■第十二夜:《ねがい》の器
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「あなたは生きなければならない。生きて、愛しいあのかたのそばに寄り添わなくては」
アルマは、気を抜けば掌からこぼれ落ちてしまうユーニスの命に、そう呼びかけ続ける。
巨大な門を持つ王家の墓所に降り立ち、ナハトの案内のままに深部を目指した。
急激に落ちくぼんだ絶壁の底に墓所はあった。
壁画の描かれた内壁を潜りながら進むと、壁面に巨大な亀裂が走っている。
ナハトは躊躇なく、その亀裂に潜り込んだ。
アルマは息を呑んだ。
亀裂の内部は、それまでの古色然とした王家の墓所とは次元の違う場所だった。継ぎ目のない、石とは異なる建材で造営された滑らかな床と壁面が続いている。
そして、どのような仕掛けになっているのか、火のない灯が通路を照らし出し、手をかざすと開く扉が要所に設けられていた。
アシュレなら目を輝かせて悦ぶことだろうとアルマは思った。
アルマだって聖遺物管理課の職員としていまもあれたなら、同じく反応しただろう。
だが、それはすでに遠すぎる夢だと、アルマは知っている。
そして、己の腕のなかには、いま救うべき命があった。
「急いで」
「じきです」
ナハトの言う通りだった。自動開閉するドアをいくつか潜ると、視界が開けた。
すり鉢型の円形小劇場のごとき施設が、すっぽりその空間には収まっていた。建材は例の判別不能な素材で出来ており、部屋自体が白色に発光している。
家屋の二階分に匹敵する高さのくぼみが同心円を描く階段によって、すり鉢状の構造に足場を確保している。
その底に奇妙なカタチの祭壇があった。
ふたつ。向き合った寝台のような姿の。
そして、その間に亡霊がいた。
すべてが白だった。蓄えられた豊かな髭も頭髪も、頭上に戴く王冠さえ。
揺らぎのない眼がアルマを捉えた。
ナハトの言葉に偽りはなかった。
おじいさま、とアルマは言葉にならぬ声で呼びかけている。
気がつけば駆け出していた。
記憶のなかのグランがそこにはいた。
優しかった。
深い教養と徳と決然たる勇敢さが、ひとつに和合した類い稀なる傑物だった。
その膝に乗せられてお話をしてもらえるだけで、誇らしい気持ちになれた。
グランの存在はアルマにとって王家に連なる記憶のなかで、もっとも輝かしいものだった。
あらゆることが過去に戻っていた。
「助けて――このかたを助けてください」
幼きあの日のように、アルマはその腕に飛び込み必死に取りすがった。亡霊への恐れなど頭の片隅にさえない。
体温のないグランの指が、幼い頃とおなじようにアルマの頭髪を撫でた。
「つらい思いをさせたな」
まるでユーニスの死が、ひいてはアルマの境遇が、すべての悲劇が我が責任であるかのようにグランは言った。
「だが我は還ってきた。そなたらすべての《ねがい》を叶えるため」
いかなる《ねがい》も叶えて見せよう。グランは確信に満ちた声で言った。
「では、救済を。このかたの《魂》を救ってください」
膝をつきグランを見上げてアルマは言った。
神に祈るより熱心に。
グランはアルマの頭頂に応じようぞ、と手を当てる。
夢を見ているようだった。
「愛しいアルマステラ、そなたが受けた仕打ちはすべて知っておる。悲憤も、憎悪も、絶望も。
我が力を乞うなら復讐など思いのままよ。
それなのに、孫娘よ、そなたはひとりの娘の命を救いたいと申し出るか。復讐より救済を重んじるか」
「大事なかたの……愛するひとなのです」
「そなたも愛しておるのか」
グランの指摘にアルマは壊れそうな顔をした。
アシュレの顔が脳裏に浮かんだ。残酷すぎるほど鮮やかに。
ああ、あああ、と声がこぼれた。
「はい」
アルマは、うなだれるように首肯した。
罪を認める咎人のように。本心の吐露だった。
「あ、愛して……しまいました」
