■第二十七夜:騎士の戴冠
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重厚な木製のドアが押し開かれ、戦装束の男が現れたとき、ユガは朝食を兼ねたお茶を楽しんでいた。
アシュレは、オズマドラ軍司令官を捕縛した旨、あらかじめ来意を告げていた。
軍装のまま、ユガの返答も待たず、私室を訪った。
「物々しい装いだ、アシュレダウ」
そんなアシュレを、やんわりと諌めるように言い、ユガは紅茶を啜った。
「戦場からの帰還でしたので」
「戦塵を落してからでもよかった。急ぐ必要はなかったよ」
私室に用意された食卓は重厚な作りだ。年代物だろう。アシュレが訪れていたときにはなかったものだ。
「飲むかね? ベスパールに点てさせよう」
あいかわらず座したままユガは言った。
アシュレはオズマドラの先遣部隊を率いる将軍、それも第一皇子を捕縛し連行してきた。
これは間違いなく第一級の戦功であり国王といえど席を立ち、迎えるべき戦働きである。
そうであるにも関わらず、ユガはアシュレの働きを労うことはおろか、言及しようともしない。
つまり、軍装で現れたアシュレ以上に、不遜な態度であった。
しかし、アシュレにしても、それを気にかけた様子もない。
「お茶は遠慮させてもらいましょう」
「残念だな。良い薫りだよ。キミたちが宿泊したコテージの主人からわけてもらったのだ。なんでも、流浪の民が持ち込んだものだという」
「薫りなど、確かめられないでしょう……ここに満ちているのは──愛しいばらの薫りだけだ」
アシュレは椅子を引き、座らずにユガと対峙する。
食卓には上座から下座に向かって銀の彫刻が埋め込まれていた。
トラントリムの紋章のなかから採られたのだろう。
花冠のシンボルと、そこから伸びる草木の蔓が離れた互いの席を結びつけるように配されている。
「年代物だ。時代に耐えたものだけが得られる風格がある」
「いずれ朽ちるべきものだ。だが、わたしはそこにある哀切が、たまらなく好きなのだよ」
互いが同じテーブルを褒めた。
一瞬ふたりの視線が絡む。
ことり、と小さくテーブルの下で物音がした。
ユガの左手が卓上から、下ろされる。
「ところで……獲物は──捕獲したオズマドラの皇子はどこにいるのか。連行するように伝えたはずだが」
美しい獲物だと聞いている。ユガは、ここでようやく言及した。
「皇子は、自ら連行されているところです。刑場へ」
「自ら、刑場ヘ? それは説明を必要とするのではないか、アシュレダウ?」
「その前に、ボクの質問に答えてもらいたい。シオンザフィルを──夜魔の姫をどこにした」
硬い言葉でアシュレが切りつけた。
性急だな、とユガは受け流し笑った。
そして、その突き返しは同じぐらい鋭かった。
「彼女はもう、去ってしまったのだ。アシュレダウ、キミの下から」
キミの不在の間……もう、六日目になるか。彼女を見舞った出来事が、シオンザフィルを変えてしまったのだよ。
諭すようにユガが言った。
「曖昧な物言いは、好きになれない。はっきり告げたらどうだ。貴方が変えたのだ、と」
「彼女のほうから飛び込んできたのだよ」
それもこれも、キミが彼女を放り出したりしたからではないか。
堅牢な防御から繰り出される鋭いカウンターのように、ユガは言い放った。
「わたしははっきりと警告したはずだ、アシュレダウ。二度と彼女をわたしの前に立たせるなと」
「仕組まれた事件だと知らなければ、その言葉であるいは折れる心もあったかもしれないが」
だからどうした、とアシュレは突っぱねた。ふたりのあいだで交された言葉の刃が不可視の火花を幻視させる。
「シオンに会わせろ。ここにいることはわかっている」
「会わぬほうがいい。互いがつらい思いをすることになる」
アシュレダウ、悪いことは言わない。シオンザフィルはもう、キミの下には帰れないのだ。
一転、優しい声色でユガは伝える。
「キミは若い。そして、キミには結ばれるべき素晴らしい女性が待つではないか。こんなところで青春を浪費すべきではない」
だいじょうぶだ、彼女──シオンのことはわたしが責任を持とう。
