■第三十一夜:英雄の定義
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ラッテガルトは地衣類のベッドでその戦いの余波を感じていた。
天をつんざくような魔獣の咆哮。
続く地面の揺れ。
それが戦闘によるバトルクエイク──すなわち、万を超える軍勢のぶつかり合いや大規模な攻城兵器の運用、広範囲殲滅系の異能の使用、そして巨大な戦闘生物の投入が引き起こす地面の揺れだとすぐにわかった。
巨大な質量のぶつかり合いは地震すら引き起こすし、脆弱な建築物の倒壊を招く。
そして、この人工的な地震の意味することはただひとつ。
この森の奥で、だれかが巨大なバケモノと戦っている。
いや、だれかだなどと、わかり切っていた。
イズマだ。
ほかにだれがありえるというのだろう。
そして、単身でエルマの元へと赴いたイズマが、隠密的手段で敵をやり過ごさなかったのだとしたら、理由はひとつだけだ。
エルマを護るため、あるいは、ここで動けないラッテガルトの安全を確保するため。
いずれにせよ、だれかを護るというたったひとつのためにだけ。
その事実に、また胸の奥が狭くなってラッテガルトは泣かされてしまう。
一緒に戦えないことが悔しい。
真騎士の乙女にとって《ヴァルキリーズ・パクト》の恩寵を垂れた相手とともに戦場に侍るのは最大の名誉であり、しあわせだ。
それは栄光への道のりをともに歩むということだからだ。
以前のラッテガルトは、そう理解していた。
だが、いまラッテガルトは以前とは異なる理解を得ている。
生きるのも、死ぬのも、そのヒトのかたわらでありたいと願うこと。
たとえそれが、栄光への道すがらでなくとも。
もはや真騎士の乙女としての義務を果たすことのできぬ身になって、やっとラッテガルトは一族の掟のなかに秘されていた《ねがい》の、ほんとうのカタチを見いだしたのだ。
英雄を、あるいは英雄となるべき男たちを教導し、真の挑戦を許されたものとして育て上げる。
この不浄と偽りに満ちた世界を更新するために。
純粋な怒りによって、世界を浄化するために。
そして、そののちに来るべき世界を、我ら真騎士の正義で満たすために。
物心ついた時からすり込まれたはずの真騎士の乙女としての教義が色あせて感じられた。
栄光のために、更新された世界のために──わたしはイズマの隣にありたいのではない。
ましてや、イズマという男を英雄に育て奉り上げたいのではない。
英雄とは、教導して造り上げるものではない。
たしかに肉体を育てることはできる。
技も、教養も、礼儀作法も教え込むものだ。
だが、心は、《意志》は、教えることはできない。
それは自らが獲得するものだからだ。
そして《意志》は渾沌と汚濁のなかで煌めく一瞬の光だ。
イズマを観ていて、ラッテガルトはやっとそれに気がついたのだ。
純粋培養の、清潔で清浄な培地では、それは決して醸成されない。
汚濁にまみれ、身を挫かれ心折られ、それでもなお、その道を行くことを諦め切れず進むものだけが──やっと獲得するものなのだ。
数えきれぬほどの失敗と取り返しのつかない過ちの上に、ようやくとして。
だから、もし、ラッテガルトたち真騎士の乙女たちが思い描く理想世界がこの世に現れたなら、英雄を育てうる汚濁を、不浄を、この世界から拭ってしまったならば──。
それは、この世界から真騎士という種族だけでなく、不条理な世界と対峙し続けていく心=すなわち《意志》の消滅を意味するものなのだ。
イズマは、どれほど過去に間違えただろうか。
どれほど希望に裏切られただろうか。
他者に欺かれ、同時に他者の期待と信頼を裏切ってしまっただろうか。
いや、そうして生きてきたのはイズマだけではない。
己の肉体さえ〈イビサス〉のものとすげ替え目的の成就のため戦い続けることを選び取った精神のありようは、エルマとエレの姉妹の、その身を穢し尽くされてもなお、自害を選ぶことなく──己の《意志》を全うしようとした生き方にも通じていた。
それがたとえ愚かな選択だと蔑まれても。
あるいは怨嗟に呑まれて復讐の鬼となったとしても。
その行き着く先で彼らは再会し、死力を尽くして戦って、その果てに互いを理解した。
求めあい、許した。
そして、いまイズマの繰り広げる戦いは、その責任を全うするために起こされたことだ。
あらゆる困難と挫折に遭いながら、それでも彼らはやめなかった。
だからこそ、ラッテガルトはイズマに恋をした。
清浄でも、崇高でも、清冽でもない。
効率的でも、合理的でもないだろう。
それなのにそのどれよりも輝くものをラッテガルトは見つけてしまった。
高い空から汚れに触れることを忌避し、地上を見下ろすばかりの真騎士の乙女のままであったなら、きっとそれは見いだせなかっただろう。
だから、きっと母たちは知らないだろう。
