■第十九夜:怨みの原理
エルマの舞いが火種を播種し、世界を青く燃え上がらせる。
燃え落ちるカズラ橋の間をすり抜けながら、ラッテガルトは回想する。
イズマと別れ、あてがわれた寝室でのことだ。
「まだ、怒ってらっしゃいますの?」
おそらく、宴の間に設営されたのだろう寝室としての庵に帰り着いても、ラッテガルトの心は強風に煽られた湖面のように波立ったままだった。
「だって、だな……あれでは。イズマのあの言いようはヒドイ。救う気がない、と明言しているようなものだ。ずっと自分を待ってくれていた、想ってくれていた女に……かける言葉ではない」
「じゃあ、空約束・空手形、あの場でイズマさまが打てばよろしかったんですの?」
ついたての向こうからはエルマが衣類をなおす絹擦れの音が聞こえてくる。
「そうではない。そうではないが……」
「湯浴みのとき申し上げたこと、憶えてらっしゃいます?」
エルマが確認したのは湯船でふたりがじゃれあっている間に、密かに《スクリブル》で意思疎通した内容だ。
この異能は同意した接触者同士のあいだに、文字と絵で伝達可能な掲示板を造り上げる能力だ。
複雑な意思伝達には向かないが、使用者が消去しない限り残された記述をいくらでも遡れるし、起動と維持にエネルギーをさほど消費しない。
特に接触状態なら濃密な会話速度を維持したまま、ほとんど他者に悟られない行使が可能だった。
エルマの行動は、ただの戯れではなかったのである。
イズマはこの谷を滅ぼすつもりだろうから心しておくように、とすでにこのときエルマは予言していた。
正直、ラッテガルトは平静を保つのに苦労した。
イズマに心服している姫巫女:エルマはともかく、ラッテガルトにはイズマの心算がよくわからない。
それでも、イズマはすでにこの谷の秘事に気がついている、というエルマからの説明にしぶしぶ頷かざるをえなかったのだ。
それは、ラッテガルト自身が世辞と、土蜘蛛たちの謀略の手管について無知であることを認めてのことだった。
「わかっているさ。だが、」
「イズマさまが手を汚すところを見るのがつらいんですの?」
エルマの指摘に、ラッテガルトは一瞬、言葉を失った。
ちがう、と鋭く否定し、
「そうではない。ただ……すでに神のなりそこない=“ヒルコ”に堕ちたりとはいえ、イオやこの谷の住人たちは私たちを厚くもてなしてくれた。あれではあまりに救いがない。加えて問答無用とは……」
「では、イズマさまに救ってやれ、とそうおっしゃるのです?」
ふたたび押し黙ったラッテガルトの耳に、小さく笑うエルマの声が聞こえた。
「なにがおかしい」
「不浄を許さぬ真騎士の乙女が、ずいぶんと可愛らしいことをおっしゃるものですから」
なっ、ななっ、ななあっ、と激高しかけたラッテガルトの気勢を削いだのはエルマの礼だった。
「堕ちたりとはいえ、かつてのベッサリオンの姫巫女としてお礼申し上げますの。そこまで気づかっていただき、感謝にたえません」
ついたてのむこうでひざまずき深々と礼をするエルマの姿が音で感じ取れた。
しゃらり、と冠の擦れる音がした。
「本来なら問答無用で滅ぼしにかかるのが、アナタ方、真騎士の気質のはず」
「勘違いするな。滅ぼさないとは言ってない。ただ、その前に──その《魂》に安息があってもよいのではないか、と思ったのだ」
「つまり、それが《救済》?」
「迷わず逝ける、とことは重要だとは思わんか」
「思いますわ。でも、だからこそイズマさまはあの場であのように辛辣な受け答えをされたのだと思います。はっきりと拒絶すること、それはできない、と突きつけること」
「拒絶することが──優しさだというのか」
「あるいは徹底的な、根源的な殲滅すら」
「〈ハウル・キャンサー〉──セルテにはあれほど、親身に寄り添ったのにか?」
「問題は《救済》のカタチですの」
「《救済》のカタチ?」
「セルテのそれは、失われたものの代役を自らが買って出た結果でした。ですから、その役目からの解放がすなわち《救済》となりえました。だれかにそれをなすろうとせず、背負い続けた者だからこそ、イズマさまは慈悲を垂れた」
でも──さっきの問答でもわかったとおもいますけれど。
ついたての後ろからエルマが言った。
「イオは──この谷の住人たちは、はっきりと“神”の、〈イビサス〉の再臨と君臨を願っています。はっきりと言えば、だれかに支配されたくてたまらない、だれかに君臨されたくてたまらないんですの。率いて、導いてもらいたくてたまらないんですの。