「時が経てば、すべて良い想い出に変わる。それは変わることのできる生物=ヒトの特権だ」
「それは貴方が決めることではない」
ぴしゃり、とアシュレが断じた。
ユガの優しさという糖衣に隠された毒を、床へ叩きつけるように。
ベスパールが入ってきたのは、その時だ。ノックが聞こえなかった。
うやうやしくビロードのクッションに捧げ待たれ、アシュレの眼前に届けられたのは──〈アステラス〉──シオンの、そしてガイゼルロンの大公の証である大振りな宝冠であった。
「別れの品、想い出の品としてキミに渡すよう頼まれたものだ」
直接会えば、別れがつらくなる、と泣かれてね。
にべもないアシュレの態度に、ついにユガは切り札を持ち出してきた。
アシュレはそれを手に取る。
ずしり、と重い。
それはシオンが背負い続けてきた重責、そして永劫の刻の牢獄から同胞を救うという誓いの重さをアシュレに体感させるようだった。
「誓いは……どうする、と彼女は言っていましたか?」
その表面を撫でながらアシュレは訊いた。
「誓い……とは? なにか、ままごとじみた愛の誓いをでも交わしたのか? 残念だが、それは履行不可能だ」
忘れたまえ、とユガが言い、アシュレはテーブルに手をついた。
ついに心が折れたのか、それが揺らぎとなって肉体に現れたのか。
違った。
「嘘をつくな」
静かに、なんの抑揚もなく、アシュレは言った。
激しい怒りは、だから言葉ではなく《スピンドル》エネルギーとして表出した。
テーブルにはめ込まれた銀の花冠の装飾が、一瞬で白熱した。
炎を上げながらそれがユガの手元まで走り──重厚なテーブルを両断した。
清浄な炎によって木材が焦げる匂い。
ごとり、と重い音がして、テーブルが左右に割れ、床に叩きつけられた茶器が派手に飛び散る。
それから、鮮烈にバラが薫った。
シオンが、そこにいた。
戒められていた。縛されていた。飼われていた。
裸身でこそなかったが、その衣服は、シオンの肌を引き立たせるための額縁としての機能しかもっていなかった。
それはもはや衣類ではなく、装飾であった。
それら布地を留めているのはきつく戒められた銀の縛鎖によってのみ。
両腕に残された甲冑──〈ハンズ・オブ・グローリー〉が、いっそう退廃的な印象を与える。
後ろ手に回された両腕はその装甲の上から枷され、床に広がる布地のドレープからはありえないほど太い鉄鎖が見えた。
なによりも背徳的な印象を与えるのは、その豊かな黒髪に編み込むようにして繋がれた同じく銀の拘束具だ。
そして、あの許されざる負の《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉が、いままさにシオンの肉体に改変を加え続けていた。
吐き気をもよおすような彫刻のなされたそれが、早く、遅く、残酷な抽挿を繰り返している。
シオンの純白の肌が、恥辱に染まっている。
漆黒の布地が彼女の視覚を奪っていた。
その首には、ぶ厚い革製の首輪があり、鉄鎖が結わえられている。
「だから、会うべきではない、と言ったのだ」
黒いビロードの目隠しをされたシオンはすでに息も絶え絶えで、うまく話すこともできないのだろう。
汗で濡れた額をユガの太股に預けている。
「このように、キミの不在の間、ずっとわたしが“主人”を務めていたのだ」
もちろん、この六日の間だけではないよ、とユガは付け加えた。キミが昏睡にあるときからずっと、わたしたちはこういう関係だ、と。
「見たまえ、一睡も許さず改変を加え続けたおかげで、もう、蕩け切っている」
そして、加え続けているのは改変だけではない。
「食事も、わたしからの給餌以外はいっさい許していない……おっと、近習には許したかもしれないな? これでも公務をおろそかにはできない気質でね」
給餌というのは──《夢》の供給だよ。もちろん、人間式の作法でね。
「こうしてわたしの匂いを嗅ぐと、どうしようもなくなるようなのだ。言っておくが、これはわたしが加えた改変ではないぞ?」
この〈ジャグリ・ジャグラ〉は使い手の暗い望みを“探り当てよう”とする。それに抗えなければ、堕ちるだけだ。