それらに触れたはずなのに、一族の掟から出ようと試みなかった彼女らには。
真の英雄とは、だれかに制御され飼いならされ、統率される者ではありえないのだ。
逆だ。
その者の行動が、周囲の者の人生を、考え方をも変えてしまう者こそが、結果として英雄と呼ばれるだけのことなのだ。
イズマはエルマを、エレを、あるいはセルテやイオの人生を変えてしまった。
いや、もっと規模を広げればシビリ・シュメリ、ベッサリオン、あるいは“狂える老博士”どもの動向さえ大きく変わったはずだ。
よいことか、悪いことかはわからない。
だが、その男に変えられてしまったひとりの女として、わたしはこの命が尽きるまで、イズマとともに歩むのだ。
そう決めたからこそ、いま、このときそのかたわらに侍れぬことが切なかった。
苦難とそれを乗り越える達成感を分かち合いたかった。
全身に残るイズマの余韻が心に起こした風に煽られて、ラッテガルトは翻弄される。
たぶん、手酷い後遺症のように一生この愛しさに苦しむのだと思うと、いっそう胸の痛みが増した。
苦しいことが嬉しいなんて、愛とはなんと不思議で不条理な感情だろうか。
激しい嵐の晩に潜り込んだ粗末な小屋で互いに身を寄せあうように、愛された記憶と毛布に身をくるんで横たわってからどれほどが過ぎたろう。
いまだ鳴り止まない戦闘音楽──遠雷と地響きのさなか、ラッテガルトは患い茸の森から小柄な人影が転び出るのを見い出した。
半裸であった。
首に腕に脚に、枷と鎖を打たれて、全身に受けた暴力の痕跡があった。
だが、どんなに汚されても、その美貌をラッテガルトが見紛うはずがなかった。
エルマだった。
なぜ、どうして、ここに、あの姿の理由は。
さまざまな疑問が一斉に脳裏を過った。
けれどもそれらの疑問より早く、ラッテガルトは行動してしまう。
「エルマ!」
思わず小さく叫んでいた。
だが耳を聾する戦闘音楽のせいか、あるいはイズマの巡らしたスクリーンのせいなのか、声は届いた様子もない。
膝をついていたエルマは身体に鞭をくれるように、立ち上がりタシュトーカの水穴にむかって歩いていこうとする。
いったいどのような展開か、理解はできなかったがエルマを見過ごすことなどできはしない。
彼女を呼び止めるべく、震える身体を寝床から引き剥がすようにしてラッテは立ち上がった。
全身に走る愛のしあわせすぎる余韻が、傷つき枷打たれたエルマに申し訳なく感じる。
同時にその前に身をさらした時、必ずイズマとの関係を悟られてしまうだろうことを考えると、全身が羞恥で火が出るように熱くなる。
だいいちいま自分がまとっているのは、イズマから贈られた古式ゆかしい土蜘蛛の花嫁衣装なのだから。
だが、それよりもなによりも、エルマの身を案じる心の動きが勝った。
そして、ラッテガルトはスクリーンに仕切られた結界の敷居を跨いでしまう。
罠だったのだ。
触れた、と思った。
傷ついたエルマが向き直り、その絶望に染まった瞳がラッテガルトを映した瞬間だった。
ばちん、とその肉体が弾け、トリモチのようにラッテガルトを拘束し、地面に転がした。
「いやいや、かかるもんだね。びっくりだよ、こんな単純な罠にさ」
患い茸の奥から人体と頭足類を混ぜ合わせたような吐き気を催す存在が現れて言った。
「まあ、単純だからこそかかるんだろうがね? ええ? なんだいダジュラ? だめだめ、オマエさんは失敗したんだ。見ろよ首だけになって、こらこら、勝手に這い回っちゃいかん。それはオマエさんの獲物じゃないぞ」
その頭足類の頭部に埋もれていた部分から、老人のような、それにしては奇妙に甲高い気に障る声が言った。
そして、ダジュラという名前にラッテガルトが血の気を失うと同時に、深海の生物を思わせる異形が這い出してきた。
ぼとり、とそれがラッテの腹上に落ちる。
思わず悲鳴を上げそうになった。
その惨めな生物の頭部は、なかばダジュラの生首で構成されていたからだ。
全身を拘束され身動きできないラッテガルトを嘲笑うように、そのおぞましい生き物は胸の丘陵から顔をのぞかせ、花嫁衣装に包まれたラッテガルトの肌に全身を覆う触手と舌を這わせた。
「だめだと言ったよ。ダジュラ、オマエさんは失敗したんだ。ええ? どうしてイダがここにいるかのかだって? 自分の実験を見届けない博士がどこにいる? 未完成の技術だと言っただろう? この代理宿主を使って、わたしら博士は、どこからでも観ている。つねにデータを取っているのさ」
それどころか、ときにはわざと実験体の餌食になり、その成果を体験することもあるのさ。
“狂える老博士”の代理宿主は、そのように自己紹介する。
「マルチタスクだよ。本当はここにいない、でも意識を仕切って別々の行動を同時にこなせるようにする。脳容量だって増加させているんだできるよできるさ」
やあ、お嬢さん、この汚らしいのはしまっておこうね?
