■第二十九夜:交差
※
「〈ロサ・インビエルノ〉──」
ユガが手にした槍を見て、アシュレがつぶやいた。いつか、秘密の通路の先で〈ログ・ソリタリ〉と対峙した夜に見た純白の槍だ。
「そうだ、アシュレダウ。キミの槍──竜槍:〈シヴニール〉もそうだろう? 変形機構を持つ《フォーカス》だ」
そして、その効果は──知っているな?
「時間停止」
アシュレの返答に、そうだ、とユガが頷く。
「キミを生きたまま保存しよう。そうすればシオンザフィルはずっとキミといられる。そしてキミの体温を感じながら、シオンザフィルは、わたしの妻となるのだ」
キミが昏睡していた間の光景を、永遠のモノにしよう。
言葉を触媒にユガディールが揺さぶりをかけてきた。
それは上位夜魔が持つ生来的な支配者のオーラ。
その応用が《チャーム》に代表される、侵食系の異能だ。
だが、アシュレはそれを、そよ風のように受け流す。
強靭な《意志》と〈アステラス〉が彼を護っていた。
「ユガディール、誓い忘れていたことがあった」
アシュレの冷静な対応に感心したユガが、ほう、とつぶやいた。
「なにかな」
「この戦いで、わたしはシオンだけでなく、貴方も救う。運命の──《ねがい》の奴隷から、解き放つ。助ける」
キミは、とユガはかぶりを振った。
「滅ぼすと言ったり、助けるといったり──ヒトの心の動き、その変化の早さが、わからない。けっきょく、わたしは最後までキミが理解できなかったというわけか」
言いながら、ユガは構える。
ユガディールはシールドを使わず、甲冑と槍だけのスタイル。
一方でアシュレは槍:〈シヴニール〉に盾:〈ブランヴェル〉、右腕だけを竜皮の籠手:〈ガラング・ダーラ〉──甲冑はない。
防寒を兼ねる鎧下の上から直接サーコートを着込んでいる。
これはユガディールからすればアシュレの〈シヴニール〉の光条の前にはどのような盾も意味など為さないであろうということ、一方でアシュレの側から見れば同じく魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉の一撃を防ぎ切る甲冑などなく、また《影渡り》を持つ夜魔相手に重甲冑を着込んだままでは明らかに対処が遅れるであろうとの判断からだった。
互いが互いの武装を確認する。
騎士の決闘の流儀。これは礼儀であり儀式だ。
アシュレはユガの甲冑も《フォーカス》だと見抜いた。
「〈シュテルハウラ〉──なまかまな攻撃は通じない」
ユガが能力のさわりだけを仄めかした。
これは《スピンドル》能力に対する防御能力を備えた甲冑だと、アシュレはあたりをつける。
夜魔の再生能力にその防御力が加わっているとすると、致命傷を与えるには──完膚無きまでに、大出力の攻撃を激させ直撃させ、相手を滅し尽くすしかない。
それにしても甲冑型の《フォーカス》は珍しい。
「情景にも、われわれの一騎打ちにふさわしい華を添えよう」
言いながら、ユガは己のマントを投げた。
アシュレはすぐにそれがなにか理解する。
いつか、アスカが見せた《フォーカス》の一形態、その内部に空間や情景、ときには己の軍勢を綴じ込んだ品だ。
「ひとときの間、現世に還れ! かつてこの世にあり、いまは失われてしまった──その風景よ!」
マントが純白の炎となり燃え広がると、世界の境界、現実が侵食されて、綴じ込まれていた風景がその上に上書きされていく。
「これは……」
「わかるか、アシュレダウ? アガンティリスの神話に現れる──この世を去りし神々の宮殿だ」
立ち現れた建造物の異質さ、巨大さ、偉容にアシュレだけではない、あらゆる観客が言葉を失っていた。
途中で断ち切られた巨大な輪の連なりが、伝説にある龍のあばら骨を連想させる建築群。
