■第三夜:荒神と忘れられた塚の王
時ならぬ──颶風。
それは土蜘蛛の男たちを跪かせるほどの《ちから》を持っていた。
同時に、エルマの集めた《スピンドル》をそれは吹き散らした。
ダジュラは、エルマは見たのだ。
その姿:〈イビサス〉を。
彼らがかつて崇めた奪われし荒ぶる神が降臨するのを。
ボギン、と胸の悪くなるような音がした。
重力と慣性を無視した動きで舞い降りた〈イビサス〉が戦士の首の骨を、まるで小枝でもへし折るかのようにねじるのをダジュラは見た。
そして、その肉体が変形し巨大な顎門となって──犠牲者を貪り喰らうのを。
ごしゃり、ぐしゃり。
音は二度だけだった。あとには血しぶきすら残っていなかった。
おそらく、たったいま〈イビサス〉が行ったことは相手の肉体ではなく、存在そのものを喰らう、そういう行為だったのだ。
「不味い」
ふううううううううう、と天を仰ぎ呼気を白く立ち上らせながら〈イビサス〉は言った。
「これほどの空腹でなければ──とても耐えられん」
きろり、と黄金の甲冑から覗くルビーの瞳が周囲を睥睨した。
一瞬、土蜘蛛たちは思考停止に陥った。
だが、そこは熟練の戦士たちだ。考えるよりも早く肉体が反応した。ふたりが同時に襲いかかった。
タイミングをずらした突き。
確実に相手の甲冑の隙間を抜くための攻撃だ。
その刃がぱきん、と乾いた音を立てて次々に折れた。
荒神:〈イビサス〉は防御さえしなかった。
ただ、刃の触れた個所があの顎門のように開き、刃を齧り取ったのだ。
近接戦闘で突然、無手になることは致命的な状態だ。
それがたとえ、格闘の技に長けた土蜘蛛の戦士であったとしても。
ましてや、己の外皮を瞬時に次元の穴ともいうべき顎門に変え、触れたものを無制限に飲み込む異能を帯びているバケモノ相手で、あればなおのことだ。
ふたりの戦士たちは自らが訓練によって克服し、完全に支配下に置いたと思い込んでいた古い感情が、復讐に燃える竜のように臓腑のそこから突き上げてくるのを感じた。
すなわち、もっとも古い感情──恐怖である。
おまけにその感情には圧倒的に具体的なカタチが伴っていた。
彼らが忘れかけた彼らの神:〈イビサス〉の姿をそれはしていたのだ。
がしり、と戦士たちは自らの頭部をその手が掴むのを感じた。
そして、ふたりの戦士は同時に、永久にこの世界から姿を消した。
当の〈イビサス〉は不満げに首を振るばかり。
余の舌は、これを唾棄すべきと判断する、といわんばかり。
だしぬけに振り返った。
そこにはふたりの人影が残されていた。
ひとりは、《グラップラー・ワーム》に捕縛されたままのエルマ。
もうひとりは、《ストラングラー・ヴァイン》に拘束されたラッテガルト。
そのときにはもう、襲撃者たちの司令官:ダジュラは、生き残ったもうひとりの直衛とともに姿を消していた。
引き際のうまさは優秀な司令官の条件である。
荒神:〈イビサス〉はまず、エルマに向かった。
なにが起こったのか把握できない様子のエルマを〈イビサス〉が覗き込んだ。
帰還せし神は愛しい男:イズマの顔を持っていた。
だが、エルマは一瞬で気がついた。
違う──これは、イズマさまじゃない。
その通りだった。
衰弱し消耗したイズマの人格を、力関係が逆転したことで組み伏せられていた〈イビサス〉が乗っ取ったのだ。
「淫らな匂いがするな」
エルマの奥を嗅ぎながら〈イビサス〉が嘲るかのように言った。
もし〈イビサス〉がイズマの顔でなかったなら、あるいは他の男だったら、エルマは怒りを覚えただろう。殺してやるです、と思ったことだろう。
けれども、愛しい男にそう評されたエルマの肉体は、羞恥に染まった。
恥ずかしい、死にたいくらい。
両手が自由なら、生娘のように顔を覆ったことだろう。
「蟲は邪魔だ。去ね」
だんっ、と〈イビサス〉が足を踏みならすと、その一動作だけで《グラップラー・ワーム》は足元に開いた召喚門に吸い込まれていった。
エルマは片足を掴まれ吊り下げられた。
はだけてしまった巫女服を必死に押さえる。
荒神:〈イビサス〉は立ったまま、エルマの品定めを行った。
エルマは羞恥と畏怖と官能とに翻弄されて鳴いてしまう。
「激しく紊乱しているが……これは、悪くない。口慰みにはなる」
そこまでしておいてからやっとエルマの臀部に腕を差し入れ抱き抱えると、ラッテガルトに向き直った。
質量的に不安定な姿勢を支えることも、荒神である〈イビサス〉にとっては造作もない。
