■第二十一夜:蠢動する悪意
※
シオンが目覚めたとき、やはりアシュレはいなかった。
ただ、ふしぎなことに、今日は少し穏やかな心持ちで覚醒することができた。
ユガの《夢》を見なかった。
かわりに、ついさきほどまで、アシュレにずっと頭を撫でてもらっていた気がする。
そこからアシュレの穏やかな愛慕の気持ちが染みて、シオンの傷だらけの心を癒そうとしてくれていた。
それは《夢》というには曖昧すぎる感触だったから、きっと現実なのだろう。
夜魔であるシオンにとって、《夢》は現実の再現であり鮮やかなものだったから、こうして微睡んでいるときの体験の方があいまいに感じるのだ。
そして、この穏やかな気持ちの流入は、アシュレが心の整理をつけつつある証拠なのだろう。
「労られてしまった」
シオンはたったそれだけで紅潮してしまう自分の頬を両手で包み、その熱さにまた戸惑う。
「こ、小娘か、わたしは」
いや、それ以下だ、と認めざるをえない。
シオンの態度は初恋に戸惑う少女のそれだ。
シオンに対する愛情、ユガに対する嫉妬、そして己への怒り──アシュレが、それらの感情を抱き続けることは、正当であるがゆえに簡単だ。
だが、アシュレはすでにそれら感情の荒波を乗り越えつつあるのかもしれなかった。
進むべき道。なすべきこと。それを誰にも諭されずに考え抜き、選択肢を作り出し、実際に選び取っていく。
それができる存在は、種を問わず稀だ。
遠からず、わたしは許されてしまうだろう。
むしろ、アシュレのことだ、逆に許しを乞うてくるかもしれない。
そして、わたしたちはまた、ともに歩むだろう。
シオンは確信する。だが……。
「わ、わたしに限っていえば、もう、一生、許されずとも……よいのに」
思わず本音が漏れて、シオンは弾かれるように周囲を確認する。
大丈夫だ。いまは、完全にひとりだ。
「ゆ、湯を浴びよう。れ、冷静に、な、なろう」
シオンは湯浴みを済ませる。
それから、いつでもアシュレが帰ってきてもいいように、室内を片づける。
少しだけ料理も。生地で餡を包んだパスタの仲間。それもソースはアシュレの作り置きを転用する。
すこしは手際がよくなった。あとは湯に落として茹でるだけだ。
アシュレが帰ってきたなら、ヴィトライオンの世話をしている間に食卓ができあがってしまう。
「われながらの良妻ぶりではないか」
自分で言った言葉にきゅう、となぜか胸の奥が狭くなった。
「べ、べつに妻に迎えてもらおうなどと……そんなことは思っていないッ!!」
また、だれもいない虚空にむかってシオンは木製のヘラを振るう。
だが、イリスの話を──カテル島での真実をシオンから聞いたなら、アシュレはどう思うだろうか。
悲しみ、戸惑うだろう。
そのときわたしはそのかたわらで、アシュレを支える……それで……もし、アシュレが……関係を……婚約を……婚姻を……。
そこまで考えて、シオンは羞恥にうずくまってしまった。
自らの都合の良すぎる妄想に恥じ入る。
だいたい、そのときイリスはどうなるというのだ。
「そんなことができるか!」
全身を真っ赤に染めながらシオンは繰り返す。
それから、まだ帰ってこないアシュレを想いながら窓辺の長椅子に腰掛ける。
※
どこかで轟きわたる雷鳴を聞いた気がした。
シオンは寝汗をかいて目覚めた。
いつの間にか、また寝入ってしまったのだろう。
「それほど……長い時間ではなかったはずだが」
重いカーテンをたくしあげる。
陽の傾き具合から、正午近くだとわかった。
アシュレが出かけたのは朝だったから……いつもなら、もう戻っていなければおかしいはずだ。
だが、いまだにアシュレの姿はない。
もしかしたら厩だろうか。シオンはガウンをまとい、厩舎をのぞいたが、主人も愛馬も姿はない。
出ていったきりだ。
ずっと向こうで、黒雲が湧いていた。天候が崩れるのだ。
汗で濡れた衣類が冷えた。
シオンは部屋に戻ると暖炉に薪を加えて火勢を増した。
それから湿った衣服を脱ぎ、裸身に毛皮だけを纏う。
その格好でアシュレを待った。
だが……いつまでまっても、アシュレは帰ってこなかった。
そんなはずがない、とシオンは自分に言い聞かせた。
アシュレが帰ってこないはずがない。わたしをひとりにするはずがない。捨てたり……しない。
考えはじめると恐ろしい想像が堂々巡りしてシオンを苦しめた。
ガチガチガチガチ、と寒さではない震えが全身に伝わる。
今朝の、アシュレのあの優しささえ──シオンとの関係に踏ん切りをつけた晴れやかさだったのではないか。
