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■第十一夜:神楽舞い

         ※


 ヒィラ、ヒィラリ。

 ヒィラリ、ヒィラ、ヒラルラリ。

 

 木製の横笛が奏でるのは、舞い落ちる葉とそこに照り返す陽の光だ。

 静謐な竹林、そのなかを渡る風が纏う清浄なみどりのノート──薫風。

 石舞台に姿を現したのは、巫女装束も清々しい土蜘蛛の姫巫女:エルマメイム。

 

 その奏でる音色が渓谷に響き渡り、寒々しい岩肌に木々の幻視を植樹する。


 陽の光の下を追われた土蜘蛛の一族が、取り戻すべき原風景を伝えるのもまた姫巫女の務めであった。

 理想郷を大地に降ろし、向かうべき場所を明示する《ちから》。

 

 幻の陽の光、幻の霧雨が石舞台を濡らし清めて、その石の本当の色をあらわにする。

 美しい瑪瑙の文様。

 

 気がつけば、四方に篝火。


 ヒィラ、ヒィラリ。

 ヒィラリ、ヒィラ、ヒラルラリ。


 エルマは音を投げ掛ける。

 こんどは渓谷のその底に。

 暗がりの奥底に。

 そこに伏して、重荷に潰されてしまいそうな、だれかの心に。


 おおん、とどこかで応じるものがあった。

 かつり、こつり、とためらうような音がした。

 かりり、こりり、と岩を掻く音がした。

 がしゃり、ぱきり、と敷き詰められた白州──いいや、骨を踏む音がした。

 それはためらいであり、恐れであった。


 姫巫女の奏でる笛の音が、それにとってはあまりに懐かしく、麗しく、同時に堪らない切なさとともに心に穿たれた傷に触れるものであったから。

 

 それはひとことで言えば疑心暗鬼の固まりだった。

 自分は謀られたのではないか、謀られているのではないか。

 この懐かしい音色に誘き寄せられているだけではないのか。

 また、裏切られ、失望に打ちのめされるのではないのか。

 そんな想いが、それの、もはやヒトではなくなってしまったセルテの心を占めていた。

 

 とうのむかしに諦めた《夢》だった。

 醒めたはずの《夢》だった。

 もはや戻らぬと覚悟したからこそ、己の身を捧げたのだった。


「“神”がおらぬというのなら、我、“神”となるのみ」


 そう告げたカルカサスさまの礎となれるなら、数多幾多の同胞の、その拠り所、その試金石となれるなら。

 その一念で、戻れぬ穴と知りながら身を投じた。

 

 篝火に、いつしか〈ハウル・キャンサー〉の巨体が照らし出されていた。

 岩肌に張り付いた赤銅の巨蟹と、その背に磔にされた美少年の彫像が石舞台を見下ろしていた。

 その赤い目が、石舞台で笛を奏でるエルマをじっと見ていた。

 エルマはその視線を感じているのか、そうでないのか、笛に意識を埋没させている。


 ああ、我らが姫巫女だ、とセルテは思った。

 帰ってきてくださったのだ。

 うれしかった。

 

 だが、手遅れだ。いまさらだ。


 ぞるり、と己の内側で渇きが──その源たる〈グリード・ゲート〉が──蠢いた。

 いったいどれほど喰らったか。


 実験体となった同胞のほとんどは〈グリード・ゲート〉の《ちから》に耐え切れず、心も身体も崩壊させた。

 そんな彼らを喰らい業苦から解き放つことは、セルテにとって救済の一形態だった。


 実際、自ら進んで身を捧げる者たちに奉られた。


 小さくとも、自分は彼らの“神”になれるのではないか、道祖神のごとき、小さくも、ささやかな“神”に。

 そんなことを考えたこともあった。


 だが、信徒たちはひとり減り、ふたり減り、やがて訪うものはいなくなった。

 信仰の証に信徒は身を捧げ、セルテは“神”としてそれを喰らうのだから、当然の帰結だ。

 だが、そのときには、すでにセルテはバケモノだった。

 その当然がわからなくなるほどに。

 狂っていたのだ。


 捨てられた、と感じた。

 見放された、と感じた。


 そして、自らも消え去りたいと願ったが、セルテを喰らってくれる──その《ねがい》を引き受けてくれる存在は、もう、かたわらには、だれひとりとていなかった。

 

 ヒィラ、ヒィラリ。

 ヒィラリ、ヒィラ、ヒラルラリ。

 

 また美しい音色がした。

 だが、いまさらそんなものが、なにになる? 

