■第九夜:〈ハウル・キャンサー〉
かしましくも慌ただしい休息の夜が明けた。
万全とはいかないまでも体調を回復させたイズマたち一行は、シダラ山大空洞最下層、暗殺教団:シビリ・シュメリの本営へと侵攻を開始する。
肉体と心を苛む土蜘蛛の拷問は想像を絶する。
常人では四半刻も持てば良いほうだ。あまりの苦痛に情報を洗いざらい吐いてしまう。
だが、カルは情報を得ようという目的だけでなく、ある種の楽しみとして、それを行うという。
嗜虐と調教に愉悦を感じる性。
一刻も早く、その魔手から囚われの姫巫女:エレを救い出さなければならない。
かつて、彼らの神:〈イビサス〉を祀る社に至るため使われたであろう参道を、逆巻きに巡る救出行にイズマとエルマは臨んだ。
そのイズマたちに、本心はいまだ明らかでないものの真騎士の乙女:ラッテガルトは同道を申し出た。
この地にはびこる不浄を滅する、と公言してはばからない戦乙女が、シビリ・シュメリ中枢へと辿り着いたとき、どのような行動に出るのか。
それはイズマたちにもわからない。
だが、いまはすこしでも共闘できる要素があるのならば、その戦闘能力を借り受けたい、というのが絶望的な戦力差を相手取るそれぞれの本音ではあっただろう。
互いをいまだ完全には信じ切れないまま、逸る心を抑えながらも最短距離を行くべく、急峻な壁面に作られた不安定な足場を降りる一行の眼前に、それが姿を現したのは突然のことだった。
断崖絶壁の途中に、傷跡を思わせてぱっくりと口を開けた亀裂から姿を現したのは醜悪な蟹を思わせる巨怪。
それは蟹の背に人型を磔にするようにして取り込み、造り出されたおぞましきバケモノ。
轟々と音を立てて周囲の空気を吸い込む裂け目から姿を現した巨蟹のごとき悪虫:〈ハウル・キャンサー〉は、一行への憎悪すら感じさせる貪欲さで襲いかかってきた。
戦いの火蓋は、真騎士の乙女の一撃によって開かれた。
ほとんど垂直に切り立った断崖にしがみつくようにして設けられた足場から、戦乙女は飛翔する。
使用者に翼を与える真騎士特有の異能:《ウィング・オブ・オデット》
空を舞う能力を持たぬイズマとエルマ=ふたりの土蜘蛛を庇うように、己へと巨蟹の注意を引きつけるべくラッテガルトは大技を放つ。
いや、あるいは、このふたりに己の力、真騎士の《ちから》を見せつけようという心算があったかもしれない。
いずれにせよ、この巨大な敵に先手を打ったのは、ラッテガルトだった。
「行け! 我が──翼あるものの眷族たち!」
一斉に飛び立つ渡り鳥の羽ばたきを思わせる轟音とともに、光り輝く光弾の群れがラッテガルト操る聖槍:〈スヴェンニール〉から飛翔していく。
死を告げる輝翼の群れ:《スパークルライト・ウィングス》──まばゆく瞬きながら超高速で飛来するその鳥たちは、光の翼の中心に重質量の砲弾を抱え込んだ死の翼だ。
それが蟹を思わせる巨大な悪虫の装甲を削り取り、脚をへし折る。
だが、それでもバケモノは止まらない。
荒れ狂い、ますます勢いを増して襲いかかってくる。
ほとんど垂直に切り立った断崖絶壁。
狭い渓谷のその壁を、足場を打ち壊しながら、まるで地面であるかのように平然と這い進んでくる。
エルマを横抱きにしたイズマが、必死にその脇をすり抜け、駆け下る。
立て続けに足場が崩落していくよりも疾く。
「くっ」
巨怪:〈ハウル・キャンサー〉の常軌を逸した勢いに、ラッテガルトはまき散らされる石片と落石を蹴りながら飛翔の異能:《ウィング・オブ・オデット》を羽ばたかせ、いったん上空へと逃れようとする。
その機動を援護するように、聖槍:〈スヴェンニール〉に帰還する光弾の群れがバケモノの進路を塞いだ。
さしもの巨蟹の怪物も、追撃を緩める。
岩肌に着弾し砕け散る光翼が、奇怪な姿を鮮やかに浮かび上がらせた。
「セルテ!」
姫巫女:エルマが叫んだのは、そのときだ。
巨蟹の背に磔にされたようにして一体となった人物に、どうして同胞の姿を見出したのか。
