■第十五夜:理想郷の道標
同心円を描く奇怪な装置:〈ログ・ソリタリ〉。
その中心には決して近寄らぬようにしながら、しかし、アシュレとシオン、そしてユガは水際から、この奇妙な《ポータル》のそばへと戻ってきていた。
「この装置の存在に気がついたのは、バラクールを打ち倒したあとだった」
奇妙な《ポータル》:〈ログ・ソリタリ〉を取り巻くように据えられた台座のひとつに腰かけ、ユガは言った。
「亡国の王女──最初の妻:オルデヒアとともに、わたしはギルギシュテン城の地下へと降りていった。バラクールの最期。断末魔。そのとき我々を指弾した言葉が忘れられなかった」
“オマエたちはやがて知るだろう。この世界の秘密の一端を。そして、そのときさらに知るであろう。オレも、オマエたちも、すべての《意志》あるものはすべて、この世界に選ばれた道化に過ぎぬことを”
だれも“庭園”と“接続子”──このふたつからは、逃れられぬ。
「バラクールはそう言って嗤いながら死んだ。呪詛にしては示唆に満ちていて、今際の戯れ言にしては具体的すぎた。だが、しばらくはわたしたちはそのことを忘れていた。新たな国家体制をつくり出すため、すべきこと、しなければならないことが山積みだった──だから、それについて考えることができたのは、その日から三年も過ぎたときだった」
時を遡る口調でユガが語る。
アシュレたちは宮廷詩人の謳うサーガを聞くように、同じく座して、耳を傾けた。
圧倒されている。そして、動揺している。
いつか、カテル島でイズマの語った──〈ガーデン〉という単語の登場に。
それはこの世界に重なるもうひとつの世界だと、イズマは語った。アシュレたちには見えずともある──一種の理想郷だと。
そして、こうも言ったのだ。
ボクの、本当の敵だ、と。
思えば、予期してしかるべきだったのだ。“秘密の庭園”──その言葉の登場とともに。
何者かによって造営され、忘れ去られた、理想郷の似姿=〈ガーデン〉と《御方》──その遺骸としての〈ログ・ソリタリ〉──そのふたつが揃ってアシュレの眼前に姿を現そうとしていたのだ。
ユガは続ける。事実を、淡々と。
「圧制者からの開放を祝う式典がギルギシュテン城で行われた。
それは同時にこの城の改装、増築に着手する着工式の宴でもあった。
ところが出席者の同伴した子供たちが、行方不明になった。
城内の捜索が行われ、徹底的に調べられたはずのこの城に、いまだ我々の知らぬ空間があることがわかった。
逃げ出したペットを追いかけていた子供たちが偶然発見した隠し扉があったのだ。
そこで、たいへんな発見があった。
いま、我々の眼前にあるこの奇怪な《ポータル》:〈ログ・ソリタリ〉そっくりの装置が、ギルギシュテンの地下には眠っていた。
報告を受け、わたしは調査に乗り出した。他の者に任せることはできなかった。どんな危険が待ち受けるかわからなかったし、なによりわたしは長い生のなかで多くを学んでいた。
つまり、《フォーカス》やこれら《御方》に対する知識、実際に遭遇してきた経験という意味で。
そして、もし不測の事態に陥っても、不死者であるわたしならば、よほどのことがないかぎり生還できるはずだった。
命を粗末に扱うことを、わたしもその妻であるオルデヒアもよしとしなかった。
だから、これは他の誰にも替わりのできない役だったのだ。
それ以来、わたしは、この奇怪な装置の解析に努めた。
孤立主義者を退けながら、執政の補佐をしながらであったが、不眠不休の働きさえ、夜魔であるわたしにはどれほどのこともなかった。
なにより、飢えはオルデヒアの《夢》が癒してくれた。
調べるにつれ、これがさらに重要な発見であることが明らかになってきた」
ユガはアシュレたちの座る台座を指さした。
「これが?」
「そこに刻まれている象形文字のひとつひとつには意味があるんだ、アシュレ。それはね、説明書きであると同時に、隠し通路でもある。奏者が“接続子”を持たないか、なんらかの理由で“庭園”への接続が不調であるときのためのね」
なにを言われたのか理解できない、という顔をアシュレはした。
だが、食い下がって聞きたくなる衝動を押さえ込む。ヒトの話は最後まで聞くものだ。
そうしてはじめて見えてくるものがある。それをアシュレは知っていた。
ユガはアシュレの聡明さに、さらに話を進めてもよいだろうと確信したようだった。
「それは──失われた“庭園”への道標だったのだよ」
そのときのユガの興奮が我がことのようにアシュレには感じられた。
いつ、だれが、造営したともしれぬ──理想郷へ至るための道標。
その言葉に胸の高鳴りを禁じえない自分がいる。
本当の敵だ、というイズマの言を軽視したのではない。
だが、アシュレのなかに宿る古代史への興味、好奇心は危険だとしても止めようのないものでもあったのだ。
それはすでにアシュレの血肉の一部だったのである。
「わたしは、それを目の当たりにし、震えた」