だが、泣きじゃくり衣を掴んで嘆願するアルマに、グランは微笑んで言ったのだ。
「よきかな」と。
祭壇にその娘を載せよ。
一転、グランは抗い難い声色でナハトに命じた。ナハトは粛々と従う。
果たして、ほとんど死にかけた存在が、そこにはあった。
青黒く変色しかけた、かつて女だったはずの肉塊。
純白の祭壇を血と泥と汚物が汚す。
アルマが嗚咽を噛み殺した。
ナハトは不快そうに顔を歪めた。
「いかに奇跡の御業といえども、これは」
諦めに似た言葉がナハトの口から漏れた。
「救いを、王よ」
孫娘の嘆願にグランは頷いた。もちろんだと言うように。アルマの顔が希望に輝いた。
「しかし、救えるのは《魂》のみ」
だが、続くグランの言葉に、どういうことですか、とアルマは問いかけることになる。
グランは言う。あくまで淡々と。事実だけを。
「肉体はすでに死の顎門に捕らわれておる。
かろうじて《魂》だけが黄泉路の縁で踏みとどまっておるのは強い残念があるからだろう。
不憫な。どれほど《ねがった》ことだろうか。それなのに、神は答えてはくれなんだのだ」
グランの言葉はアルマの胸に突き刺さった。
男たちに囲われた一年間、アルマはずっと神に救いを願い続けて来た。
たしかに、救い主は来た。
だが、男たちが彼女を諦めたのは神の御業によってではない。
病こそが結果として彼女を救ったのだ。
「神はヒトを救わぬ」
強い同意の視線をアルマはグランに返した。
「ならば、ヒトが救わずして誰が救えるか」
はい、とアルマはグランの言葉に頷く。
「強く《ねがう》か? 我が身を省みぬか?」
はい。決然とアルマは言った。
よきかな、とグランは言った。その強い《ねがい》こそがヒトをして奇跡に手をかけることを可能にするのだ、と。
「この者の《魂》を、想いを、そなたが引き継ぐのだ」
それ以外に、この者を救う術はない。
「当然だが、この御業は、アルマステラ、そなたがそなたであることを危うくする」
それでもか、とグランは念を押した。
アルマは、一度だけユーニスを見た。
汚され肉を齧り取られ打ち捨てられた彼女に、自身を重ねた。
無残に踏みにじられ、いまにも絶えようとしている希望の灯火を消してなるものか、との想いが嵐のように胸中を吹き荒れた。
はい。きっぱりとアルマは頷いた。
「ならば、もはや言うことはない」
急がねば手遅れになる。
グランはアルマに、もうひとつの祭壇へ着くように指図した。
祭壇はまるで寝台のごときカタチをしていた。
血と汚泥に汚れた着衣のままあがるのは憚られる気がしたが、逡巡している猶予などない。
アルマが祭壇に身を預けると同時に、がちりと手足と頭部が固定された。
拷問具のようだった。
ちょうどユーニスと向かうい合うカタチになる。
いずれの神のものとも知れぬ祭壇に、すべてを預けることに恐れがなかったかと言えば嘘になる。
だが、眼前に向かい合ったユーニスの痛ましい姿が、アルマに怯懦を振り払わせた。
すでに終わった者としてアルマは生きてきた。
そう諦念してきたからこそ、自刃せず生きてこられた。なんの希望も抱くことがないからこその、絶望なき者として。
だが、だからこそ、自らが捨てたはずの希望を託したした者――ユーニスの――あまりに無残な死をアルマは容認できなかった。
「〈デクストラス〉を、これに」
グランはアルマから〈デクストラス〉を受け取った。
そして、ふたつの祭壇の中央に立つ。
音もなく、龍を想わせる器官が床から現れた。
床に同化して収納されていたそれは人工物というには、あまりに滑らかな動きだった。
「ついにあるべきカタチに戻るか」
感慨深げにグランは言い、その器官の突端に〈デクストラス〉を挿し込んだ。
ごくかすかに音がしてロックが完了する。
血液が流れ込むように〈デクストラス〉に光の帯が走った。
生命ある槍のごとき存在が完成したのだ。
「これが〈パラグラム〉のあるべき姿。〈パラグラム〉の腕よ」
