■第六夜:焔は熾きて
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アシュレとシオン──ふたりが我に返ったのは、ずいぶんと時間が過ぎてからだ。
極まりすぎた空腹感と冷えはじめた室内気温が生存の危機を知らせていなかったら、アシュレはまだまだ没頭してシオンに彫刻を続けていただろう。
なるほど、これこそ負の《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉。その魔性の成さしめる業か。
息も絶え絶えなシオンが解放されて、やっとという感じで息をついた。
なぜ、人間は飲食をしなければならないのか。
動物のように分厚い毛皮で寒さから守られていないのか。
そんな理不尽な怒りを覚える程度には、アシュレはシオンの改変にはまり込んでしまっていたのだ。
暖炉にくべられていた太い薪がすっかり灰になってしまっている。
パンツを腰骨に引っかけるようにして履き、上着を羽織った格好でアシュレは火を起した。灰をかいぐると眠っていた炭が新鮮な空気を得て、すぐにあかあかと熾った。
アシュレは小枝で火を育てるとなかに空間を作るように薪をくべていく。
そうしておいてから、卓上の鍋に手をかけた。
シオンお手製のスープだ。一抱えもある鍋に一杯だ。
おそらく、思いついては材料を、手を、と加えているうちにこんな分量になってしまったのだろう。
素人がやりがちなことだ。
こんな調子では食料の備蓄がいくらあっても足らないだろう。
だいいち、高価な調味料──このあたりでは塩も随分とするはずだ──をどれだけ使ったのか?
材料の大きさも不ぞろいで肉のアクをキレイに除いていないから、なんというか、かなりワイルドな匂いがする。塩漬け肉特有の臭いに加えて、だ。
アシュレはスープ・レードル(杓子)で真っ白く固まってしまった表面の脂を突き破り、中身を掻き混ぜた。
豆に蕪、ニンジン、セロリ。煮えてしまえば同じだろうといわんばかりに、ごろり、と原形をとどめるものが多かった。
それから、拳大の肉塊が……いくつか。
肉を焼かせるのは王さまがいい、という諺があり、それは肉はあまり頻繁に裏返したりしないほうがいい、という意味なのだが──シオンはあらゆる意味で感性が王者過ぎる、とアシュレは思った。
直接レードルから、一口飲む。
完全に冷めてしまったそれは意外なほどに、うまかった。
空腹のせい、はもちろんあっただろう。しかし、量はともかく、味わいはキチンと料理していた。
あのシオンが慣れない仕事にあわあわとなりながら、懸命にこれをこしらえている後ろ姿を想像して、アシュレは苦笑し、それからまたシオンへの愛しさが、溢れてきてしまった。
寝室に戻り、シオンを抱えて降りる。
火にかけたスープが温まるまで、すこし時間が必要なはずだった。
だから──込み上げてきた愛しさを、シオンにぶつけた。
鎮まりかけた火が風に熾されるように、シオンは翻弄されるしかない。
「そなた、ちと、無理が過ぎたとは……思わんのか」
慌ただしい食事の後、説教された。シオンの目が怒っていた。
「あの……その……ごちそうさまでした」
アシュレがとんちんかんな謝罪をする程度には本気の怒りだ。
「たしかに、徹底的に……とは、言った気がする。だが、だがな、ものには限度があるぞ! まだ、初日であろう! あのように、休みなく、情熱をぶつけられては──わたしは、わたしは──」
なにを言わせるのだ、バカモノめが、となぜか暴力を振るわれて、アシュレはフラフラだ。
おまけに心当たりがありすぎて、まともに反論もできない。
シオンの指摘は続く。
「だ、だいたい、そなた、前も言ったが、あのような──手練手管、どうやって学んだのだッ!」
「いや、あの、ボクはもうとっくに成人しているわけで……知らないというわけには」
「そなたのやり方には、こう、いろいろと、反則技が多すぎるっ。そ、そなたが言ったのではないかっ、その、ふつうでは、ないっ、と──正しいカタチから、逸脱していると」
シオンの手が、空中で“逸脱”を示すハンドサインのカタチを描きそうになったり、ならなかったりする。
