■第十一夜:迷い子たち
「姫さま、おやめください。病をもらいます。その者はもう助かりません」
頭上から声がして、ユーニスは瞼を持ち上げる。
血糊が乾いて貼り付き、右目だけしか上がらなかった。
寒かった。喉が渇いた。身体が痙攣して止まらない。失血性のショックを起こしていた。
ああ、わたしは死ぬんだ、とわかった。
自分の姿を客観的に見ることのできる視座が人間に備わっていないのは、神の慈悲だとしみじみと思う。
間違いなく、ひどいありさまだっただろうから。
アシュレがそばにいなくてよかった。
汚れた自分を見てほしくなかった。
「ころして」
声の主に、それだけ言うのが精一杯だった。
「とどめを懇願するものには与えるべきです。それがヒトとしての慈悲というもの」
「なりません。この方はわたしです。わたしと同じ。必ずお救いします」
硫黄と死臭に満ちた世界に一瞬、清涼な花の香りが紛れたようにユーニスには思えた。
天使の尊顔がそこにはある。
濡れた瞳がユーニスを見下ろしていた。
あなたを助けます、と天使は言ってくれた。うれしかった。
孤立無援で孤独に死ぬのだと諦めていた心に、小さな温もりが灯った。
すくなくとも、だれかが自分のために涙してくれていると知っただけで、自分の生が無意味ではないように感じられた。
天使は清潔な布で護るように包んでくれる。
「喉が渇かれていることでしょう。でも、もうすこしだけ待ってください。必ず助けます」
ナハトヴェルグ、と天使は自らの騎士に命じた。
ユーニスは自身が抱きかかえられるのを感じた。
見知らぬ男だった。その名前だけはどこかで聞いた気がしたが、思い出せなかった。その目からは天使のあの慈悲の心は感じられなかった。
見下すような瞳。
だが、天使の命に、この使徒は忠実ではあるようだった。
「聖遺物たる〈デクストラス〉が真にあらゆる《ねがい》を叶えるものだというのなら、彼女ひとりの命など造作もなく救えるはず」
おじいさまに、グラン王に会いましょう、と天使は告げた。
※
あらゆることが手遅れだった。
アルマは眼前で繰り広げられた暴力と強奪と陵辱のすべてを、瞬きさえできずに凝視し続けた。
馬車は走っていたが、その距離はなかなか縮まらなかった。
亡者どもに襲われる女性がユーニスだと気がついたのは、彼女の胸甲が引きむしられ、骨と腐肉の群れが、彼女の命を奪う前に尊厳を奪うべく着衣に手をかけたときだった。
彼女が叫んだ名を、アルマは知っていた。
アシュレ――それで彼女だと知れた。
亡者どもはユーニスを神輿のように突き上げる。
前後と言わずあらゆる角度から責め立て、腐った汚泥を流し込み、そうしながら手足に刃と歯を突き立て貪り喰らう。
常人なら即座にショック死するであろう仕打ちを受けながら、ユーニスがそれでも生にしがみつけたのは、ひとえにアシュレへの想いの強さのおかげだとしか、アルマには思えない。
そして、それが悲劇をより濃密なものにしていることも、また。
惨劇を目の当たりにしながら、アルマの脳裏には幼き日、その身に刻まれた暴虐の数々がまざまざと甦っていた。
ユーニスを助けなければならないとの強い思いは、その忌まわしき記憶と眼前の惨劇とが瞬間的に、しかし、強靱に結びついた結果だった。
馬車が現場に駆けつけ、急停車したとき、ナハトの制止も聞かずアルマは飛び出していた。
漆黒に染めた髪がほどけて宙に舞う。
退け、と声を限りに叫んだ。
眼前に〈デクストラス〉をかざし、王女として命じた。無意識だった。
自らの命を省みぬ蛮行だと冷静になれば思えただろう。
だが、そのときのアルマは冷静になどなれなかった。
もし〈デクストラス〉が亡者どもを退けられなかったならば、などと考えもしなかった。
ぞろり、と骸骨の群れがアルマを振り返り、虚ろな眼窩が値踏みするように視線を投げてきた。
震える四肢を意志で組み伏せ、アルマは叫ぶ。
