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■第六夜:妄執の窟(あな)

         ※


 いずことも知れぬ暗がりで、男女の声が低く反響する。

 炊かれた香は阿片あへんの類いか。

 あるいは、もっと恐るべき人智を超えた麻薬か。

 それは束縛され自由を奪われた女の汗と混じりあい、理性を覆い思考を奪う薄絹の帳のように揺らめく。

 ただただ、肉の感度だけが研ぎ澄まされ、残酷にも、鮮烈となる。

 

 吊るし上げられ屈辱的な姿勢を強いられる女は、土蜘蛛の姫巫女の片割れ、エルマの姉:エレ。

 そして、そのエレを責め立てるのは、実兄であるカルカサスに相違なかった。


「お前の主人は誰だ、エレヒメラ。言ってみろ」

 もういったい幾度目になるだろうか。カルが訊いた。

「兄さま……カルカサス兄さま、です」


 そして、その問いかけに、エレもまた、壊れてしまったかのように同じく返す。

 ぶるりっ、とその肌だけが尋問の再開と、これから加えられるであろう残酷な快楽に震える。

 カルが続けた。


「そうだ。お前を育てたのはこのわたしだ。愛を注いだ。誇りであった。ふたりの妹のそのどちらもが、我が神:〈イビサス〉のちょうを賜るべき巫女となったのだから──だが、お前たちふたりは、その兄の信頼を裏切った! そればかりでない」

 オマエは、オマエたちは、その資格を奪い去った男──イズマガルムへの恋慕・思慕から、ヤツが我が神を強奪するを、さらにはその後、逃走するまでを手引き、手助けした。

 カルは自身にとっての真実を並べる。

 かつてはエレとエルマも信じていたを。

「だから、わたしは、オマエたちを、二度と逆らえぬ身体にした。オマエたちも悟ったはずだ。自分たちは裏切られたのだ、と。真に憎むべきは、あの男:イズマガルム・ヒドゥンヒなのだと!」


 エレの脚線に指と唇を這わせながらカルカサス──カルは言う。

 静かな口調が押さえ切れぬ激高に昂ぶり、熱を孕んでいく。

 エレは手足を左右に開かれるカタチでまとめて拘束され、吊るされている。

 もう、どれほどそうされているのかわからない。

 心と肉体カラダが壊れぬギリギリを保ったまま責め抜かれ、すでに七日。

 肉体も精神もとっくに限界を振り切ってしまっていた。

 

「そして、オマエたちが改心したからこそ、わたしは、その嘆願を聞き入れたのだ。貴重きわまりない先祖伝来の《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉を貸し与えた。博士どもの忠告を退けてまで、だ。家宝であるあの《フォーカス》は、おまえの血によく馴染んだだろう? それまで、ずっとお前たち姉妹の肉に埋まっていたものだからな? だが、それなのに、エレ、オマエはッ!」


 カルの指と唇と舌がエレの根元にたどりつく。

 形容することをためらわれる幾多の道具と、手練手管──犠牲者の肉体と心を苛み、言葉を引き出すそれら。

 ひとしきりエレを嬲ると、カルはわれに返ったように冷静になる。


「ふたたび、この兄を失望させた。怨敵を取り逃がしたばかりか、〈ジャグリ・ジャグラ〉を喪失──持ち帰ったのはコントロール・デバイスである竜皮の包みのみ。そして、末の妹、エルマメイムは未帰還──どういうことだ?」

「敵に──イズマガルムに捕らわれて」

「では、その位置が掴めぬのは、イズマガルムの呪術が探知を遮断していると、そういうのだな?」


 カルの手がエレの肉体を荒々しく掴み、捏ね、捻り上げる。

 エレは悲鳴を上げる。

 忌むべき人体改変の魔具:〈ジャグリ・ジャグラ〉によって長きに渡り、欲望の限りを追求された肉体は意志の力を振り絞っても、男の責めに抗えない。

 手酷く泣かされながら、エレは認める。

 

 これはすでに何十回もこれまで行われた手順。

 同じく確認された情報だった。

 幾度も同じ質問を繰り返すことは尋問の基礎であったが、すでにカルのそれは詰問や拷問を通り越し、洗脳の色を帯びはじめていた。

 

