■第四夜:金色(こんじき)の虜囚
「〈血の貨幣〉共栄圏だ」
ユガの言葉を、シオンは抗えぬ快楽に身を刻まれながら聴いた。
ユガディールの統治するトラントリムは黒曜海の西端に位置し、南側の国境をビブロンズ帝国と接する国家である。
深い森に覆われ、中央を源流にガイゼルロンを持つレーゼングリュン河が横切る。急峻な山麓と扇状地を特徴とする国家であった。
トラントリムは元来、夜魔の国ではない。
二〇〇年以上もむかし、この地方を治めていた圧制者から、ひとりの英雄によって救われたことに、その歴史は端を発する。
ただ、その圧制者を打ち倒し民に善政を与えたものが、夜魔の英雄:ユガディールであったというだけのことだ。領民を自らの、それも使い捨ての道具としてしか扱わず、初夜権を初めとする暴虐な圧制を敷いた当時の王侯貴族たちよりも、夜魔であるユガを領民たちは支持したのだ。
当時、そして現在も、トラントリムを含むこの地方の小国家の立場は、危機にさらされている。
深い森のなかに点在する小国家群は深い森を挟んで、その国境をハダリの荒野と接している。
そこは荒れ果てたステップ地帯と砂漠──それも寒冷な──で、方位磁針も星の動きすらも狂う、いわば魔境であった。そして、そこは同時に魔の十一氏族──戦鬼、豚鬼、蛇の支族、ときには放逐され痩せさらばえた古き神々が跳梁跋扈する……つまり一種の地獄と言ってよい。
トラントリムを中心とする小国家群はその地獄によって周辺諸国から隔絶された世界であり、閉鎖的で、それゆえに各国の政治は軍事に傾きやすく、これはしばしば圧制の温床となったのである。
ユガはその周辺諸国にさえ呼びかけた。
手を取りあうべきだと、連携すべきだ──連合となるべきだ、と。
齢八〇〇を超えるというからには、シオンの父:スカルベリには及ばずとも相当な年齢であるはずのユガは放浪者として、世界の見聞を広めてきた者として、世界情勢の観点から言葉を発した。
夜魔の騎士を人類の盾とする。
そのかわりに人類は正当な報酬としての血を支払う。
それは簒奪でも、収奪でもない。狩猟者と狩りの獲物という関係でもない。
互いの存在を尊重し、命を懸けて戦った者への敬意ある報償として、いくばくかの血を受け取る。
その果てに共栄を勝ち取る。
それが、ユガの提唱した〈血の貨幣〉共栄圏の理念だった。
そして、いくどもあった戦いと長い調停の末、小国家群は連合となった。
独立自治を掲げながら、巨大な問題に対するときは、それぞれの代表が問題を話しあい決定する──緩やかな連合体。
トラントリムは正式には永世に渡って、王とそれに準ずる地位を廃止。
首長と議会による議会政治──いわゆる共和制に移行する。
ただ、ユガはその議会に永久議席を持つ。
そして、トラントリムとその周辺国家の防衛に全責任を持つ「白魔騎士団」の団長でもあった。
すくなくとも、己の偉業について雄弁に語ることを嫌うのだろう──ユガの断片的な語りを繋ぎ合わせれば、そうなる。
ユガは地図を指しながら、夜ごと、シオンに話をした。問わず語りに、だ。
そして、その地図はシオンの素肌、裸身だったのである。
馬車のキャビンで、そして私室で、寝室で、ユガはシオンに己の《夢》を強いた。
シオンは力ずくで《夢》を体内に射込まれた。
それはだから、食事ではなく、食餌と呼ぶべき行為だったろう。
車中でそれを強いられたときの恥辱をシオンは忘れられない。
だからといって、ユガを憎むこともできない。
ユガの《夢》は、誤魔化しようもなく、美味であった。
あくまで“吸血”を拒むシオンに対し、ユガは《夢》の輸血を、彼の言うところの人間的な方法で強いたのである。
それは、暴力であった。
だが、同時にユガという男の優しさでもあったのだ、とシオンには思えるのだ。
非は、結果として決断を先延ばしにしてしまったシオンにこそある。