「退け。われこそは大公・ガシュインの息女にして、偉大なる降臨王:グランの血統に連なるもの、アルマステラ・オルテ・イグナーシュ。良民たるそなたらは速やかにわが命に従うがよい。命じる、その娘を解放し、退くがよい!」
とっさのことで、考える暇などない。言葉が自然に迸り出ていた。
亡者どもが威光に打たれたように動きを止める。
奇跡のように死体の群れが割れた。
聖典にある海を割る聖人の御業のように。
底意地の悪い笑みが自身の唇を歪めようとするのを、アルマは押さえ切れなかった。
亡者どもが屈したのは自身の言葉にではない。
その確信がアルマにはあった。
なぜなら、先だってアルマが発した言葉は、王宮が燃え落ちたあの日、扉を蹴破り、騎士たちを惨殺しながら強奪と強姦に現れた暴徒に向かってアルマ自身が浴びせたものだったからだ。
王家の威光など紙のようなもの。
破り捨てられ、踏みにじられ、炎に巻かれた。
アルマの諦念は、その体験による。
だから〈デクストラス〉が起こした奇跡に、アルマは笑ったのだ。
ヒトではなくモノに屈する死者たちを見て。
おそらくはこの群れのなかにも、かつて王宮の略奪に加わった者の成れの果てがあろうかと。
ユーニスは一目見て重傷だった。
手足の先は齧り取られ、血液が刻一刻と失われているのがわかった。
亡者どもの手荒い侵入のせいで内臓にも傷があるはずだった。
死なせない、とアルマは思った。〈デクストラス〉が真に奇跡を起こすというのなら。
アシュレのそばにいたいと願うユーニスは、アルマ自身だった。
来るべき明日を望みながら、同じように奪われ踏みにじられた者だった。
わたしたちは同じだ。
アルマの瞳に宿る決意の光は、もし、覗き込んだ者があったなら、狂気さえ感じさせる暗い輝きを帯びていただろう。
※
バラージェ家の従者:ユーニスのことをアルマが知ったのは、聖遺物管理課に配属されて少したってからのことである。
管理庫の大規模な改修とそれに伴った整理のため管理課自体が上へ下への大騒ぎになったことがある。
事務職員だけでは人手が足らず、かといって取り扱うモノがモノだけに部外者や下級僧に応援を頼むわけにいかず、途方に暮れていたときのことだ。
管理課に所属する聖騎士と聖堂騎士団が応援に駆けつけてくれたのだ。
涙が出るほどありがたかった。
本来、こういった作業は裏方である事務官たちの責任であり、仕事であるはずなのだ。
最前線で命を張って戦う騎士たちに、その暗闘を知るがゆえに、どんなに困窮していてもアルマたちからは応援を要請などできない。
そう考えていた。
それなのに、騎士たちは自発的に行動を起こしてくれたのだ。
戦時において主力となる騎士団と従士隊の投入は、強力な援軍となった。
なにしろ発揮されるマンパワーがケタ違いなのである。
重甲冑を着こなし、重い武具を振り回す彼らの筋力と持続力は、普段繊細な修復や言語の判読などを行う事務職とは比べ物にならない。
一月は優にかかるであろうと言われていた物資の移動が、たった七日で終わってしまったくらいだから、その援軍の力強さのほどは推して知るべしである。
アルマがユーニスとアシュレの口論を目撃したのは、作業も佳境に入った五日目の昼過ぎだった。
空中庭園と皆が呼ぶ一画が、管理課の三階にはある。
地面を離れた場所に木々が繁るそこは、レモンとオリーブの木陰が陽射しを適度に減じてくれる、この世の楽園だった。
アルマは精密な作業に疲れると、よくここで午睡を取った。
陽光に温められた芝生は温かく、あっという間に凝りを溶かしてくれる。
昼食時には、ほとんどの職員が自宅に戻り午睡を取るため管理課は無人に近くなる。
自室を管理課内に持ち、身寄りのないアルマの秘密の場所だった。
夜を徹しての作業もそろそろ目処がつきはじめ、職員全員がもうひと踏ん張りだという機運になってきたときのことだった。
午睡を取り、午後もがんばろうと決意しひとり訪れた庭園に先客がいた。
一組の男女だった。逢瀬かと思い、木陰に身を潜めた。
だが、そうではなかった。
少女の頃をようやく脱したかと思われる女性が、同じく少年の域を脱したばかりであろう男に食ってかかっている。
