■第一夜:彼方での再開
それはあのカテル島での戦いを経てのこと。
巨大な祭器にして《フォーカス》、《御方》の遺骸であり同時に“門”──〈コンストラクス〉が見下ろす聖なる御座で起こった死闘と、その結末としての“聖母再誕”によって世界が裏返った後のこと。
カテル島から遠く離れた奇妙な岩山の頂上で、物語は再開する。
土蜘蛛の巫女:エルマは憔悴したイズマの唇に、己のそれをそっと合わせる。
ミツアリの腹部に溜め込まれた蜜を口中で唾液と練る。
ミツアリの蜜は土蜘蛛たちの間では最高の甘味とされ、砂糖よりも蜂蜜よりもはるかに尊ばれる。それを醸して神酒を造るのが、かつてはエルマとエレ、姉妹巫女の務めだった。荒ぶる神をなだめるため、その神酒を己が肉体を器にして捧げるのが自分たち姉妹の役目だったのだ。
その儀式の手順をなぞりながら、エルマはイズマに蜜を含ませる。
男の喉がこくり、と動いてそれを味わった。
たったそれだけのことなのに、たまらない愛しさが胸にあふれて、苦しい。
限界を超えて《ちから》を放出したイズマは消耗しきっている。
ほんの数日前、エルマと姉であるエレは、この男の肉体と心を呪いで括って、縛りつけて自分のものにしようとしたのだ。
イズマのこの激しすぎる消耗と昏睡は、そのせいだとも言える。
それだけではない。
イズマの愛するものを──嫉ましいほど美しく穢れないあの夜魔の姫:シオンザフィルを、汚泥で、恥辱で穢しつくし足蹴にしてやりたいと願った。
いや、その《ねがい》はいまだって、ある。
事実、姉であり凶手であるエレとともに、すんでのところまで追いつめた。
イズマには〈傀儡針〉を打ち込み傀儡とし、シオンザフィルには姉のエレがおぞましき人体改変の魔具:《ジャグリ・ジャグラ》を突き立てた。
そうやってエルマたちは、過去、自分たち姉妹を見限り裏切ったイズマから、すべてを奪い去ろうとした。
それなのに、とエルマは思う。
カテル病院騎士団の本拠地:カテル島の最深部、奥の院に現れたエクストラム法王庁の最精鋭:聖騎士にして“聖泉の使徒”の異名を持つ神器:〈ハールート〉の使い手・ジゼルテレジアとの交戦。その後に現れた圧倒的な存在・他者の精神を自由に書き換えてしまうバケモノ:イリスベルダの降臨によって窮地に追い込まれたわたしたちふたりを、イズマは身を挺して助けてくれた。あんなことをしたわたしたちを、イズマはそれでも変わらず愛してくれていたのだ。
あの戦いで、エルマは完全に悟ってしまった。
ずっとむかし、わたしたちの神:イビサスを奪い、その上で巫女であったわたしたち姉妹を置き去りにして去ったのは、見限ったり裏切ったりしたからではなく、やむにやまれぬ事情、あるいはその後、イズマが仕掛けた強大な存在に対する戦いに、ふたりを巻き込まないためであったのだと、はっきりとわかったからだ。
ぽたぽた、とエルマの赤い瞳から涙がこぼれ落ちた。
うん、とその熱い液体に打たれて、イズマが呻いた。
エルマは息を呑んだ。イズマの瞳が──まぶたが開かれる。
金色の燃えるような光がそこから立ち昇る。
それは土蜘蛛本来の瞳の色──赤色ではない。
「ここは……オレは……」
厳かな口調でイズマが言った。ありえないことではあった。起きていても頭と枕が同化しているかのではないかというふざけた言動が真骨頂──それがイズマガルムだったはずだ。
だが、エルマは口元を覆った。嗚咽を殺した。嬉しかった。なぜなら、このイズマこそ、あの日エルマとエレの、妹と姉がともに恋した男の声であったからだ。
「旦那さま──愛しいご主人さま」
「エルマ──そうか、オレは邪神:〈イビサス〉を解放したのか……その上、まともに手綱も握れんとは……情けない」
この《ちから》を──押さえきれんとは、とイズマは言った。
イズマは横たわったまま、己の全身を観る。
