■第二十夜:引き返せない坂道で
※
それはあきらかな待ち伏せだった。
ずいぶんと遠乗りしたアシュレが峠の下で、この坂を登りきるか、引き返すか悩んだときのことだ。
冬には珍しく好天続きだった空模様が怪しくなりつつあった。
もし、このときのアシュレがまだ、シオンへの激情に駆られたままであったなら、その天候さえ無視して馬を走らせたかもしれない。
だが、アシュレのなかでは、すでに怒りよりもシオンへの想いが勝りつつあった。
ただ、それを言葉にしたとき、その関係性を、いったいどう呼べばいいのかが、わからなかった
問いかけるようにアシュレは馬を走らせる。
己のなかに答えを探していたのだ。
だから、冷静に引き返そうと思えた。
シオンがアシュレを案じて待っていてくれることがわかっていたからだ。
ちくり、とアシュレの胸が痛む。
そっと、アシュレの手を心臓の位置に導くシオンを思い出す。
それは「わたしはあなたのものだ」という無言の宣誓だ。
そして、そんなシオンに触れると、アシュレの理性は焼き切れてしまう。
暴力的に、彼女のなかに答えを探そうとしてしまう。
このまま、《愛》のあまり、シオンを壊してしまうのではないか、と自分自身が恐ろしくなる。
だから、こうして激情を風とともに己に叩きつける遠乗りは、どうしても必要だったのだ。
その答えは他者のなかに求めてよいものではない。
己を律したかった。
また、ユガに告知された軍事行動の期限が迫ってもいた。
答えを出さなければならない。
体力も回復させなければならない。
激情に駆られるあまり、自分の身体を見返ってこなかった疲れが全身にあった。
いつの間にか、峠の頂上に軍装の男たちが現れ、こちらに向かって降りてくるのが見えた。
先頭を六名ほどの騎士が引く。
白魔騎士団ではない。その背後には馬車。
さらにその後ろに三十名ほどの歩兵集団。
四メートル近い槍の穂先には覆いが掛けられ、サーコートの紋章から、それがトラントリムと連合関係にある小国家のひとつだとわかる。
軍事行動への集結地へ向かう軍隊。
背後に遅れて輜重隊が続くのが見えた。
輜重隊とは武器や衣類、食料に酒、それから女たちを乗せた、当時のいわゆる兵站部門である。
いかに優れた戦闘集団であっても、ユガを除けばデイ・ウォーカーではない夜魔たちの不在の間を埋める必要があったのだろう。
そのための通常戦力。彼らは“血の貨幣”共栄圏・連合国がそれぞれで負担した軍事力だ。
普段は警察権力的な働きをしている部隊かもしれない。
そして、軍隊を維持するには兵站部門は必須だ。
輜重隊は物資面だけでなく、娯楽も提供する、というあたりがなんというか、だが。
その後ろに、少年少女たちの集団があった。
トラントリムとその連合国は孤立主義者との戦いで負傷した兵士や、あるいは家族を失い、また傷を負った子供たちを中心に無償の教育を行う精度を設けていた。
寄宿舎と学校はトラントリムにある。
帰省休みを終えて寄宿舎に戻る子らが軍事行動に終結する軍隊に護衛を願い出たのだろか?
それとも、軍事行動を見越して春の新入生が前倒しで進学するよう勧められたのだろうか?
