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■第十九夜:想いは鏃(やじり)

         ※


「せっかく、せっかくうまくできたのだ──せめて、すこし持ち帰ってはどうか?」


 そういうシオンの手を有無を言わさず掴んで騎乗に押し上げ、アシュレはヴィトライオンを飛ばした。

 一刻もはやく、ユガの居城から離れたい、その一心が、アシュレを性急にさせた。


「どうしたというのだ、そなた。血相を変えて。それに説明がなくては……すこし、強引すぎるぞ?」

 常にないアシュレの振る舞いに、シオンはつどつど振り返ってはその表情をうかがい、真意を聞き出そうとした。


「黙って。舌を噛む」

 アシュレは小さくシオンを窘めると、そのまま無言でさらに拍車をかける。

「まったく……わけがわからぬ……」


 仮住まいの自宅である別荘の玄関に降ろされたシオンはぶつくさ言いながら、それでも愛する男が愛馬を厩舎に連れて行くのを見送った。

「国外退去の件か?」


 もしかすると、アシュレがやはりともに戦うとでも言い出したか、とシオンは勘ぐった。

 アスカリアのこともある。自分が主戦場にいればなにか和解策や、打開策があるとでも考えたのだろうか。

 それをユガに進言して、諌められたか?


 ありうることだ、とシオンは思った。


 ほほ笑ましい気分になり、鍵を開けて玄関に入る。靴についた雪を払う。

 雪上を歩く技は夜魔のお家芸だが、〈ジャグリ・ジャグラ〉のせいで、どうも制御が上手くいかない。雪に足を取られてしまう。


 アシュレはヴィトライオンの手入れに半刻はかける。

 それはなんというか、戦場をともにする者への礼儀だ。

 それほども時間があれば、今日ならった料理の一品くらいできるのではないか?

 すりつぶしたジャガイモに、すこし粉を足してつくった団子に肉汁のソースをかければよい。

 ねっとりとしたイモの団子。その触感に、肉の旨味と脂の溶け出したソースが絡み、これはいくらでも食べられてしまう。

 ソースは昨夜の煮込みで代用すれば、シオンの腕前でも四半刻もあればできてしまうだろう。


「ふふ、わたしの腕前にひれ伏すがよい」

 あまりのうまさに感涙を流すアシュレを想像し、自然と笑顔になりながら、シオンはなかなか脱げないブーツを相手に悪戦苦闘していた。


 と、その時、玄関が開いた。

 シオンは驚いた。予想よりもずっと早い。どうしたのだろう?


「どうした、そなた。ヴィトラを粗末にすると後が恐いぞ? あれもゆえ。ま、いつも丁寧に手をかけているのだ、ときおり、こんなこともあるか。ははーん、焦らそうというのか、悪い男だ。ユガにきわどいやり方を学びすぎなのではないか? それより、アシュレ、ちょっとこのブーツを、だな……」