わかります、とアシュレは頷いた。
「そこに描かれていたことは、〈ログ・ソリタリ〉の非常時の操作手順に過ぎなかった。だがそこで説明されるあらゆることが、じつは、この世界──ワールズエンデという界──に埋め込まれた秘密へとせまるための鍵だったのだ」
見たまえ、とユガはアシュレとシオンが並んで座る台座のちょうど真ん中を指した。
そこにはいくつもの象形文字が刻まれていたが、アシュレはなぜか、吸い寄せられるようにひとつの文字に手を伸ばしていた。
そして、まったく同時にシオンも──互いの指先が触れて──まるで初めて触れあったあの日のように、そこから甘い電流が脳髄へ流れていくのをアシュレは確かに感じた。
同じようにシオンも感じたのだろう。弾かれたように互いが手を離した。
「“接続子”」
そのふたりの姿を穏やかに見つめ、ユガが言った。
「いま、君たちが触れた文字こそ、“接続子”を意味するものだ──それは、この世界にかつて重なるようにあった、もうひとつの世界──理想郷──“庭園”に触れるためのものなのだという」
失われた“理想郷”に触れるための──アシュレはぶるり、と震えた。
「パスポート、ということですか?」
「まさしく、そのとおりだ。
“庭園”(ガーデン)では飢えも貧困もなく、ヒトは居ながらにしてすべて観、聞き、触れずにいて物を動かすことができたそうだ。
火を使わず物を熱することができ、冬を待つことなく、真夏のさなかに氷を生み出すことも。
人造の星、月、そんなものさえ造り上げることさえ。
老いも、死すら、遠く遠ざけておくことができ、そうでありながら望むだけでそのすべてを受け入れることができた時代。
そう──すべてが純化された、美しい世界だと──その石碑は伝えている」
「では、これは、この《ポータル》:〈ログ・ソリタリ〉──は?」
アシュレは思わずもたれていた石碑から立ち上がり聞いた。
待機状態なのだろうか、あれ以来、花弁を開いたまま〈ログ・ソリタリ〉は微動だにしない。
鼓動が苦しさを覚えるほど打っていた。
「その時代の名残──わたしは、なんらかの大規模な災厄によって“庭園”を失った人々が、なんとかしてそこに帰ろうとした……あるいは、この世界を──ワールズエンデのほうを──“庭園にしようとしたのではないか、と考えている」
アシュレはユガの語りに、かつてこの地を治めた巨大な統一王朝:アガンティリスのことを思い出した。
アガンディリスはその成立より二千年の後──突如として、この世界から消えうせた文明だ。
建物も、あらゆる利器も、残したまま、忽然と彼らアガンティリス人は、姿を消したという。
その直後に続いた──暗黒時代──夜魔や土蜘蛛、竜や大海蛇、戦鬼や真騎士の一派がこの地に流入するようになったのだとアシュレは伝え聞いてきた。
だが、ユガの言葉はアシュレの常識を打ち破るものだった。
「わたしは──その災厄:“ブルーム・タイド”こそ、アガンティリスの民が引き起こした──“庭園”の扉に手をかける行為なのだ、と結論している。それはこの世界に多大な代償を強いた──つまり」
現実を理想の代価として差し出してしまった──断言して言うユガに、アシュレは呆然として訊いてしまった。
ついに礼節を忘れ、己の好奇心のままに、話を遮って。
「では──その後に訪れた暗黒時代とは──人外の、魔の十一氏族とは──」
「アガンティリスの人々が、“庭園”(ガーデン)への帰還を果たすため、その生贄に──それも殺すのではなく、変成を強要することで──捧げられた者たちではなかったか──そう考えれば、辻褄が合うのではないか」
言いながら、ユガは懐からぶ厚い手帳をとり出し、アシュレに見せた。
「これが、わたしの研究を書き留めたものだ」
手帳の登場にシオンが息を飲むのが聞こえた。
ふたりのやり取りの外にいたシオンは驚愕を覚えていたのである。
夜魔はこうして記録をとることを滅多にしない。
それは完全記憶の牢獄に囚われた彼女たちにとって、記録とは自らのなかに記されるものであって、外部化する必要は多くの場合、なかったからだ。
だから、同時に、その意味を理解して、シオンはまた胸の奥が狭くなるような痛みに襲われた。
「わたしには必要のないものだが……いつか、キミのような人間がこれを必要としてくれるのではないか、と思ってね」
言いながら、ユガはその手帳をアシュレの手に捩じ込んだ。
おそらく数百年にわたる彼の研究の成果であろうそれを手渡され、アシュレは手帳とユガの間で顔を行ったり来たりさせるしかなかった。
「餞別を贈るのは早すぎるかもしれないが──キミにもらって欲しいのだ」
「ですが、こんな……それに、まだ、ユガ、あなたは研究を続けられる」
「やめるとは言っていないさ、アシュレ。だけどね、もう二〇〇年、こうして調べてきた。そして、結局のところこの〈ログ・ソリタリ〉は失敗作なのだ──そう結論する他ない。完全ではない──出来損ないを量産することしかできないものだ」