もうすでにこの世界を去ってしまった文明が造り上げた偉容が切り取られて、そこにはあった。
「いまはもうない、わたしの祖国、その基礎にあったものを切り取ったのだ」
そのひとことに乗る微かな寂しさに、アシュレはもう一度、胸の痛みを覚えた。永劫の記憶に苛まされ、祖国と同じようにこの世界を去ってしまった男を想って。
「そして、いまは、このトラントリムこそ、我が祖国だ」
そう続ける男のまぼろしを、だからこそ、滅さなければならないのだと、固く誓う。
死闘の開始を告げる者はいなかった。
ただ、互いが軽く槍の穂先を合わせる音以外には。
※
馬首を巡らせれば、同じタイミングでユガが馬を旋回させるのが見えた。
アシュレは馬上槍での初撃を見舞うつもりだった。
騎士同士の礼儀に則り、正面からの戦いを仕掛ける。
それも竜槍:〈シヴニール〉の得意とする長射程攻撃ではなく、己の肉体と技量と気迫を頼りとした激突を望んだ。
間違いなく《スピンドル》能力の応酬になるであろう。
だが、それにしても、己の心をまずは叩きつける。
男として、騎士として、それはなんというか、決して譲れぬ意地であり、誇りの問題だ。
己の《愛》が、どこにあるのかという証明だ。
血みどろの乱戦に陥るとも、まず、それだけはハッキリとさせねばならない。
竜槍:〈シヴニール〉は、現在の馬上槍のトレンドから比べれば、やや短いが充分にその役目を果たしてくれることをアシュレは心得ている。
そして、互いが申し合わせたわけではないはずなのに、ユガも同じくそれに応じるべく構えを取る。
同じ想いだと、アシュレは見て取ったし、事実、そうだった。
穂先を互いが高く掲げると、馬上突撃の姿勢になった。
加速を始めたのは、同時だった。
どちらの乗騎も条件は同じ。
ヴィトライオンとアシュレはもはや人馬一体と言ってよいほど呼吸の合った騎手と馬であったが、それはユガとて変わりない。
馬の手入れを怠る騎士は騎兵突撃の際に必ず泣きを見ることになる。
問題は盾の位置だ。
アシュレはできる限り聖盾:〈ブランヴェル〉を構える左手側で受けたい。
ユガの獲物である〈ロサ・インビエルノ〉は《フォーカス》であり、かつ長さでアシュレの槍:〈シヴニール〉に勝る。
当然のように《フォーカス》以外の盾では受けた瞬間に木端微塵にされてしまう。
時間停止という強力な状態異常の他にどんな能力が秘められているか、まだわからないのだ。
もちろんその場合は、こちらも槍を馬首と交差させるカタチになり難易度が跳ね上がるが、アシュレには考えがあった。
それは、すでに長射程兵器としての〈シヴニール〉の特性をさらしてしまっているからこそ、そして、魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉の性質がほとんど不明であり、かつ槍としての長さで勝っているからこそ成立する駆け引きだ。
こちらはまだ手札をさらしていないという、ユガの心にある余裕──そこをアシュレは突くつもりだった。
卑劣になろうと思えば、もっと徹底的で決定的なやり方がアシュレには選択できたはずだ。
たとえば、いま旋回していたユガを大出力で打ち据えれば良かったのだ。
それをあえて行わなかったのは、誇りのためだけではない。
アシュレはその一撃が会場を、ひいては観客を殺傷する可能性に配慮した。
わかっている。
これは単なる馬上試合ではない。
相手の盾や特定の箇所を狙わなければならないなどという安全に配慮するルールもない。
純然たる殺し合いだ。
ユガは当然アシュレの槍側にコースを取るだろう。
わざわざ、アシュレに有利なポジションを選ぶ必要などない。
ただし、殺し合っているのはアシュレとユガ、そのふたりだ。
他者を傷つけてはならない。
その想いがアシュレにはあった。
