■第二十七夜:教えられなかったこと
「ラッテ、ボクちんから離れてるんだ。このままじゃ、じき、〈イビサス〉が出てきちまう。飢えを満たすためだったら、ヤツはどんなことでもする。特に、キミはいけない。寵愛の呪いを受けてる上に、真騎士の乙女だ──力ずくで契約を結びにくるはずだ──逃げろ」
たったいま、ラッテガルトが提案したことそのままを、イズマは危険だから逃げろと言う。
「貴様ひとりを残して、どこへ逃げると言うのか。わたしはこの大空洞の構造をまったく知らんし、ここに巣くう成り損ない──“ヒルコ”どもがセルテとイオだけとは限らん。いないと考えるのは愚かというものだろう。それにな、もう、わたしの《ちから》もほとんど残されていない。ダジュラのヤツに相当乱暴に扱われたからな。逃げたところで、次に“ヒルコ”に出会ったら、勝てる見込みは万にひとつもあるまいよ」
ラッテガルトのどこか笑みを含んだ物言いに、イズマは弱々しく笑った。
「ここ、どこ?」
「落ちたのはおそらくタシュトゥーカの水穴だと思う。詳しくはわからないけれど。いま、ここは……患い茸の森じゃないかな。このバカみたいにでかい茸をして、そうでないなら、わたしはもう土蜘蛛という種族のすべてを信じられなくなる」
「なんで、こんなに明るいの?」
イズマがしゃべるのも億劫だろうに、おどけた口調を作った。
「なぜかな、水底が光っているんだ。不思議な光景だ」
「あー、それ多分、ウレックス石のでかい鉱床がどっかにあるんだよ。一定方向にだけ光を通す石でね……簡単に言うと外部の光がその石の管のなかを通って水底に流れ込んでいるんだ。そういう鉱脈のある場所には地下なのに陽光の差し込む場所ができあがる」
「では、下界では──このシダラ大空洞に足を踏み入れてから幾度目かの夜が明けた、ということか」
「そうなるね。たぶん、二度目かな?」
時間がない。その言葉をイズマが飲み込んだのが、ラッテガルトにはわかった。
ダジュラが告げた──エルマの姉:エレを、その兄でありシビリ・シュメリの棟梁たるカルカサスは、イズマを搦め捕る奸計の要として“狂える老博士”どもに下げ渡そうとしている。
「体力を回復したくても、食い物もないのかー。くそー、ぜーんぶ、脚長羊の鞍上だー」
「このへんの茸は……食用にできるのか?」
「病気にそっくしの症状を引き起こす毒物──土蜘蛛の毒薬の多くがこの茸たちから作られるんだ。味だけならメチャクチャ美味しいのもあるけれど、後で死んで後悔する。旨味の成分が、毒素なんだ」
「死ぬほどではなく?」
「後悔している暇がない」
くすり、とラッテガルトが笑った。
こんなときでもイズマの身体に染みついた調子のよさは変わらないのだと知って。
「ほんと、ラッテって笑うとかわいいよね」
「ありがとう──うれしい」
ラッテガルトの反応に、イズマがむせた。
「なんだ、礼を言ったのに、失敬だな、貴様」
「ダジュラのヤローに、やっぱなんか悪いクスリ盛られたんでしょ?」
「うん。実はそうだ。麻薬の類いだ。おかしくなりそうだ」
冗談めかしたラッテガルトの物言いが、ことの深刻さをイズマにより明確に伝えたのだろう。
ぎょとした顔で目を見開き、むりやり半身を起こしかけた。
そこには一糸まとわぬ姿で左右に開いた足の間に両手をつき、子供のようにへたり込むラッテガルトの姿があった。
肌は上気しばら色に染まり、渇きかけた薄紫の頭髪が汗ばんだ素肌に張り付いて艶めかしかった。
「あーんのクソヤロウ、やっぱ一発殴っとくんだったよ!」
「女を玩具にするためのクスリだとか」
「たぶん、戦闘薬の類いさ……快楽中枢に作用してイロイロ増幅するんだ。恐怖を押さえ込み、殺戮への躊躇、無意識の抑制を取っ払うために使う。それに……副次的な効果で、性欲が異様に高まるんだ。少子化の問題もあって、そんな研究も土蜘蛛の社会ではずいぶんされてるんだ」
「そんな研究?」
「詳しくは割愛します」
イズマはふざけているのではない。
ラッテガルトを慮ってくれているのだ。
「つまり、いまのわたしはかなり取り返しのつかないところにいる、とそういうわけだな?」
壊れそうなほど儚げにラッテガルトがイズマに微笑みかけた。
「解毒したいが、もうその分さえも《スピンドル》が回せない」
「羊のヤローが乗せてるクスリがあれば、解毒できるとは思うんですがねー」
「エルマの消耗が激しすぎる。急かすと鞍からエルマが落ちてしまう」
ダメかー。そう言いながら、ふたたび倒れ込むイズマにラッテガルトは身を寄せた。
提案する。
「方法がなくはない。いや、おそらく唯一の解決法だ」
「ダメ」
即座にイズマが断言した。
「時間がないのだろ?」
けれども、そっぽを向いてしまったイズマを諭すように、ラッテガルトが言った。
「でも、ダメ」
イズマの取り繕ったように冷たい態度が、ラッテガルトの提案の意味するところを理解してのものだと告げていた。
大事に想われている。
提案そのものを聞かなかったことにしようとするイズマの態度から、逆にハッキリとラッテは悟ってしまった。
きゅう、と胸の奥が一段と苦しくなるのを感じた。
「この失態と分断、そして遅延は、わたしの未熟さが招いたことだ。責任を取らせて欲しい」
「そーゆーのは責任とは言わないと思いますケドネー」
イズマはますます背を丸めて話を打ち切ろうとする。
「なんか考えるからさ。それはいけないよ」
「わかった」
ラッテガルトは三十秒待った。
「考えたか?」
「だー、いま考えてるところでしょ! せっかちだなー」
「荒神:〈イビサス〉を押さえ込むだけでも、消耗するのだろ?」
お願いだ、こっちを向いてくれ、とラッテガルトがイズマに呼びかけた。
渋々という擬音が聞こえそうなほどあからさまに嫌がって、だが、それでもイズマは向き直った。
「これ以上、時間経過すればさまざまな箇所で手詰まりになる。
まずエレのこと。いままででも、すでに一週間が過ぎているのだろう?
