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■第十五夜:タランテラノの崖


 吹き下ろしの風が渓谷の壁に当たって泣き声を上げる。


「これ、登坂時はどうするんだ」

「ここは土蜘蛛の神域。この程度の崖が登れぬ者には〈イビサス〉の社に辿り着く資格などない、という警告が含まれているのですわ」


 タランテラノの渓谷は、垂直を通り越し恐ろしいオーバーハングを描いていた。

 左右から迫る壁面の間をすり抜けるように一向は降りていく。

 イズマは脚長羊に跨がり、エルマはその腕に抱かれている。

 ラッテガルトだけが《ウィング・オブ・オデット》を使い降下していく。

 だが、風に煽られ四苦八苦しながらだ。

 

「冷えるな」

「こちらはぬくぬくですわ♡」


 ラッテガルトのつぶやきをエルマが抜かりなく拾って言い返した。

 しばらく前から2人の間には糸が渡されている。土蜘蛛のこどもたちが笹の管と管の間に紐を通して作るオモチャを、もっとずっと高精度に、光で編まれた糸を媒介とする声の伝達。異能:《ヴォイス・コネクト》だ。

 ちいさなつぶやきを増幅して相手にだけ届けることができる。

 異能で編まれた糸なので風に流されることもないし、長さも数百メテルから能力者の腕前次第で数キトレルまで及ぶことがあるという。

 吹き下ろしの風に会話が流されることをエルマは警戒していた。


「ご遠慮なさらず、こちらにいらしたらよろしかったのに。もちろん鎧は脱いで」

「丁重にお断りする」

「あら、わたくし、女同士でもちゃんとお役にたてますのよ? どうしてもさみしい夜は姉さまと肌の温もりをわかちあったものですの」

「ななな、なに?」

「あら、冗談ですわ。わかちあったのは本当ですけれど」

「ボクちんはふたり相手でもぜんぜん気後れしないほうですよー」

「だれも貴様の意見など訊いてはいない!」


 ほんとはエルマがちょっとだけ羨ましかったラッテガルトだった。ちょっとだ、ちょっとだけだぞ、と言い訳する。

 試みに触らせてもらった脚長羊の毛並みはふかふかで、かぐわしい干し草の薫りがした。

 夢見心地とはよく言ったものだ。その形容に恥じない柔らかさだった。


 ただ、そのときの乙女な表情をふたりの土蜘蛛に見られたのは痛恨の極みだった。


 だが、冗談を飛ばしながらも、イズマとエルマのふたりは抜かりなく周囲に索敵の目を光らせていた。《ヴォイス・コネクト》の応用として召喚したメクラグモにそれを結わえ付け、周囲に放っていたのである。

 蜘蛛の持つ鋭い振動関知能力を我がものとして使う土蜘蛛の技だ。


「イズマさま」

「いるねえ、やっぱり。すんなり通過できるとは思ってなかったけど、ひい、ふうみい、や、数えるだけ無駄だな。たくさんだ」

「やはり、カル兄さまの手勢?」

「シビリ・シュメリの隠身がこの程度なら、悪いけど暗殺業からは足洗ったほうがいいよ。姿を隠しても、足音さえ消せないんじゃあ、この業界じゃ二流だ。もちろん、そんな練度じゃないでしょ? ボクちんが昔、対峙したときも、こんなに素人丸出しじゃなかったよ」


 だから、これは別勢力だね。イズマはあっさりと断定した。


「やっぱり、イズマさまって凄いんですの♡」

「それほどでも? ふふふ? 女性の入浴時の音から、脳内に映像を再建できるほどには?」


 こう、ぴちょーん、と? イズマの謙遜なのか自慢なのか自虐なのか、よくわからないセリフに軽い頭痛を覚えながら、ラッテガルトが確認を取る。


「では──このシダラ大空洞の住人たち、というわけか。当然だが、交渉の通じる相手である可能性は望み薄だな。さきほどのセルテの例を考えると」

「タランテラノの崖はもうすぐ、カンタレッラの吊り橋谷へさしかかりますの。そのあたりに巣をかけている連中がいるようですわね」

 強い風に頭髪を踊らせながら、エルマはタランテラの崖、その由来を語る。

「タランテラノの崖は、別名、祝詞のりと返しの崖とも言われておりますの。常に吹き下ろす風が“神”の声を届けるかわり、下側からはどんな祈りも届かない──それを“神”に聞き届けていただき成就させたければ、たとえ巫女候補の娘たちであっても、この困難な登坂を成し遂げなければならない──そういう場所でした」