そして、だからこそ──この策には勝算があるだろうとも。
心の底からそう思っているからこそ、この策は見破られない、と。
だが、驚いたことにユガはアシュレの盾側を選んできた。
それがアシュレを戦慄させる。
ユガほどの男がなんの勝機もなく無策に、そんな選択をするはずがないからだ。
馬上突撃は一度加速しはじめたら容易には位置を入れ替えられない。
騎士は弓から放たれた矢のようなものだ。
このままではユガは交差のデメリットを負うことになる。
なにより、ユガは盾を装備していない。
これはアシュレにばかり利がある位置取りだと断言してよい。
いかに魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉とはいえ、アシュレの構える聖盾:〈ブランヴェル〉は容易に貫けないからだ。
ぞ、っと首筋が総毛立った。
あと一瞬引きつけてから使うつもりだった技を、アシュレは瞬間的に用いていた。
教本に光爆刃と記される技:《オーラ・バースト》──《スピンドル》エネルギーを集約、光の刃とする攻撃だ。
基礎に属する技で、広範囲殲滅用ではないが間合いが飛躍的に延びるため、また対象を限定できるため市街戦や要人護衛などの任務では頼りにされる。
そして、もうひとつ、決定的な使い方がこの技には存在する。
このような──間合いを盗むような使い方だ。
父であり聖騎士であったグレスナウからの教練では、真っ先に教え込まれた使い道だ。
基礎技だからこそ、相手は油断する。そして、発動時の溜めも小さい。
騎士道にもとる──そう感じてきたアシュレは、これまで半ば禁じ手としてきた。
それを迷いなく見舞った。
ゴウッ、と〈シヴニール〉の先端から純白の光刃が迸り、間違いなくユガの胸部を打った──瞬間だった。
ビュウ、と風切り音がして、アシュレは見た。
いつの間にか右手側から左手側にスイッチされたユガの〈ロサ・インビエルノ〉が蛇のようにしなり、〈ブランヴェル〉の陰からその切っ先を潜り込ませてきたのだ。
アシュレの胸を狙う一撃だ。
その光景がスローモーションのようにアシュレには見えた。
ユガがいつか見せた神速のスイッチハンド──ダンシング・ソード、その応用を槍で行ったのだ。
ひとことに応用とはいっても大槍と長剣では重さも扱いもまるで異なる。
それを易々と行うとは、ユガの戦技の基礎レベルはやはり、真の英雄と呼ぶにふさわしい。
時間停止攻撃:《プリザーヴ・ブレッシング》──なんのてらいもなく初撃に己が持てる最大の技を振るうユガこそ、やはり英雄のなかの英雄であった。
様子見の攻撃など、考えもしないのだ。
ぱたた、とアシュレは肩に止まる死神の羽音を聴いた。
ちいさな、それなのに耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえる声で、それは告げる。
アシュレの敗北を。
けれども、アシュレには、その囁きに従うつもりなどなかった。
相手の時を止める一撃。
初撃に込められた最大の奥義。
その最大攻撃を躱せたのは奇跡──ではなかった。
それはすべて、アシュレの《意志》の、判断の《ちから》だった。
そして、それに〈アステラス〉が、シオンの王冠が力を貸した。
直撃コースであった切っ先を、アシュレは瞬間的に〈シヴニール〉を変形させて躱した。
互いの槍と槍が接触し、切先が火花を散らしながら掠め過ぎて行く。
ユガの狙いが正確であったことがさいわいした。
折り畳まれ水鳥の脚のように可変した〈シヴニール〉が、魔槍の穂先を勢いよくはね上げたのだ。
頬を刃がかすめ、アシュレは大きく身をよじって顔面を打ち据えに来た柄をかいくぐった。
危なかった。
なまじ甲冑などつけていたら、落馬は確実だった。