そう疑ってしまう。
「そ、そんなはずがないっ」
強く言葉にしなければダメだった。
すでにアシュレが家を出てから三刻が過ぎ去ろうとしていた。
これまで、どんなことがあっても、アシュレがシオンをこれほどの時間、ひとりにしたことなどない。
なぜなら──シオンがそのことに思い当たるのと、それ(・・)がシオンの肉体のあちこちから邪悪な穂先をのぞかせるのは、まったく同時だった。
忌まわしき負の《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉。
致命的な時間が過ぎて、その制御が失われたのだ。
主であるアシュレの不在を突いて。
「くっ」
シオンは上げかけた悲鳴を無理やり飲み込む。
それはなんというか、夜魔の王族としての矜持だ。
改めて見れば見るほど、それは醜悪な姿をしていた。
邪悪な《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉の先端には、頭部を人面にすげ替えられた奇怪な深海の生物たちのフィギュアが、恐ろしいほど精密に彫り込まれている。
ときおりそれが、きちり、きゅるり、と軋むように蠢いて鳴く。
見ているだけで正気を削られてしまうような、そんなおぞましさを〈ジャグリ・ジャグラ〉は外観からして、すでに持っている。
シオンの肉体に潜伏していた十三本ものそれが、一斉に姿を現したのだ。
他者と生命の尊厳を辱め、貶め、玩び──文字通り玩弄することでえられる好奇心の充足。
シオンはその造形に、歪んだ作り手の嗜好を感じる。
おそらく、これには手にした使用者のなかに潜む嗜虐性を引き出して、増幅させる魔性が潜んでいるのではないか。
シオンはそう確信するのだ。
「あ、う……」
シオンは、これまで、これほどはっきりと〈ジャグリ・ジャグラ〉と対峙したことがなかった。
ユガかアシュレか、いずれにせよ、このおぞましさと正対し続けてきたのは、彼女の愛した男たちだったのだ。
そのことにいまさらながら気がつき、恐怖した。
このような邪悪がほかにあるだろうか、と思った。
それほどの魔を、それは発していた。
それはヒトを使い手を昏い喜びへと誘う引力に満ちている。
だからこそ改めてユガとアシュレ、ふたりの男から、自分がどれほど大切に想われ、愛され、扱われていたのかを思い知った。
アシュレとユガによって振るわれた改変は、やり方は違っても、その方向性において同一だったからだ。
シオンという個性をどれだけ損なわず──いや、むしろ高めるか。
その一点において。
だから、決して、シオン自身が制御しきれない改変を行わなかった。
髪の毛を導体にするときも必ず「受容側であるシオンの《意志》」がそこには反映されていた。
感情の流入を許すか否かは、シオンに託されていた。
それはシオンという個体への敬意に他ならない。
これほどの魔の誘惑に耐えながら、その信念を、アシュレとユガ、あのふたりは貫き通したのだ。
互いが、なんら相談し合ったわけでもないのに、競合し、高めあった。
だから、シオンはまだ、この姿でいられる──いられた。
シオンは毒蛇に睨まれた子鹿のように震えながら、宝冠:《アステラス》へと手を伸ばした。
星の名を与えられた気高き冠は、シオンの精神を守ってくれるはずだった。
少なくとも、正気を。
きゅりり、とシオンの思惑を感じ取ったのか、一斉に〈ジャグリ・ジャグラ〉が鳴いた。
シオンはおののき、《アステラス》を掴み損ねてしまう。
重い王冠が床に落ち、音を立てて転がった。
ぶるりっ、と〈ジャグリ・ジャグラ〉が震えるのを、シオンはたしかに、見た。
それは罠にかかった獲物を見いだした獰猛な強襲型生物の身震いに、そっくりだった。
狂わされた。
暖炉の、アシュレを待つ毛皮の上で、シオンはその暴力的な改変を受けた。
それはひとことで言えば侵略だ。
無数の悪意にシオンは晒された。
それでいて〈ジャグリ・ジャグラ〉が悪辣であったのは、決して精神をいじったりはしないところだ。
あくまで、さいなむのは肉体だけ。
不可視の、しかし巨大な力に頭から押さえつけられ恥辱に泣くシオンが開放されたのは、一刻の後であった。
震えが止まらなかった。
嫌悪感に吐き気がした。
汚された、と初めて思った。
アシュレに罰されたとき、ユガに奪われたとき……そのどちらにも覚えることさえなかったどす黒い感情が、心中に溢れた。
それから、こわい、と思った。
こんな改変を……あと、いくど、わたしは受けるのか?