「試練の場、というわけか」

「私情が挟まらぬ分だけ、清廉な試練ですのよ?」


 たしかにそうだ、とラッテガルトは思う。

 真騎士の乙女にとってさえ、人物の真の能力を見極めることは難しい。

 私情というものはどんなに意識的になっても働くものだ。

 だが、自然はそんなことを含味しない。


「ただ、いまこの先に巣くっている連中が、この程度の崖を登れずまごまご・・・・していたとは考えがたいね」

 イズマが言った。

「仮にも、“神”になろうって目的で実験材料になった連中でっしょ? それに、ボクちんの耳が捉える情報を分析すると──崖に二本の足で立っているよ。装身具と絹擦れの音。あ? まった、なんか、リズミカルかつ、へんな、擦るような音もする。それから、たゆんたゆゆん♡」

「たゆん?」

「巨乳的なサウンド」

「エルマ、なんだと思う」


 しごく真面目な顔つきで分析していたイズマに絶望した感じで、ラッテガルトが問うた。


「このあたりをテリトリーにしていた“神”の成り損ない。これを仮に“ヒルコ”と呼称しましょうか? だと思います。もしかしたら、上層をセルテが押さえていて、上がれなかったのかも。このあたり、ホント不便な場所なんですの、留まる理由が──」


 エルマがそう言いかけた瞬間だった。

 イズマが《ヴォイス・コネクト》の糸を、エルマとラッテガルトを繋ぐ一本を残して腕の一振りで切断した。


 なにごとですの、とエルマが問う前にそれは壁面を這う振動となって一行を襲った。


 赤く光る無数の光源を内包した純白の波頭のようにそれは見えた。

 ざざざざざざざざざざざざざっ、という遠鳴りが、やがて、ざわっざわっざわわっ、といううねりとなり、気がつけば足元をそれが覆い尽くし駆け抜けていく。

 

 思わず口元を覆ってラッテガルトはうめきを殺した。

 異能──それも呪詛、その群れだった。《サーペンタリウス・ヴェノム》と同系列の、しかし、心を蝕む呪い。


 心を蝕む異能:《カラーレス・サイコアシッド》。

 犠牲者の脳裏に巣くい、幻の感触と音で相手をむしばむ呪詛だ。

 無数の虫に全身を這い回られる感触と、それらが立てる節足動物の関節の音を聴かせ続けることで精神の平衡を破壊する。


 おそらく《ヴォイス・コネクト》とメクラグモの組み合わせ、あるいはそれに類似した方法を用いて索敵を行う敵の行動を逆手に取る対処法なのだろう。

 なにも知らずに相手の行動を探っている気で耳を澄ませていると《ヴォイス・コネクト》を通じて音の速度でこの呪詛を直接、耳朶から流し込まれることになる。

 

 事実、イズマが瞬間的に対処していなかったら、全員がこの呪詛の餌食となっていたであろう。

 呪詛に対し強力な耐性を誇る〈イビサス〉の肉体を使役しているイズマはともかく、解呪するまでの間にエルマ、そして、空中で不安定な姿勢を制御しているラッテガルトがどのような事態に陥るか、わかったものではない。

 立体的空中機動、すなわち三次元戦闘・空間戦闘というのは言うほど簡単なものではない。

 異能の助けを借りようと、そのセンスと制御は非常に繊細なものなのだ。

 三半規管に備わった資質自体が、人類と真騎士とでは端から大きく違う。

 資質に加えて訓練を積まなければ、天地さえ間違える。

 翼があれば自在に飛べる、とそういう単純なものではないのだ。

 その重要な感覚をこの状況で乱されれば、どうなるかはあきらかだろう。

 この場面での墜落。それはすなわち死を意味している。

 