「そして、暴走時、だれのそれを“探り当てよう”とする、と思う? そうだ、正解だ、アシュレダウ、被害者の、さ」
つまり、こうしてわたしに逆らえなくなる改変をしてしまったのは、この女──シオンザフィルの性根なのだ。アシュレの心を折るべく、ユガは的確に言葉を選んで続ける。
そして、持論を実証するよいうにシオンの髪に潜り込んだユガの指がゆっくりとその感触を楽しむようにかいぐる。
そのたび、シオンの身体が痙攣して、跳ね、それがまた非情な感覚を呼び覚ましてしまう。
「〈ジャグリ・ジャグラ〉だけではない。この女には、すでに、さまざまなな夜魔の男のたしなみが加えられている。なにしろ、相手を心から屈服させねば子を得ることのできぬ種でね、われわれは。そして、男の誰もが英雄的であるとは限らぬものなのさ。貴族的であることを退廃や、耽美趣味と勘違いする連中はどこにでもいてね。昔は、そういう夜魔の気質が好きになれなかった。だから、これらの道具を使ったこともなかった。……しかし、なかなか良い。わたしも歳を重ねたということだろうかな?」
シオンの頭をひときわ抱き寄せ、たっぷりと嗅がせてから、おもむろにユガはその目隠しを解いた。
シオンがすすり泣いて、懇願する。
「ダメ、ダメだ、ユガ、解いては……だめ……アシュレ……みないで、おねがい、おねが……い」
その唇から《意志》では止められない唾液が滴り落ちた。
紫の瞳が官能と絶望に濡れて、壊れそうなほど揺れていた。
対するユガの言葉は、辛辣なほどにほがらかだ。
「ここまで、彼は見てしまったんだ。もう戻れやしない。ようこそ、アシュレダウ、これがわたしとシオンとの食卓の風景だ」
ユガはいっそう残酷に命じる。
「ほら、彼が困ってしまっているじゃないか。はっきりと別れを告げないからこうなるんだ。もう、すべてを話すしかない。洗いざらいをだ。隠し事はいけない。こういうことはハッキリさせたほうがいい」
だから、どこをどのようにされたのか、ひとつずつ、アシュレダウに報告しよう。
キチンと、詳細に、記憶を辿りながら──。
言いながら、ユガは〈ジャグリ・ジャグラ〉を呼び出した。シオンは嗚咽しながら、荊となった〈ローズ・アブソリュート〉に命じる。いっそうの戒めを。
肉を割く音とともにシオンの衣服の下から荊が現れた。
「強情な娘だな、キミは。だが──わかるだろう? キミが触れられていないのは、そこだけだ。そんな女が、高潔なヒトの騎士であるアシュレダウのもとに走れるとでも思うのか? シオン、いいか、キミはもうダメなのだ。キミが選び取れるのは、わたしと堕ちることだけだ。だいじょうぶ、わたしはいつまでもそばにいる。そして堕ち続けてあげられる」
ユガの声はあくまで優しい。その優しさのまま言う。
「わかっただろう? アシュレダウ、キミがいると、彼女は苦しむのだ。夜魔の一族が、記憶を忘れられないことはキミだって知っているはずだ。特に陥落の記憶は──誇り高い生き様を歩んできた彼女だからこそ、繰り返し繰り返し心を嘖む。キミといても、シオンはその記憶に苦しむだけだ。だが、わたしなら……助けられる。キミの記憶から彼女を自由にできる。解放してあげられる」
「あなたの妻だったヒトが持ち帰ってくれた忘却の血を使って?」
一瞬、ユガの手が止まり、アシュレを見返した。
「その話を……わたしは、キミにしたかな?」
「記憶を遡ってみたらどうだ、ユガディール?」
遠い目。
現世から離れる、記憶を遡る瞳をユガはする。
そして思い当たる。
アシュレにその話をしたことなど、ないという事実に。
「なぜ、それを知っている? アシュレダウ?」
「すくなくとも、あなたがボクの知るユガディールなら、どれほどつらい想い出であろうと愛する者の記憶を消そうなどとは思わないはずだ。そんなことを“自由”とは、“解放”などとは呼ばないはずだ。そうするくらいなら、己が消え去ることを選ぶヒトのはずだ」
「キミにわたしを規定する権利などないよ」
「その言葉、そっくりそのままお返しする。ボクとシオンの関係は、貴方が規定してよいものではない」
愚かな、とユガは嗤った。
「自分で──その関係を定めることもできない男がなにを言うのか」