車中からアシュレとシオンとを己の手によって私室へ運び込んだユガは、そのままシオンを、月がその盈虚(満ち欠けのこと)を一巡りする間、監禁した。
その間のことを、シオンはとても……とても……口に出せない。
思い出すたびに火で全身が焼かれるように熱くなり、どくどくと脈を打つ。
拘束され、歪められ、強いられた。
それは、《夢》に酔い、渇きの求めに応じるままにシオンがアシュレを傷つけてしまう可能性を考慮した処置であったはずだ。負の《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉の暴威に耐え切れず、シオンの意志とは無関係に暴れ回る肉体を固定するためだったはずだ。
金色の縛鎖──その名を〈ゼノビア〉。夜魔の貴族たちが、用いる極めて特異な婚礼道具。
夜魔の婚礼とは一種の狩りに近い、としかここでは説明できない。
だが……そこに一種の暗い愉悦を見出さなかったかと問われたら、シオンには答えられない。
一方的に注がれるユガの《夢》はどこか胸を締めつけられるような──郷愁にも似た味だった。
焚きしめられたシガーの薫り。年月だけが与え、またその年月に耐えることが出来たものだけが獲得する風格を、ユガの《夢》は紛れもなく帯びていた。
それはアシュレの鮮烈で研ぎ澄まされた切っ先のような──灼熱の情熱とは違っていたが、繰り返された挫折と、それでもなお膝を屈しなかった男の克己心に彩られた深い味わい。
現実と相対し、交渉のテーブルに着き続けてきた、それゆえの疲弊と傷。
それすらもたまらなく愛しい。
そう感じさせる《ちから》が、はっきりとあった。
ユガの《夢》によって、シオンの飢餓、ひいてはアシュレの消耗が回復していくことを証し立てるように、ユガはアシュレの眠るベッドの上で、シオンにそれを強いた。
ユガの見立ては正しかった。
恥辱に、そしてアシュレへの申し訳なさに泣きながら、それでもユガによって注がれる《夢》の美味に狂わされた。
その果てにシオンは《夢》を射込まれるたび、味わう度に、アシュレの肉体が血の色と熱を取り戻していくのを感じた。それを目の当たりにしていなければ、とても耐えられなかっただろう。
そして、だからこそ、逆らえなかった。
その給餌の合間に、あるいは最中に、シオンは〈ジャグリ・ジャグラ〉による改変を受けた。
体内に無数の手を差し込まれ、男の望む通りに肉体を改変される。
その恥辱は、しかし、すべてが恐ろしい快楽によって彩られていた。
飲み下せば狂わされてしまう劇薬だと知りながらシオンには抗う術がない。
シオンにできたことは、その身に〈ローズ・アブソリュート〉の化身である青の荊を突き立て、苦痛によって理性を保ち続けること、そして、決して超えてはならぬ最後の一線を死守することだけだった。
たしかにユガはアシュレを、そしてシオンを助けようとはしていた。
だが、同時に支配者としての性を煽り立てられてもいた。
だから、それ以外のすべてをシオンは奪われた。
徹底的で無慈悲な蹂躙によって。
アシュレの容態が安定するのに、一週間が必要だった。
そこでやっとシオンは拘束を解かれた。
一週間を籠り続けた主の居室に、心配した侍女たちがやっと立ち入ったとき、そこにはバラの香と、煙草、ワインと汗の匂いが満ちていた。
侍女たちはそこに広がる光景のあまりの甘美さに、声を失い、しばし、立ち尽した。
消えかけの蝋燭の明かりが照らし出すなかに、ばら色の頬をした少年の裸身があった。
その肉体はいまだやつれ、いたるところに傷あとがあったが、研ぎ澄まされた刃のような鋭角的な身体の線が、年若い侍女たちの胸を早鐘のように打たせた。
穏やかな寝顔とその優しげながらも強い意志を感じさせる容貌は、およそ天の國に属するものであると確信させるものであった。
いっぽうで、座椅子には彼女らの主の姿があった。