アシュレはまだ、帰らない。
どうして、とシオンは泣いた。
なんどもなんども、改変のさなかでアシュレに助けを求めた。
だが、アシュレの名を叫べば叫ぶほど、改変は無慈悲に決して知られてはならない秘密を作り出すのだ。
まるで、愛しい男の元へ戻れなくしてしまうように。
このままでは、わたしは、ほんとうにアシュレの側にいられなくなってしまう。
シオンは震える。
「アシュレはわたしを捨てたのではない。なにかあったに違いないのだ」
ほとんど盲目的にシオンはそう考える。思わずつぶやく。くりかえし。
できることはひとつだった。
シオンは追い立てられるように身繕いすると、家を出ることを決意する。
もちろん聖なる籠手:〈ハンズ・オブ・グローリー〉を携えて。
どこへ? 決まっている。“仮の主人”を頼むのだ。
この一月ほどで通い馴れたはずの道のりが……これほど遠いとは思わなかった。
雪に足を取られながらシオンは進んだ。
膝が震えてうまく歩けない。
途中でいくどか、馬車や荷車の主に声をかけられた。
宝冠:《アステラス》を頂き、ドレスに身を包んだシオンはどこからどうみても王侯貴族だった。
その彼女が雪道で難儀しているのだ。
見捨てる者などいない。
それが真心からの親切であれ、下心からであれ。
一度など、馬車の主がわざわざキャビンから降りて、シオンを迎え入れようとした。
シオンもそれを受け入れようとした。
ふらつく足取りで、布に巻き梱包した〈ハンズ・オブ・グローリー〉を抱えて歩いて行くには、トラントリムの雪道は厳しすぎのだ。
だが、結局は断った。それどころか、夜魔の異能を振るってしまった。
すなわち《チャーム》である。
人類の意志を挫き、ときには下位種を一瞥のもとにひれ伏させる上位夜魔特有の異能・魅了の《ちから》:《チャーム》をシオンは恥じていた。
なぜなら、《チャーム》とは、己の考えを相手に押し付ける行為である。
相手の《意志》を操作し、意のままに操ること。
それはシオンの望むヒトとの関係において、害悪としかならぬものだったのだ。
そして、《チャーム》による操作は、他者の尊厳を辱めるだけではない。
ひとたび異能による操作を受けたと知った相手は、もう二度と信頼を寄せてなどくれなくなるだろう。
だから、シオン自身強く、その使用を戒めてきたのだ。
だが、それを使わざるを得なかった。
はじめ、親切にシオンを呼び止め、近づいてきた男の視線が、徐々に狂的な光を帯びるのを見たからだ。
ごくり、と男の喉が音を立てるのをたしかに聞いた。
美しく咲き誇る花の芳香に魅入られた羽虫のように。
そして、逆に開け放たれたキャビンから香る男の体臭に、シオンはぞくぞくと身体が泡立つのを感じた。
それは背徳的な誘惑。
シオンなかで起った化学変化を、その上流階級だろう男はたしかに嗅ぎ取っていた。
この女は、触れれば堕ちる、と。
事実、そうだった。
「去ね」
シオンは相手に命じた。去れ、とわたしに構うな、と。
それから、ふたたびおびえた。
おぞましき負の《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉によって行われつつある改変が、なにをシオンにもたらしているのかを知って。
シオンはようやく、ユガの居城が位置する区画と市井を隔てる住居橋へ辿り着いた。
住居橋であるアルテサノ橋は計画的に造られた職人たちのための住居である。
宝飾や金属加工、なめし皮などのほかにローズ・ウォーターや香水の抽出を行う職人たちが工房を連ねていた。
そして、その上層部は鐘楼を有する聖堂だったのである。
鐘の音によって時刻を報せることと、職人たちの守護聖人を奉るための祠であったのだ。
シオンは人ごみを避け、聖堂内を歩むことにした。
こんどはあらかじめ、《チャーム》で数名しか駐在していない僧たちを支配した。
そして、そこで二度目の暴走を体験した。
じゅるり、と耳元に舌なめずりを聞いた。
そうだ、といわれた気がした。
ちゃんと暗がりを選ばないと、往来の真ん中でオマエは秘密をあばかれることになるのだ、とそう釘を刺された気がした。
ヒトではなく、道具に脅かされる屈辱に、歯がみした。
そのあとのことを思い出したくない。
泣きながら雪と汗に濡れそぼった衣装を脱ぎ、《シャドウ・クローク》に投げ込むと、ふたたび正装した。
スカートの内側に、荊となった〈ローズ・アブソリュート〉を這わせることも忘れない。
衣服には、そしてシオンの外観には傷ひとつない。
むしろ、以前に増して美しい。
清楚で硬質な美だ。
だが、その内面は確実に紊乱して煮込まれたジャムのように蕩けているのが、シオンだけにはわかる。
かろうじて宝冠:〈アステラス〉と荊となった聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉が堕ちてしまいそうなシオンを留めている。
もし、もし、次の改変を受けてしまったらどうなってしまうか、シオンにはわからない。
シオンは〈ローズ・アブソリュート〉による戒めをずっときつくする。
締め上げる。
棘が肌を食い破り血が滲むが容赦しない。
鋭い痛み──だが、それすらどこかすでに官能に犯されている。
うまく歩けない。
だが、シオンには時間がなかった。
ようやく、ユガの居城に辿り着いたのは日が落ちてずいぶんとしてからだ。




