■第三十二夜:いばら姫の奪還(あるいはエピローグ2)
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「……やっと、静かになったのか、な」
アシュレは散らかり放題の居間を前にして途方に暮れながら言った。
じつは、アスカの配下にして情報分析官たるアテルイが、ほとんど(アスカの)押しかけ女房的にやって来るまでは、アシュレが食事や洗濯まで家事一般をこなしていたのだ。
いまは、アシュレたち三人の世話は、アテルイが一手に引き受けている。
無論、アシュレは引け目があり、できる限り手伝ったのだが、アテルイの態度は頑なだった。
事情をかんがみれば、これは当然といわざるをえまい。
おかげで、調理の間など、無言のまま互いが野菜の皮を剥いているという冷戦状態の家庭のような様相が現出していた。
アシュレ的には姑に居座られた嫁、という気分を現実に自分が味わうことになるとは思いもしなかった。
あるとき手が触れたことがあったのだが、まるで火傷したように引っ込められた。
諜報を担当する分析官だという彼女の瞳は理知的で、おまけに件の共犯事件で第一印象最悪であっただろうから──見下すような、蔑むような光がそこにはあった。
もっとありていに言えば、敵意、敵視である。
そのアテルイが感情を爆発させたのは、アスカがいったん自陣に戻ることを表明した昼食の席だった。
アラム式のダイニングスタイル──床に絨毯が敷かれ、その上に盆と皿にのせられた料理が並ぶのにもようやく馴れてきたアシュレが食後の茶をふるまった時だった。
「女の敵」と公然と名指しされた。
口先だけの、と。
アシュレはそれは仕方がない、と考えていたので甘んじて受け止めるしかない。
仰る通りだ、と頷き、それからつけ加えたした。
「言い訳できることはありません。ただ、己の快楽のためにだけ女性を抱いたことは、一度もない」
そう言って。
そのときだ。
ぷつん、とアテルイの頭のなかでなにかが切れる音をアシュレはたしかに聞いた。
それまでの冷静沈着ぶりが嘘のように激高した。
「き、きさま! 貴様なあ!! そ、それでは、アスカ殿下とは本気だと、そういうことか!」
いきなり胸ぐらを掴まれた。馬乗りに。
放り出された食器が床で跳ねる。
反射的にアシュレも手に持っていたそれを取り落とした。危ない!
「い、いや、そのなんていうか、あ、あれはその、どうしても必要だっていうか……」
「必要だから?! なんだあ、貴様、愛は──愛はどうなんだ!」
「え、えと、そのもちろん、愛しいと、お、思います」
「それでは──シオン様は、あの方はどうなんだ」
「あ、愛してます」
「なんだとう!」
キリキリキリッ、とそのまなじりが持ち上がった。
凛としたアテルイの表情は、怒っているときが美しく見える。
「貴様、わたしの得た情報によれば、婚約者もいると聞く! それも美貌の! 巨乳の! イリスベルダとかいう!」
情報分析官という官職らしく、アテルイにはアシュレの女性関係は筒抜けらしかった。
「はわわ」
いったいどこから飛来したのだろう、自分でもよくわからない声が、アシュレの口からは漏れた。
「オマエ……アラムの掟では……男は妻を四人までは娶ることができる、というのは知っているな?」
「アッ、ハイ。え、えと、そのかわり、そのすべてに平等に接しなければならない、とも」
「んー、なるほど、ちょっとは勉強しているみたいだなあ?」
ああん? と片眉を持ち上げてアテルイは言った。
「どう思う? 一夫一婦制を掲げるイクス教者としては?」
「せ、戦時や、厳しい隊商での旅で夫が命を落とすことは珍しくない。そ、そのとき、身寄りを失った女性を庇護し、孤立させないための……そういう掟だと……り、理解してます」
「ほーん、なるほど、明晰だ。ではこんどは算数の時間だ」
言うなり、アテルイは指を立てた。握り拳から、ひとつずつ。
アシュレがマウントポジションからのパンチが来るのかと思ったくらい、その拳には力が漲っていた。
「シオン様、アスカ殿下、イリスとかいう巨乳。ひい、ふう、みい。三人だ。わかるか?」
こくりこくり、とアシュレは頷く。
「全員、娶るのか?」
「め、めめめっ、娶る?!」
ちなみに、馬乗りになられたアシュレの両サイドはシオンとアスカだ。ふたりともアテルイの勢いに当てられたのか、ことの成り行きに興味があり過ぎるせいかどうかはわからないが、制止には至らない。
というか熱心に見守られている。