 被害を完全に食い止めることができたこと自体、奇跡に近かった。

 唯一、壁面に脚をつけていた脚長羊の毛がざわわっ、と逆立ったが、それだけだった。


「あー、精神系の攻撃、こいつには全然効かないんだよね」

「ぞわっ、とはしたみたいですの」


 クールダウンするためだろうか、口中で反芻したサムシングを脚長羊はもぐもぐしはじめた。逆立った毛が徐々に落ち着いてくる。


「この先にいるヤツ……身を隠す気はないけど、危ない対応はする──ヤなヤツですの」

「それか、隠れる必要など感じてないかってこと?」


 イズマがそれを言い終わるか終わらぬかのうちだった。


 離れた壁面になにか、白いものが立った。

 ちょうどヒトほどの大きさのものだ。

 それは最初、目の錯覚のように見えた。

 あまりに、こつぜんと現れたからだ。


 だが、やがてそれが一体、二体と姿を増やすともはや錯覚と誤魔化すことはできなくなった。

 それはある種、蠱惑的な魅力を感じさせる存在だった。

 それぞれがよく似た、美しい女性の姿を持っていた。


 しかし、その身体は衣服ではなく純白の柔毛にこげとうっすらと脂肪を感じさせる被膜に覆われており、その被膜はガウンのように足元に垂れていた。

 特徴的なのは参じた全員が、オオミズアオなどの巨大な蛾の触角を思わせる金色の髪飾りをいただいていたこと。

 そして、その紅玉のような瞳には鬼火のように欲望が光っていた。


「なにか、特別な視線を感じるのですがー、彼女らはいったい……」

「おそらく……巫女の侍従たち──かつてのわたくしたちの側仕えたちですの」

「ずいぶん、いるものなのだな」


 油断なく〈スヴェンニール〉を構えてラッテガルトが言った。

 彼女から見たときその白い女たちは重力方向、つまり本来の地面側にあたる。

 三次元戦闘特有の不思議な感覚だ。


「姫巫女ひとりに十二名。それを束ねる長がひとり。さきほどのセルテと対を成す侍従長:イオランカ」

「一掃するか?」


 それでも自重してラッテガルトは訊いた。

 セルテの件もある。呪詛を得意とする土蜘蛛相手にむやみな先制攻撃は危険だと学習したばかりだ。

「もしかしたら、お願いするかもしれませんの」


 だが、エルマから返ってきた返答は、ラッテガルトが予想したものより遥かに直接的なものだった。


「好戦的な意見だな」

「イオランカ──イオは、わたしたちに強い恨みを抱いているはずですの」

 わたしと、エレ姉に。エルマは言い直した。

「ふたりの姫巫女が侵入者と接触を持ち、結果として“神”を失った職責を問われ当時の侍従たちはみな──玩具箱に落されたはず」

玩具箱トイボックス?」


 おうむ返しにラッテガルトが訊いた。


「“狂える老博士”どもの研究室を、兄たちはみなそう呼んでおりました。嫌悪と侮蔑──それにすがらねばならぬ己らの現状に対するものも含めて。それから、拭い去りようのない本能的な怖れから」

「イオ? イオって、あの巨乳の? 引っ詰め髪の一見厳し目だけど、実は笑うとかわいい?」

「イズマさま……面識がおありでしたの?」


 初耳です、とエルマは驚いた。


「うん……たしか……乳揉んだ」

 感触に記憶あります、と己の乳露ニュウロデータベースに検索をかけ、照合する。

 おそらくだが、その際肉体が起こす反応、すなわち指の動きはそのための始動キーであり、同時にサイズやデザイン、硬度などを再現していると思われた。

 いろいろアレな仕様である。

 

「イズマさまっ、ヒドイッ、あちこち手を出されてッ」

 でも、そこがステキなのですが。女性的には嫌悪すべきであろうはずのところだが、エルマの蕩けるような笑顔に、ラッテガルトはツッコミの手がかりどころか足がかりや言いがかりまで失う。

 

「こんどは、エルマのをお願いしますの。こう、大好きな方に揉まれると大きくなるってほんとですの?」

「うーん、長期間の入念な実験が必要だね、それは」

「では、ぜひ、その実験台にしていただきたいんですのー」


 この緊迫した場面でどうしてこのふたりはそういう方向へ思考を疾走させていけるのか、ラッテガルトにはついに理解できなかった。

 それとも、これは相手の出方を窺う方策なのだろうか?

