■第十六夜:凍えた森を抜けて(1)
その日以来、アシュレは日課のようにユガを訪った。
ユガの手記に取り憑かれたのだ。
そこに書き記された知識を読み解きながら、アシュレ自身が膨大に──記述した。
それがアシュレの勉強法だったのである。
疑問を感じれば、すぐにページと行を書き留め、メモを別に作った。
それは後にまとめられ、精度の高い質問としてユガにぶつけられる材料となる。
たとえばこんな感じだ。
「“接続子”は目に見えぬほど小さな存在だ、とあなたは言うのですね?」
「そうだ。それは目に見えぬほど小さく、しかし、確実にある。たとえば……われわれ夜魔の糧=《夢》のように」
「そして、それはボクたちの血に溶けているのではないか、とあなたは推察する」
「そうだ、アシュレ。“接続子”をわたしはこの数百年間探し続けた。だが、それがこの手に触れられるものとして、見いだすことはついにできなかった。しかし……バラクールの一派は、その《ちから》で持って〈ログ・ソリタリ〉を動かし、自らをインクルード・ビーストに改変してきた……不完全ながら、それは凄まじい《ちから》を彼らに授けた」
「それが意味するところ──たとえば、バラクールの血統に“接続子”は含まれているのではないか──そうあなたは推論した。だから、バラクールの血筋でなければならないのではないか……〈ログ・ソリタリ〉の奏者は。なるほど、夜魔でなければ気づかなかったかもしれない発想だ」
「けれども、そうではないことがわかった。あれはわたしでも、扱おうと思えば扱える」
「しかし、あなたの仮説は悪くない。ただ、前提条件が違うんです──もしかしたらボクのまだ辿り着いていない手記のなかに、それが書かれているかもしれないけど──いわゆる車輪の再発明かもしれませんが、かまいませんか?」
「もちろん、もちろんだ、アシュレダウ。わたしもキミの考えが聞きたい」
「“接続子”は──もしかして、ボクたち全員の血に溶けているのではないですか? たとえば──夜魔の食事である《夢》のように、ただ、その密度・濃度が個人によって違って……いや、あるいは、活性、不活性という問題があって」
「続けて」
「それで……その《ちから》は……《意志》に、《スピンドル》に起因している?」
「うん。最後のところは飛躍しすぎかもしれないけれど、活性・不活性というのはわたしの見立てと同じだ」
「では、やはり、人類全体に、本当は“接続子”がある?」
「正確には、このワールズエンデに生きとし生けるものすべてに、それがあるのではないか、とわたしは思うのだ」
「ただ、その大半が不活性なだけで?」
「あるいは、それはすでに大半が使われて……なんらかの形に相手を留め続けるために。“接続子”は不活性になるとき、そうやって相手の可能性を奪い去るのではないかと仮定している」
「魔の氏族を(・・・・・)生み出した災厄──“ブルーム・タイド”──の際に、そうやって無理やり“接続子”を不活性にされ=つまりなにものかに操作されて──魔の十一氏族……たとえば夜魔は生み出されたのではないのか、とあなたはそう言われるのですね?」
「検証は必要だよ、アシュレ。仮説は仮説に過ぎない」
「しかし、そう考えると、さまざまなことが腑に落ちてくる」
「すこし、休んだほうがいい。アシュレ、目の下に隈ができているぞ?」
事実、その鬼気迫る姿はシオンどころか、ユガが心配するほどだった。
昼夜を問わず、暇を見つけては手記と対話するアシュレの姿に、シオンは男が天職に出会ってしまったことを思い知った。
あの晩、“秘密の庭園”──〈ログ・ソリタリ〉がシオンを捕らえようとしたあの日──からの帰路。
引き裂かれたユガの衣服から覗く裸身と、彼が語る、どこか自動的な妻たちの裏切りの物語を聞いてから。
※
あの奇怪な《ポータル》:〈ログ・ソリタリ〉=“秘密の庭園”からの帰り道。
ユガはとつとつと語った。
彼の愛した女たちの裏切りの話を。
「ずっと貴方のかたわらにいさせてほしいのだ、とオルデヒアは言った。
だが、それは不自然なことだと、わたしは彼女に説いた。
出会った日からずいぶんと時間が経っていた。
彼女は老いて、わたしは夜魔の定め──凍えた時間のなかにいた。
国は少しずつまとまりはじめていたが、問題は多かった。わたしは連日連夜、孤立主義者たちとの戦いに明け暮れ、老いてはいても為政者としての能力でオルデヒアは国をまとめようと奮闘していた。
会える日は少なかったが、わたしは彼女を信じていた。そして愛する気持ちが揺らいだこともなかった。
会うたびに、彼女は老いを気にする発言をした。
あなたにつり合わなくなってしまう。
そう言って恥じた。
だが、わたしは逆だった。そうして老いていく彼女を見るたびに愛しさが募るのを感じた。
容赦なく過ぎていく時間と、衰えていく肉体に抗いながらそれでもなお、一瞬一瞬を気高くあろうとする彼女の姿に、わたしは──こんなことを言うと笑われてしまうかもしれないが──魅せられていた。
惚れていたのだ。
ふたりの間には子供はなかった。
もし、それを授かることができたなら、すこし話は違っていたのだろうか?