技の余波でジン、としびれる頭で、それでもアシュレは馬を走らせる。
このまま、もう一度対面交差するつもりはなかった。
初撃に仕掛けた奇手が決まらなかった。
もう、同じ手は通用しない。
そのまま、ユガが呼び出した古代遺跡の蔭に潜り込むつもりだった。
正々堂々の一騎打ちとはいえ、これは殺し合いだ。
長射程攻撃を可能とする〈シヴニール〉の利点を生かし、短所を克服する方法がいくつかアシュレの頭にはあった。
そのためには時間を稼がなければならない。
少なくとも数秒、ユガの視線から逃れなければ。
だが、そんなことを許すほどユガは甘くはない。
左側から衝撃は来た。ギイイイィィィンッ、と聖盾:〈ブランヴェル〉の表面で火花が散った。
馬を走らせた矢先、盾がその位置にたまたまあったのだ。
「甘いぞ、アシュレダウッ!!」
ユガが馬を捨て、《影渡り》で突っ込んでくる。
一瞬とは言えタイムラグがあるこの技で、高速で移動しているはずのアシュレの位置を予測してくるその能力に、アシュレは舌を巻かざるをえない。
「直撃を食らわせたはずなのに! ダメージは、ないのか!」
先だっての交差で、アシュレの攻撃は装甲越しとはいえ、たしかにユガの胸を打ったはずだ。
「ないとは言わんさ。だが、わたしは夜魔だ。そして、この甲冑:〈シュテルハウラ〉は外部からの《スピンドル》エネルギーの伝達を阻害し、そうでありながら着用者のそれを増幅する」
ユガの説明に最悪の組み合わせだ、とアシュレは思う。
そして、その攻撃に鞍上を追われる。
いや、たしかに馬上は失ったが、アシュレは落馬し地面に這わされたのではなかった。
「《ブレイズ・ウィール》!」
鞍上を失い、後方へと引き倒されながら、アシュレは聖盾:〈ブランヴェル〉の能力を起動させ、ユガをからめ捕りながら、宙を舞ったのだ。
本来、不可視の力場を展開して相手を切り刻む技である《ブレイズ・ウィール》だが、ユガの言葉通り、そのエネルギーのほとんどを純白の鎧:〈シュテルハウラ〉の装甲表面で減衰させられ、ダメージとはなっていない。
それでも、ユガの突撃のエネルギーの方向を変え、ヴィトライオンから引きはがすことはできたのだ。
「ぬッ」
着地した瞬間、ユガが仕掛けようとしたのと、アシュレが技を展開させるのは同時だった。
かつて、アシュレは一度だけ使ったことがある。
そのときは、眼前の岩盤が沸騰したほどの技だ。
焦点温度一万度を超える超高熱のプラズマ帯を前方に展開する技:《エンゼル・ハイロゥ》。
もし、ユガがそのまま突っ込んでいたら、間違いなく勝負は決まっていたはずだ。
けれども、ユガの肉体に染みついた戦いの記憶が、着地直後という、絶好の機会であっただろう追撃を、すんでのところで思いとどまらせたのだ。
そして、アシュレも、この技を本来の出力で使用するつもりなど毛頭なかった。
その出かかりを牽制として、次の手へ繋げる技としたのだ。
闘技場に降り積もった雪──それが、数千度の熱に瞬間的に炙られ、一瞬で水蒸気と化した。
叩きつけてくる高熱のそれをユガは凌いだ。
だが、もうもうと立ちこめる蒸気に視界を奪われる。
反射的に範囲攻撃で応手した。
ざああああああ、と花びらが広がるように、魔槍の穂先が開いた。《サウザンド・ライツ・コラプション》──〈ロサ・インビエルノ〉の純白の切っ先が一千個の光の鏃となり、広範囲の敵を射殺す。
ユガは、それを防御的な使用目的で使った。
アシュレの突進力、短命種ゆえの自暴自棄な一撃を恐れたのだ。
いかに身に纏う甲冑が《フォーカス》:〈シュテルハウラ〉とはいえ、〈シヴニール〉の一撃をまともに浴びれば、少なくともユガの肉体は焼き尽くされてしまうだろう。
焦点温度一万度を超える一撃とはそういうものだ。
