■第二十六夜:するものではなく、落ちるもの
イズマとラッテガルトは一気に数百メルテを落下した。
冷静に計算しても着水まで十秒なかったはずだ。
それは不思議な光景だった。
ラッテガルトはクスリと消耗、そして〈イビサス〉に施された寵愛の呪いのせいでおかしくなってしまったのではないかと思った。
下方から光が差してきた。
それは明るく、気のせいか周囲の壁面が地衣類に覆われている気さえした。
青い光のなかへ飛び込むような錯覚。
ダジュラに打ち込まれた麻薬のせいで素肌を風に荒々しく愛撫されているように感じる。
左足に絡みついていた鉤繩は、ラッテガルトを引きずり落したのを確認した直後、ダジュラが保持し切れなくなったのだろう。
風に煽られ、蛇の尾のように上空へ向かって流されている。
そして、回転する視界に金色と緋色の光を放つ流星が、自分めがけて落ちてくるのを見つけてしまった。
イズマは残り少ない体力と気力を加速に費やした。
まっすぐに飛び込むことで抵抗を減らす。
両手に風を集め、それを後方へと打ち出すことで先行するラッテガルトに追いついたのだ。
抱き留められた。
バカ、とラッテガルトは思う。
消耗し切ったラッテガルトには、もはや飛行系の異能どころか薄い防御膜一枚張る力すらない。
数百メルテ上空からの落下に耐えうる脊椎動物などこの世には存在しない。
この距離からの落着では、真下が水面かどうかなど関係がない。
鋼鉄の床に激突するに、それは等しい。
待っているのは確実な死で、また、イズマとっては見放したとしても、腹も痛まない相手だったはずだ。
数日前に知りあった、かわいげのない真騎士の小娘だったはずだ。
それなのにイズマは我が身を省みず飛び出した。
その一部始終をラッテガルトは、はっきり見てしまった。
そばを掠める岩塊は、イズマがラッテガルトを救うため飛び出した際、崩れた岩棚の一部だ。
貴様は、貴様の助けを待つ愛しい女とその妹を護らねばならんのではないか?
その場限りの情にほだされ、大局を見失うは愚か者の証だ。
つまり貴様は大馬鹿者だ。
それなのに、抱きしめられると涙が止まらなくなった。
ああ、うれしいんだ、わたしは。
ラッテガルトは理解してしまう。
イズマは、愚かと知りながら──あるいはそんなことを考えもせず、わたしを助けるために飛び出してくれた。
あれだけの戦いを終えた直後、消耗しきり、疲弊しきった肉体で、もしかしたらともに落ちてしまうというリスクだってあったのに。
いや、実際に落ちてしまったではないか。
バカなのだ。阿呆なのだ。どうしようもなく愚か者なのだ。
ただ、イズマにとってラッテガルトは我が身を賭しても助けなければならない女──そのなかにすでに含まれていただけのことなのだ。
なんの断りもなく含めるな、バカ。
ラッテガルトはイズマを強く抱擁する。
護るように身体を入れ替えられ抱き返された。
地面に叩きつけられれば、それは気休めにもならないことだったが──嬉しかった。
愛しい。
ラッテガルトは生まれてはじめて、恋をしてしまう。
この落下は、ただ物理的なものだけではなかったのだ。
落ちていたのは身体だけではない。
そして、そんなラッテの胸中を知るよしもないイズマは、だが、諦めたわけではなかった。
このシダラの峡谷の終着点は──タシュトゥーカの水穴。
エルマが説明してくれた位置関係をはっきりと憶えていた。
両手両脚を広げ、薄い《スピンドル》被膜をそこに広げる。
ラッテガルトを泡状のショック・アブソーバが包み込む。
空気抵抗が大きくなり、相対的な問題で岩塊がイズマたちの真横をスピードを上げたように追い抜いていく。
下方から差す光が、その強さを増した。
そして、全身の骨が砕け散るような衝撃と凍えるような冷たさが襲いかかってきた。
どうやって岸まで泳ぎ着けたのか、わからない。
気がつけば、奇妙な森の──地衣類と巨大な茸の──その一画でラッテガルトは意識を失っていた。
イズマの胸に顔を埋めて。
なんてよい薫りなんだろう、とラッテガルトは思う。
赫々と燃え盛る炭火の近くにいるような。
清潔な熾火の匂い。
炎に匂いがあることをラッテガルトが知ったのは幼少期だ。
すべては燃やす燃料に起因する。
ひとつには、その炭の由来──泥炭か、樹か? 泥炭ならば周囲の環境は? 海が近ければ潮の薫り。樹ならば育成状態は? 育った土地は?
ひとつには、その炭の生み出された過程──薪として自然に燃やされた結果か? はたまた目的を持って作られた炭であるか?