だから、救われるには、征服者が、君臨者が必要なんですの。それなのに、自らがそうなろうとするのは恐いから、支配するものが抱える苦悩と矛盾と暗闇をどこかに投げ捨ててしまった。
そんな感じがするんですの。
そして、だからこそ、あれほど穏やかでいれるのではないのでしょうか。裏を返せばこうです──どこか、この近くに彼女たちはその暗い《ねがい》を投げ捨てるための穴を持っているって」
あの首から垂れる紐は、そこから繋がる操り糸であり、また外部を知覚するための目鼻と本体を繋ぐ線でもあるのですわ。
ラッテガルトは一見可愛らしい少女然としたエルマの外見の内側にある洞察力、そしてそこから導き出される推論の冷えた刃のような鋭さに寒気を覚えた。
この娘の身のうちに巣くっているのは狂気だけではないのだ、と。
「エルマ──では、いままでオマエが彼女らに対して振る舞ってきたのは、すべて偽りだというのか?」
「むろん、そうでなければよい、とは思いながらでしたわ。わたくしの勘ぐり過ぎであってくれれば、どれほど救われるだろうか、と思いながら。
でも、欺きはわれら土蜘蛛の本性。仮にわたくしの降るまいが装いだとしても、さきにわたくしを欺いたのは彼女たちですから。
仮に誤解なら、どちらも心からの好意であったとすれば問題ないことです。
ですが、イズマさまがおひとりで向かわれたということはそういうことでしょう。
決着をつけるべく、行動されたのです。冷酷すぎるものの見方だ、とそう思われますか?
でもわかるんですの。わたくし、一度、狂ったことがあるから、わかるんですの」
ひとたび、苦界に堕ちたものが、輝くものに向ける感情の物凄まじさ、その執念の強さ、情念のエグさ、怨みとつらみと、全身に火をかけられたように感じる──焦がれのこと。
「それは、残念ですけれどどれほど白く糊塗しても、なくすことなどできはしない。いいえ、厚く白く強固に覆わなければならぬほど、そのおぞましさ、えげつなさは強大でとりかえしがつかない。ひとたび気を許したら、骨の髄までしゃぶり尽くされる。善意の裏側に潜む、無意識のそんな《ねがい》すら、イズマさまには透けて見えているのかもしれませんの」
イオのあの優しさ、美しさ、気高さ──そのすべてが裏側に潜む呪詛の深さと黒さ、そして《救済》の主に対する要求の過酷さを物語っておりますの。
エルマは淡々と言う。
「自分のなかにもそれがあることを、わたくしは知っておりますから」
だから、わかるんですの。
なぜだろう、エルマの口元に浮かぶ皮肉げで、だからこそ限りなく寂しげな微笑がラッテガルトには見えるようだった。
気がつくとラッテガルトはついたてを押しのけ、エルマをその胸に抱きしめている。
「ふふやっ?」
不意打ちにエルマが妙な声を上げ、しゃらり、とまた冠が鳴った。
完璧に整えられた姫巫女の神楽舞いの装いのエルマがそこにはいた。
「苦しいですわ、ラッテ。溺れちゃいますわ、この大ボリュームに」
ふがふがと暴れるエルマをラッテガルトはいっそう抱きしめる。
「オマエたち土蜘蛛の理屈はわたしにはわからない。だが、これだけは約束しよう。必ず、オマエたちをそうした連中──シビリ・シュメリの一党と“狂える老博士”どもは討ち果たすと」
ラッテガルトの脳裏で、ブリュンフロイデの姿がエルマに、イオに、そして助けを待つであろうエレに重なっていた。
この忌まわしい連鎖の根源を断たねばならない。
そうラッテガルトは思った。
英雄を希求する彼女たちの気質もまた、限りなく求めるものに近い。
つまり、ラッテの心の動きとはそういうありさまなのだ。
「わかりましたの、わかりましたの、だから、この淫靡肉から解放しなさいの! なんですの、なんなんですの」
暴れて言うエルマの言葉には、若干以上の照れがあった。
「ふー」
やっと解放され、襟元を正して息をつき、エルマは言った。
「……ところで、なぜ、そのようなハレンチな格好でいらっしゃいますの?」
え? と今度はラッテガルトが聞き返す番だった。
「気をつけろ、とイズマさまがおっしゃったではないですか。いつなにがおきても対処できるようにしろという意味だと、なんでわかんないんですの? あなた、やっぱり、お脳に行くべき栄養素が、そっちに向かったんじゃありませんこと?」
無駄に育ちやがって、ですわ。
そうエルマが毒づくのと、ずん、と空間そのものが揺れた──《アストラル・コンシールメント》が破られるのとは、ほとんど同時だった。




