■第七夜:少年と天才
※
順調に回復しているようにアシュレの容態は見えた。
若さもそれに手を貸した。葉を落した木々が、冬の間その内側で春の到来に備え力を蓄えるように、アシュレもまたよく食し、眠った。
一週間が過ぎ、月が霜月に移った頃には、こけていた頬も戻り、かなり体力が戻ってきたように感じられた。
「そろそろ、遠乗りがしたいな」
「ふむん、ヴィトライオンも身体が鈍っておろうし、そなたも勘を取り戻さねばな」
「もう一月だからね。素振りと型だけじゃ戦いの勘も鈍ってくる」
「……く、組み手の練習とかはどうだろうかな……」
「そうだ、トラントリム侯爵に手紙を書こう。ここまで回復したんだ。お会いして、お礼のひとつも言っとかなくちゃ」
シオンのつぶやきをアシュレは華麗にスルーして言った。
「そなた……目覚めてから、性格が悪くなった。むかしはもっと、素直な良い子だった」
「嫌いになったかい」
真顔でそんなことを訊くものだから、シオンは返答に困りっぱなしだ。
「それに組み手は練習にならないよ。キミとボクでは。別の実戦になっちゃう」
そんな断言にシオンは、どう答えたらいい?
アシュレがシオンに添削されながら手紙を書き終えるのと、使者が別荘を訪うのは、ほとんど同時だった。
「返答を頂いて帰還するように申しつけられております」
そう言って玄関に佇む使者を、アシュレとシオンは居間に招き入れ、熱い茶と簡単な焼き菓子でもてなした。
使者は今年十三歳になったという少年である。
法王庁のように従士が制度化されていない小国では多くの場合、貴族の子息、それも戦士階級として立身しようとするものは従騎士として十二歳ごろから、宮廷に仕えることになる。
そこで給仕や雑用、使者などの使い事をし、礼儀作法を身につける。
ここトラントリムでもそうなのだろう。
アシュレは少年時代を思い出した。
思い返すとそれは、そうむかしのことではないのだが、幾多の死地を潜り抜けたあとでは随分と遠い思い出であるかのようにアシュレには思えたのだ。
「じつは、ここにすでにお返事の書簡がある。ただ、いましがた書き終えたものであるため、インクが乾くまで、しばらくこうしてボクたちのお話相手になっていただけまいか」
アシュレがそう切り出すと、使者の少年──ベスパールと彼はいった──は頬を染めて頷くのだった。
「清冽の騎士と美しき姫君であらせられる、と我が主:ユガディールさまからは、うかがっておりました」
「期待外れでしたか」
「いいえ、とんでもない。それ以上でありました」
まっすぐな瞳で見つめられ、アシュレは気恥ずかしさを味わった。
シオンが美姫であるのは間違いようのないことだが、自分が清冽の騎士とは持ち上げられ過ぎだ。
だが、アシュレもベスパール少年の気持ちがわかった。
たしかに自分も幼少期から少年期、聖堂騎士たちの壮麗な姿に憧れを抱いた。
いつか、自分もあの一員に加わるのだとそう、決意した。
失礼のないように、と言い含められているのだろう。ベスパール少年は逸る気持ちを抑えるようにして、言葉を選び、慎重にアシュレたちについて問うた。
アシュレも、シオンも、答えられる限りのことを少年に伝えた。
「騎士として大切なことはなにでしょうか?」
「ひとつには、信頼だと思います。相手にも、自分にも。
もうひとつは、掟。ただ、これは他者から強要されるものではいけません。自分が自分自身に課した生き方でなければなりません。
そして──これはわたし自身が、ごく最近、体験し、それによって痛感していることなのですが──考え続けること、問い続けること……そして、その瞬間瞬間に、答えを出し続けていくこと……うまく言えませんし、このような言葉で伝わるものかどうかも、わからないのですが」
「ぼくも、いまのぼくでその言葉の真意を理解できるとは思いません。でも、頂いた言葉を大事にします」
アシュレはできるかぎり自らの体験から得たものだけを少年に伝えようとした。
教本や訓示に示された道徳や理想像とは、だから、逸脱があったかもしれない。
だが、ベスパールはその逸脱をこそ、楽しんでくれたようだ。
「ユガディールさまが、おっしゃられた通りです」
「ユガディール侯はなんと?」
アシュレはベスパール少年の呼びように合わせた。
たしかにトラントリムという国名で呼ぶよりはスマートだろう。
「外からの風を感じてくるといい、と」