寝乱れた着衣を臍まではだけている。
鍛えられた肉体にうっすらと脂肪の層がまといつき、しなやかな印象を与える。
少年の美が、研ぎ澄まされた痛々しいほどの硬質さであるのならば、主のそれは……悪事さえ、血の汚れさえ引き受けうる大人の男の姿であった。
そして、なにより彼女らの目を引いたのは、黄金の縛鎖に装飾された美しい乙女の姿であった。
少年に寄り添うように眠る彼女の肉体には、いましがたまで受けていたのであろう愛の爪痕がまざまざと残り、絶え絶えな呼吸とその背に浮いた汗が、その激しさを証し立てている。少女のもののような肉体がどのように酷使されたのか、その痕跡は雄弁に物語っていた。
そして侍女たちは、いったいこの美しすぎる造形物のなにが自分たちの目を惹きつけてやまないのか理解して、官能に震えるのだ。
それは清と淫の相克。
目を疑うしかないふたつの事象が、その乙女の肉体には埋め込まれていたのだ。
ひとつは、あきらかな魔性を感じさせる漆黒の切っ先。
その切っ先は乙女の内側から生じ、そうであるのに一滴の血も流させず、海原を回遊する危険な海魚の背びれを思わせてそこにあった。
いまひとつは青い花弁をつけた荊。
自然の産物であるはずがなかった。バラは初夏と秋に二度、花をつける。だが、いまは冬、年を越したところだ。
だからそれが超常のものであることは、異能者でない次女たちにさえすぐさま理解できた。
その棘が乙女の肉体には深々と食い込んでいたのである。
侍女たちは聖と邪、貞淑と淫靡、清冽と官能に板挟みにされ、責め立てられる乙女の姿に魅入られたのだ。
拘束を解かれたシオンには自由が与えられた。
しかし、ある意味でそれは、残酷な仕打ちだとも言えた。
いっときのあの絶望的な状況からは、はるかに、たしかに遠のいた。
シオンは理性と思考を取り戻せた。血に狂った獣にならずに済んだ。
けれどもそれは、羞恥と罪悪感に責め立てられる時間が生じたことをも意味していた。
そうであるにもかかわらず、餓えと枯渇は間断的に襲ってきた。
そして、〈ジャグリ・ジャグラ〉の暴威は日に数度、不定期にシオンを責めた。
新年を迎えるにあたり、さまざまな行事に参列せねばならないのだろう。
ユガは国家の、そして、連合国の執務を怠りはしなかった。
シオンはアシュレとふたり、その寝室に残された。
あの一件以来、ユガは寝室への臣下の出入りを一切、禁じた。
見聞きしたことへの言及も固く禁じた。
くちさがない侍女たちだったが、この案件に関しては、ほぼ完璧にその命令は守られたのである。
それは臣下の安全と、機密保持に関して両面からの配慮だった。
飢餓状態にあるシオンが万が一にも領民を傷つけることがないように、という。
ユガの私室と寝室の間に存在する通路と待合室を兼ねる場所に、着替えやシーツ、アシュレのための食事が用意される。
給仕たちが洗濯物や食器を回収し、すべてを整えると寝室のドアがノックされる。
しばらくしてシオンはそれを受け取り、シーツを取り換え、ベッドをしつらえ、アシュレに口移しで食事を施す。
目覚めてくれ、と穀物と果物を煮てつくったミルク粥をその口に含ませながらシオンは願わずにはいられない。
はやく、目覚めて、わたしを奪ってくれ……そうでないと。
アシュレの唇にまだ、憔悴のあとがまざまざとある。
肌はばら色の輝きを取り戻しつつあるが、その頬はこけ、いまだ回復が追いついていないことをシオンに思い知らせる。
シオンは言い知れぬ不安に震える。
シオンはときおり、その寝室から出て待合室のソファで過ごさなければならない。
一刻か、それぐらいの時間だ。
天気の良い日を選び、分厚い三重のカーテンを開くのだ。
人間であるアシュレにはいうまでもなく陽の光が必要だった。
デイ・ウォーカーであるシオンであったから、健康な状態であるのなら横で添い寝をするくらい問題なかったであろう。