冷酷非情で知られた土蜘蛛の凶手、その実力において姉であるエレに続くと称され、逃れようのない呪殺を得手とするはずのエルマが、ひどく動揺した様子で手を伸ばしながら言葉を続けた。
「セルテ、セルテ! どうして! どうして?! やめるんですの、もう、戦う理由なんてないんですの! わたくしです! わたくしと──〈イビサス〉さまが戻られたのです!」
イズマに護るように抱きかかえられたエルマの喉から悲痛な叫びがほとばしり出る。
だが、わずかな時間、聖槍:〈スヴェンニール〉の光弾に足を止めた悪虫はその言葉に耳を貸すどころか勢いを増し、むしろエルマを標的として捉え直したかのように激しい侵攻を再開した。
「やばいっ」
イズマが尻の帆をかけ逃走にかかる。スタコラ逃げながらも、訊いた。
「アレ、だれ? 知りあい?」
「セルテ、セルテですの! あの背に取り込まれたコは!」
おぞましい蟹の姿を模したバケモノの背に見えた彫像のごとき存在を指して、エルマはそう指摘するのだ。
取り乱した叫びは要領を得なかったが、イズマの記憶を呼び覚ますには充分だった。
「セルテ、って──カルの補佐をやってたコじゃないの!」
鳴り響く轟音のさなか、イズマがエルマに問い直す。
「背中に可愛い男のコいるなー、とは思っていたけど、いくらなんでも、そりゃ飛躍しすぎじゃないの?」
客人として訪れ、盗人として神を奪ったイズマである。
ベッサリオンの一族とは、ほとんど接触を持ったことがないこともあり、突然すぎることのなりゆきに、半信半疑という思いが拭いきれずある。
けれども対するエルマの側は、その疑問をきっぱりと否定した。
ふるふる、と首を左右に振る。
「間違いありませんの。むかし、お別れを……わたしたちに告げに来たあと、消息がわからなくなって──ボクは男だから巫女にはなれなかったけれど、一族の礎にはなれますからって」
まさか、まさか、こんな、こんなことになっているだなんて……。それはイズマによる神奪を幇助した罪により、罰せられ凶手として仕込み続けられてきたエルマが、やっと知りえた残酷な事実だった。
「じゃ、あれか……背中に張り付いてる裸身の美少年は?」
イズマが器用に首だけで振り返り確認する。
「はい。そう、そうですの」
間違いありませんの。エルマは泣いてしまって、言葉にならない。
唇が色を失い、わななく。
「セルテダラール。その──成れの果てですの」
土蜘蛛の美少年:セルテはエルマとエレより年下の、それも社の巫女たちを昼夜を問わず護衛するため、そして雅楽を奉じるため男性機能を自らそぎ落とした、いわば宦官である。
その女性と見紛うばかりの美貌と白い肌が、化け物の甲羅に場違いな彫刻のように張り付いていた。
巨蟹の背、すり鉢状にへこんだふたつの器官に挟まれた場所に、彼:セルテはいたのだ。
なんということであろうか──それこそは“狂える老博士”と棟梁:カルカサスの密約と実験と成果。
そのひとつだというのだ。
「あれが……あんなのがカルと“狂える老博士”どもの仕業だっていうのかい」
「神を取り戻すために、必要不可欠の実験・犠牲=献体だったと、兄さまは」
「やりすぎでしょ!」
ゆるせねえ! 言いながらも、イズマは素早く位置を変える。
エルマを抱きかかえているとは思われぬ滑らかな動きで、ほとんど垂直の崖に設けられた足場を移動する。
それでも飛翔するラッテガルトのように、とはいかない。
つい先ほどまでふたりが話していた場所を、悪虫の化け物と化したセルテの巨大なハサミが襲う。
硬い岩塊ごと、足場がまるで柔らかいチーズでも切断するようにあっさりと斬り捌かれた。
「あの切れ味! ありえないわー」
口調はふざけているが、逃げるイズマの顔は笑っていない。
「神様創ろうって発想もどうかと思うけど、その材料に身内を使うかーッ」
「人身御供を捧げてでも、神に見守られていたい──そう《ねがい》続けてきた一族の末裔ですもの、わたくしたちは」