「風は病も運ぶものです。自分自身のなかにしっかりとした基準を作り上げるまでは、特に」
アシュレのやんわりとした諌言にベスパールは素直に頷く。
アシュレだけではない。シオンもまたいっぺんでこの少年を好きになってしまった。
同時にユガディールという男にアシュレは強い興味を抱いた。
ベスパール少年の基幹にはユガディールの教育──それも言葉や教鞭によるものだけでなく、生き方──背中でそれが色濃く焼きついている気がしたのだ。
だが、ここでユガディールについて根掘り葉掘りベスパールに問うのも、アシュレは違う気がして、やめた。
かわりにベスパールについて訊いた。
その出自や、将来の夢を、だ。
驚いたことにベスパールは……戦争孤児だという。
「ユガディールさまに拾っていただかなければ、ぼくなど、どうなっていたかわかりません」
「戦争……とは……。立ち入ったことをおうかがいするが、トラントリムは十年以内にどこかと戦争をしたことがあるのですか? 小国家連合は基本的に相互不可侵条約と同時に共同でハダリの野からの脅威に対している、と聞き及んでいるのですが」
「戦争、というべきなのか……これは紛争、と呼ぶべきでしょうか。じつはハダリの野とそこに接する深い森林地帯──ニヴルダーシェンの森には未開人たちの領域があって……ヤツらは夜魔と人間が手を取りあうことに反発し、ことあるごとにテロルに訴えかけるんです」
初めて得た情報に、アシュレとシオンは顔を見合わせた。
「孤立主義者、とぼくたちはヤツらを呼んでいます。……どうして、手を取りあおうとするふたつの種を引き裂こうとするのか……ぼくには理解できない」
ベスパールの街も、彼ら孤立主義者の襲撃によって焼かれたのだという。
また、孤立主義者たちは恐ろしい怪物──インクルード・ビーストと呼ばれる怪物の類いを使役し、少数でも軍隊に匹敵する被害をもたらすのだという。神出鬼没で手に負えない。
ハダリの野の魔物たちや、もしかしたらいま軍靴を鳴り響かせつつあるエスペラルゴ、あるいはアラム勢力と手を結んでいるという話もあるくらいだ、とベスパールは結んだ。
「父さんも、母さんも、妹も、やつらに……」
少年の思わぬ傷に触れてしまったことをアシュレもシオンも謝罪したが、ベスパールはぼくが勝手に喋ったことです、と笑った。
聞けば、ベスパールのような境遇の子供たちは、むかしからかなりの数がいるのだという。
「ベスパール、キミは騎士になりたいのかな?」
「はい。いえ、むかしは。騎士になって家族の仇をとりたいと思っていました。でも、訓練を受けてみて思うのは、ぼくは騎士には向いてないかもしれないってことです。恐いんです。剣の切っ先や槍の穂先を見ると、あの光景が甦ってしまう」
だから、とベスパールは言った。
「将来的には調香師になろうかな、と思っているのです。ご存知ですか? トラントリムはバラの名産地なんですよ? そこから作られるローズ・ウォーターの素晴らしさと言ったら!」
まるで、まるで、シオンさまのお身体から立ち上る香気のようです。
陶然となってそこまで言い、ベスパールは、あ、という顔をした。
余計なことを話してしまった、という顔だ。
「ローズ・ウォーターを精製するには大型の蒸留機が必要でしょう? トラントリムにはそんな施設があるのですか? おおかたはあっても修道院が抱え込んでいるものですが」
「ユガディールさまが、その技術を解放するように国内の修道院にお命じになられたのです。技術開放、とぼくらは呼んでいます。ぼくの父は、バラ農園の所有者でした。小さいころからずっと手伝ってきたおかげで、ぼく、バラには詳しいのです」
ユガディールは、その彼に必要な教育と機材を与えた。それどころか、将来的な職まで示していたことになる。
たいへんな傑物だ、とアシュレは感じた。
「そろそろ、よいかな?」
話は尽きなかったが、あまり遅くなるといけない。大門が閉じてしまう。
シオンが書簡をスクロールにし、封蝋、指輪──これもシオンのすでに失われた王位継承権を示す:フィティウマ──青く幻想的な花弁をつける高山植物に翼を交差させた女神の像を押す。
その間に、こっそり、という感じでベスパールが訊いてきた。
「あ、あの」
「なにか?」
「サー・バラージェ、あの──シオン殿下と、おふたりは……どのような関係なのですか?」