「どうなんだ」
氷を思わせる冷えた口調でアテルイが訊いた。
「いやあ、それわその、お互いの意志の確認が」
アテルイが絨毯に転がるフォークを掴む。振りかざす。
アシュレは思わず、両サイドの美姫たちを交互に見た。
シオンは胸を押さえ、頬を紅潮させてアシュレを見ていた。なにかを期待するように。
アスカは身を乗り出し、両手をついて……こくりこくりと促すように頷いている。
たぶん、ハッキリ答えないとマジで死ぬぞ、という意味だ。
それから、アシュレはもう一回、怒れるアテルイの美しい尊顔を見た。
「め、娶りま、」
と、その瞬間だった。
ものすごい勢いでフォークが、それを掴んだ腕が振り抜かれた。
神速・入神の一振り。
鬼神・軍神の一閃。
アシュレは微動だにできない。
上等の絨毯を貫いて、なにかを象徴するように、床板に二股のフォークが突き立った。
びいいいん、と揺れるそれを、アテルイは見下ろしながら、さらに問う。
「シオン様と、イリスとかいう巨乳ッ娘は、まあいい。どちらも、オマエにくれてやる──ぞっこんらしいし、な」
だがなあああッ、と叫びながら深々と突き立ったフォークを引き抜くと、めちゃくちゃに振いながらアテルイが叫んだ。
ちなみに、その刺突のすべてが、アシュレの頭部スレスレに突き立つ。
二十二連突き! アシュレには声もない。
「だあああぁが! アスカ殿下を娶るだとう?! いいか、よく聞け、このボンクラの異教徒め! 第一に貴様と我々は奉じる神が違う! オマエらの教義に照らしたら、重婚は極刑必至の重罪だ! 引っこ抜いたりちょんぎったり、もいだいり! その後の縛り首だ!」
第二にッ! とアテルイは叫んだ。ものすごい剣幕だ。
「アスカ殿下は、オズマドラ帝国の第一皇子であらせられる! 意味がわかるかオタンコナス!」
その皇子様を、皇太子殿下を、娶るだ?! ああああん?! アテルイが顎をしゃくる。
「できるわけがあるまいがッ!!」
「あ、そうか」
激昂極まるアテルイの横で、アスカがいま気がついた、という様子でつぶやいた。
「です! 皇子! できませんし、アテルイは許しません! 我が帝:オズマヒム様も決してお許しにはなりませんし、それこそ国家存亡の危機です!」
「じゃあ、愛人ならいいか。なあ。男色、衆道の、という名目で」
「あ、愛人なら、わ、わたくしめが!」
「しかしなあ……その……わたしには、こやつが必要なのだ。ちょっと他では代えられん」
「そんな、そんなっ」
アシュレは己の腹上で始まった会話が、痴話喧嘩というか愁嘆場の雰囲気を帯びはじめたことに冷や汗をかく。
ちなみに、力任せに乱打された銀のフォークはすでにぐにゃぐにゃに曲がってしまっている。
「たしかに見た目は、ちょっと可愛い感じの優男ではありますけれど、こんな男がよろしいのですか! アテルイより?!」
「たしかに見た目は、なんというか、世間知らずのお坊ちゃんっぽい感じだが、戦場と寝室では──ほんッとに凄いのだぞ?」
会話の含有カオス度にアシュレはついていけない。
ただ、全身から脱水症状になるのではないかと思うほどの汗が噴出しているのだけはわかった。
「それでは……それでは、アテルイはもう、お払い箱ということですか?」
男として、己の腹上でこのような会話が為されるというのは、なかなか経験することがないであろう。
というか、あってはならない。
ならないはずだが、現実は常に無情だ。
「んー、いや、そういう意味ではなくてだな。アテルイにはアテルイの味わいが。なあ、アシュレ?」
「ぴ」
急降下して突き立った会話の流れに、アシュレの喉から、またマヌケな声が出たとして、それは無理らしからぬことであったと思う。
「だいたいアテルイ、オマエ、コイツに見られるどころか……あれこれ触れられてしまったのではなかったか?」
「あ、あ、あ、アレはアスカが! ボ、ボクじゃないし!」
「見ただろうが? ん? 触れてないとでもいうのか? いまさら?」
アシュレは、アスカと初めて出会ったあの漂流寺院でのレクチャを思い出した。
アラム教圏の年頃を迎えた女性にとって、裸身を異性に目撃されるというのは
「嫁ぐか、殺すか」の二択しかないのだと。
弾かれるように、アシュレはアテルイを見た。
同じように、アテルイも。
数秒の沈黙が、恐ろしいほど長く、耳に痛いほど感じられた。
この選択肢、間違ったら死ぬヤツだ──アシュレの男としての勘が、そう囁いていた。