姿形は似ていても、異なる理のなかに生きるふたつの氏族のことだ……それは望んでも無理なことだったのだが。
ある日、ひさしぶりに再会した寝室で、わたしは彼女に懇願された。
恐いのだと。
ユガ、貴方と別れることが。
そう言う彼女の手には老いがあり、顔には疲れが、瞳には怯えを孕んだ狂気のようなものがあった。
夜魔の一族に加えて欲しい、とオルデヒアは言ったのだ。
わたしは驚き、狼狽した。まさか、彼女だけはそんなことを言い出したりはしないと信じていたからだ。
わたしは根気強く説得を続けた。
永遠生を生きることとは、永劫の凍えた時間に身を浴するとはどういうことか、決して忘れられぬ記憶の牢獄に囚われることの意味を──なにより、それまで同胞であった人類を“食料”と見なすことになるのだ、と。
だいいち、“血の接吻”──転生を果たす一種の儀式──によって夜魔となったものは、その主より必ず下位の存在となる。それは主従関係を結ぶと同義だ。
わたしは彼女に懇願した。どうか、対等の者であってくれ、と。
泣かれた。
好きなのだとなんども告げられた。
一緒にいたい。
ただ、それだけなのだと。
いつも気丈な彼女がそのように取り乱すのをわたしは始めて見た。
告白する。
胸中に吹き荒れる愛に翻弄されるまま“血の接吻”を授けようと、わたしはした。
だが……できなかった。
人間として“わたしの意のままにならない彼女”をわたしは愛しすぎていた。
それを我が手で壊すことができなかった。
わたしは逃げるように寝室を後にした。
彼女の嗚咽がいつまでも耳から離れなかった。
翌朝、予定を早めて戦場に戻ろうとするわたしを妻が自ら見送ってくれた。
背後から抱擁され、謝罪された。
昨夜は、ごめんなさい、と。あんなことを言って困らせました、と。
それから、愛を懇願された。やはり、彼女は美しかった。
そしてわたしは戦場に戻り、彼女も己の職務へ戻っていった。
わかりあえたことが嬉しかった。誇らしかった。
誤解だった。わたしの。自分勝手で、無責任な」
「気がついたときにはすべてが手遅れだった。
彼女はわたしの秘蔵するあの“庭園の手記”のことを知っていた。もちろん、わたしもいつまでも秘密にしておくつもりはなかった。キチンと区切りあるところまで整理して、冷静な対処法を確立させたら〈ログ・ソリタリ〉について話すつもりだった。
ただ、時期尚早であったというだけのことだ。
だが、オルデヒアはその手記からインクルード・ビーストへの変成法を探り当ててしまった。
いや、本当はずいぶんと以前からそれはオルデヒアの知るところだったのだ。
ただ、それを実行することを彼女はヒトとして戒めていただけのことだったのだ。
きっと、わたしが、彼女とともに老いを得ることのできる存在であったなら、あのような悲劇は起らなかった。
彼女は、〈ログ・ソリタリ〉に消え──ちょうど、シオン、キミが捕らわれかけたように──そして、化け物に成り果てて帰ってきた。
戦場にいたわたしを急使が訪った。
血まみれの彼は、オルデヒアの近習だった。わたしは職務権限を副官に委譲し、馬をとばし、単身帰城した。
一足飛びに玉座の間を目指した。巨大な獣が、周囲に爪を立てながら移動した形跡があった。
重い門扉を開けば──そこは──退廃の底に堕ちていた。
侍従のすべてが裸身に剥かれ、首輪を強要されていた。
そして男女を問わずその肉体には陵辱の跡があり──そうであるにもかかわらず、彼らは自他の区別ない淫蕩な行為にふけっていた。
そして、その深奥、玉座があったであろう場所に──それは腰掛けていた。
重い玉座は、その隣の妃の席とともに打ち壊され、階段の脇に転がっていた。
だから獣はヒトを真似て、その階段に股を開いて座っていたのだ。
それはおぞましくも美しい生物だった。
獅子のような金色の体毛に、青いラインが映えていた。
肉体のそこここが白化した甲冑のような装甲に覆われてもいた。
ぎしぎしと唸りをあげる三日月を思わせる器官。
なにより、その胴中央から頭部として生えていたのは、かつて出会った頃の若々しいオルデヒアの裸身だった。
いや、正しくはそうではない。
姿形、造形だけをいうのならば、それは理想的すぎた。
わたしの記憶のなかの彼女と照らしてさえ──その美は理想化されすぎていた。
まるで良くできた嘘のように。
それが、妻の声色でわたしを呼んだ。
あなたがしてくれなかったから、わたしは怪物になってしまったわ、と。
これで、ずっといっしょにいられる、と。
わたしは、彼女を殺した」
淡々と話ながらふたりを先導していくユガの背中を、アシュレは見ていた。
ユガの上着は先ほどシオンを助けに入った際に切り裂かれ、いまでは半身があらわになっていた。
アシュレはそこに白化した装甲の断片を見ている。
一方で、シオンはアシュレの熱と匂いに陶然となりながらも、ユガの肉体を思い出していた。
その肉体の秘密をシオンは知っていたのだ。
肌をあわせ《夢》を射込まれた間柄だからこそ知りうる秘密を。
乱調する拍動に、その秘密をアシュレに感づかれてしまうのではないか──シオンは怯える。