それは金色の甲冑に似たモノに置き換えられていて、所々に巨大な紅玉がはめ込まれている。奥には瞳のごとき虹彩がある。それが、きろり、と動いた。
いや、本当にそれは目玉なのだ。生きているのだ。
エルマはこの肉体の秘密を知っている。
これこそはかつて、エルマの氏族が崇めていた神:〈イビサス〉の肉体、そのもの。
つまり、イズマはその神の肉体を我がものとしたということだ。
すでに“神”そのもの。少なくともエルマにとってイズマは、すべてを投げ打ってでも仕えるべき存在となっていたのだ。
「無事か」
消耗し切っているのは自分のほうだろうに、イズマがエルマを気づかった。
「わたしは──わたしたちは、大丈夫です」
「エレも、助かったのか──よかった」
心の底から安堵したようにイズマがつぶやき、ふたたび意識を失った。
エルマは嗚咽を止められなくなってしまう。
うわ言のようにいくども、名を呼ばれた。
エレとエルマを案じるように。
夢を見ているのか、熱にうなされてか、イズマはエルマの独り言めいた問いかけに答えた。
眠っている存在と言葉を交わす《ちから》は、巫女であるエルマの生来的な才能だ。
夢路は、世界のどこか深い場所と通じているというのが土蜘蛛たちの世界観だ。
ましてや、言葉を交わす相手であるイズマはすでに神と同体である。
その言葉を託宣するのは巫女の職能だ。
これは一種の神託とも取れる。
介抱を続けながら言葉を交わし続けた。
先ほどまでのものとは別種のミツアリ・その蜜を──琥珀色のものではなく緑色のそれは、まるで果物のような栄養素を含んでいる──熱にうなされるイズマの唇に含ませた。
もちろん、口移しで。
そうして、孤独を紛らわせた。
姉であるエレが無事なわけがなかった。エルマは嘘をついたのだ。
そっと自分の肉体をなぞるように撫でる。
エルマの全身には刻印がある。束縛と服従と所有のインシグニア。尾に羽根のような器官を持つ三匹の巨大なムカデの刻印。異能によって刻まれた強力な呪いだ。
それがずくずくと疼いている。それは這い回り、エルマの自由を奪う。
同じものがエレの肉体にはある。
三蟲の呪い。
一匹は所有者に位置を知らせる呪いを、一匹は所有者への強迫観念的な依存を強いる呪いを、そして最後の一匹は、長距離転移系の異能を使ったとき、必ず定められた場所に連れ戻されてしまう縛鎖の呪いを司っていた。
姉:エレはだから、イズマによる大転移が成功に終わったならば、連れ戻されてしまったのだ。
エルマとエレ、ふたりの所有者:兄であるカルカサスの元へ。彼が率いる暗殺者教団:シビリ・シュメリの総本山:シダラへと。
エルマが無事なのは、カテル島での戦いの結末として起きた《転移門》の強制解放時、イズマがその腕に抱いてくれたから。
そして、姉:エレが身を捨てて押し込んでくれたからに他ならなかった。
だが、その事実を、エルマは消耗しきったイズマに伝えられなかった。
せめて、もう少し回復されるまでは。
改めて思い知ってしまったのだ。
イズマガルムという男は、もしそれが可能であるなら、どんなに己が傷ついていても、愛した者のために死地に飛び込んでいってしまう男なのだと。
いらぬ心労をかけたくなかった。
きっと自分がここにいることで、エレは尋問を受けていることだろう。
居場所はすでに知れているはずだ。
土蜘蛛の拷問術の洗練は、エルマ自身が身を持って知っている。
早晩、刺客が差し向けられるだろう。
けれども、とエルマは思う。
それまで、できる限りの看護をする。
堕ちたりとはいえ、かつて〈イビサス〉の巫女であった誇りにかけて。
そして、刺客を迎え撃つ。
「この方には──指一本触れささない」
そう決意を口にしながら、エルマは男の額の汗を、肌を切るように冷たい清水に浸した布で拭う。
添い寝を続けた。