 そして、イズマとエルマが間の抜けたやりとりを交わしている間に、その白い娘たち──“ヒルコ”たちは来たときと同じく、ひとり、ふたり、と姿を消し、ついにはだれもいなくなってしまった。


「あり?」

「どういうことでしょうか?」

「呆れられたんだ。わたしにはわかる」


 ラッテガルトの指摘にしかしふたりの土蜘蛛はへこたれもしなかった。


「これって平和的解決じゃね?」

 とはイズマ。

「戦わずして勝つ。これぞ兵法の上の最たるものなりですわ」


 ラッテガルトの頭痛が本格的なものになりはじめた頃、しずしずと階下の闇から歩み出るものがあった。

 烏帽子えぼしをかぶり、ガウンのように長い表皮を翻しながら現れたのは、峻厳さのなかに妖艶な雰囲気を秘めた美女であった。

 

「お久しゅうございます。我が“神”:〈イビサス〉。そして、姫さま、イズマさま」

 イズマとエルマから少し離れた場所でかしずくと、その美女はなにやらしょを捧げて見せた。「奉」の一字が、絵画的な土蜘蛛の文字で記されている。

 そして、己の武器の間合いの外でひざまづき相手の許可を待つのは、土蜘蛛の礼儀作法でも相手を最上位と見なすものである。

 

「イオ、もし、イオランカかや」

 その作法と次第に、あっというまに姫巫女であった時代に心が戻されたのだろうエルマが神宮内での言葉遣いになって言った。

「はい、ひいさま」

「顔を、顔を見せておくれ」


 顔を伏せたままだったイオが、ためらいながらもエルマの言葉にしたがって面を上げた。

 懐かしい顔がそこにはあった。

 すこし、異形の特徴が強く出ているが、その顔は間違いない、エルマの侍従長であったイオランカのものであった。


「懐かしや」

「お懐かしゅうございます」

「なにをしておる。近う」

「それでは、お言葉に甘えまする」


 跪いたまま、音もなく膝を進め、イオは文をエルマに差し出した。


「これは?」

「皆様を我らが庵にご招待いたしたく。もちろん、お客さまもでございます」


 達筆な文字で描かれた手紙には、ほんのり蘭の薫りがまとわせてあった。

 たしかに、エルマやイズマ、そして客人を招待したいとの旨が記されている。


「わたくしを恨んでおらんのかや」

 その文を畳み懐に入れながら、エルマが言った。

「恨む?」

「そちらを、そのような姿にしたのは、わたくしの、わたくしたち姉妹のわがままゆえぞ?」

「同じように、姫さまも苦しまれたと、イオは存じておりますれば」


 もとはと言えば、我らの安寧を一身に、おふたりの華奢な双肩に担わせたは、わが一族の責。イオは、ほとんど健気に言う。


「イオ」

「姫さま」

 かつての主従が互いを呼びあった。その頬には偽りのない笑みが浮かぶ。涙さえ、ある。

「招待の件、たしかに承った」


 ご相伴にあずかるとしよう。エルマは頷きながら言った。


「嬉しゅうございます、姫さま」

「積もる話は、そのときとしようか」

「はい」

 喜色を声に滲ませて、イオは後退ると溶けるように闇に消えた。

 

「勝手に話を進めて申し訳ありませんでしたの」

 ぺこり、とエルマが頭を下げた。

「つい、こう、抜け切れない高貴の血が、っていうんですの? サガっていうんですの? 振る舞ってしまうのです。振る舞ってしまうのですのー」

「姫巫女だというのは本当だったんだな……圧倒されたぞ」

「それって……褒めてくださっているのです?」

「おかげで戦闘を回避できたんだ。大したものだったぞ」


 手放しに褒められ、エルマはイズマの腕の中からするりと抜け出すと、ぴょんと飛び宙を舞い、なんとも気楽な様子でラッテガルトに飛びついた。


「うわっ、なにをっ、あぶないっ、エルマっ、落ちたら死ぬのだぞっ!」

「真騎士の乙女の翼、そんなにヤワなわけがありませんの」


 大きな猫にじゃれつかれたように、ラッテガルトはエルマを邪険にすることもできず空中でくるくると回転する。


「こらっ、イズマ、止めろ、エルマをっ」

「んんー、いーんじゃないでしょうかねー、ボクちん的にはじゃれあうふたりを見れて、眼福眼福♡」


 能天気な調子で言いながら、イズマは闇の底を見通す。

 イオの去ったその先に、ぼんやりと光る帯が見えはじめていた。





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