未練がましくラッテガルトに張り付かせた脚を一本一本引き剥がし、きいきいと不平を漏らすダジュラだったものをつまみ上げると、イダと名乗ったバケモノはそれを体内に収めてしまった。
そして、紳士が挨拶するのに帽子を取るように、頭足類の頭に当たる部分の肉をちょい、と持ち上げる。
その内側には二目と見れぬ醜悪なデスマスクが張り付いていた。
ラッテガルトは言葉を失う。
「自己紹介がまだだったね。イダはイダという。これでも真摯な研究者さ。世間的には“狂える老博士”という呼び方が一般的かな? 本当はもう少しエレガントな名前があるんだよ──“クーリエ”という」
驚愕と恐怖と湧き上がる憎しみに言葉もないラッテガルトを横目にイダは続けた。
「自分の作品である新型〈グリード・ゲート〉:“寄居蟲”を回収するつもりで出向いたんだが、破損がひどくてね。せめてなにかこの損失を補えるような発見はないかとうろついていたのさ。
ああ、さっきの土蜘蛛の娘さんかい? ダジュラ──もうちょっとやる男だと思っていたんだけれど、存外大したことなかったよ──が、いつも使う手なんだそうだ。
故人や行方不明者の姿に似せた罠を先行させて潜んでいる残敵を狩り出す方法だと訊いたよ。あの姿は己の記憶の再現から構成するのだそうだ。
ったく、土蜘蛛と言うのは悪いヤツだなあ、こんな汚い罠を考えてさ。そこが好きだよ、イダは」
考えたことを垂れ流すようなイダの話しぶりに、吐き気を覚えて、ラッテガルトはようやくひとつだけ訊くことができた。
「ダジュラ──あの惨めな生き物が……そうだというのか?」
「ああ、そうだよ。もう頭の方は──記憶の部分はともかく理性的な話はダメでね。生きてただけでもめっけもんさ。まあ、最悪ではないよ。だから、必要な部分だけ切り離して補ってね?
詰まっている知識を保存しておく分にはそっちのほうが都合がいいからね。まあ、なんだ、ちょっとうるさいけど、役に立つ本のようなものさ」
さらり、と言うイダの言葉の軽さに、戦慄した。
とても、そんな軽さで語るべき内容であってよいはずがなかった。
ラッテガルトは悪夢のなかから這い出してきたようなイダと言葉を交わす自分は、とうとう気が違ってしまったのではないかと思いはじめていた。
「わたしを……どうする気だ?」
「シビリ・シュメリはスポンサーだからね。だから……そうだな、餌にする。
ほんとは──なんて綺麗な肌だろう──お嬢さん、アンタを連れて来るのはイダの仕事じゃなかった。このダジュラが、もちょっと仕事のできるヤツならよかったんだがね。
おや、ダジュラ、バカにされているのだけはわかるのかい? ヒトの腹のなかで暴れるんじゃない。アルコールに浸けてしまうぞ!」
「罠に──する?」
「ああ、ステキなお嬢さん、すこしは聞いているだろう、さっきの下等生物から? まったく、口の軽いゲス野郎だ。そうだよ、イズマガルムを誘い出し、からめ捕るためのステキな罠にするんだ、イ、イダが」
興奮のためか、それとも生物的に発声が困難であるのか、イダが言葉をどもらせる。
もし、ラッテガルトが以前のままの、真騎士の乙女のままのラッテガルトであったなら虜囚の辱めを受けた瞬間に舌を噛み切るくらいしていただろう。
だが、ラッテガルトはそうしなかった。
最後の最後まで望みを捨てたくなかった。
どんな姿に成り果ててもイズマと再び抱擁しあえる未来を信じたかったのだ。
「来てくれるだろう? イダと一緒に? アンタみたいに綺麗な娘さんを無下にはしない。痛くしない。むしろイダの施術はとても気持ちがいい。最高の造形美を与えると約束する。
それにそれに──そうしないと、もうひとりの娘さんがアンタのかわりにされちまう、イ、イダはそれはあまりに可哀想だと思うんだよ」
本当はそんなことなどつゆほども思っていないのだろう。
イダの肉体からは興奮すると分泌が激しくなるのか粘液が滴り落ちはじめた。
加えて、ラッテガルトは“狂える老博士”:イダの美的センスについて考えるとき、己を待ち受ける運命に怖気と吐き気をともなった絶望を感じずにはおれなかった。
最高の造形美という言葉がリフレインする。
だが、それでもまだ、この運命に立ち向かうことを決意したのはたったひとつ──己の身代わりにされるはずだった娘のことがあったからだ。
愛した男:イズマガルムが命がけでこのシダラの大空洞に挑んだ理由。
エルマの姉:エレヒメラのためだ。