心底済まなそうに言うエルマに、イズマは二の句が継げない。
先祖代々、ベッサリオンの民は、荒神:〈イビサス〉を奉り、その威を持って周辺氏族を治めてきた。
そこに携わることは棟梁として、また選ばれし巫女たちにとってなにものにも替えられぬ栄誉であり、同時に拠って立つべき精神と現実両面での支柱であったはずだ。
たしかに荒神:〈イビサス〉は生贄に美しい巫女たちを要求する荒ぶる神であった。
だが、実際に現世利益として、あるときは強大な竜を退け、あるときは敵対する氏族を打ち負かし、一族に富と繁栄をもたらす──その意味で、民による奉神に対して相応に見返る存在ではあったのだ。
そして、彼らが営々と奉じてきた神を奪った男──元姫巫女であるエルマの告白を聞くイズマの心中は、さすがに複雑だ。
走るイズマの背中側で、鉄の格子が勢いよく落ちるような音が絶え間なく響いてくる。
壁が振動に激しく揺れ、不意の落石が身体をかすめる。
「それにしたって、度が、過ぎるってば!」
崩落し、跳ね飛びながら高速落下してくる拳大の石が頭部に当たれば、簡単に死ねる。
上空からイズマたちの窮地を見て取ったラッテガルトが高度を下げ、死角であろう背面からセルテ本体を打ち据え、ターゲットをふたたび自分へと向けようとした。
その瞬間だった。
ラッテガルトは、見る。
ところどころに緑青を噴いた銅を思わせる甲羅の中心で、ひときわ映える美しい、それゆえにいっそう痛々しい少年の双眸が、長いまつげを震わせながら、ゆっくりと開かれるのを。
同時にその喉が、歌うように伸ばされたのを。
歓喜の頂きを迎えたように反らされた喉から紡ぎ出される韻律は、しかし、どす黒い縛鎖となってラッテガルトに群がった。
セルテの両脇に開いたクレーターを思わせる穴のような器官から、文字がエネルギーを得て飛び立つ。
禍々しい呪文の列。
文字通り可視化された呪いの詩が、ラッテガルトを捕らえるのだ。
這いよる呪い:《サーペンタリウス・ヴェノム》──臓腑を侵す、剣呑な呪いだ。
「まずいぞ、ありゃあ」
見上げれば、絡みつく無数の海蛇を思わせて、呪いの束がラッテガルトを捕らえる瞬間だった。
イズマは壁面を一気に増速してアクロバティックな動きで降りると、エルマを張り出した足場に下ろす。
激しい揺れにも関わらず、保存の呪いを練り付けられたロープによって括られ、しっかりと組木で噛み合わされた足場が生きていた。
柔軟性のある構造が崩落を防いでいたのだ。
「だいじょぶ?」
ケガはないかい? ここを任せてだいじょうぶかい? ふたつの意味でイズマが訊いた。
「行ってください。わたくしはわたくしの仕事を」
「ごめん」
言うが早いか、落石をからエルマと近隣の足場を護る結界を張り終えると、イズマは駆け出した。
怒りに燃える毒虫に群がられた白鳥のように踠きながら不規則な軌道を描いて落下するラッテガルトのもとへと。
そのあまりの思い切りの良さに、残されたエルマは嘆息するしかない。
「ほんっと、振り返りもしないんですから……わたくしが信じられているのか、あの鳥女にご執心なのか──それとも兄さまのこと怒ってらっしゃるのか。……どっちにしても、ステキなんですけれど」
恋の病がその根をついに頭にも生やしてしまったのだろう。そんなイズマをエルマは愛しいとしか思えない。
切なく溜め息してから、落石を受け、砕け散りいっそう不安定になってしまった足場を駆けはじめる。
黙って主の帰還を待つほど土蜘蛛の娘:エルマのメンタルは、従順でも正常でもない。
いざなにかあったとき、イズマのかたわらに自分がいなかったことを後悔する、そんな生き方はもはや想像することさえできないのだ。
その間にもイズマはセルテの振り下ろす幾本ものハサミと脚とをかいくぐり、ラッテガルトに迫ろうとしていた。
その途端、セルテの腹部──蟹の腹側がばくり、と開き、そこから奇怪な生物が無数に溢れ出した。
生命としての繋がりを無視した造形物の数々。