「思えば、わたしは──“はじめて”をそのやり方で奪われたのだぞ。あちこち、あ、あちこちだッ!! そして、いまもまた!!」
「ええと」
アシュレがぽりぽり、とアゴを掻いた。
「い、イリスには、あのようなやり方をしているとところを見たことがないッ!」
「たぶん……キミ以外には……ここまでは、したことないと、思う」
「なんだとっ、なぜっ、なぜっ、わたし、わたしだけっっっ……だのに、だのに、どうして、こうも手慣れておるのかと、聞いているッ!!」
「や、だから聖騎士って、少数ないし単独任務が多くて……その、あるんだよ教科のなかに……人体学と心理学、あとこう、審問や尋問、あんまり言いたくないけど実技が……」
シオンがショックを受けた顔になった。
「審問や尋問の実技? 実技とは、どういうことだ?!」
「あんま、いいたくない、です」
「縄とかも実技かっ? やたら手慣れていた。あっという間にあんなに、されて、わたしは……」
「縄縛術ね。相手を殺さずに無力化しないといけない局面もあるから──あと、ほら、エポラール号で静養している間の手慰みに、ロープワークを教えてもらっていたから──いろいろあるんだよ、結び方」
「その餌食にわたしをしたのか」
「〈ジャグリ・ジャグラ〉の暴走があるから──ボクを傷つけたくないって言ったのは、キミだった気がするんだけどな」
「そ、それにしたってだな! あ、あ、あ、あのようにはすることなかったのではないか?」
シオンの追求に、アシュレが目を逸らした。
「聖騎士という連中を見る目が変わってしまった。信じられん連中だ」
恐い感じの棒読みでシオンが言った。
どうしてこうなってしまったのか、アシュレにはわからない。
ただ、ここ数百年かけてシオンのなかで持ち上げられていた聖騎士たちの株を大暴落させた自覚だけはあった。
「ともかく、そなた……もうすこしお手柔らかにしてもらわんと……わたしが本当に壊れてしまうぞ。よいか? ほんとうは、肌をさらすだけで死ぬほど恥ずかしいのだぞ?」
だから、今後は、もうすこし、自重してもらう。
激昂でどもりながら、シオンが言った。
「よいか? よいな?」
シオンの確認に、だが、アシュレは仏頂面になり、そっぽを向いた。
反抗的な態度にシオンがいっそう頭に来て食ってかかった。
「アシュレッ! 約束だッ! ああいう無茶は、こんどから……その、ときどきにすると──約束だッ!!」
「いやだ」
へそを曲げた子供のようにアシュレが言った。
「な、なんだと?」
「もっと、ずっと──ひどくする」
「な、なにを、そんな無茶が通ると思うのか!」
言い募るシオンをけれどもアシュレは睨み返して言った。
「この際だから、言わせてもらうケド! キミを前にして、ボクが平静でいられると本当に思っているの?!
いままでだって、理性の手綱が引きちぎれそうになるくらい歯を食いしばって来たんだ。
どれくらいボクがキミを欲しているのか、わからないフリを、まだするのか?
我慢が限界なのは、ボクのほうだ!」
アシュレが立ち上がり、シオンを席に押し込んだ。
左手で背もたれを押さえられ、机に挟まれ、シオンは逃げ場を失う。
そこに上体をのしかかるように倒して、アシュレは言った。
右手でシオンを指した。
「だいたい、キミはもう、ボクのものだ。キミから捧げられたんだ。たしかに受け取ったはずだよ。そうだろう?」
あ、う、とシオンは言葉を失う。思わぬ反撃に手も足も出ない。
「だから、キミはボクに自由にされてもしかたないんだ」
「あ、アシュレ、で、でも……」
それは、ちと横暴なのではないか。シオンの声は尻すぼみだ。
いつもならシオンの意向を尊重するアシュレが、頑として譲らなかった。
「ちがうって、いうのかい?」
「ちがわない。ちがわない……だが」
動揺に視界がぶれて、それなのにアシュレの瞳から逸らせなくて、シオンは心の平衡を完全に失ってしまった。
無体な要求をされているはずなのに──そんな自分を発見して戸惑うばかりだ。
そこをアシュレは見逃さなかった。
「だめだ。これからはもっと、ずっと、ひどく、徹底的にする」
冷酷にアシュレが告げた。