憧れの聖騎士と夜魔の姫がどのような関係にあるのか、それは年頃を迎えつつある少年には訊かずにはおれなかった事項なのだろう。
ただ、恥を知り、無礼を知るベスパールにとって、女性の目の前で公然と聞くべき話題ではなかった。
だから、いま、このとき、だったのだ。
「かけがえのない、ひとだと思っています」
アシュレは答えた。ベスパールが急き込んで訊いた。
「恋人、同士でいらっしゃるのですか? ヒトの騎士と夜魔の姫君が……」
はい、とアシュレは正直に頷いた。はっきり認めた。
ベスパール少年の頬がみるみる紅に染まり、火照ったそれを冷やすように両手で包むさまをみては、さすがのアシュレも声を上げて笑わぬわけにはいかなかった。
手紙を調え帰ってきたシオンが、そんなふたりを見て、怪訝な顔をした。
※
天気の良い日を選んでは、アシュレはシオンを伴い遠乗りに出かけた。
長く主人と離れ離れになっていたヴィトライオンの喜びはただごとではなく、雪をものともせず走り回った。
シオンに聞いた話では、アシュレが意識不明の間、シオン以外の誰にもその身体に触れさせず、馬丁たちをほとほと困らせていたのだという。
「ごめんよ。心配をかけたんだね。もう、だいじょうぶだから」
その頭を抱いて言うアシュレに、言葉がわかるのだろうヴィトライオンは、なんども鼻面を押しつけた。
案の定、アシュレの肉体は鈍っていた。
たった一刻流しただけで、膝ががくがくだ。
はー、とアシュレは落ち込んだ。
かなり鍛え直さないといけない、と泣き言めいたひとりごとが自然に言葉になった。
漂流寺院の時といい、カテル島の時といい、なんとか命は取り留めたものの重傷や重度の消耗によって、アシュレの肉体のスペックはがた落ちだ。
竜槍:〈シヴニール〉でならともかく、いま騎兵槍を構えて馬上試合に臨んだら、まともに打ちあえるのか?
眠っている間に筋が硬くなってしまった箇所もある。
焦りは禁物だとわかっていたが、状況を考えるとあまりゆっくりはしていられない。
仲間たちのことがある。
だが、同時に合流したとき、自分が戦力外では意味がないどころか、ただのお荷物だ。
それだけはあってはならなかった。
「そなた、あまり、遠出せぬほうがよいのではないのか。まだ、本調子とはいくまい」
だから、シオンのそんな言葉を、ついつい無視してしまう。
「もうちょっと、もうすこしだけ──お願いだ」
シオンはそう言われると弱い。
それに、必死に男が勘や肉体の力を取り戻そうと努力している姿が──はっきり言ってシオンは好きだ。
人間は誰でも蹴つまずき、転ぶ。
だが、いつまでも地べたに這いつくばり不運や一敗地を嘆くものと、最大限の努力を払って立ち上がろうとする者──そのいずれに女心が動かされるのかなど、自明の理だ。
それにシオンは肉体の不自由に苦しむアシュレがだんだんと《意志》によって、その不自由を克服していくのをみるにつけ、その器の大きさに改めて気づかされるのだ。
つまるところ、《意志》とは、理想を持ちその理想にいかに自分を従わせることができるのか──そうやって、自由と不自由、可能と不可能を知り──やがてそびえ立つ高い壁を克服していく《ちから》なのではないか、とシオンは思うのだ。
だから、欲望なきもの、迷いなきもの、葛藤なきものには《意志》は生じない。
それを、餓えや渇き、と表現することもできる。
満たされたものに、《意志》は必要ないからだ。
いつのまにかシオンはそんなアシュレから、目が離せなくなってしまっている。
近場で練習していたアシュレが、突然シオンに向けて戻ってきた。
慌てた様子で鞍を降り、こけつ転びつ走ってくる。
「なんだ、なんだ、どうしたのだ?」
「シオン、そのっ、身体っ、〈ジャグリ・ジャグラ〉!」
はっとなりシオンは自らの肉体を見下ろし、アシュレの動揺の理由を悟った。
励起の時間だ。
「どうしよう」
「だだだ、だから言ったのだ、遠出は控えようと!」
結局ふたりは、なにも隠れるところのない高原で処置に及ぶしかなかった。
互いの外套を繋ぎ合わせるようにして陰を作る。
「な、なんだかすごくイケナイことをしている気分になってきた」
「そなた、噛むぞ、なあ、もう、噛むぞ! 噛むしかあるまい! 噛むからな!」
アシュレはシオンにこっぴどく怒られ、ひたすら反省の意をしめすほかなかった。