 シビリ・シュメリ棟梁であるカルの、エレへのこの執着には理由がある。

 貴種の土蜘蛛たちの間では、近親婚はそう珍しいことではない。

 事実、カルたちの父母も姉と弟の関係だった。

 特に、暗殺教団の棟梁=教主の家系であれば、その結びつきにより、より濃い血を得ようとすることは不思議でもなんでもなかった。

 異能の源泉:《スピンドル》の発現が、血統に寄るものだと人間たちでさえ信じていた時代のことだ。


 幼い頃、エレは兄であるカルを想っていたし、カルもまた、そうであった。

 神である〈イビサス〉に選ばれたからこそ、その想い、恋慕・思慕を封じ込めることができたのだ。

 しかたないことだ、と諦めることもできたのだ。

 だが、イズマガルムという他所者に妹も神も奪い去られたことで、その封が引きはがされ、歪んだ愛が噴出した。

 それがカルという男の根底を形作っていた。

 エレの体液と己の唾液で濡れた唇を拭いながら、カルは言った。


「ところが、ついさきほど、ついに我が呪術がエルマの所在を捕らえた。どこだと思うか? そうか、答えられぬか?」


 驚くな、このシダラの山頂、〈イビサス〉のやしろ、我らの頭上だ。

 新たな事実をカルはぶつけた。

 びくり、とエレの肉体が震えた。

 夢に逃避するように閉じられていたエレの瞳がこぼれ落ちるほど見開かれた


「これは確かめねばならん。そうだろう?」

「兄さま、カル兄さまっ、お願いです、お願いします、わ、わたしはわたしはどうなってもかまいません、でもエルマは、あのコだけは、ゆるして、ゆるしてやってください」

「許す、とはどういうことか? 無論、大切なわたしの所有物だ。この手に取り戻す。──なにか不安があるのか?」


 妹を一方的に所有物と言い放つカルの性情はやはり歪んでいる。

 事実、その涼しげな容貌とは裏腹に、自分以外の不特定多数にエレとエルマが組み伏せられ玩弄されるのを見ては己のなかで憤怒や憎悪、嫉妬とともに、欲情を逞しくする癖がカルにはあった。 

 狡猾で大胆だが、同時に激しい疑心暗鬼をその心に飼う男である。

 

 むかしは、そうではなかった。


 いまでも、ときおり、自らを求めるカルの運指や息遣いに、かつてまっすぐに自分を愛してくれた兄の残滓をエレは感じ取ることがあった。

 大切な玉をあずかるように、そっと包んでくれた兄であった。

 お互いが特別だったのだ。

 

 その男が問う。

 

「エレ、まるで、エルマが裏切ったかのような物言いではないか」

「ちがいます、我らは決して兄さまを」

「いまにわかる──すでにダジュラガラを向かわせた」


 ぶるり、とまたエレが震えた。

 ダジュラは従兄弟いとこ筋に当たる男であり、エレとエルマを屈服と服従を馴致した男たちの筆頭であったからだ。

 他者に恥辱を与えること、屈辱に泣かすこと、そこに喜びを見いだす性情であった。

 エレとエルマが執拗に夜魔の姫:シオンザフィルを辱めようとしたのは、この男から受け続けた仕打ちのせいであったかもしれない。


 ああ、とエレは声を出してしまった。

 エルマをイズマの腕のなかに押し込んだことを、思い出していた。

 あの方がきっとそこにはいるだろう。

 だが、あれほどの巨大な《転移門》を開いたのだ。激しく消耗されているに違いない。

 そうでなければエルマが、あの賢いコがいまになって、それもよりにもよってシダラの山頂で見いだされるはずがない。

 土蜘蛛の探知の技の届かぬ海に囲まれた離島にでも逃げればよいのだ。

 そうでないのには理由があるのだ。逃げることのできぬ理由が。


「おかしなことだ。これほど近くにおるのなら、なぜ帰還せん? おかしなことだ。そうであろう?」


 ガチガチガチッ、とエレの歯が鳴った。

 兄は、カルは疑いを持ってしまった。エルマが裏切りを働いたこと、そしてイズマがそのほど近くにいるのではないか、ということに。

 そうなった以上、カルは徹底的に確かめるだろう。

 その疑心暗鬼の根源を探し出し、首根っこを押さえ、くびった相手を焼き尽くし灰に帰すまで決して手を休めることはない。そういう男なのだ。


「そして、エレ──また、わたしに嘘を吐いたな?」 

「兄さま、エレなら、お傍に、ずっとお傍におります。下僕に、奴隷になります。身も、心も、差しあげます。どんなご要望にもお応えいたします。ですから、ですから」


 蒼白になり、涙ながらに訴える妹の姿に、カルは酷薄な笑みを浮かべた。


「なんと、血の通った告白であることか。この数十年、これほど血の通った愛をオマエから告げられたのは、初めてのような気がするぞ。変わったな、エレ?」


 完成された凶手として、恐れられたオマエはどこに行ってしまった?

 己を騙して捨てた男への憎悪に身を焦がし、復讐を誓ったオマエはどこに行ってしまった?

 奉ずるべき神を、〈イビサス〉を、そして、その巫女としての幸せを奪い去った男への怨念はどこに行ってしまった?


