■第二十五夜:滑落
姫巫女:エルマの内側に隠されていたイズマの罠。
まさしく毒杯というべき致命のそれ。
ダジュラはとっさに、エルマを切り離そうとした。
だが、すでに〈傀儡針〉:〈コクルビラー〉は致命的なまでに効果を発揮していた。
「おおおおっ、ば、かな、〈傀儡針〉……だと? エルマの肉体に、仕込んでいた……だと?」
「よかった──掛かってくれて、ホッとしました。ダジュラ、アナタの性根が心底腐っていてくれたおかげですの」
エルマの口元に暗い笑みが浮かんだ。
「まさか、まさか、そんなはずは」
「イズマさまが、わたくしたち姉妹に、大切な姫巫女にそんなことをするはずがない、と? お馬鹿さん。だからこそ──絶対にありえないと思うからこそ、もしあったならば絶対に躱せない。それが罠というものですわ。
罠は物陰や通り道に仕掛けるんじゃありませんの。心の死角に仕掛けてこそ、真価を発揮するもの。
もっとも、おねだりしたのはわたくしなんですけれど。
どうか、エルマのすべてを奪ってくださいませ、って。
これですべての自由を奪われながら愛されるのは……はっきりいってクセになる快感でした」
エルマの言葉を裏付けるように、脚長羊の鞍上でイズマが《スピンドル》を回していた。
ダジュラは即座に〈グリード・ゲート〉に最大出力の《スピンドル》エネルギーを流し込む。
肉体を支配する〈傀儡針〉と肉に骨に噛みついた〈グリード・ゲート〉:“寄居蟲”とダジュラ生来の《スピンドルエネルギー》の相乗が、イズマのそれを上回るならカウンターは可能な理屈である。
それはかつて、やはりイズマ自身がカテル島での戦いで実証している。
驚いたことにイズマの〈傀儡針〉はエルマの、そしてイオの《ちから》を使うことまでは封じていなかった。
勝機はある、とダジュラは踏んだ。
まだ、この〈傀儡針〉の効果が、支配深度が、比較的にしても浅いうちにカウンターできれば、逃走も可能であると判断したのだ。
三人分のエネルギーを回路に叩き込む。
だが、〈傀儡針〉はびくともしない。
それどころか、ジワジワと深度を増そうとしている。
「残念だけど──その程度じゃ逃げられないよ」
涼しい顔で、また、あまりやる気の感じられない、落下直後の格好のままイズマが言った。
「お、おのれ」
「まあ、足掻いてみなよ。イオやラッテやエルマを嬲った分──最高に惨めな死を与えてやんよ」
ポーズがそれなりならば、かなりヒロイックなセリフであっただろうが、天地無用の大転変の構えであった。
それでも、その語尾に込められた鋭いものに女たちの胸は締めつけられていた。
イオとエルマは頬を紅潮させ、ラッテガルトは悪態で誤魔化したという違いはあったが。
「エルマ、ちいっとの辛抱だかんね。すぐに助けてあげるから」
「ぜんぜん、ぜんぜん大丈夫ですッ。エルマは、イズマさまを信じてますから」
「て、てめえ、イズマガルム、このまま、オレを害したらコイツらもろともだぞ」
「だろうねえ」
「すぐに〈傀儡針〉を抜けッ、さもないとこいつらの命が枯れるまで《スピンドル》を吸い尽くしてやるぞッ」
「やってみれば? つか、いままさに最大出力で回してるでしょ? すんごいよ、汗?」
「脅しだと思うか?」
「だって、キミ、そうやって彼女らの助力を使い切ったらひとりになるんだよ? 一騎打ち張る気があるの? ボクちんと」
ようやく、姿勢を正位置に直しながらイズマは言った。
ダジュラが血走った目を剥いた。
言葉は──ない。
「戦況分析が得意のキミだ。彼我の戦力差がどれぐらいかは推し量っているんだろう? 足んないよ、足んないんだよ。キミじゃボクちんには勝てない」
イズマがのほほんとした口調で言う間も〈傀儡針〉の侵攻は止まらない。
いや、いっそう速度を上げて支配率を増してゆく。
「どしたのー、どんどん制圧されていってるぞー。もっと《ちから》を得ないとダメなんじゃないのー?」
挑発するようにイズマはアゴをしゃくった。
それはつまり、ラッテガルトを取り込んでもいいよ、むしろ、取り込んだら? と促す仕草だった。
仰天したのはダジュラだけではない。
当のラッテガルトのそれは驚きを通り越して激高だった。
-どしたのー。いまのところ取り込みを封じてはいないよ? できないのは分離だけ」