ナハトが感極まったように言った。
「主:グランよ、我らが悲願の叶うときも近いのですね」
焦るでない。慈悲深くグランは言った。騎士よ、まずはその力を見るがよい。救済の力を。
それからグランは死にかけたユーニスに近づき声をかけた。
つらかったであろうと。
「そなたの肉体を救うことはできぬ。しかし、《魂》と想いは受け継がれる。もちろん、そなたの《ねがい》しだいだが」
我が孫娘がその身を挺すると申し出てくれた。ともに生きるがよい。愛する者の膝元へ帰るがよい。
「応や否や?」
答えのかわりに〈パラグラム〉の腕が持ち上がった。迷うほどの時間がユーニスには残されていなかったのだ。
びゅう、と鎌首をもたげた〈パラグラム〉の腕は襲いかかる蛇のように、その尖端に取り付けられた〈デクストラス〉をアルマに突きつけた。
刃を突き込まれるという脅威に対し、本能的な恐れが恐慌を強いてきた。
だが、アルマはその向こうにユーニスを見ていた。
助けたかった。アルマにとってユーニスは自分自身であった。
ユーニスを救うことで自分を救いたかった。
瞼を閉じ、すべてを受け入れると決意する。
直後に衝撃があった。
ごぼり、と胸郭が血で満たされる音を聞いた。
聖遺物:〈デクストラス〉が突き込まれた音。ありえないほどの激痛。
それはまさしく槍の穂先を突き込まれる痛みそのものだった。
熱い血潮に溺れる恐怖。
アルマは必死にユーニスを想った。
「死にたくない」
どこかで声がした。それを最初、アルマは自身のものと勘違いした。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」
ユーニスは死の淵で狂気に喰われかけていたのだ。
溺れる者が藁にさえすがるように、ユーニスの手が取りすがってくるのをアルマは感じた。
底なしの恐怖が這い上がってくる。
「恐怖に呑まれてはだめッ。あのひとのことを、愛しいひとのことだけを想ってッ」
パンッ、とアルマは意識の手でユーニスの頬を力いっぱい張った。
それは同時に自身に対する叱咤でもある。
「愛しいひと」
「アシュレダウ。あなたの、愛したひと」
「アシュレダウ。アシュレ。ああ、あああ」
かすかな光がユーニスの狂気に淀んだ瞳に戻った。
死の恐怖にアシュレへの想いが勝ったのだ。
アルマはユーニスを掻き抱く。
「生きたい。あのひとのかたわらで、生きたい。ずっとともに老いて死ぬまで」
「帰りましょう、ユーニス」
「アルマステラ? あなたが天使だったの?」
「ひとつになるの。あなたはわたしのなかで生きる。死なせはしない。わたしの血と肉と心に融けて、生きるの」
「わたしは消えるの?」
「わたしだって、消えてしまうかも」
「こわい」
「わたしだって、こわいわ」
アルマは震えた。グランが言った通りだった。
これは一種の挺身、捨て身の賭だったのである。
「でも……あなたが、あなたの想いが本当にかけらも残さず失われてしまうほうが、こわいの」
そのためなら、その想いを残すためなら。
「わたしは、わたしであることをやめてもかまわない。助けるよ、ユーニス」
アルマの言葉にユーニスは瞳を見開いた。
「……あのひとへの想いが消えてしまうほうが……こわい。
ほんとうだ。わたしより大事なものが、わたしにはある。
そのためなら、わたしじゃなくてもいい。
わたしでなくなってしまったってかまわない。
アシュレのそばで生きる。アシュレを、あのひとを想う。
わたしは、わたしを捨てる」
うん、とアルマは頷いた。うん、ともう一度。
はらはらと涙が落ちた。
我執に震えていたユーニスの指から力が抜ける。
こわばりが解ける。
アルマは指を絡める。瞳が合った。
ふたりはひとつだと互いが無言のうちに認め合った。
それは世界から報われることも、省みられることもなかった者たちの同盟だった。
そして、光の奔流が流れ込んできた。