いや、正確には説教していたのだ。
いわく、なぜ屋敷に帰ってこないのか。
いわく、なぜ満足に食事をとらないのか。
いわく、なぜ風呂に三日も入らないのか。
そう言い募る女性こそが、ユーニスだった。
かわいいひとだな、と同性ながらアルマは思った。
言い募られている男のほうには面識があった。
アシュレダウ・バラージェ。育ちのよさが隠しても滲み出る年下男子。
すでに騎士位をもつ天才で、来年には聖騎士の登用試験を受けるほどの逸材である。
ただ、アルマの評価は違っていた。
戦場よりもアカデミーやミュージアムこそが、彼には似合いのようにアルマには思えるのだった。
柔和な笑顔とアルマでさえ舌を巻く古代への愛情を彼は持っていた。
話が合った。
他の職員には内緒で私室に招いてお茶を飲んだことが幾度もある。
バレたら厳罰ものだ。
説教というか、古女房が亭主の世話を焼くようなユーニスの口ぶりがおかしかった。
それにアシュレが防戦一方で応じているあたり、ふたりの未来が予想できる。
ふふっ、とアルマは声に出して笑ってしまった。
そのとき、ちょうどふたりの間を天使が通った。
会話のなかに訪れる一瞬の沈黙を、この国ではそう呼ぶ。
天使が通った、と。
アルマの笑い声は、ふたりに届いてしまった。
「だれッ……ですか?」
ユーニスが上げた誰何の声に、アルマは姿を現して答えた。
「アルマステラ・ヴァントラー。聖遺物管理課の職員です。午睡を、と思って出向いたらかわいい喧嘩が聞こえたので」
隠れていました。ぺろり、と小さく舌を出し、アルマは自己紹介した。
「あなたがユーニスさんね。はじめまして。お話だけは騎士:バラージェから、よくうかがっています。ずるいぐらい、かわいい方なのね」
かわいい、と言われてユーニスは照れたようにそっぽを向いた。
かわいくなんか、ない、です。とごにょごにょとつぶやく。
オフェンス偏重で、搦め手には極端に弱いタイプかな、とアルマは微笑みながら思った。
頭の回転が早いアシュレなら、とうの昔にそんなことお見通しだろうに、そういう戦い方を展開しないのは相手をよほど大事に思っているのだろう。
そう思いいたって、アルマは胸の奥がきゅう、と狭くなった。
急にアシュレに意地悪したくなった。
「ふたりだけの秘密の場所だと約束したのに、こんなかわいい方を連れ込むなんて、アシュレダウ、ひどいヒト」
いままで女を武器に使ったことなどなかったから、うまくできたかどうかわからなかったが、精一杯艶っぽくアルマは言ってみた。
ふたりの反応はアルマの予想以上だった。
殺スぞ、みたいなユーニスの視線がアシュレに突き立ち、とうのアシュレはと言えばやましいことなどなにもないはずなのに、アルマとユーニスの間で視線を行ったり来たりさせている。
どう見ても、浮気相手と本妻が鉢合わせしてしまった現場の亭主の挙動だった。
アルマはお腹が痛くなるまで笑ってしまった。
ひどいですよ、シスター、とアシュレが半泣きで追い討ちをかけるものだから腹筋に深刻なダメージを負った。
ひとしきり笑った後、アルマはお気に入りの石柱のテーブルにふたりを誘った。アガンティリス時代の柱を転用したものである。
「アシュレったら、最近、アルマさんのことばっかり話すんですよ」
女同士の友情を感じたのか、ユーニスはすぐに打ち解けてくれた。
いいコだな、とアルマは思う。
アシュレはヒトを見る目がある。アルマは確信した。
「あら、わたしにはユーニスさんのことばかり。自覚がないようですけれど、のろけを毎日聞かされる身になってほしいですわ」
「のろけてません! 仕事の話しかしてません!」
「「ムキになるところが怪しい」」
女ふたりにハモられた。共同戦線にアシュレは全面降伏する他ない。
仲が良いんですね、とアルマが駄目押しした。
「そんな仲の良いおふたりが、なにを喧嘩されてましたの?」