だが、《サウザンド・ライツ・コラプション》の端が、装甲を捉える音が聞こえたのは一瞬だった。
そして、それが晴れたとき、アシュレの姿は──その乗騎もろとも、文字通り雲散霧消していたのである。
「鮮やかな引き際だ──しかし」
ユガの目がアシュレの残した血痕を見いだした。
先ほどの技:《サウザンド・ライツ・コラプション》が手傷を負わしたのだ。
残された足跡の勢いから傷は浅いだろう。
しかし、いったん傷を負った人間を夜魔が見失うことなどない。
血にはその個人固有の匂い、薫りがありそれは誤魔化しようがない。
ユガはアシュレの血と、そこに含まれる《夢》の薫りを深く理解していた。
雪の上に撒かれた鮮血は、その色でだけでなく薫りでもってアシュレの姿をまざまざと浮かび上がらせるのだ。
「逃げられんぞ」
そう、ユガが言った瞬間だった。
轟音とともに遺跡が爆ぜ、超高熱の粒子が斜め上方からユガを打ち据えた──《ラス・オブ・サンダードレイクズ》。
観客への影響を考慮して、自ら禁じ手としていたはずのそれを、アシュレは古代遺跡を緩衝材とすることで威力を減衰させユガを狙ったのだ。
それでも飛び散った粒子が、闘技場の床を突き抜ける。
その威力よりも真に驚くべきは、瞬間的にこの位置取りを可能にした奇跡的なアシュレの移動能力であるが、それを可能にしたのは、やはり《スピンドル》の《ちから》であった。
移動に際するあらゆる障害を無視する超身体能力を授ける異能:《ラピッド・ストリーム》によってアシュレは壁面を走り、一瞬で高台を取ったのだ。
ユガの視覚から一瞬でも逃れえれば、とアシュレが考えた勝機のひとつである。
そして、もともとはオズマドラの皇子であるアスカリアの得意としたそれがアシュレによって運用できた理由は、やはり《ヴァルキリーズ・パクト》に起因していた。
契りを結んだ英雄に、己の使いうるすべての異能を使用可能とする。
なるほど、その使用を真騎士たちが同族に限ったのも頷ける秘奥であった。
光条に弾き飛ばされ超高速で飛来する瓦礫に殴打され、減衰したとはいえ、いまだ数千度の熱量を持つ輝きに身を焼かれ──しかし、それでもユガは生きていた。もうもうと甲冑の隙間から煙と沸騰した血液を吹き上げながらも、それでも。
「なまはんかには……死ねんものだな」
もし、ここでアシュレがもう一撃加えていたのなら勝負はついていたであろう。
しかし、アシュレは一瞬、ほんの一瞬だが、その姿に躊躇した。
相手は忌むべき夜魔の、それももしかせずとも、すでにその身と心を〈ログ・ソリタリ〉に食われたバケモノであるはずだった。
それなのに、アシュレは、全身を焼かれながら、それでも立ち向かってくるユガの姿に、畏怖と畏敬の念を覚えていたのである。
「甘いぞ、アシュレダウ」
くぐもった叫びとともに〈ロサ・インビエルノ〉がふたたび光の矢となって打ちかかってきた。
「ぐっ」
アシュレの肉体から、皮膚と肉をそれはそぎ取った。血が噴き出す。
互いが凄まじい苦痛にあえぎながら、位置を変える。
アシュレの頭頂に輝く〈アステラス〉がその精神を防護していなければ、魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉の切っ先は徐々にアシュレの現実と認識を乖離させ、行動不能に陥らせる特性をも秘めていた。
時間停止能力の一端と理解すれば、これはわかりやすいだろう。
観客たちは──凍りついている。
互いの行いを卑劣だとなじるものなどいない。
あまりの、凄まじさ、まさしく血で血を洗う戦いの陰惨さに、そのような言葉は無力だった。
騎士たちは互いの死力を尽くして殺し合う。
誇りと、《愛》のために。
いったい、どれほど戦い続けていただろうか?