だが、いまのシオンはとても本調子とは言えず、消耗することはわかっていた。
少しでも回復をのために体力を温存しなければならない。
灯のない待合室の長椅子に膝を抱いて座り、シオンは自分の肩を抱く。
もぞり、と不意の寝返りのように〈ジャグリ・ジャグラ〉がうねり、シオンは思わず声を上げてしまう。
それは言い訳しようもない甘さに濡れていた。
シオンの肉体はその内側から容赦ない《ちから》で改変されつつある。
ユガによって命令を下された〈ジャグリ・ジャグラ〉は、改変が一段落するまでのあいだ、常時、シオンの肉体に対して作業する。
だから、シオンには逃げ場がない。
それは決して強い炎ではなかったが、いつ果てるとも知れぬ生木で内側から燻されるような体験は確実にシオンを追い詰めた。
夜魔であるシオンは、基本的に可塑性を否定した存在である。
槍で突かれようが、戦斧や剣で両断されようとも、肉体は本能的にシオンが規定したシオンのカタチに復元される。
だからこそ、いっそう、この改変が恐ろしかった。
もう自分は、二度と昨夜の自分には戻れない。
それはこの世界を生きるほとんど──定命の者たちが最初に受け入れるルールである。
時は巻き戻らない。待つこともない。
だからこそ、それを積み重ねることには意味がある。
そして、シオンは、その言葉の意味、覚悟するとせざるとに関わらず、定命のものたちが背負わされる重荷について、このとき、身をもって知ったのだ。
ただ、それは負の面に大きく偏ってはいたが。
他者の欲望に、己の心身が踏みにじられることにシオンは恐怖した。
そうでありながら、そこに暗い愉悦を感じてしまうこと──冷然たる事実に恐怖した。
そして、なにより、これ以上、ユガによって変えられてしまったとき、自分は果たしてアシュレのそばにいられるのか、あるいはアシュレはそばに置いてくれるのか。
そのことを考えはじめると震えが止まらなくなった。
そして、そんなときに限って、飢餓が襲ってくるのだ。
口中にユガの味を完全に再現してしまう己の血筋に、シオンは憎悪を抱いた。
唾液が溢れて止まらない。欲しいのだ。
堪らなくなって寝室へ駆け戻り、カーテンを閉じて、施錠し、アシュレの肉体に自分の昂ぶりを押しつける。泣きながら、懺悔を繰り返しながら。
改変してもらいたかった。躾けてもらいたかった。アシュレに。アシュレでなければならなかった。
目覚めてくれ、とシオンは願う。
だがその願いは、《ねがう》だけでは届かない。
アシュレの肉体が目覚めるにはまだ、まだ、足りないのだ。《夢》が。
だから、帰還したユガにシオンは懇願するしかない。
給餌を。
「もう、いつ目覚めてもおかしくはない──あと数日のうちには確実なのではないか」
そうユガが請け負ったのは、三人の邂逅からちょうど三週間が経とうとした時だった。
場所はユガの私室──寝室ではない。
「山中にわたしの別荘がある。むかしは妻たちと使っていたものだが、もう十年以上も訪っていない。ただ、手入れだけは近習だった夫婦が老後の仕事として請け負ってくれている。もしよければ、彼とともに移るといい」
ユガの言葉は優しさに溢れていたが、私室に満ちる空気はどこかぎこちなかった。
それは、これ以前にかわされたある提案に原因があった。
「話があるのだ。服を着て話そう……向こうで、待つよ」
今夜の《夢》の給餌を終えたユガがシオンにそう告げ、退出したのは一刻も前のことになる。
束縛を解かれ縋るようにアシュレに身を預けていたシオンは、震える肉体をそこから引き剥がすのには、随分と時間を要した。
罪の意識に押しつぶされそうな心と、快楽に狂う肉体との間でシオンの心はどうにかなってしまいそうだった。
愛する男の眼前で、別の男に自由にされながら、喜悦に泣く自分が許せなかった。