「貴様……この女がどうなっても構わないのか」
「だからさー、ダジュラくん、ハッタリが弱すぎる。さっさとしてごらんよ、取り込み。もしかしたら真騎士の乙女の純潔を奪えばできるかもだよ? すんごいパワーを与えることができるんだってねー」
「イズマッ、貴様ッ、よけいな知恵をつけるなッ」
だが、そこまで挑発されても、ダジュラは吊るし上げたラッテガルトを取り込まなかった。
いや、正確には取りこめなかった。
「ヤバイ目に遭うのは、彼女らじゃない。キミ自身だ──そうだろう?」
イズマの言葉の端に珍しく露骨な悪意が乗っていた。
ぞくり、とラッテガルトは背筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。
イズマという男の本性を見た気がしたのだ。
あの薄っぺらな笑みに隠された、敵にはどこまでも冷酷になれる王の顔を。
同時にその戦慄には甘い痛みもあった。
エルマとイオは頬を染めて瞳を蕩かしている。
非情さ、非道さ──敵に対するその発露は、土蜘蛛社会では男女ともに魅力に通じるものがあるのだ。
そして、その悪意に撃たれたようにダジュラは《意志》で制御できない震えに襲われていた。
恐怖、である。
「なるほどなー、ふたりまでなんだね、取りこめるのは。そんでもって、三人目を取り込むと酷い目に遭うのはキミだけなんだ。わかりやすいねえ、キミは。そんなんでシビリ・シュメリの副官が勤まるの?」
イズマの分析は軽口めいているぶん容赦というものがない。
ダジュラが恫喝を口にする。
「てめえ、マジで、やるぞ」
「オイ、小僧、オマエも土蜘蛛の男ならわかるはずだ。そんな水っぽい恫喝に意味などないということがな。オマエは、ヘドが出るようなゲス野郎だよ。だから、本当に相手に敵わないと悟った時、選択しうる行為で敵の心を踏み躙れる手段があると知ったなら、たとえ自滅覚悟でも行う。じゃあ、なぜそうしない? やるぞ、だと? 寸毫の躊躇なくやれッ!」
イズマが大音声で一喝した。
歯を食いしばり、目を剥き出したダジュラの顔は怒りにどす黒く染まる。
怒りを吐き出さねばはぜてしまいそうなのにそれもできず、耐えるしかないのだ。
イズマの指摘があまりに的を射ているために、内面の葛藤が表情に、肉体に現われてしまっていた。
「できないか? そうだろう」
なら、ボクちんがそうしてやるよ。
イズマは屑篭にゴミを投げ捨てるような気軽さで言い放った。
「ま、まて、まってくれ──取引き、取引きだ」
「?」
なに、という顔をイズマはした。
脈あり、とダジュラは判断した。
己が生き残るためならば、どんなことでもするつもりだった。
生き延びて力を溜め込みさえすれば、捲土重来のチャンスはいくらでもある。
そう考えた。
「シビリ・シュメリ内へオレが手引きする──こいつらを手土産に持ち帰ればカルも“狂える老博士”どもの首領格:イダも油断する。だから、だから──」
「ゴメン、もうしちゃった。取り込み」
けれども、ダジュラの甘言に対するイズマの反応は、震えがくるほどに、にこやかだった。
ほんとゴメンね。
屈託のないイズマの笑顔とは裏腹に耐えがたい、地獄のような苦しみがダジュラに襲いかかった。
イズマがダジュラを〈傀儡針〉を介して支配し、ラッテガルトの取り込みを実行させたのだ。
その瞬間、〈グリード・ゲート〉:“寄居蟲”が容量限界を突破して、暴走をはじめる。
決して行ってはならない、三体目の取り込み。
この世のものとは思えない絶叫を上げてダジュラがのたうち回った。
転げ回ろうと引きむしろうと、身に付いた呪詛の泥土はいっこうに落ちず、焼き抜かれるような、酸で皮膚を、肉を、骨まで蝕まれるような痛みを際限なく味わうことになった。
イオがその身に溜め込んでいた呪詛の塊がダジュラに罰を与えたのだ。
おおおおおおおおおおおおおおおっ、生きながら悪霊に蝕まれる正気を失うほどの苦痛を浴び、漆黒の炎を吹き上げる松明と化したダジュラは死の舞踏を踊った。
「悪いんだけど胸は痛まないねえ。キミの場合は自業自得ってやつさ」
ふらふらとイズマが脚長羊から降りエルマを助け起こした。
先ほどまでの飄々とした態度からはうかがえなかった憔悴が、その頬にはある。