 それ以上をシオンは口にできなかった。

 突然、押し倒された。


「アシュレ?」

 返答はなかった。じゃれているのではない。アシュレの本気を腕に篭る力からシオンは感じていた。


「まて、待ってくれ、アシュレ。ここでは、だめだ。寝室で……せめて、せめて部屋でなければ」

 反射的に拒み、身を捩った。

 無論、シオンにしても本気で拒んだわけではない。もう、シオンはアシュレのものなのだ。

 求められたなら、どんな要求にでも応える覚悟はあった。


 ただ、ここでは困るというだけのことだ。


 わかってもらえると思っていた。けれども荒々しく掴まれた頭髪を導体にして、流れ込むアシュレの感情に脳を灼かれた。


 一瞬で視界が真っ白に消し飛ぶほど、それは熱かった。


 怒り、苛立ち、そして狂おしいほどの愛の衝動。

 それは嫉妬だった。


 カタチばかりの抵抗は行動で踏みにじられた。

 シオンの黒髪を片手で捕らえたまま、アシュレはなんの断りもなく、無言でシオンの体内に潜む〈ジャグリ・ジャグラ〉を召喚した。

 それはシオンですら悲鳴を挙げざるをえないほどの衝撃。

 脊椎にそって整列した〈ジャグリ・ジャグラ〉が急速浮上する際にシオンの境界面を荒っぽく刺激したのだ。


「アシュ……レ?」

 感情流入による一撃でほとんど利かない視界にアシュレを捕らえようと、無理な姿勢を強いられたシオンが首を捻る。

 そこに愛する男の見たこともない冷酷な表情を、シオンは見いだしてしまう。


 言葉にならない怯え、そして、理解がシオンの背筋を走った。ひりつくような恐怖が首筋を泡立たせる。


 知ってしまったのだ──アシュレは。

 知られてしまったのだ──アシュレに。

 ユガとの関係を。


 その瞬間、シオンの肉体から抵抗の力が抜けた。


 当然だ、と思った。罰されて当然だ。わたしは……最低だ。


 そして、そのシオンの理解が、罪の意識が、それによって引き起こされた抵抗の弱まりが、さらにアシュレの嫉妬を煽った。


 罪に感じるようなことが両者の間にあったのだと、アシュレに言葉ではなく思い知らしたのだ。


 ぶちり、と頭のなかでまとめてちぎれる音をアシュレは聞いた。

 アシュレは激情に突き動かされるまま、シオンを激しく、残酷に改変する。

 徹底的に、容赦なく、追いつめる。


 無言で、尋問する。


         ※


 いったい、どれほど変えられてしまったのか、シオンにはわからない。

 いや、思い出すことはできる。忘れることなどできない。

 だが、口にすることはできない。

 もし、他者に──アシュレ以外の男に知られたなら、その場で自害せねばならないような秘密をいくつもいくつも作られた。


 あの日以来、シオンの生活には自由はない。


 改変はあらゆる場所で行われた。

 玄関で、廊下で、階段で、浴室で、ときには暖炉の前に敷かれた毛皮の上で、あるいは食卓で。

 徹底的で無慈悲な侵略と略奪をシオンは受けた。

 アシュレの怒りは収まることを知らず、それどころか、日々激しくなってシオンを責めた。


 ただ、その発露の仕方は特別だった。


 ひたすらに、高められた。《ジャグリ・ジャグラ》を用いて。

 髪の毛一本の誤差も許さない。そういう気迫を持って、研ぎ澄まされた。極限の美として。


 それがアシュレという男の、シオンに対する暴力の発露だった。


 壊すのではなく、与えることで。汚すのではなく、磨き上げることで。

 暴力的な創造性によって──誰のものかを、思い知らせる。


 それは身も心も焼き切れてしまうような体験だ。


 だから、そうやって極限まで追いつめられているのに……シオンの心に浮かんでくる感情は歓喜だ。


 捨てられると思っていた。

 もう愛してはもらえないものだと思っていた。

 侮蔑されて当然だと思っていた。


 逆だった。

 いままでのどんなときよりも激しく愛された。

 想われた。

 尊敬されていることさえわかってしまった。


 ただ、激しい怒りも同時にあるだけで。

 それが自らの肌と黒髪を通じて流れ込み、シオンに癒せない、いや、癒したいと思えない火傷を負わせるのだ。


 涙が止まらなかった。うれしいのだ。


 もし、アシュレがこれほど想ってくれていなかったなら、こんなふうにシオンはならなかっただろう。

 だから、うわごとのようにアシュレへの愛と、謝罪と、永遠を誓う。


 それなのに、ときおり訪れる短いまどろみのなかに現れる男はユガディールなのだ。

 シオンは怯える。すくみ上がる。必死に拒もうとするが、夜魔の見る《夢》は完全記憶だから──過去は改変できない。

 それはシオンの罪の意識が想起させ、選択した結果だった。

 なにについて、アシュレが怒りを覚えているのか、という。

 そして、シオンはアシュレの腕のなかでユガの名を呼びながら目覚めてしまう。

 それがまた、アシュレの行動を先鋭化させる。

 シオンに逃げ場はない。


         ※


 アシュレはふいに二刻ほども家を空けることが多くなった。 

 シオンを置いて、ふらりと居なくなってしまう。

 ヴィトライオンに跨がっての遠乗りだった。

 逃げ出そうと思えば、走ろうと思えば、そのあいだにシオンはユガのもとへ、走れただろう。

 あるいは、アシュレの行動はそのためのメッセージであったのかもしれなかった。

 苦しんでいたのだ。

 