有無を言わせぬ口調でひどいことを宣言されているはずなのに、シオンは胸中にこみあげてくる感情のなかに怒りも嫌悪も見出せなくて、戸惑うしかない。
拒む理由を見つけられないのだ。
ぞくぞくぞくっ、と背筋から首筋を経由して頭頂まで、悪寒ではない種類の震えが走り抜けるのをシオンは感じてしまった。
感銘を受けたときのように──鳥肌が立った。
「は、い」
だから、うつむいて、火が出るほど赤面して、承知するしかない。
長い沈黙がふたりの間に落ちた。
「……それもあるけど、まずは情勢を把握しなくちゃ、だね」
切り出したのはアシュレのほうだった。
「そ、そうであるなっ」
激昂したら逆にやり込められてしまったシオンが、ぱっと顔を上げた。
助け船を出されるカタチになり席を立つ。
「と、とりあえず、茶でも点ててお、お、落ち着こう」
アシュレはシオンに任せる。
そういえば、料理はともかく、お茶の点て方に関しては彼女は天才的な才能の持ち主だった。
出てきたそれはカモミールだった。
あたためたミルクで割ってアシュレは、それを楽しむ。
紅茶の強い成分が病み上がりのアシュレには厳しいと判断したのだろう。
シオンの心遣いがうれしかった。
料理も……キチンと習ったら、かなり上達するのではないだろうか、とアシュレは思う。
ちゃんと習えば、だが。あくまでも。
ふたりはその後、長い時間をかけて自分たちの状況確認と今後の行動方針について話しあった。
アシュレの様子はいつもの、あの柔和さを取り戻していた。
シオンはほっとしたような、どこか残念なような……とにかく、複雑な気分を味わう。
アシュレはカテル島での戦いで、結果的にだれが自分たちを救ったのか──現出した聖女としてのイリスの姿──を見ていない。
シオンはそれをあえて語らなかった。
いま、このまだ復帰したばかりのアシュレに心痛を患わせたくない、というシオンの思いは、しかし、アシュレの心を独占したいという無意識の働きでもあった。
結果としてエクストラム法王庁・聖騎士:ジゼルとその《フォーカス》:〈ハールート〉の猛威からアシュレたちを救ったのは、またしてもイズマの行動だというところに落ち着いた。
あの追い詰められた状況で、イズマがついに〈傀儡針〉の呪縛を打ち破り、その真の姿を持って帰還したのだ、とシオンは告げた。
邪神:イビサスの肉体をすら、自らに取り込んだ帰還王の姿で。
「また、助けられたんだ」
アシュレのそのつぶやきには、イズマへの畏敬とともにその身を案ずる心がはっきりと現れていた。
強大な《ちから》を発揮する異能をイズマはその身にいくつも隠し持っている。
だが、その行使を彼が渋るのは、まさしく「正体を危うくする」ほどの代償がそれには必要であり、それはイズマという存在をこの世に留めている楔を、ひとつずつ消し去っていってしまっているのではないのか、とアシュレは持論を展開した。
シオンはその慧眼に、また打たれた。
目覚めてからまだ、それほど時は経っていない。
それなのに、アシュレはそこまでのことをたったひとりで考え続けていたのだ。
「そなたの考え続ける《ちから》──知のタフネスには、いつも敬服させられる」
「おだてたってダメだよ、シオン。容赦しないからね」
そ、そういう意味ではないっ、と怒るシオンにアシュレは笑った。
冗談だよ、とは言ってくれなかったが。
この男は変わった、とシオンは思う。男として成長しつつあるのだ、と実感する。
そんなシオンの感慨をよそに、アシュレは実務的な話に戻った。
こんどはその後の話だ。いま、現在の話だ。
一月近くを浪費してしまったことに、まずアシュレは驚いていた。
どおりで身体が重いわけだ、とつぶやいた。それから改めて礼を言われた。強制的な転位によってトラントリムに飛ばされてから以降、シオンが背負ったであろう苦難を想像して。
「どうということはなかった。わたしを誰だと思っている?」
シオンが虚勢を張って胸をそびやかす。
アシュレは苦笑した。そういうことにしておきますか、という態度。
深くは追求されなかった。
「だけど……トラントリム……夜魔とヒトが共存する……こんな国があったのか。名前はともかく、その内情までは……知らなかった」