「聞いてください、アルマさん。コイツ……騎士:バラージェときたら、昼食どころか夜も屋敷には帰ってこない、まともに食事も取ってない、風呂には入らない、髭はそらない、ひどいんですよ」
「仕事に没頭してたら忘れてたんだよ。ごめんって」
「どんなに心配したか、アシュレは全然わかってないッ。ね、アルマさんからもなんとか言ってください」
ユーニスの剣幕に、アルマが固まる。
実はアルマ自身がそうだったからだ。
昔からそうだった。あるひとつの事柄に没入するとまわりが見えなくなるクセがアルマにはあった。
そこがまたアシュレと馬の合うところでもあったのである。
「あ、えと」
む、とユーニスが半眼になった。顔を近づけアルマを嗅いだ。
「くさい」
「や、あ、あのッ、これは」
その後、ふたりはバラージェ家に強制連行され入浴を命じられた。
アルマは湯船でユーニスの監視付、アシュレは中庭で行水一時間の刑だった。
老執事のバートンが付き添っている。
「アルマさんは……アシュレのこと、どう思っているんですか」
「アルマでいいですよ。わたしもユーニスと呼ぶかわりに。優秀な方だと思いますよ。品行方正だし」
女ふたりで湯浴をしながら会話した。
「でも、どうしてそんなことを訊くんです?」
「……だって、アイツほんとに最近口を開けばアルマのことばかり」
それに、とユーニスは言い募った。
「アルマ、ずるいくらいきれいだもの」
アルマの背中を洗いながらユーニスが言う。
正直な羨望が言葉に乗っているのに、アルマは気がついてた。
「それなら安心して。アシュレダウは汚れた女を好むようなかたではないしょうから」
勘の鋭いコだな、とアルマは思いながら返した。
いや、女というものは自分の愛するヒトに関しては、そういうものなのかもしれない。
「アルマはきれいなんだから、もうちょっと自分を磨くべきだわ。……汚くしてるから」
「そういう汚れではなく」
わからない、という顔をユーニスはした。アルマは笑った。
「アシュレが……いけない、呼び捨てにしてしまった。え、いいって? じゃ、そうします。あのひとが貴女を選んだのは当然だと思うんだけどな、ユーニス」
アルマの指摘に、今度はユーニスが固まる番だった。
「わ、わたしはただの従者で」
「愛に身分は関係なくてよ」
「結婚だってできないし」
「家を捨てればいい。互いが愛しているなら不可能ではないわ」
「アルマ……あなた、ほんとに、僧職なんですよね?」
ぶっ飛んだ発言にユーニスが困惑顔になる。
いっぽうのアルマは平然と受けとめてみせた。
「そう。だから恋愛は御法度。安心して、ユーニス。どうしても寂しい夜に、ときどき貸してもらうだけで充分よ?」
ざり、と背を洗う布地に力が込められる。
「冗談。ホントにアシュレが好きなのね、ユーニス。でも、力を込めすぎ。イタイわ」
謝罪しようとするユーニスにアルマは微笑んで言った。
「言い募るだけでは愛は成就しない。相手の愛するもの、寝食を忘れるほどのもののことを理解することも、愛のカタチ。
こんどわたしの部屋に招待するわ。古代のお話しをしましょう。アシュレの大好物よ。きっと興味が湧くと思うの。
それから……アシュレの帰りを渡り廊下で待つことはない。わたしの部屋を使えばいいの。
知ってた? わたしの部屋の窓からは会議室の明かりがよく見えるのを。雪の日に震えながら想い人を待つアナタを見るのは、つらいから」
こうして、ふたりは友人になったのだ。
女ふたり、夜が明けるまでどうでもよいことを話し合った。
思えば、あの頃からアルマは自分にできなかった選択肢をユーニスに投影していたのだ。
愛するもののかたわらに生きるため、ただそれだけのためにすべてを投げ打つことのできる存在としての、彼女に。
こんな狡いやり方が許されるとは思っていなかった。
ただどうしても、ユーニスには幸せになってほしかった。どうやっても、暗がりから抜け出せないわたしのかわりに。
託す、という言葉はこんな風に使ってはならないと、アルマは知っていた。
知っていたが、それ以外の方法を思いつけなかった。