キミが彼女との関係を言い淀んだこと──それこそが、もし、キミとシオンがこれ以降ともにあったならどうなるかを、指し示しているのだ。
そうユガは言うのだ。
ユガの言葉にアシュレは視線を落した。
だが、それは《意志》を挫かれたからではない。
その目は、じっとシオンに向けられていた。
そして、シオンも……瞳を逸らせない。
白鳥のように美しい首を、必死にアシュレの方に傾け、深い紫の瞳を罪の意識に震わせて。
たぶんそれは、ほんの短い間だったはずだ。
けれどもシオンにはその一瞬が永遠にも感じられた。
それから、アシュレは言った。
口調が変わっていた。
わたし、と自分のことを呼んだ。
「その女はわたしのものだ、ユガディール。所有物であり、領土であり、我が唯一の国土だ。オマエはそれを侵略している。不当な占領を行っている」
アシュレの言葉に笑止、とユガが返した。
「貴様こそ、彼女をモノ扱いしているではないか? そのどこに自由がある? どこに彼女のしあわせが?」
「モノ扱いではない。その女、シオンザフィルは、明確にわたしのモノだ、所有物だ。だから、どうするか、どうあつかうかは、わたしが決める。その女が離れたいと願おうと、そんなことは許されないし、許さない。わたしから逃れる自由など与えないし、もし望んでも踏みにじるだけだ。心にも、身体にも、文字通り刻み込んでやる」
ただ、それをしあわせと感じるかどうか──それだけはその女の自由だが。
「貴様、王にでもなったつもりか?」
「いいや、そうではない──」
──いまから、なるのだ。
アシュレはゆっくりと手にした王冠:〈アステラス〉を戴きながら──告げた。
「ユガディール・アルカディス・マズナブ──アシュレダウ・バラージェが挑戦する。決闘だ。私闘権の行使を宣言する」
アシュレは騎士として、正式の名乗りに則ってユガに戦いを挑んだ。
「不当に奪われた我が国土──シオンザフィルの返還を要求する」
静かだが、そのうちに青く燃える炎を秘めたアシュレの言葉に、ユガが騎士の顔になった。
一瞬、ほんの一瞬だが、アシュレはそこに心からの快哉をユガが叫んでいるかのような表情を見いだしてしまう。
ちくり、とシオンの窮状を見てさえ動じなかった心に痛みが走った。
だが、《意志》で組み伏せる。
気がつけば、ユガは不遜な挑戦者を睨めつける老練な男の顔になっていた。
「騎士の名誉と誇りにかけて、お受けする。ただし、貴公が破れた際には、貴公はわたしの所有物となっていただく」
条件を付けることを忘れず、ユガは言った。
「刻限は?」
「たったいまから」
では、公明正大に、国民の眼前で、コロシアムにて。そう決まった。
シオンはそのやりとりを聞きながら、泣いていた。
涙が止められなかった。
歓喜だ。うれしいのだ。
アシュレに宣言されたことすべてが。
モノとして扱われ、所有され、自由を奪われることが。
自分はおかしいのではないか、とシオンは思う。
狂ってしまったのではないか、と思う。
アシュレの宣言は、そのすべてがヒトの法に照らし合わせれば不当で、不純で、不潔な──許されていいはずがない言葉のはずだった。
だれしもがその揚げ足を取り、彼を非難することができるはずのものだった。
だが、その言葉に許されてしまった自分がいた。
こうして欲しかったのだと、はっきりとわかってしまった自分がいた。
もし、アシュレがそれ以外の言葉でふたりの関係を規定していたなら、ユガの言うように戻れないと絶望したかもしれない自分がいた。
たとえ、一時は取り繕えても、必ず破綻する関係にしかなれない気がしていた。
汚れてしまった、とシオンは感じていたのだ。
こんな手でアシュレに触れていいはずがない、と思ってしまったのだ。
それなのにアシュレはシオンとともに汚泥に身を浸すことを選んでくれた。
聖なるものでは贖えない、なにか。
正しいことでは贖えない、なにか。
きっとだれも認めないだろう。
きっと誰も許さないだろう。
だが、それでも、わたしだけは忘れない。
シオンは思う。
シオンザフィルという女が、いかにして救われたか、を。
アシュレダウという男が、なにでそれを贖ったか、を。