実はかなりきわどい駆け引きだったのだ。
「イズマさま♡」
「よーしよし。ゴメンよ、相手の能力を見極めるのに、エルマに危ない橋を渡らせてしまって」
「ご褒美にたっぷり可愛がってくださいませ。じつは、不覚にも、あんニャロメの指と舌で、その──濡れてしまって」
よしよし、とエルマの頭を撫で、抱擁を返してからイズマは、横たわり、息も絶え絶えなイオを見た。
呪いの汚濁が落ち、〈グリード・ゲート〉さえも乾いた甲殻類の殻のようにひび割れて、死に絶えている。
骨と皮ばかりに痩せさらばえた姿だった。
頭髪は抜け落ち、肋の上に皮が張り付いているばかり。
呪詛は己を際限なく苦しめる病根であると同時に、イオの存在を支えるエネルギーそのものでもあったのだ。
「見ない……で」
イズマの視線に、イオが嘆願した。
愛した男にあさましい姿をのぞかれたくないという女心だ。
せめて、美しい自分を男の心に残したいという、それは祈りだ。
そんなイオをイズマは抱き寄せる。
あ、あ、あ、と枯れ果てたはずの涙がイオの眼窩から下り落ちた。
「ゴメンよ。ここに留まってあげることはできない──。ただ、ボクちんにできるのは──この血肉として──連れて行くことぐらいだ」
「うれしゅう、ございます」
イズマの言わんとするところを十全に理解したのだろう、イオが答えた。
イズマはそのようにしてやる。
イオの残滓は、ほんとうに抜け殻のように軽く崩れるように消えた。
「これで、最期まで一緒だよ」
イズマの言葉に、イオが浮かべた笑顔は、どこか晴れやかだった。
すこしは、救われたのか──そう信じるしか、生きている者たちにできることはない。
ことの一部始終をラッテガルトは、聖槍:〈スヴェンニール〉にもたれかかるようにして見ていた。
解放されたものの、立っていられない。
ダジュラに打ち込まれた麻薬のせいだ。
全身が冷たいのに熱く、鳥肌が収まらない。
吹きつける風にさえ肌が反応するのだ。
子供のように外側に膝を折る形で脚を投げ出し、ぺたんと座り込むことしかできない。
膝が震えて立ち上がれない。
ダジュラに強要された《スピンドルエネルギー》の消耗が激しすぎて、解毒のための異能さえも行使できない。
吐く息が、熱い。
いや、それだけではない。
むしろ、もうひとつのこと。
心の動きのほうが問題だった。
イオに対するイズマの愛情を見せつけられたら、胸が締めつけられるように痛くなって──高鳴りが止められない。
もしいま、この状態をエルマはともかく、イズマに知られたなら、と思うのにそんなラッテガルトの気持ちになどまるで斟酌せず、イズマはふらふらとした足取りで歩いてくるのだ。
命がけで戦ってくれた。わたしのためだけではなかったけれど。それでも。
バカ、貴様もふらふらじゃないか。
そう毒づきたいのに、うまく言葉がでない。
一方で、ダジュラの悶え苦しむさまをエルマは見張ると同時に目に焼きつけている。
これは彼女にとって、正当な復讐でもあるからだ。
そこから目を反らすことは、これまでの戦いを侮辱するに等しい。
エルマは間違いなく土蜘蛛の貴種・姫君であった。
「うひゃー、絶景かなー」
イズマがへたり込むラッテガルトを見て言った。
なぜ、そんな言い方しかできないのか、この男は。
ラッテガルトは怒りさえ覚える。
そして、言葉とは裏腹にイズマはまとっていたストールを優しくかけてくれるのだ。
ふわりとした肌触りは、夢見るよう。
それもそのはず。ラッテガルトは知らぬことだが、このストール:〈パーキュル〉は脚長羊の体毛で編まれているのだ。
包み込まれる安心感とそこに残るイズマの体温に、ズルイぞ、とラッテガルトは思う。
「よかった、無事みたいだね、いろいろと」
やっぱり最低だ、とラッテガルトの全身を舐めるようにして観察するイズマに、蹴りも鉄拳もかませない現状を呪いながらラッテガルトは言った。
「貴様、どこから見ていたんだ」
「あー、けっこう一部始終?」
「どうしてもっと早く来ない」
「超特急でしたよ? それにボクちんが気がついた時には、ラッテは取り込まれかけてて──対処法がわかんなかったからねー。エルマが時間稼いでくれたのと、うまいこと擬似餌として立ち回ってくれたから」
あとは、ほら、自由落下?