もっとも、集中してくるとそれを忘れ、なんども同じ窮地にシオンを立たせてしまうのだが。
ふたりは厳しくも美しいトラントリムの風景のなか、馬を走らせた。
「それにしても、ユガディールと言うヒトは……これまで知りえなかったとはいえ、己の不明を恥じるほど凄いヒトだったね」
遠乗りのさなか、アシュレの話題は、主にユガのことに占められていた。
「そうだな」
そっけなく返すシオンの胸中は複雑だ。
同族の、それも進歩的な理想を実践する男を褒められて悪い気はしない。
シオン自身が傑物、英傑と認めた男だ。
だが、同時にアシュレに告げていない彼との秘密がちくちくと針のように心を苛むのだ。
「夜魔の一族にはああいうヒトが、珍しくもないのかい?」
「いや、アレは希有だよ。たしかに、支配者・貴族として立ち振る舞うのが夜魔の血統ではあるが、歴史上のほとんどの支配者が英傑や傑物ではなかったように、な。むしろ、無能であろうとなんであろうと“貴族として生まれてくる”──そんな意識は、やはり心を腐らせるだけだと思うよ」
アシュレの言う通り、アレは希代の傑物だ。
シオンの評に、アシュレはほっとしたように息をついた。
あのような男が珍しくもなく輩出されるのでは、人類は到底、夜魔に打ち勝つことなどできないだろうと思っていたのだ。
だから、シオンが飲み込んだ言葉をアシュレは知らない。
「わたしは、そなたにも、その英傑の片鱗を感じているのだぞ」という。
しかし、アシュレの感嘆も無理からぬことではあった。
ヴィトライオンがつける黄金の轡、アシュレの胸につけられた大ぶりなブローチ。シオンのそれはスカートに取り付けられるように工夫されている──花冠とハヤブサ──それはユガディールの家紋であり、あらゆる免責特権──つまり、大量破壊兵器である《フォーカス》とその担い手である《スピンドル能力者》が、それを帯びたまま、国内のいずこへも自由に立ち入ることを許可する許可証だったのだ。
会見の最後に遠乗りの許可を求めたアシュレに、ユガディールはこの紋章とともに、預けられていたすべての《フォーカス》の返還に応じてくれたのだ。
無断・重武装で国境を侵犯した他国の騎士に対する待遇ではなかった。
アシュレは、はじめてユガディールと会見した晩を忘れない。
招待状とともにベスパール少年が携えてきた荷には、アシュレの衣服が十着も入っていた。
機械による量産など望むべくもない時代だ。
衣類はすべて手織り手縫い。一般庶民のそれはだから古着がほとんで、古着商が街のあちこちにあった。
新品はとんでもない値段だったのだ。
アシュレは立派な仕立てのそれにまず恐縮したが、自分専用にあつらえられたそれを無下にできるはずもなく、受け取った。
シオンのそれがなかったのは異空間に設けられたクローゼットを招来する異能:《シャドウ・クローク》のせいだ。
そのかわりに、一点だけ、品のよい銀と七宝を組み合わせた額冠が送られてきた。
高価な石は使われていなかったが、その意匠はあまりに見事だった。
蔓草のようなフレームが草花を集めて作られたブーケの銀細工に集約していくデザイン。
草花はすべて七宝で彩られている。
モチーフの草花はトラントリムとその周辺国の連合──あの紋章に準じていた。
ただ、それがシオンのものだとわかるのは、その中心にフィティウマ──あの青く蠱惑的な花が据えられていたからだ。
やんわりとあの荘厳な王冠──〈アステラス〉は、国内では遠慮していただきたい、とそういうニュアンスもあったのかもしれない。
「たしかに、あれを被って公然と歩かれたら、ガイゼルロンと交戦する意志があると喧伝して歩くようなものだからな」
「美しい意匠だね。ガイゼルロンの紋章に使われている花──“悪魔の爪”の異名のほうが有名すぎて、この花の名前、正しくはボクは知らないんだ」
アシュレがその額冠を見ながら言った。
シオンはその名をつぶやく──フィティウマ。
アシュレは舌の上でその言葉を転がした。
「恐ろしい異名とは裏腹に、綺麗な花なんだね。可憐で……武装しているときのシオンはバラ──〈ローズ・アブソリュート〉、って感じだけど……普段、こうしてそばにいるときのキミは……この花みたいだ」
「“霧のなかの愛”」
シオンのつぶやきに、アシュレは首を傾げた。
「そんな──花言葉もあるのさ」
なぜかすこし憂いを帯びた笑い方をシオンはした。