呪いと許されざる生体実験で造り出された哀れな生物たち。
共通していることはそのどこかに必ず美しい少年少女の顔が設けられていることだけだ。
「おえええええええっ、な、なんじゃこりゃあああ!」
イズマは思わず声を上げてしまった。
そして、その正体に気がついた。
「こいつら……ぜんぶ人形か!」
追いすがるそれを打ち払えば、からり、とたしかにがらんどうな音がした。
セルテは“狂える老博士”たちによって「神へのきざはし」と称されてた人造のスピンドル伝導器官:〈グリード・ゲート〉を移植されながら、これまで生き延びた数少ない成功例であった。
失われた神の代理となるべくして与えられた《ちから》の顕現により、ベッサリオンの一族への求心力を取り戻させる役目を担った。
だがその肉体に付加されたスピンドル伝導器官:〈グリード・ゲート〉は強力な捕食衝動を生じさせもした。
ひとり、ふたり──最初はゆっくりとだった。
だが、やがてそれは着実に回数と速度とを上げ、セルテは次々と周囲の存在を喰らうようになった。
その《ちから》は獲物を喰らえば喰らうほど強化され増していく。
あるいはセルテが焼き切れず生き延びることができたのは、この捕食によって、それら犠牲者たちを命を代償にしたからかもしれない。
このいびつな人形たちは、そうやって捕食された犠牲者たちの成れの果てだったのだ。
命を抜き取られ、内側を食われた。
「ちぇええええいッ! めんどくせえええ!!!」
まとわりつく人形を振り払い、振り下ろされるハサミの雨をくぐり抜けて、イズマはついにラッテガルトに追いつた。
「ん、ぎ」
イズマの唇から、思わず声が漏れた。
ぐん、と両腕に荷重がかかる。
イズマの手が触れた瞬間、ギリギリで維持されていた真騎士の飛翔能力:《ウィング・オブ・オデット》の効果が切れた。
小柄とは言ってもそれは標準的な真騎士の乙女に比してであり、筋肉質のラッテガルトはそれなりの重量がある。
そこに金属製の甲冑と、小型のランスとも言える〈スヴェンニール〉が加われば総重量で一〇〇ギロス近い。
イズマは全身をクッションにして受け止めなければならなかった。
わずかに残った足場がイヤな音を立てて軋む。
もし、〈イビサス〉の肉体でなければ背骨が折れる前に肩の関節が抜けていただろう。
「ちっきしょ、重てえエエエ!!! つか、これって考えてみりゃアイツ──脚長羊の仕事じゃんか!」
そんでもってこの甲冑、邪魔ッ、ちっとも感触が楽しめないっ。
この状況でそんなぼやきが言葉になるあたり、なるほど、イズマという男は規格外だ。
ラッテガルトに群がる真っ黒い呪詛をイズマは手で払いのけ、転がるようにして遁走に移った。
「《クラウド・モンキー・ストライド》!!」
重力偏向と移動に関する異能を発動させ、まさしく渓谷を渡る猿のように、崩落する岩塊や木材すら足場に使いながら、ジグザクに跳躍し、駆ける。
「イズマさま!」
仕掛けますッ、といつのまにか追いついて来ていたエルマが声をかけた。
切迫した状況では、こうして異能発動の連携のタイミングを計る工夫が重要だ。
「《アグレッサーズ・ラフ》!」
叫びつつ、懐から人型を模して切り抜かれた紙片を飛ばす。
くつくつ、とヒトをいらだたせるような笑い声とともに、全身に明滅する文様をもつ影絵の女性像がいくつも現れ、猛追するセルテを引きつける。
仮想敵の名の通り、精神に働きかけ苛立たせる笑い声で無視しがたい敵視を誘導する異能である。
撤退戦術や、相手を罠に釣り込むときなどに重宝する柔軟性の高い技だ。
殺傷能力や広範囲殲滅能力だけが異能のあり方ではない。
むしろ局面を大きく変えるのは、このように一見地味な技であることが多い。
同時に、イズマの手には銀糸が巻き付く──これは乱舞する《アグレッサーズ・ラフ》に惑わされず的確に逃走経路を指示するエルマの心遣い、気配りだ。
その糸に導かれ、影絵を相手取るセルテを、ついにイズマは振り切った。