圧倒的な膂力でエルマを捉まえると、玩弄しながら、ラッテガルトへと歩みよる。
汁気の多い果物を食したかのように乱暴に手の甲で口元を拭う。
その頃には、ラッテガルトはすでに窒息寸前だった。
異能:《ストラングラー・ヴァイン》──絞め殺しの蔓葛の名の通り、それは捕縛だけではなく、当たり所によっては相手を打撲と窒息で絞め殺す凶器である。
真っ赤に染まった視界のなかで、ラッテガルトはそれが歩み寄り、自分を値踏みするように見下ろしているのを感じた。
「ほう──真騎士の乙女──これは珍しい。器量は──どうか」
言うなり、〈イビサス〉はその手を振り下ろした。あまりに無造作に。
それだけ、たったそれだけで、ラッテガルトが渾身の力を振るっても、幾度《スピンドル》で焼き切ろうとしても果たせなかった《ストラングラー・ヴァイン》が、まるで綿菓子=真騎士たちの伝統的な菓子で雲のように軽く甘い砂糖菓子でも破り去るように裂けたのだ。
ラッテガルトは激しくせき込み、その場に頽れそうになった。
その肉体を〈イビサス〉は抱き留める。
己の腹にラッテガルトの顔を押し当てる。
「良い心がけだ。さあ、余の神気を存分に吸い込むが良い──快楽を与えよう」
ラッテガルトは抗えない。
肺が、血管が、血肉が、脳が酸素を求めていた。
肉体のすべてが貪るように求める大気に、〈イビサス〉がいつの間にかその肉体から発した光の粒──不可思議な粒子が混じっていても、拒むことができなかった。
いや、一息ごとに、ラッテガルトはそれを甘い、と感じるのだ。
大気が、いや、この存在の発する香気が──欲しくてたまらない。
どれほど、そうしていただろう。
呼吸が落ち着いても、ラッテガルトは陶然としたまま荒神:〈イビサス〉の腹部にすがりついていた。
「すっかり、余の魅力の虜か? まるで歯ごたえがない──ん? そなたは真騎士の乙女であろう? もう少し楽しませろ」
ぱちん、と荒神:〈イビサス〉が指を鳴らす。
それでラッテガルトは正気を取り戻した。
突き放すようにして飛び退く。
だが、実際には〈イビサス〉はびくともしなかった。
「貴様ッ、わたしになにをしたッ、何者だッ」
「矢継ぎ早だな、真騎士の乙女。相手の名を問うときは自ら名乗るのが礼儀ではないか?」
「──貴様ッ、オーバーロードかッ?」
「礼儀をわきまえぬ上に、無知ときたか。命を助けられたのだぞ?」
くっ、とラッテガルトはほぞを噛む。
眼前の存在が尋常のものでないことは一目瞭然だった。
詳細は見逃したが、土蜘蛛の小戦隊をほとんど単独で壊滅させたのだ。
それも、圧倒的な戦いぶりで。
ぶるりっ、と震えが走った。
「どうした、怯えているのか? 警戒しておるのだな? しかたがあるまい。教えてやる。余は〈イビサス〉──この地に祭られた土蜘蛛の神の一柱にして、快楽と残酷を司るものなり。つまり、そなたは、余に捧げられた神饌というわけだ」
神饌──つまり供物として神に差し出された食事だと、ラッテガルトを指さして〈イビサス〉は言ったのだ。
「安心せよ──残酷とは言っても、我が子を孕む娘には余は限りない愛を持って接する。無論、石女であったなら──別の愛で応えるしかないのだが」
余の血肉となることで、永久にともにあれるのだぞ? 荒神:〈イビサス〉は己の温情の深さを噛んで含めるように説いた。
ラッテガルトは後ろ手に自らの槍:〈スヴェンニール〉を探す。
「これか? 真騎士の乙女の槍──見事なものよ。美しい。そなたのように」
左手にエルマ、右手に〈スヴェンニール〉を掲げ、〈イビサス〉は言った。
主以外には岩塊のごとく感じられるはずの〈スヴェンニール〉を軽々と扱う。
膂力、そして〈イビサス〉自身の質量が圧倒的なのだ。
その隣では衣服に潜り込んだ左手に暴かれ、果てしなく玩弄され続ける土蜘蛛の娘が逃げることもできず、許しを乞うている。
「だが、その礼儀知らずは、矯正せねばならんな」
どれ、槍を預かっておるがよい。言いながら〈スヴェンニール〉を地面に転がし、その上にエルマを下ろして〈イビサス〉は微笑んだ。
歩んでくる。
思わず後退ろうとして、ドン、と背中に柱が当たった。
気がつけば追いつめられている。
「な、なにをッ」
「話を聞いていなかったのか? そなたは神饌であり、そのうえ、神本人に命を助けられたのだ」
その返礼に身を捧ぐは当然であろう?