そうであるのに、ユガを憎むこともできなかった。
せめても救いは、アシュレが確実に回復していることだった。もう、いつ目覚めてもおかしくはない。その確信があった。
ただ、ユガとの行為の最中、そのまぶたが痙攣するように動いたとき、シオンの心臓は氷の針を立てられたように痛んだ。
いまの、この自分をアシュレに見られてしまったなら、もう、わたしはこの男のそばにはいられないのではないか。置いてもらえないのではないか。
そうして怯えれば怯えるほど、肉体は鋭角に残酷な快楽を感受してしまうのだ。
堕とされる喜びが背筋を走るのをシオンは認めたくない。
全身から、ユガの薫りが立ち上るのがわかる。
この三週間の間、シオンが口にしたものは、水とわずかな果物、葡萄酒。
それ以外すべてが、ユガから注がれた《夢》だった。
すでにシオンの半身はその内側から、ユガのものにされてしまっているのだ。
禊しても禊しても誤魔化しようのない芳香が──あのシガーの薫りが──鼻腔の奥に甦る。
それでも、まだ、アシュレを救い、再会を果たすまでは──シオンはそれだけを支えに立ち上がる。
全身を湯で拭い、髪を結い上げ、礼装で武装すればそれでも自らを少し律せた。
まだ、まだ、わたしには、果たさなくてはならないことがある。
そのために、こんな屈辱を受け入れたのだ。
鏡に向かいそう言い聞かせる。まなじりを固めるシオンの向こうにアシュレの姿が映っている。
気を引き締めると、少し冷静さが戻ってきた。
宝飾品を身につけながら、ユガの言葉の意味を考える。
あらたまってすべき話とはなんだろうか。シオンたちは客分として扱われており、そのことはごくわずかな近習にしか知らされていない。アシュレはこのとおり、いまだ意識を失ったままだったし、シオンに至ってはもはや虜の身。
ユガはただ、命じるように告げればよかったはずだ。
生殺与奪の権利は、彼にこそあったはずだ。
それ以外にいったいどのような用件があるというのか? シオンはすぐには見当をつけられなかった。
もし、今回の件に関して、シオンたちになんらかの支払いを要求するならば、それこそ寝室でいかようにもできたはずだ。
謎であった。
ただ、いまこの場で、アシュレとシオン、ふたりの命について、今後の処遇について決断し交渉可能なのはシオンだけだ。
そして、どうやら、すくなくともユガは強圧的なやり方で、シオンにいまから行う提案を飲ませる気はないらしい。
いったい、なにを告げようというのか。
ユガという男が、一筋縄ではいかぬ強力な君主であることをシオンは身を持って知っていた。その礼節によって武装された身のうちには、征服者として、そして英雄としての血が、いまだに赫々と燃えていることを知っていた。
そうでなければ、シオンはこれほど苦しまなかっただろう。
注がれる《夢》の質が理屈ではなく身体で理解できてしまったことが、恨めしかった。
否定するより前に、陶然となってしまう──ユガの《夢》にはそんなところがあった。
だからこそ、ユガの真意を見出さなくてはならない、とシオンは思うのだ。
尊敬に値する相手が、すなわち味方と同義でないことを、シオンもまたよく知っている。
むしろ、敵の側にこそ、そのような人物が見出されることを、シオンは知っていた。
覚悟を決めて立ったはずだった。
とたん、だった。ユガの指が、唇が、舌が、牙が、シオンのあちこちをまさぐり、味を確かめ、血が滲むほど噛んだ。
それは幻覚である。
ただ、それがユガの《夢》に起因するものなのか、〈ジャグリ・ジャグラ〉による改変による結果なのか、それともそれ以外の──シオンのなかから引き出されたものなのか、わからなかった。
シオンはつま先立ちに、身体を反らした。
口に手を当て、必死に声を押し殺す。感触はほんの一瞬、一秒にも満たぬ時間だったはずだ。
だが、その一瞬は残酷にシオンに告げたのだ。言葉によらずに、伝達したのだ。