ダジュラのような男が副官に居座る組織だ。どんな扱いを受けているか、言われずともわかる。そこにきて“狂える老博士”どもに引き渡されたなら、取り返しがつかなくなる。
それにエルマのことだ。一刻も早い合流をと焦っているだろう。
だが、消耗しているのは彼女も同じ。そこへ来て、この大空洞のバケモノどもにたかられたら、お終いだ。あの羊は、戦力にはならんし……やる気にムラッ毛がありすぎる。あ、笑ったな? そうだろう?
そして貴様自身のこと──〈イビサス〉だ。このまま貴様がその封じ込めに《ちから》を使いつづけ、使い果たしたらどうなるのか? 目覚めるな? そして?」
そいつは、わたしをもはや自分の所有物にしたつもりでいる。
「消耗したままのわたしは、為す術もなく玩弄され、され尽くした揚げ句に──飢えを満たす食材として扱われるかもだ」
美食家なのだろう? 〈イビサス〉という“神”は?
「他になんかないの?」
追いつめられたイズマの口から出たのは、ほとんど白旗降参同然の言葉だった。
「対外的には──手籠めにされた、ということにするつもりだ。わたしは自害しなければならないが、そのまえに貴様を始末しなければならない。だからこの恥を雪ぐまで、死ぬことも故郷に帰ることも許されない」
「…………」
ラッテガルトの口からスラスラと出てくる悪巧みに、イズマは呆れ返ってモノも言えない。
「なんだ?」
「……すげえ、へ理屈」
「貴様ら土蜘蛛のやり方で意趣返ししたまでだ。貴様に言われる筋合いはない」
どうだ、勉強したものだろう? なぜかラッテガルトは得意げだ。
「悪いけど、ボクちん、嫌がる娘をむりやりってのは趣味じゃないんだよなー」
それに、女のコとその人生をモノみたいに扱うのって、気に入らないんだよなー。
イズマは殊勝なことを言う。
いやもしかしたら、それはこの男の本性なのかもしれない。
ラッテは頬がほころぶのを止められない。
かわいい、と思う。
その微笑みの意味がわからないのだろう。
イズマが反論を並べる。
「だいたい〈イビサス〉の肉体で、そんなことしたら寵愛の呪いが本格的に効いてしまって、ほんとの玩具にされちゃうんですよ?」
「エルマにはしたくせに!」
「どういう理屈?! だいたい、あれはもう、そうするしか責任を取る方法がですね? ボクちんのせいであんなにされたわけでね? 死ぬまでずっと一緒だっていう──泣いて懇願されたしー」
「ズルイではないか!」
「ズ、ズ、ズルイっていやあのきっと言葉の使い方を間違えてらっしゃいますよ?」
だが、イズマが正論で諭そうとすればするほど、ラッテガルトは子供のように駄々をこねてしまう。
しばしの沈黙。
そして、ついに決定的な一言をラッテガルトは発してしまう。
「手籠めにしてください、とお願いしているのだが──伝わらないのか?」
怒った顔でラッテガルトが言った。顔は見ていられないくらい赤い。
「な、なに言ってるかわかってんの? クスリでおかしくされてるだけだよ! 危険が危ない。アツがナツいですよ?!」
「そうだ、おかしくなっている、だがそれはクスリのせいばかりじゃない!」
クスリより前に、もうおかしくなっていた。ラッテガルトは断言する。
こういう腹の括り方をした女性に男は太刀打ちできない。
「わたしは落ちたんだ。恋に。貴様を……愛しいと思うようになってしまった。落ちてしまった。ダメなんだ。ごまかせない」
あまりの事態の急変にイズマが跳ねた。
飛び起きたところに、どん、とラッテがしがみつく。
イズマはその胸乳に押しつぶされる。
エルマが言った通り反則級の破壊力だ。
「答えてくれ──わたしが、嫌いか?」
「いや、あのね、そんなことはないですけれども?」
「では、好いてくれるか?」
「好きか嫌いか言われたら好きですけれども、あのね? ちょまっ、妻帯とかできないんですけどッ」
「よろしい、ならば、契約だ」
「えっえっええええええ?」
狼狽するイズマを胸に抱えラッテガルトが言った。
「イズマ、貴様に手折られたいのだ。〈イビサス〉に、ではなく。イズマガルムという男──風変わりな、わたしの英雄に」
イズマの顔を胸で隠したのは、きっとラッテガルトの照れ隠しだった。
所在なさ気だったイズマの手が止まり、ラッテガルトは峡谷を落下したあのときのように、強く抱き返されるのを感じて泣いてしまった。
真騎士の乙女として約束され両手に持たされていたはずの輝くもの、そのすべてを失うはずなのに、嬉しいと感じるのはなぜなのか。
規範の内側だけに生きたラッテガルトの母たちは、教えてくれなかった。
いや、教えられなかったのだ。
これが恋なのだと。