理由は判然としなかったが、とにかく十歳から十二、三才の子供たちが続いた。
アシュレから向かって右側が林、左側は崖。
アシュレは前進を諦めた。すれ違うスペースがないからだ。
向こうもこちらを認めた。
騎士が二騎、駆けてくる。確認のためだ。
アシュレは甲冑こそ身に付けていないものの盾と槍で武装している。
長剣も佩いているし、予備武器のショートソードも下げている。
竜槍:〈シヴニール〉は封印してあるが、重武装であることは間違いない。
インクルード・ビーストの一件、そして、ユガとの決別以降、アシュレは遠乗りにもこれら武装を欠かさなかった。
それはユガへの反抗心からではなく、自らが居るべき場所への帰還を前提とした訓練である。
アシュレはその場で立ち止まり、その臨検に応じる態度を取った。
ユガがくれた紋章は有効なはずだ。
取り消しなり、指名手配をかけるなり、ユガの権力をもってすればいくらでもアシュレたちを陥れることはできただろう。
だが、彼は絶対にそんなことをしないという確信がアシュレにはあった。
夜魔か、ヒトか、そういう問題ではない。
ユガディールは騎士だった。紛れもない。
ちくり、とまたアシュレの胸が痛んだ。
峠を駆け降りてくる騎士たちに、アシュレが正対しようとした──その瞬間だった。
森が溢れたようにアシュレには見えた。
その瞬間を、完全に客観的に目撃できた人間は、おそらくアシュレひとりだけだ。
二頭のインクルード・ビーストが側面の林を切り裂いて隊列に襲いかかったのだ。
一頭は即応できない歩兵部隊を蹂躙した。
もう一頭は子供たちの列に襲いかかり──アシュレからはよく見えない。
ほとんど時を置かずして、民族衣装の上から武装した孤立主義者と思わしき集団が輜重隊にも襲いかかった。
瞬く間に地獄絵図が現出し、泥沼の乱戦となる。
兵士たちは峠の細い道と前方の馬車、後方の輜重隊に挟まれまともに動けない。
インクルード・ビーストの爪牙が刈り取りを待つ稲穂のように、次々と槍の穂先を喰らっていく。
先方を務める騎士たちも馬車が邪魔で助けに入れないのだ。
「いけないっ!」
アシュレは叫び、反射的に〈シヴニール〉の封を解いた。構える。
長距離射撃だ。威嚇でいい。相手の勢いを止めなければ。
瞬間的にそう判断し、射撃体制に入るアシュレを、しかし、臨検に向かってきていた騎士たちは──敵勢力、と判断した。
無理もない。フルヘルムで馬を飛ばしているのだ。後方で、たったいま起きた出来事を、このふたりはまだ知らないのだ。
騎士たちは応じるように槍を構えた。
「ちがうっ、そうじゃないっ、後ろだっ、見ろっッ!!」
竜槍:〈シヴニール〉を振り、アシュレは彼らとの交戦の《意志》がないことを示そうとする。
戦場でもっとも注意すべきことは誤認と誤射による同士討ちだ。
アシュレは歯がみした。どうして、どうして、伝わらないんだッ!!
その数秒の間にも事態は悪化しつつあった。
騎士たちは完全にアシュレを敵と捉えたらしい。
「ええいっ!!」
アシュレは慚愧の念を振り払うようにヴィトライオンに拍車をかけた。
そのまま加速し、こちらに向かってくる二人の騎士に突っ込んだ。
二騎はわずかに前後しながら確実にアシュレを狙ってくる。
甲冑なしで馬上突撃に正対する恐怖をアシュレは無理やり飲み込んだ。
こんな程度、ナハトヴェルグや、グランや、フラーマや、ヘリオ・メデューサ、夜魔の騎士:ヴァイツ、土蜘蛛の凶手たち、そして、ジゼル姉との戦いに比べたら……。
「どいてくれッ!」
アシュレは先頭の一騎に対して仕掛けた。
聖盾:〈ブランヴェル〉に一瞬だけ《スピンドル》を通す。
相手を攻撃するためではない。発生する力場を操作して槍の穂先をぐいっ、と引っ張る。
引かれた騎士が開けた進路に馬体を捩じ込む。
すかさず迫る二騎目の穂先を〈シヴニール〉で弾いた。
これも《スピンドル》伝導。
槍は回転しながら破砕され、騎士の手からはじき飛ばされる。
騎士たちの練度が高かったからこそ、アシュレの狙いはピンポイントに決まった。
アシュレは破片を浴びながら、それら騎士たちには一瞥もくれず現場へ突撃する。
近づけば近づくほど、惨状があきらかになってきた。
志気は完全に崩壊していた。
おそらく、ここでの不意打ちなどまったく考慮していなかったのだろう。
かろうじて、残された騎士のふたりが要人であろう馬車を前進させ遁走に移ろうとしてる。
兵士や市民を見捨てることになるが……この状況では彼らを責めることはできない。
いや、実際、騎士たちの行動は、敵戦力を分断させるという意味ではキチンと作用していたのだ。
二頭のうち一頭が、その馬車に引きつけられ、虐殺を放り出して追いすがってきた。