ラッテガルトは呆れるべきなのか、怒るべきなのかわからず困ってしまう。
「貴様、エルマだけでは飽き足らず、わたしまで餌に使ったろうが! 交渉材料? そんな言い逃れはきかんぞ! 相手の能力の底が見えんのに危ない橋を渡って。その天秤に乗せられているのはわたしとエルマじゃないか!」
「だから、ボクちんだってふたりが傷ついたら凄えショックを受けるわけで」
「モノみたいに扱った」
「それは交渉術の言葉のあやでね? だいたい、〈傀儡針〉:〈コクルビラー〉で相手のスペックはほぼ探り終えていたし、実際結果オーライだったでしょ?」
「バカモノー、女の──純潔は一度限りだ! キズモノになったら、どうするつもりだったんだ!」
「責任取る?」
真顔でイズマが言うものだから、ラッテガルトは開いた口が塞がらない。
「ところでさ、なんかアイツにされなかった? 変なクスリとか。エルマもああしてるけど、ほんとはかなりキツそうなんだよね」
「!」
イズマが身を寄せてきて、それはラッテガルトのことを案じてのことだとわかっているのに、ドン、と両手で突き放してしまった。
「ちょっとお?」
「う、うるさい、バカ。ち、近すぎる、寄るな触るな」
身を守るように抱きしめたストールからイズマの《スピンドル》が放つ清浄な炭の燃え立つ匂いがして、ラッテガルトはおかしくなりそうになる。
気を緩めると顔を埋めて、匂いを嗅いでしまいそうになる。
身体の中心が蕩けるように熱い。
「どしたの? 大丈夫?」
全然気づいていないイズマの無神経が厭わしい。
それなのに、触れられたら手折られてしまうほど愛しい。
クスリだ、クスリのせいだ。
ラッテガルトがそう心で言い訳した瞬間だった。
がらり、と音がし──。
苦悶と怨嗟の声と炎を吹き上げながら──。
ダジュラが岩棚から、燃え落ちたカンタレッラの吊り橋谷の底に、呑まれていった。
「終わりましたの」
エルマがその様を見届け、イズマを振り返った瞬間だった。
崖に面する岩棚の端から、カギ繩が飛来し、まるで生き物のようにラッテガルトの脚を捕らえ、そのまま引きずり込んだ。
それはダジュラという男の執念・怨念がなさしめた業だった。
麻薬に侵されたまま岩棚を引き摺られるラッテガルトに抗う術はない。
聖槍:〈スヴェンニール〉を掴んだまま、なす術なく谷底へ、口を開けた闇の版図に落ちていく。
消耗が激しすぎて《ウィング・オブ・オデット》を使うこともできない。
即座にイズマが反応したが、多大な疲労がその動きを鈍らせていた。
両手で突き放されたぶんの距離が、どうしても縮まらない。
イズマは岩棚に頭から滑り込み、身体をブレーキにすると同時に精いっぱいまで手を伸ばした。
だが、その指先からラッテガルトはこぼれ落ちる。
そして、イズマの乗った岩棚の端が、がつん、という音とともに欠けた。
さながら雪山の稜線に張り出した雪庇のごとく。
ふたりは落ちる。