 アシュレは自分が許せなかった。

 わかっていた。すべては不可抗力だった。

 昏睡状態にあるアシュレを抱え、極限まで疲弊していたシオンに他に選択肢などなかった。

 取りうる手段など他にはなかった。


 自分は──シオンの尊厳を代償にした挺身にまた……また、助けられたのだ。


 そのことに憤るなど筋違いもいいところだとわかっていた。

 それなのに……いざ、シオンを目の前にすると、胸中を渦巻く嫉妬をアシュレは制御できなくなる。

 

 きっと相手がユガディールほどの男でなければ、これほどに苦しまなかっただろう。

 

 だが、ユガディールは紛れもない英傑・英雄王であり……なにより最上位の夜魔であった。

 それはユガとシオン、ふたりが望めば、永劫に連れ添うことができ、そのあいだには、子供を授かることさえできるという意味だ。

 そのふたりの関係のなかにあっては、アシュレの人生など、朝を待たずに燃え尽きる篝火のごときものでしかない。


 常識的に問えば、どちらが最終的にシオンに本当のしあわせを与えられるのか……答えるまでもないことだ。


 ユガディールはそこまで見越して、シオンに求愛したのだ。

 そして、その指が、唇が、シオンに触れた。

 いくども。

 改変した。

 ──《愛》とともに《夢》を注いだ。


 みしみしみし、と己の心の軋む音をアシュレは聴く。

 ユガの手が、シオンに振るわれたのだと思うと、血が沸騰し逆流するかのような感覚をアシュレは覚えるのだ。


 あまりに都合の良すぎる独占欲だと、わかっていた。

 自分にそんな資格がないことはわかっていた。


 だが、だめだった。

 シオンのことを想わずにいることなどできなかった。

 好きなのだ。

 想っているのだ。


 それはもう、自分の身体に組み付いてしまって摘出できないほど根付き、肉を持った傷であり、やじりそのもの。


 そしてシオン自身、アシュレへの絶対的な好意をその身で現してくれていた。

 互いが強く想い合っていることを、互いが知っていた。


 そうであるのに、ユガディールに問われたとき、アシュレはシオンをどうするのか、アシュレにとってシオンがどういう存在であるのか……はっきりと告げられなかった。

 それは、アシュレが答えを放棄して生きてきたことの証左に他ならない。


 いいわけの余地などない。


 ボクは──なんて弱いんだ。

 アシュレは自らのなかにある惰弱な心根に鞭をくれるように、寒風を浴びるべくヴィトライオンを走らせる。 

 心を研ぎ澄ませて、己に問う。

 鍛えようとする。


         ※


 シオンは震えながら、身を起こす。

 寒さに、ではない。アシュレによる改変の残響。心に刻まれた傷跡が疼く。

 アシュレはかたわらにいない。遠乗りだ。

 ふらつく足取りで浴室に向かう。熱湯を雪で割り適温にする。

 禊して、着替える。


 シオンは気がついてしまったのだ。


 アシュレに変えられることよりも恐ろしいことがあることに。

 それは、アシュレと離れ離れになることだ。

 もし、このまま、アシュレが帰ってきてくれなかったら、そして、引きちぎれるくらい強く愛してくれなかったら。

 わたしはもう、正気を保てない。

 考えるだけで、どうしようもない恐怖に震えが止まらない。


 シオンはもう、すっかり、アシュレの虜囚となってしまった自分に気がついていた。


 たぶんもう、わたしはすっかり狂ってしまっているのだ。

 きっとアシュレが聞いたら呆れてしまうだろう。


 わたしだって、知らなかったのだ。

 わたしは、アシュレに、わたしだけの“王”になって欲しかったのだ。


 そして──もしも、と祈るように、かすかにシオンは思うのだ。

 私自身が、アシュレにとって、そういう存在であれたなら、もしかしたら、それは。


 そうやってシオンとアシュレは少しずつ、互いが変化しながら歩み寄る。

 傷つき、傷つけながらも、それでも互いを想い合う。


 それはきっと、数日のうちには新たな関係として集束し、結実するはずだった。




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