「ふざけるなっ」
「余は冗談が嫌いだ。礼節を守れぬ女もな。そういう輩を見るとどうしようもなく、教鞭を振るいたくなるタチでな」
ぐい、と押し倒された。
ラッテガルトは相手の顔面に肘鉄を食らわせた。
装甲化された右腕が直撃すれば、頬骨くらいは簡単に砕ける。
だが、荒神:〈イビサス〉はびくともしなかった。
唇から、血が細く流れただけだった。
「いいぞ、そうだ、そうでなければならん」
荒神:〈イビサス〉は血に彩られた唇に笑みを浮かべる。
一方で、衝撃を受けていたのはラッテガルトだった。
それは己の放った攻撃の威力についてだった。身体に力が入らない。
もはや自らの肌となるまで着馴れたはずの甲冑がまるで鉛の服をきているかのように重く、鈍く感じられた。
振り切ったはずの肘の一撃が、小娘の平手打ちほどの力しか発揮できていないことを思い知らされたのだ。
荒神:〈イビサス〉が強大なだけではない。
いまの自分は、極端に弱ってしまっている。
なぜだ、と問いが生じ、疑念に心が乱された。
だれよりも気高くならねばならぬ、志高く生きねばならぬ、そしてそれを貫くには誰よりも強くなければならぬ。
そう自らに言い聞かせて生きてきた。その自分が、まったく相手に歯が立たぬことで──ラッテガルトは初めて、恐怖に震えた。
その疑問を察したのか、〈イビサス〉が言った。
「さきほど、そなたは余の神気を吸い込んだであろう? あれは肺に突き立ち、血肉に混じる。そなたずいぶんと深く、大量に嗅いだからな。もう全身に回っただろうな? そうとも、身体が服従しようとしておるのだ、余に」
どうした、ほれ、必死に抵抗せんと──どうなっても知らんぞ?
涼しげな顔でさらりと告げる〈イビサス〉に、ラッテガルトは蒼白になった。
のしかかる肉体をはねのけ、立ち上がろうとするのに身体が──もう、ほとんど動けない。
「鎧のせいだな? 立てぬだろう? それに──」
荒神:〈イビサス〉は甲冑の上からラッテガルトの胸乳に触れた。
ぞくぞくぞくっ、と言葉にしてはならない感覚がラッテガルトの全身を走り抜ける。
「砂鉄が磁石に吸い寄せられ従うように、離れていても余を感じるようになっておる。ああ、これはもう手遅れだな。舌を噛むこともできまい? やってみよ? できぬだろう?」
悔しさに涙が溢れた。
その通りだった。
震える両膝をこじ開けられ身体を捩じ込まれた。
ラッテガルトはムチャクチャに両手を振るって〈イビサス〉を打ち据えた。その抵抗は〈イビサス〉の嗜虐趣味を満足させることにしか役立たなかった。
「お願いします、と懇願してみるがいい。許してください、と乞うてみるがいい」
「ふざけるなッ」
その返答に、〈イビサス〉は甲冑の一部を指で貫いた。
引きちぎった衣類を投げ捨てる。
「余を受け入れてしまったあとで、そんな口がきけるものか、たのしみであるな」
ラッテガルトにできたことは渾身の力で平手を食らわせることだけだった。
ぱちん、と軽い音がした。
そして、荒神:〈イビサス〉は嗤った──もはや懇願は手遅れだぞ、と。
快楽と残酷を司る──名乗りどおりの笑みに、己の尊厳を靴底で足蹴にされ汚される恐怖を見て、ラッテガルトが震えた瞬間だった。
「ふ、ざ、けん、じゃ、ねえぞ」
荒神:〈イビサス〉の口が、痙攣し、別人の声がした。
「誰ぞ?」
「ざけんじゃ、ねえ、と言ったんだ」
ぶるぶるっ、と重圧に抗うように〈イビサス〉の尊顔が歪んだ。見れば、その尊顔に、首筋に、いやいつの間にか青く光る光の帯が走っていた。
神が、動揺しているのか、声を震わせて言った。
「イズマガルム、きさま、なぜ? 消耗し余の裡に消えたのではないのか?」
「ボクちんのイケメンなりすましで、女のコ、手籠めにしようとしてんじゃねーぞッ!!」
轟、ともうひとつの声が──イズマが吠え哮った。
「いっつも言ってるだろがッ、美少女はッ、美人はッ、年齢に関係なくッ、世界のッ、至宝であるッと!!」
愛でてもいいが、穢しては、ならんッ!! イエス! 美少女! ノー、タッチ! どういう理屈かまったく不明だが、激しい怒りがそこには込められている。