同時に、解答までのタイムリミットを示す砂時計がものすごい勢いで目減りしていく様子まで見えた。
極限の精神状態が引き起こす幻覚である。
そして、一瞬、あの日のアテルイの姿が脳裏をめくるめく感じで過った。
それが引鉄だった。
「き、綺麗でした。すごく、か、かわいかった、です」
ほとんど無意識の、生存本能に根ざすものであったのだろう言葉が、アシュレの口から漏れた。
言ってしまってから、なに言ってるんだボクは、となったが後の祭である。
血祭りに発展するかしないか、それは神のみぞ知ることであろう。
だが、アシュレの言葉は、劇的な効果を上げた。
アテルイが両手で顔を覆う。
耳まで真っ赤になって……固まってしまった。
「ふむん、それに、喜べアテルイ。こやつが改宗しさえすれば、ひいふうみい、と仮に私が数に入っていても、ちゃんと籍に余裕があるぞ!」
びくりっ、と顔を覆ったままアテルイが肩を震わせた。
「なるほど、そうすれば夫婦同衾、なんら問題ないな。アラム・ラーに後ろ暗いことなどなにもない!」
そんなアスカの言葉が終わるか終わらないか。
アテルイはそそくさとアシュレの腹上から立ち上がり、そのままアスカの手を引くと物凄いスピードでその場を立ち去ってしまった。
ちなみに、情報分析官:アテルイ、二十六歳、独身である。
「な、なんだったんだ……いまのは」
脱力して立ち上がれないアシュレが最後に見たのは、一度だけ、ほんの一瞬アシュレを振り返ったアテルイの恥じらい顔と、アスカのバツの悪そうな、微妙な笑顔だけだった。
なにがどうなったのか、さっぱりわからない。
とりあえず、最後の選択には成功したようで、バッドエンドは避けれた感がある。
それで、嵐のようにふたりが去ったダイニングで、アシュレはひとり掃除をしていたのだ。
女難で死にかけるのは毎度のことだが、今日のはヤバかった。
「かしましい、客だったな」
奥まった通路から声がして、シオンが現れたのはその時だ。
「ほんとは、キミにも挨拶したかっただろうに。まあ、今日はなんだかアテルイさん普通じゃなかったし」
「三日と空けず来るのではないか。アスカ殿下のことだから。あの副官殿もなんのかんのと言い訳つけてついてくるだろうよ」
「お茶を、点てようか?」
「いや、よい。それよりも、隣に……座ってよいか?」
もちろん。アシュレは頷き、シオンはスカートを広げて据わると肩を触れ合わせてきた。
しばらく、無言でそうしていた。
語るべき言葉がたくさんあるような気がした。それなのにうまく言葉にならなかった。
「「ありがとう」」
どちらからともなく、発された言葉は同じで、だから考え抜かれたはずなのに、ひどく間が抜けていて、それなのにとても愛おしかった。
「また、ボクを助けてくれた」
「わたしのわがままが原因だ。そなたを失いたくない、ひとりになりたくない、という。それでまた、そなたがひどい目にあった」
「ボクはキミと生きていられること、生きてキミに寄り添えていることが、いま、とてもうれしい」
シオンがアシュレに向き直った。脚の間に手をつく格好で。距離がもっとずっと近くなる
「わたしは──不実を働いた」
ユガディールとの関係をシオンは口にした。
「他に選択肢なんてなかった。キミが屈辱に耐えてくれたおかげで、ボクは生きてる」
「耐えていたのは屈辱にでは──ない。傾いてしまいそうな心と肉の欲に、だ」
「それでも、ボクを信じて待ってくれていた。キミをひとりにしたボクを」
アシュレはシオンを戒めていた〈ローズ・アブソリュート〉の化身たる青い荊を忘れない。
ほとんど唇が触れ合うほどの距離でシオンがアシュレを見つめて言った。
「アシュレ──正直に告白する。ユガディール──あの男への好意を消すことができないわたしがいる」
「それ以上にボクのことを想わせるだけだ」
アシュレはあっさりと断言した。
「それにユガディールを忘れることができないのは、キミだけじゃない」
忘れる必要もない。忘れてはいけない。
「出会ったときにはもう運命の奴隷だった──なんて、思いたくない」
「わたしたちとの出会いが残されていたユガディールの《夢》に火を灯してしまったのだな」
そして、《夢》を、夜魔であるユガディールに見せたのは、それまで、あれの人生に関わってきたひとびと、すべてだったのだ。
たとえば、あれが愛した三人の妻たちのように。
シオンが歌うように言った。
「わたしたち夜魔は、優れた個体特性──身体性能、超再生能力、永続性、永遠性──と引き換えに、太陽の光と創造性を失った種族なのだ。受け継がれたものを運用したり活用したりすることは得意でも、自らの力でなにかを生み出すことは明らかに不得手なのだ」