 姫巫女はふたりでなければならない。

 雅楽だけでは片手落ちだ。

 オマエも、やはり紛い物だ。

 エルマに対してそんな思いが湧き上がった。


 もとをただせば、オマエたちのせいではないか──呑み込んだはずの恨みが臓腑で渦を巻く。


 やはり自分は裏切られたのだ、と感じた。

 のこのこと、誘い出されたのだと。


 あの日々はもはや戻らない。

 ならば喰らうしかない。この身がはぜるまで。 


 そう見限って、壁面を離れようとしたときだった。

 暗がりから人影が滑り出た。


 雪のように白い乙女であった。

 土蜘蛛の娘ではない。

 だが、美貌、圧倒的な。

 穢れない新雪を思わせる肌に、同じ純白の舞姫の衣装。

 男の目に肌をさらしたことなどないのだろう。

 初々しい舞いには隠し切れない恥じらいが見え隠れする。


 シャン、と踏みならされた手と脚に通された銀の輪の連なりが、ひるがえる長い袖とともに音を立てた。


 トン、ツ、トン、シャン。

 シャン、ツ、トン、シャン。


 土蜘蛛の雅楽に異国の舞い。

 美しい、とセルテは見惚れる。

 まさか、そのふたつがこれほど響き合うとは。

 純白の舞姫が、すう、と視線を流してきた。

 セルテを認めたのだ。

 旋回しながら視線を送られて、はっきりと促された。

 

 ともに、と。

 

 トン、ツ、トン、シャン。ヒィラ、ヒィラリ。

 ヒィラリ、ヒィラ、ヒラルラリ。

 シャン、ツ、トン、シャン。


 奏者も舞姫も、互いの呼吸に己を投じながら次第に高まりあっていく。


 名も知れぬ異国の舞姫の視線は一度きりだった。

 それがよりいっそう、はっきりとメッセージを伝えてくる。

 あなたの番だと。

 これは、御遊おんあそび。

 異なるものを持ち寄って、ひとつのカタチを為す遊び。

 ふふふ、といつしかセルテは笑っている。

 笑っていることにさえ気づけずにいる。


 月影冴える竹林の、かわす声なき湖水のほとり、この夜ここよと蟹招く──。


 自然と歌が、セルテの喉を滑り出ていた。


 いつしかそこは夜に沈む竹林で、忘れられてしまった湖水のほとり。

 どこからきたのか一匹の古い蟹が、さえざえとした月影を招いている。

 こっちだ、こっちだよ。

 月は地上に降りることはできないけれど、湖水に遊びにくることはできる。

 その身を水面に映して、蟹のそばに来てくれる。

 周囲すべてを竹林に囲まれたこの湖では、それはとても稀なこと。

 

 だから蟹はいつもひとりだ。

 ただ、今宵は、なにかあるような気がして、必死に招くのだ。


 ところが降りてきたのは見事な翼の白い鳥。

 思わぬ客に蟹は驚いてしまうのだけれど、その見事な舞いに見蕩れてしまう。

 気がつけば月も遊びに来てくれて、なんだか、今宵はこのさみしい場所が、にぎやかなことだなあ。

 たのしいなあ。


 大意を採ればそうなるのだろう。


 見事な歌唱が笛と銀輪の連なりに加わって神楽を造り上げていく。

 いったいこの喉が呪詛ずそ以外の言葉を紡ぐのは、いつ以来のことだろうか。


 セルテは思い、天を仰いだ。

 そこには本当には天などない。

 星も、月も、ありはしない。

 井戸の底のような断崖絶壁があるだけ。

 そうだとしても、このいっときの《夢》は現実だ。

 そう思い、目を細めながら見上げた先に、セルテは月を見た。


 本物の月を。

 

 静かに光を放つ月輪を背負う“神”の姿。

 脚長羊に跨がった。

 奉じるべき我らが神:〈イビサス〉の帰還を──。


 ああ、ああ、とセルテは泣いている。

 いつしかその唇が紡ぐのははふりのことば。

 帰還を、“神”の再臨を言祝ぐことば。

 もしかしたら、それは、重荷を下ろし逝くことができるかもしれぬという──葬礼ほふりの予言。

 

 ざざざざざ、という音とともに〈ハウル・キャンサー〉を為していた《ねがい》が解けて梳けて、セルテの身体から剥がれていく。

 

 真っ黒い蟹の群れが去ったあと、そこにはもはや枯れ果てた少年の裸身が転がるのみ。

 そのかたわらに〈イビサス〉──いや、脚長羊に跨がったイズマが現れる。

 あ、あ、あ、と泣きながら、しかし歓喜の涙を流しながら、セルテは枯れた手を伸ばす。

 イズマは応じて羊の背を降り、その手を握り返す。


 わかったよ、と頷いて見せる。

 引き受けるよ、と約束する。 


 それで最後の心残りが、とけていく。





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