やはり、わたしは行くのをやめようかな、とそんなことさえ言い出した。
アシュレはシオンがそんなことを言うのを初めて聞いた。
礼節にはかなり気を使う彼女だからこそ驚いた。
だが、アシュレが疑問を口にする前にシオンは笑った。
「冗談だ」
アシュレもほっとして笑った。
それから身支度を整え、ユガを来訪したのはすっかり陽も暮れた頃だった。
晩餐で迎えられた。
さまざまな方法で保存処理を施された果物、木の実、きのこ、山野の野草、そして新鮮なチーズとヨーグルト、メインはたっぷりのジビエ──その夜はイノシシのローストだった。
「しっかりと食べて、一日も早く肉体を再建されることだ」
ユーモアを交えながら語るユガは、自ら範を示すように脂の乗った肋肉にかじりついて見せた。
子供のように指についた塩味と脂を舐める仕草は、稚気よりもむしろ親しみやすさばかりをアシュレに与える。
食後、アシュレはふたたび礼を述べた。
危機を救ってもらったこと。寛大な処置、惜しみない援助について。
「ただ、と言うわけではない」
アシュレの言葉をすべて聞き終え、頷きながら、しかしユガは言った。
「滞在中、キミにはわたしの話し相手──それに、ときには戦技の練習相手になってもらう予定だ」
真面目くさった顔でユガが言った。
シオンは顔をこわばらせたが、アシュレは動じなかった。
むしろ、ユガのウィットのセンスに好感を覚えた。
「わたしでよろしければ、ユガディール伯爵。今後はアシュレ、とお呼びください」
「では、わたしもユガと呼んでもらうようにしたいな。伯爵付けはやめてもらいたい」
そこまで言って、ユガは笑顔に戻った。
ユガの申し出は、しかしまんざら理由のないことではない。
他国の国家情勢の内実を知ることは──それも精度の高い──外交であれ戦闘行動であれ、国家の方針を決定する上で欠くことのできぬ判断材料であったからだ。
後にわかることだが、ユガは相当な諜報網をすでに持っていた。
それでも当事者、それもエクストラム法王庁を離反した第一級の戦闘能力者である聖騎士──から得られる情報は、その信頼性・精度・確度において、群を抜いていたはずだ。
その意味を知るアシュレは快諾こそしたものの、だから、代償の少なさに恐縮するということもなかった。
ユガはそれだけのものをアシュレから引き出すだろう。
そしてアシュレのその態度に、ユガもまたこの一見たおやかな外見の少年騎士の内面に宿る強さに感心していたのだ。
そこに醸成された上質な空気を打ち破ったのは第三の男だった。
「遅れての参上……もうしわけない。だが……わたくし、生来の武骨者ゆえ、どうかご寛恕いただきたい」
言いながらその食卓に現れたのは礼服を押し着せられたとしか感じられぬ、頭髪もモジャモジャの老人だった。
ただ、年は随分といっていても、その骨格は太く、背丈はアシュレより高い。
射すくめるように投げ掛けられる眼光は、あらゆるものを値踏みするように鋭かった。
袖からのぞく指先は太く、ごつごつとして、まるで職人の親方のようだとアシュレは第一印象を受けた。
「遅かったではないですか、マエストロ。今夜はもう、みえられないのではないかと思い、夕食は終えてしまいましたよ」
「それは、貴君が送り付けてきた衣装に文句をいってもらいたい。着慣れないものにこの骨張った身体を押し込むのにどれほど時間を費やさなければならなかったか。風呂にも入らねばならなかったわけで」
言いながら男が頭を掻いた。掻いた頭からかつり、と音がして小さな金属部品が落ちた。
男はその場にいる全員に断りもせずそれをしゃがんで拾うと、かざして見せた。
「出がけにどこかにいってしまったと思った歯車だ」
言いながら男は部屋を出て行こうとする。
ユガが席を立ち駆け寄って止めなければ、そのまま退出してしまっていただろう。
「マエストロ、今晩のところは勘弁してください」
なぜ、と無言でしかし真顔でユガを睨み返すその男こそ、天才であった。
「諸君、紹介させていただく。こちらが、マエストロ:ダリエリ。エルシド・ダリエリ。絵画、彫刻、建築、その他のあらゆる発明において神から祝福を与えられた男、そして、ごらんのように──天才だ」
挨拶は済んだからもういいだろうという態度で、またもや出て行く男をなかば羽交い締めするような勢いで止めるユガを見るシオンとアシュレは、これはもう呆然とするほかなかった。