「またしても、イズマに、あの男にたらし込まれ──肝を抜かれたな?」


 許せぬ、とカルは呟いた。

 からりからり、と入り口にかけられた呼び鈴が鳴らされたのはその時だ。


「ダジュラガラか。もどったか。早かったな。入れ」

 自らの妹の裸身・痴態を他者にさらすことになんら良心の呵責もないのか、帰還した尖兵に入室をカルは許した。。

 いや、おそらくは真逆であり、その怒りをこそ己の原動力とする精神性をカルは持ち合わせているのだろう。

 あっさりと応じ、ダジュラは戸口を兼ねるぶ厚い布を潜って現れた。

 カルのかたわらに膝をつく。


「首尾は?」

「手勢を──四名、失った」

「アラガミ兵を、か」


 信頼する腹心の失態に、カルの瞳が細くなった。

 しかし、ダジュラの歯に衣を着せぬ正確な報告は、棟梁としてもっとも重視せねばならぬところであり、叱責するわけにはいかない。

 むしろ、この被害の大きさは、自らの予見が正確だったことの証だ。

 

「やはり、イズマガルム──」

「それだけではない。エルマメイムが叛逆。そして、もっとも重要なのは」


 そこまで言うと、言葉を切り、ダジュラは立ち上がるとカルにだけ聞こえるように囁いた。

 カルの雪より白い肌が血の気を失い、深紅の瞳が見開かれた。

 

「まことか」

「誓って」

「エルマの位置は」

「ふたたび失探した。だが、それ以前に、あれほどの《ちから》の放出を感じ取れなくなることなどありえん。強力無比な結界の内にでも入らぬ限り──たとえばシダラの御山のような」

「そして、いまだ、ここに辿り着けぬということは……理由があるのだ。そうでないなら、もはやここは戦場と化しているはず」

「完全では、ないということか」

「“ヒガメ”と“ヒガミミ”は?」

「無事なれば、一部始終を語ってくれるだろう」


 “ヒガメ”そして“ヒガミミ”とは諜報に特化するため、己の五感のうちのひとつ以上を代償に捧げた者たちである。

 すなわち“僻目ヒガメ”・“僻耳ヒガミミ”。

 不具となる代償に、彼ら彼女らは遠見の異能、遠話の異能に長けた存在となった土蜘蛛独自の職能である。

 むろん《スピンドル》の血筋。

 

 カルはダジュラ率いる部隊の行動を“ヒガメ”と“ヒガミミ”に把握するよう命じていたのである。

 

 いっぽうで、束縛されたまま事情を知ることもできぬエレには、カルの動揺が〈イビサス〉の帰還に起因しているなど、思いもよらない。

 ただ、イズマガルムとエルマが無事であり、土蜘蛛のそれも、肉体改造を施された存在:アラガミ兵を退けたことに安堵を憶えていた。

 その気配を捕らえたのだろう、カルは振り返り、爛々らんらんと光る眼差しでエレを見下ろした。

 

「イズマガルム──あの男が現れたそうだ。それも、エルマを伴って」


 知っていたのか、とカルは無言で問うた。

 エレの返答は沈黙によってなされた。肯定の沈黙だった。

 カルの美貌に、老いに似た皺が浮かんだ。


「三度、わたしを謀ったというわけだ。もはや許せぬ。オマエの心が、どこにあるかは語るに落ちた。実の妹なればこれまで躊躇してきたものを……」

 博士どもを呼べ、とダジュラに命じた。

「奴は、ここへ来る。その目的が、わたしの殺害か、オマエの奪還か、それはわからぬが。だが、ならば仕掛けようはある」


「兄さま、イズマさまは──あの方はすでに、我が神:〈イビサス〉を超えられた方です。そのはるか、ずっと先におられる方です」

「あの方などと呼ぶなッ、さまなどと敬称をつけるなッ──アイツを、奉るような物言いはよせッ!」

 いいか、エレ、とカルが言った。

「一族の衰退と離散、それに続く放浪の日々のなかで我らが味わった辛苦を忘れたとは言わせんぞ。わたしたちからすべてを奪い取った男──イズマがすでに〈イビサス〉の《ちから》を得ているというのなら、我もまた、奪い返すのみ」


 その《ちから》に代わる術を、すでに我らは得ておるわ──カルの面貌が悪鬼のごとく歪んだ。


「かつて〈イビサス〉は龍殺しの英雄であった。ならば、わたしは、我は、このカルカサスは神殺しをもってそれを乗り越えようではないか」

 オマエにはそのための捧げ物になってもらう。


 狂気に血走った目でエレを覗き込むカルの背後から、音もなくとうていヒトのシルエットではありえない者どもが入室してきた。


 “狂える老博士”ども。


 まるで呪詛のように途切れなく囁きかわすその声が、すべて狂った彼らの理論と議論が、部屋を満たしていく。

 その韻律いんりつが、兄の耳朶からその中へ流れ込み、頭蓋を占領していくのをエレは、たしかに見た。




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