坂を下ってくるインクルード・ビーストはアシュレにとって千載一遇の狙撃チャンスだった。
アシュレは馬を走らせたまま、馬上からの狙撃体制に入った。
そして、一秒。
撃った。
《ラス・オブ・サンダードレイクズ》──怒れる雷龍の息吹に例えられる紫電の一撃が寒気の虚空を切り裂いて──敵を打ち据えた。
ごおおおおおおおおおん、と大気が帯電し、凄まじい轟音が響き渡った。
ちょうど馬車に襲いかからんとしていた一匹の上半身を消失させたエネルギーはそのまま坂の途中にぶつかり、爆発する。
馬車は操縦を誤り林に突っ込んだが……大事はないだろう。
アシュレは勢いのまま突撃した。
酸鼻を極める、とはこのことだった。
血と臓腑と糞尿の臭気の立ちこめるなかで、殺戮と略奪と強奪が行われていた。
これが戦場だとはわかっていた。
だが、輜重隊や女子供まで無差別に、その対象にする孤立主義者たちの行動がアシュレの怒りに火をつけた。
気がつくと、敵十数名を屠っていた。
使っていた長剣は脂に塗れ、刃こぼれがひど過ぎて、もう役に立たない。
アシュレはヴィトライオンの背から〈シヴニール〉を構え直した。
返り血にまみれたアシュレの形相に気圧され、孤立主義者たちが後退る。
そのときヒュ、と鳥の鳴き声のような音がしてそれが姿を現した。
もう一体のインクルード・ビースト──ついさきほどまで残虐な殺戮に酔いしれていた化け物だ。
その連中をなぜ、オズマドラが、アスカが教導しているのか、アシュレにはまったく理解できなかった。
こいつらだけは、許せない。
沸騰する怒りのせいか、一瞬、ふらり、とアシュレは身体を揺らがせた。
だが、その仕草さえ、孤立主義者たちにはなにか別の感慨──恐怖を喚起させたようだ。
司令官格なのだろう二人組の男がアシュレを殺せ、とけしかけた。
インクルード・ビーストが応じる。
そこに、つむじ風が舞い降りた。
それは本当に急激なダウンバーストのように颶風をまとっていた。
そして、同時に薫風でもあった。
スミレの薫り──アスカリア・イムラベートル。
アシュレがそれを認識するより早く、アスカはその純白の装具・聖なる義足:〈アズライール〉を振るった。
旋風が巻き起こり、鞭打つような一撃が人々をはじき飛ばす。アシュレはかろうじて踏みとどまれた。
だが……めまいがひどい。
そんなアシュレに一瞥をくれると、アスカはインクルード・ビーストに背を向けた。
鞭打たれたことで逆上したのか、獣はアスカにのしかかる。
次の瞬間、その頭部が脳漿をぶちまけながら吹き飛んだ。
アスカの、ではない。インクルード・ビーストの、だ。
アスカが身を捻りながら踵を斧のように使う後ろ回し蹴りを見舞ったのだ。
《スワローテイルズ・スマイト》──優雅なその名とは裏腹に、相手の内部を破壊する恐ろしい一撃だった。
だが、その死をカモフラージュに、司令官格のうちひとりがアシュレに襲いかかる。
人獣一体の攻撃は、彼ら、孤立主義者たちの得意技だった。
そして、近接戦闘に持ち込めば、〈シヴニール〉は使えまいと踏んだのだろう。
「やめろと言っている! わからんのか!」
振り向きざま、その軌道上にアスカは脚を振った。
もし、生身のそれであったとしても、相手を跪かせるのに充分な威力を秘めたそれが、《スピンドル》エネルギーの粒子をまとい、男の腹部に吸い込まれた。
ばくり、と蹴りを受けた背がはぜ、そこから奇怪な──蟲か、根を張り巡らせた植物のようなものが弾き出される。
アスカは脚を組み換え、槍のような一撃を繰り出し、それを即座に蹴り潰した。
アシュレには、インクルード・ビーストビーストの器官が、男に寄生していたようにしか見えなかった。
だが、混乱していて、うまく考えられない。
「ア、アスカ?」
突然のなりゆきをうまく理解できず、アシュレは緊張の糸が切れてしまったように膝をついてしまう。
「バカ、顔色を見ろ……真っ青だ」
血まみれなのに抱き留められた。
聞きたいこと、聞かなければならにことがたくさんあるはずだった。そ
れなのに、身体がうまく動かせない……。
「なんだ……これ……」
「治り切っていない肉体で無理をしすぎたのだ、バカめ。どうせ……夜魔の姫の求めに応じるまま、あれこれと与えてしまったのだろう? そんな状態で《スピンドル》を使いすぎたのだ。死ぬぞ、バカ」
「へんだ……ゴゴゴ、て耳鳴りがする」
「アシュレ、それは正常だ。わたしにも聞こえる。雪崩だ。いいか、ここを離れるぞ?」
どう答えるべきだっただろう。
だが、アシュレにはどちらにせよ選択肢などなかったのだ。
ぶちり、と意識が途切れた。
昏睡に落ちたのだ。
2016/04/28 改稿しました。
アシュレが孤立主義者と対決するシーンに、追補があります。




