺しているのであろう、宮廷での言葉づかいでシオンが訊いた。かくかく、と糸の切れた人形のようにアシュレは頷いた。
「では、よいな。時間がない、参ろう。靴と盾を忘れるでない」
二人は寝室を抜け出し、前庭を目指した。