「オマエはもう、とっくにわたしのものだ」と。
シオンは震えて、涙をこぼしそうになって、それから、震える膝を無理やり伸ばして姿勢を正した。血が滲むほど拳を強く握った。
「負けるものか」
わたしは、帰るのだ。アシュレのもとへ。
振り絞るようにして声にした。それは虚勢であった。
そうであっても、いまのシオンには必要だったのだ。
そうしておいて、〈ローズ・アブソリュート〉をスカートの内側に這わせ、きつく戒める。鋭い痛みが肌を食い破る感触。
だが、いまはその痛みが愛しかった。
屈するな、と命じてくれる物言わぬ硬い刃の感触が、シオンを護ってくれる気がしたからだ。
※
ユガの私室はやはり分厚いカーテンが降ろされていた。
執務机と応接用のテーブルがそこにはあり、シオンは、そのソファに据わるよう促された。
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉が変じた荊が柔肌に食い込む感触にシオンはかすかに身じろぎする。それでも背を丸めたりはしなかった。
「用件をうかがおう」
そう告げた。
シオンに茶を点てていたユガが、シオンの対面に腰を降ろした。
「わたしは貴女の尊厳を、わたしの個人的な欲望によって蹂躙した」
シオンに茶を振る舞い、ひと呼吸おいてから、ユガは言った。
「それはわたしの征服欲、所有欲、独占欲に端を発したことであり、その責はすべてわたし自身に帰するところだ」
それはユガが、シオンの肉体を蹂躙し、《夢》を注ぎ込んだ理由の釈明に他ならなかった。
もし、相手がユガでなく、言葉でも態度でも、すこしでも違ったならば、シオンは熱い紅茶をその相手の顔にぶちまけていただろう。
だが、実際には手にしたカップがぶるり、と震えてカチャカチャと音を立て受け皿に直されただけだった。
ユガはそう言ったきり、謝罪しようともしなかった。
己の欲望に従い行ったことに罪を感じることも、恥と思うこともない、とその態度は示していた。シオンに対し、窮状を救うためだったと言い訳さえしなかった。
なにを言わんとしているのか、シオンにはわからなかった。
ただ、熱だけが伝わってくる。真摯な情熱がその沈黙にはあった。
「貴公は……わたしたちを救おうとしてくれたのだ……救おうと、してくれている」
なぜか、シオンのほうがユガの行動原理を弁護していた。ユガの言葉を、ユガが自らの欲望のありようを語るその言葉を、このまま語られてしまったなら、自分は逃げられなくなるのではないか、とそんな予感がしていたのだ。
それは……女としての勘だ。
このまま、ユガの本心を聞いてしまってはならない。そんな気がしたのだ。
シオンの本能的な恐れを証明するように、ユガは言葉を続けた。
「きっかけは、たしかにそうであったかもしれない。だが、いまはそのために行動しているとは、わたし自身の心に問いかけてみて──言い切れない」
わたしが貴女にこれまで行った仕打ちを“人助け”と括るには、強弁が過ぎるというものだ。ユガはシオンをまっすぐ見て言った。
なにを言われているのか、シオンにはもう理解できていた。
理解できていたが、了解してはいけないことだ、とわかっていた。
わかってしまってはいけないことだ。
了解できないと強弁を張らなければならないのは、シオンのほうなのだ。
ああ、それなのに。
それなのに、ユガは立ち上がり、歩んでくるのだ。
だめだ、とシオンは首を小さく振った。
言葉にしてはだめだ、とジェスチャーした。だが、ユガはひざまずいてしまうのだ。
その肉体から立ち上る《夢》の薫りをシオンは嗅いで、どこかで雪の落ちる音がして、体内で忌まわしき黒き切っ先が蠢いて──。
「貴女を愛してしまった。どうか──わたしの妻になってはもらえないか」
ユガは告げてしまうのだ。
シオンの震える手をとって。