「さまざまな理由で外界とは隔絶された場所だからな。かろうじて、黒曜海とビブロンズの国境でのみ西方世界と接点があるくらい。緑豊かとはいえ、立地的には外敵と魔境に挟まれた土地柄であるし……わたしも訪れるのは初めてだ。強制転位がなければ、訪れることなどなかったかもしれない」
「キミの話になんども出てくるユガディール──トラントリム侯爵には──挨拶しないと、だね」
「まあ、そのトラントリム侯爵というのは、あまり表立って口にせぬほうがいい名だろうな。
実質的にユガは君主ではあっても表向きは議員のひとりににすぎない。
それも対外的には存在しないはずの永久議席だ。
夜魔とヒトの共存がエクストラムに知れたら、それこそ十字軍の対象だ。
それに僭主とは、やはり聞こえのよいものではないし、ユガの願う、民衆の志によって運営される国家の理念には反するであろうから」
たとえ、その民衆によって望まれて侯爵となったのだとしても、だ。
「シオンの口ぶりからだけでも、尊敬できる人物なのが伝わってくるよ」
「そっ、そんな顔をしていたかっ」
なぜか慌てるシオンに、アシュレは小首を傾げて笑った。
「目覚めてからのシオンは、なんだか変わった気がするよ?」
「か、か、変わってなど、おらんしっ。そなた、ひさしぶり過ぎて忘れたのであろう」
シオンは結局、ユガとの関係を告白できなかった。
できるはずがない。一生、言葉にしてはいけない関係なのだ。
「?」
取り繕うようなシオンの態度を、アシュレは自分が向けるシオンへの好意のせいだと思っていた。
このときは、まだ。
「しかし、まいったね。こういうとき、外部情報をその場で動くことなく入手できるイズマの占術はたしかに、超強力な能力だったんだね。どうしよう、どこに動けばいいのか皆目見当がつかないよ」
「とりあえずは、しばらく静養を取りながら、イズマからの連絡を待つ、というのがよいのではないか、と思う。もちろん情報収集は抜かりなく、だ。ユガに──頼んでみるか」
あまり乗り気ではないという感じのシオンにアシュレが言った。
「《転位門》を使ってから、もう月は一巡りしたわけで、たぶん、場所さえ特定できたならすぐにでもテレポートしてくるくらいは、イズマならやりそうだけど」
あの土蜘蛛の王が見せるシオンへの執着を思い出してアシュレは言った。
「それがない、ということはヤツも困ったことになっているのか──あるいは抜き差しならぬ事情を抱えているか──いずれか、だな」
「最悪、自力でカテル島への帰還を果たさなければならないわけだ。まあ、船の手配がつけば、ビブロンズの港からならそれほどかからない距離だ」
「問題は国境に横たわるハダリの荒野と山脈をこの厳冬期にどうやって越えるか、というところか」
「使わせてもらえるなら、船で黒曜海を抜けるのがいちばんだけど」
「問題は、あからさまに怪しいわたしたちを、船乗りたちが信用するかだ。臨検などにあってしまったら、交戦するしか道がないかもしれんのだぞ」
地図を睨みながらの議論は数刻に及んだが、けっきょくユガディールの情報網に頼るしかあるまい、ということになった。
「おんぶにだっこだな」
ユガに、という意味でシオンはつぶやいた。気に入らん、という感じでため息をつく。
「しかたないさ。ボクらは招かれざる客なんだ。他国の領土を無断で、それも複数の超強力な《フォーカス》を帯びたまま侵犯したんだ。本来ならもう、とっくの昔に殺されてても文句は言えない」
「そうであったなら、奴らの喉笛を掻き切ってやったさ」
「キミはともかく、ボクは死んでた気がするよ。……だから、ありがとう、シオン。難しい立ち回りだっただろ?」
あんまり優しくアシュレが言うものだから、シオンは不意打ちで涙腺が決壊しそうになってしまった。
照れ隠しにアシュレの脛を蹴っ飛ばす。
「痛いッ?! なんでッ、痛ッ!!」
涙目でシオンを睨んだアシュレの眼前でそっぽを向くシオンの胸元から、またあの邪悪な芽が姿を現していた。
「時間だ。アシュレ。ま、また、わ、わたしを辱めるのだろう? そ、尊厳を引きむしって、貶めるのだろう? こ、これくらいの事前報復はさせろっ!!」
生意気な口調と裏腹に、シオンの態度は観念し切った狩りの獲物のようだった。