「だから、ヒトの血から《夢》を得る」
「だから、美しい《夢》の持ち主に魅かれてしまう。抗えない」
「〈ログ・ソリタリ〉に喰われ、改変されてなお、ユガディールという男の芯に刻まれた《夢》は鮮やかだった」
だから、キミはそんなユガに恋をした。
アシュレは、はっきりと言った。
「それを否定したら、ヒトの《夢》の《ちから》まで否定してしまうことになる。キミを責めるなんて筋違いだ」
そんなアシュレにシオンは言いすがる。
「なにもかも許されたら、わたしは立つ瀬がない」
「ボクは口先だけの男なんだってさ。口とそれ以外は別物なんだって。アテルイさんに言われたよ」
その通りだと思う。アシュレは笑った。
「では、許すというのは口先だけか」
「うん、そうだね。どう考えても──許せない」
ぐいっ、と突然シオンの髪を鷲掴みにし、胸元に抱き寄せアシュレが言った。
「一生許してもらえるなんて、思わないほうがいいよ、シオン」
だから、謝るなんてやめてくれ。アシュレは言いながら、シオンへの想いをぶつける。
シオンの肉体が強ばって反った。ぎゅう、とアシュレの上着を指先が強く掴む。
「キミをどんなにしてしまうか──もう保証できない」
「保証できないほど──してもらえる、というのか?」
「……どうして、うれしそうなの? 怒っているんだよ、ボクは」
「バカ、嬉しいわけががあるか」
首筋を甘く噛まれた。たしか、コウモリ式の礼の仕方だと、言ったのはシオン自身ではなかったろうか。
いっそう強くシオンを思ってしまう。だめだ、歯止めがかからない。
「それに……第一、許されないのはボクのほうだよ」
必死に声をかみ殺すシオンを抱えるように迎えながら──不実が過ぎる、とアシュレは思う。
「アスカ殿下のこと……か?」
アシュレの胸に顔を埋めたまま、官能に濡れた声でシオンが言った。
「それも、ある」
「まだなにかあるのか」
「うん」
アシュレは正直に答えた。
「跡目争いがたいへんだな、うちの王国は」
ふふっ、とシオンが笑った。
「それだけ?」
「ほんとにそなたの子供なら、片っ端から認知してやる」
アシュレは観念したように首を振った。
「キミには、かなわない」
「口とそれ以外は別物さ。国土・領土は物言わぬが、よくよく目を凝らして変化を見張らないと、ある日とんでもないしっぺ返しが待っている」
「肝に銘じておく」
「それよりも聞いておきたいのは──そなた、アスカ殿下が乗り込んできたとき気づいておっただろう。気づいていて、わざと見せつけるように仕組んだだろう? 違うか?」
「考えが伝わる──わけじゃないんだよね、この髪?」
「バカめ、誰を想ったかはわかるのだぞ? 薫りでな。だいたいなんだ、全身からアスカ殿下の匂いがするではないか」
「だ、だからこれは、ボクの肉体をアスカの異能がアシストしてるから」
「そなた、いい加減そろそろ復調してきているのでは?」
「大事をみて」
「まあいいだろう。だが、見せつけて焦らしに焦らしてから飛び込んできたアスカ殿下を、愛しただろう? それも今度はわたしの前でだ。あのとき、わたしがどんな気分だったか──わかっていてやったな?」
「…………」
「黙秘は肯定と見なすぞ」
そなた、やはり、スケコマシであろう。シオンがジトメで睨んできた。
「いや、こう、いちばん可愛いところを引き出したい……というか」
「まんまと策にのせられて、わたしはいい面の皮だな。おまけに、今度からは策と知りながらも──逆らえんわけだ」
あーあー、もう、わたしは完全にそなたに征服されたのだなー。
あてこすりされ、アシュレは上を向いて視線から逃げるしかない。
そっ、とまたシオンが身を寄せてきた。上を向いたアシュレの喉に顔を埋めるように。
「わたしに限っては、もっと残酷にしてよい。圧政ぐらいでないと──」
シオンはそこまで言って、続きを飲み込んだ。
表向きはすでに修復されていても、アシュレの心はまだ傷だらけなのだ。
それはシオンも同様で、肌を合わせればすぐにわかり合えてしまう。
だからこそ言えなかった。
シオンが飲み込んだ言葉──。
そなたに、黙っていたことがある。
もうひとつだけ。
それは、イリスベルダのことだ。
もしかしたら──あの娘は──もう。
読了ありがとうございます。
次話:第四話sideBは2016年7月1日、連載再開予定です。