そして、最後のひとつは、炭の保存状態──悪臭ふんぷんたる場所に保管された炭は、その悪臭を吸い込み空気を浄化するが、吸い込まれた悪臭は燃焼とともに外部に還元される。
また、湿気をも吸い込むため、古い炭は火にくべると内部で水分が膨張し破裂する。
イズマの薫りは、ラッテガルトの知るなかでも最高のものだ。
長い年月に耐えた樫の巨木──祭事を執り行い、樹そのものの保持を目的とした剪定、その際に出た枝を職人たちが丁寧に炭にしたもの。
それで熾された炎の薫り。
針葉樹林の多い真騎士の乙女たちの国:アヴァロンでは、樫は珍重される木材だ。
硬く重く、ときには斧を弾き返し欠けさせるほどの硬度を獲得する樹もある。
そして素晴らしい炎を産む樫材は、北の国では得難いものだ。
針葉樹の薪のように暖炉を傷めることもない。
だから、ついとろとろと微睡んでしまった。
起きなければと頭ではわかっていても、身体がそれを拒んでいた。
身を引き剥がすのに渾身の意志力を使わねばならぬほど、それは蠱惑的にラッテガルトに働いた。
ずくずく、と身体の内側が疼く。
意識を失い昏倒するイズマを覗き込み、ラッテガルトは憔悴した男の顔をその手で撫でる。
胸の動悸が収まらない。
ふざけた男であるはずなのに、二股もあるいはそれ以上、姉妹に同時に手を出すようなふしだらな男であるはずなのに──愛しい。
それ以外の感慨が浮かばない。
幾度も命を救われた。
文字通り、その身を賭けて。
尊厳と純潔と真騎士の誇りを護ってくれた。
それはラッテガルトが思い描く自分を越えうる武勇の、はたまた伝説に語られる英雄としての器量の発露とは少し異なっていたかも知れない。
恐ろしい呪いで相手を縛り、騙し、陥れ、そうかと思えばなだめすかし、はぐらかし、ときには芸妓の、あるいは女を口説く手練手管で──それなのに救って。
まったく、ちっとも、ラッテガルトの趣味ではないはずなのに。
「このバカ、大馬鹿者──どうしてくれるんだ」
涙が止まらない。オマエなんかに、恋をしたからだ。
幼いころ、実はラッテガルトは武芸がどれも好きではなかった。
乗馬だけは例外だったが、甲冑をまとい武具を身につけ行う訓練にどうしても馴染めなかったのだ。
歌や踊り、手芸や料理──そういった創造にこそ、幼いころのラッテガルトは自身の居場所を見いだしていた。
素質だけはあったようで、心の奥底では望まぬながらも訓練では常に上位成績者だった。
ほんとうに武芸に傾倒したのは大姉:ブリュンフロイデの失墜を耳にしてからだ。
ふたりの部屋でのお茶会、ハーブティーの思い出を──自分がどうあればいいのか、そのヒントをくれた彼女を穢されたという思いと同時に、裏切られた、と感じている自分を振り払うように、ラッテは戦いの技術にのめり込んだ。
やっぱり、わたしになんて価値なんてなかったじゃないか。
どこから湧いてくるのかわからないその怒りを叩きつけるようにして。
それなのに、イズマは自らの行いで、ラッテガルトがくだらないと蔑み、無価値だと断じたやり方で、難局を乗り切って見せてくれた。
あの〈ハウル・キャンサー〉の石舞台で、ほんとうに久しぶりに戦勝祈願の舞手の衣装に身を包んだとき、そしてそれがエルマの笛とセルテの歌と重なり合った時──救われた気持ちになったのは、たぶん、自らを押しつぶすまで怨みを呑んで自潰しようとしたセルテだけではなかったのだ。
「よく聞け、イズマ──真騎士の乙女は一生涯にひとりしか伴侶を選べない。理由はわたしたちの種族的特性にある。
わたしたちはどういうわけか、基本的に女しかいない種族なんだ。だから、人間の英雄を自らの一族に迎え入れ、儀式を執り行い、巨大な《フォーカス》:〈アーク〉を用いて真騎士に転生させる。まあ、それはいまはいい。
なぜ、伴侶をひとりしか選べないかと言えば、それはわたしたちにとって婚姻は、その結果としての男女の契りは、文字通り契約なんだ。純潔を捧げた男にだけわたしたちは恩寵を与えることができる。《ヴァルキリーズ・パクト》。数日から一週間ほどもの間、相手の基礎能力を大幅に引き上げ無尽蔵とも思えるほどのタフネスを授けることができる」
それは、いま貴様を襲うこの憔悴・消耗、そして満たされぬ器:〈イビサス〉の飢えを癒すほどのものだ。
「もし、いまわたしの肉体に残る《スピンドル》を《ヴァルキリーズ・パクト》で貴様に注いだら──もうなにをされても、わたしは抵抗できないだろうな。この麻薬の誘惑を、留めることもできないだろうな」
恋する乙女の顔でラッテガルトはイズマを覗き込み、そう話しかけた。
ぽたりぽたり、と涙が落ちかかる。
ぴくり、とイズマのまぶたがその涙に動いた。
う、と苦しげな声が上がる。
「イズマ、気づいたか」
「い、てて、なに、ラッテ、どしたの、泣いてんの? 泣かされてんの?」
「バカ、なんでもない。大変なのは貴様のほうだ」
まともに目も空けられないような男に涙の理由を心配され、ラッテガルトは泣き笑いになってしまった。だめだ、涙が止まらない。
「ちっきしょう、この〈イビサス〉の身体……出力は最高だけど、燃費が悪すぎるよ……あればあるだけ放出しちまうんだな」
だめだ、もう、押さえ込むので精いっぱいだ。
イズマの言葉は弱音ではなく、事実をラッテガルトに伝えるためのものだった。