それはわずか一分のことであったかもしれないし、一時間も続いた長い長い死闘の果てであったかもしれない。
ユガは再び騎上に座している。
肩で息をしている。上位夜魔の、英雄が、だ。
アシュレの〈シヴニール〉によって打ち据えられたのは、直撃という意味ではあの一度きりだった。
だが、その後、再三にわたりアシュレはすんでのところまでユガを追いつめるのだ。
負った傷の数、流した血の量ではアシュレも相当なダメージを受けているはずなのだ。
いや、人類ならすでに失血死していてもおかしくはない。
その前にショックで肉体が動かなくなるほど傷を負わせたはずだ。
それなのに、アシュレは膝を屈しない。
それどころか己の流した血さえ、触媒として《スピンドル》による攻撃手段とする。
流された血が、結界となり、火線となってユガを締め上げる。
血流を操る技は本来、夜魔の得意とする技のはずだ。
それを本家である夜魔の、その最上位種に位置するユガ相手に用いるとは。
そして、その技で、翻弄するとは。
これが、人類か、これが、これほどのものなのか──ユガは驚嘆し、同時に冷静に分析もしている。
なにか特別な能力がアシュレを下支え、裏支えしていることは明白だった。
だが、それがアスカの《ヴァルキリーズ・パクト》による生気の増幅、シオンとの心臓共有にともなう回復能力の上昇、〈アステラス〉が与える意識の鮮明化、そしてなにより、アシュレ自身の《意志》──決して負けぬ、という決意が為さしめた適切で冷静な《スピンドル》能力による止血、封傷、増血の処置によるものだとまでは、ユガは知りえない。
アシュレの歩んできた人生そのものが、彼を支えているのだとまでは、思い至らない。
知りえないが、その戦いぶりに畏敬を覚える。
見事だ、と賛嘆する。
不思議だ、とユガは思う。
この埃と汚れた雪にまみれた血みどろの戦いで、そのさなかで、これほどにも心が澄んでくるとは。
だから、はっきりと聞こえた。
蹄だ。蹄鉄の音だ。
アシュレもまた、同じ想いだったのだ。
血まみれだった。
軍装はずたずたに裂けていた。
流された血が埃を吸い、どす黒く彼を染めていた。
だが、変わらないものがあった。
それはアシュレの瞳に宿る《意志》の輝きだ。
いや、それは戦いのさなかにさらに精練され、強さを増してユガを見つめている。
そして、アシュレはゆっくりと槍の穂先を持ち上げた。
それが──射撃体勢に──変形する。
ユガはその背後に遺跡を背負っていない。あるのはただ、観客席とそこに満ちる無辜の民草だけだ。
アシュレは距離を保ったまま、突撃をしかけてこない。
その意味するところはひとつしかない。
観客もろとも、ユガを滅ぼす。そう決めたということだ。
アシュレの瞳に迷いはない。
「いいぞ。アシュレダウ。そうだ。それが王というものだ。真に欲するもののために、名誉や誇り、民の命すら、そして己の信念さえ供物に捧げることのできるものだけが──キミは本当に、ようやくいま、その階段に一歩足を踏み込んだのだ」
だが、とユガは思う。
この飢えは、とつぶやく。
それはシオンという炎を、燃焼を求める心だ。
枯れ果て、凍えながらも、自刃さえ許されず、永劫の刻の牢獄に囚われていたユガの心に灯った光だ。
「だが、わたしも、彼女を譲る気などない」
ユガが槍を掲げ、アシュレに応じた。
そして、ユガは馬を走らせた。
待ち受ける一撃をかいくぐり、己の《ねがい》を果たすために。
時間停止の絶技:《プリザーヴ・ブレッシング》──その一撃を叩き込めばすべてが決する。
だが、アシュレは戦いを放棄するように穂先を下げて──。
「わたしたちの闘いを、侮辱するのか! アシュレダウッ!!」
そうユガが叫んで──。
その眼前から、赤熱する星がぶ厚い床板を打ち破って現れた。
その赤く燃える星はその中央に金色に輝きながら回転する刃を持っていた。
宝剣:ジャンビーヤ──アスカリアの佩刀、そして異能だった。
すべてを打ち据える赤い星の《ちから》:《アンタレス・フォール》──サソリの心臓に例えられる赤い星が、アシュレに示していた。
撃て、と。
ここだ、と。
だから、アシュレは撃った。
その星の生まれた場所を狙って。