「出来損ない?」
「先ほどのあれは──孵ることのない卵を排出するようなものさ」
そう言うユガの顔に、苦いものが走るのをアシュレは確かに見た。それは老いだとも言えた。
そのあまりの苦さに、アシュレはあれが──さきほどユガの仕留めた女神像のごとき存在が──本当はなんだったのか、問いただすことができなかった。
そんなアシュレにユガは続ける。
「そして、もはや、この地に残された手がかりはほとんどない。ない、はずだ。本当に重要なエッセンスを、わたしはそれに託した。それはもはや、わたしの遺志だ。」
そして、わたしは、疲れた。
だが、だからといって王たる責務を放棄するわけにはいかない。
わたしはここに留まるしかない。
だから、とユガの目が言っていた。
わたしのかわりに、この世界の謎を──解いてくれないか? それをわたしに教えに帰ってきてくれないか? そして、もし、キミがその謎に辿り着けず、道の半ばで倒れることがあったなら、これを──キミの言葉を書き添えた手帳を──誰かに託してくれないか? わたしがキミにしたように。
ユガはなにも言わなかった。だがアシュレにはそれが痛いほどわかった。
「もらってくれるか?」
もう一度、手帳をアシュレの手ごと包んでユガが言った。
こくり、とアシュレは頷いた。確かに受け継ぎました、と応じた。
ユガは無言で微笑む。
男たちのやりとりを無言で眺めていたシオンが、声を聴いたのは、そのときだった。
ちいさく歌う、遠くで鳴く、クロウタドリのもののような──。
ふらり、と気がつけばシオンは立ち上がり、〈ログ・ソリタリ〉の開ききった花弁に向かって足を進めていた。
林の中で、美しい歌声の主を探す姫君のように。
そして、シオンはそれを見つけた……気がした。花弁の中心、その天蓋に──。
シュッ、と音がして、花弁が一斉に閉じた。それは獲物を察知した罠が、期を過たず、その顎門を閉じた瞬間でもあった。
あまりのことに、シオンは逃げられなかった。
瞬間転移である《影渡り》を封じられたシオンが、そのタイミングで逃げだせるはずがなかった。
だから、シオンを助けたのはふたりの男だった。
ユガが《影渡り》で飛び込んで来た。そしてシオンを抱きかかえるようにして脱出を試みた。
アシュレが腰に吊るしていたショートソードを捩じ込んだ。《スピンドル》を通したそれは、一秒で砕け散る。
けれども、そのたった一秒がふたりがその花弁に擬態した顎門から逃れるための決定的な時間を稼いでくれた。
それまですべやかだった花弁の内側が、文字通り牙を剥いた。逆向きの鉤や針がシオンを救うべく飛び込んだユガのそこここを掻いた。
ユガの肩や脚や背に、決して浅くない掻き傷をそれは残す。もっとも高位の夜魔であるユガにとって、それはすぐに塞がる傷だったが。
アシュレも右腕を割かれた。深く刃を突き込んだ瞬間、切り裂かれたのだ。
花弁は生物のように蠢いてアシュレを傷つけた。
一方でユガに抱きかかえられたカタチになり、シオンは慌てた。
滴ったユガの血が、そして自らを省みずシオンを助けに飛び込んできてくれた行動が、シオンのなかで消し去ることのできないユガへの好意に働き掛けていた。
いけない、とわかっているのに胸が高鳴ってしまう。
ユガはそんなシオンの動揺など気づいてもいない様子で、気遣わし気にシオンの首筋にかかった一房の頭髪を直そうとした。
あ、う、とちいさく声が出てしまった。
軽く触れられた、ただそれだけのことで、ユガの心がシオンの頭のなかに流れ込んできたのだ。
アシュレによって行われた改変──頭髪が想いの導体となるのだ。
想われていた。焦がれるほどに熱く。
もしかしたら、求婚を断ったあの日より、ずっと強く。
シオンはユガディールという男が、その鋼鉄の《意志》で、いままでどれほどのことに耐えてきたのかを、知ってしまった。
この娘を、このまま奪い去ってしまいたい──そう欲するユガの心が物理的な感触となってシオンを翻弄した。
シオンは雪ヒョウに射すくめられてしまった子鹿のように動けない。
あの──いまだアシュレに告げることもできない日々の爪痕が、ずくずくと疼いた。
だが、それなのに、ユガという男は立ち上がると、シオンの身を手当てを終えたアシュレの腕に返すのだ。
「油断してはいけない──これは、この〈ログ・ソリタリ〉はヒトとは決して相容れぬ怪物なのだ」
そう言い添えて。
そして、アシュレの腕に帰り着けば、こんどは宝物のように想われていることが伝わり過ぎて──それなのに身が裂かれるような痛みを感じる。
アシュレは改変に際して言った。
「キミの髪が想いを伝えるには相手がキミを想うだけではだめだ。キミ自身も相手を想っていなければ」と。
シオンはそのことを反芻して──震え上がる。
おそろしくて、たまらない。
他者に好意を抱くことがシオンを震わせる。
それから、三人は“秘密の庭園”──正確には、その入り口であったかもしれない場所を、去る。