込められているとしか表現できない。
神を圧倒するほどの表現の限界に迫る咆哮であった。
「ましてや、嫌がる女のコを、ムリヤリだと──ふざくんな!!」
「なぜだ、余が押されている」
「オメーの不埒な行動が、ボクちんの怒りに火をつけたんだッ──もとい、オメーが《ちから》を取り戻すために相手を吸収すればするほど、ボクちんも回復する。オメー、いっかいボクちんに負けたの憶えてないのかー、あったま悪ぃのか? ああん? かみさまだ、なんてふかしこいてんじゃねえぞ!」
なーんも安全装置仕掛けてないわけないっしょが! イズマが叫び、全身を走る呪紋が青い炎をあげる。練り上げられた拘束式に相違ない。
「ボクちんをだれだと思っているんでい! 危なすぎる天才(?)こと、天才:イズマさまだぞ!!」
あまりの成り行きに、ラッテガルトは身の危険も忘れて見守ることしかできなくなってしまっていた。
「あああー、ごめんねごめんね、真騎士の乙女さん、いまっ、いまっ、この見苦しいの片づけますからねー? ナイナイしちゃうからねー?」
深刻さのかけらもないイズマの言葉に、神が屈する咆哮がこだました。
※
「ほんっと、申し訳ありませんでしたッ。まっじすいませんでしたっ。このとーりでございまするっ」
恥も外聞もなく地に頭を擦り付けるイズマをラッテガルトは見下ろし、困惑するしかない。
「もー、ほんと、この腐れ神のやつめがとんだハレンチ・ハラスメントを働きましてッ、このたびはっ、ええ、もうっ」
後にさらりまんスタイルの正式な謝罪のカタチだとイズマに説明されても、ラッテガルトは事態をうまく飲み込めなかった。
ただ、あの〈イビサス〉から感じた高圧的で暴力的なプレッシャーが雲散霧消し、かわりに出てきたのが、なんというか形容にもこまる変人だったということだ。
「とりあえず、面を上げてくれないか……その、なんというか、それ以上は……わたしも困る」
「いえいえいえいえいえ、お許しいただくまでは、滅相もない」
ラッテガルトの申し出に、イズマはさらに額を地面に擦り付ける。
このまま、擦り続けたら磨り減ってなくなってしまうのではないかと思うばかりの様子だ。困ってしまう。
「いや、結果としてだが、貴方はわたしを助けてくれたわけで」
「あああ、貴方だなどと、そんな呼ばれ方をされましては恐縮恐縮」
「じゃあ、キミ?」
「恐れ多い恐れ多い」
「貴様?」
「イヒイイイイイ!!」
それっ、ジャスト・フィット!!──本当にイカレてしまったのではないかと危惧するほどのイズマの奇声に、身も心も引きながらラッテガルトは内心、汗をかいていた。
あ、これがいいんだ? と。
「では、貴様には礼を言わねばならないのだから──おっ、面を上げろ」
「サ、サイコーっスね」
まるで主人に許された犬のように、イズマは跳ね起きた。
額が擦り付けすぎて擦りむけている。
「子細を説明してくれるだろうか?」
「もちろんでっす」
「だが、その前に礼だ」
ラッテガルトはその様子に微笑んだ。
おかしな男だが、不思議と嫌悪は感じない。
膝をつき、手を差し出す。
握手のつもりだった。
「わたしは、偉大なるヴォーダの血を引く者にして、ミルヒメイヴの娘、真騎士:ラッテガルト・フィオレ・ダナーン。礼を言う。ありがとう──助かった」
「ボクちんは、イズマガルム・ヒドゥンヒ。偉そうな肩書きは……なにもない」
イズマは名乗り終えると差し出された手を押し戴き、甲冑に包まれたままの手の甲にくちづけした。
ああっ、とラッテガルトが声を上げてのけ反った。
左手で口元を必死に押さえ込む。
イズマの手から、自らのそれを引ったくるようにして奪い返し、身体を丸めて怯えた。
「え? あれっ、ねえっ、これは?」
「貴様──この、この責任は……取ってもらうからな」
涙目になり、恐ろしい形相でラッテガルトが睨んできた。
さっきまでの和やかな空気はどこへいったの? イズマはオロオロとするばかりだ。
それが真騎士の娘:ラッテガルトと忘れられた土蜘蛛の王:イズマガルムの邂逅だった。




