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■第三夜:埋火

         ※

 

 ユガディールとの邂逅の夜──シオンが抱き上げられ運び込まれた馬車の内側は、外気から完全に切り離されたひとつの別世界だった。

 滑るような速度で駆ける漆黒の馬車は、馬たちのいななきと蹄の音さえなければ、これが馬車ではなくお伽噺に現れる魔法の絨毯ではないのかと思えるほど振動というものを感じない。

 この馬車は一種の《フォーカス》なのだ、と後にシオンは理解する。

 

 そうでなければ、いかに林床が軍馬を受け入れるほどの空間を有していても馬車を乗り入れることは難しいはずだ。しかも雪が降り積もっているのだ。

 けれども、あのときのシオンにはそのような余裕など、どこにもなかった。

 

 温かな毛布にくるまれてはいたものの、アシュレの容態は依然として危険な状態のままだった。

 そして、それはシオンも同様だった。

 ただし、シオンの場合は、耐えがたい飢餓感──枯渇感によってだが。

 

「キミには血が必要だ」

 アシュレの容態を気遣わしげに診ていたユガディールが、シオンの窮状を見かねて言った。

 かちかちかち、とシオンの歯が鳴っていた。寒いのではない。激しい血への欲求が生み出す禁断症状だ。

 ふるふる、とシオンは首を横に振る。それは拒絶だ。

 

 血に頼ることなく命を紡ぐことが夜魔には可能であるということを身をもって実証する──それがシオンが己に課したひとつの命題、生きる指針──掟であった。

 その掟を守るため、シオンはヒトの創出物──食事や酒精、それだけではなく有形無形の文化に対して造形を深め、多大な尊敬を表してきた。

 それがシオンをして夜魔の側から人類の側に立たせる大きな理由のひとつだったのである。

 ユガディールの提案は、だから、知らぬこととはいえ、そのシオンの精神的支柱に攻撃を加えたことになる。

 ユガディール──ユガはだからシオンの拒絶の意味を(当然だが)知らず、言葉を続けた。

 

「この少年は、衰弱がひどい。このままでは早晩、死に至る。そのまえに貴女の糧とするがよろしかろう」

「ならぬ」

 眼光だけで相手を殺せてしまいそうな形相でユガを睨み、短く一喝したシオンの言葉には刃そのものの鋭さがあった。

 それは先ほどまで、そして、いまでも自身のなかで育ちつつある捕食へ誘惑そのものであったにも関わらず、シオンはまるで怨敵を見出したかのような態度でユガに対したのだ。

 シオンのびくびくと痙攣する両手が、庇うようにアシュレにかけられた。

 ユガは両の掌を上げて見せ、害意と他意がないことをシオンに示した。

「失礼なことを申し上げた。だが失礼はついでだ──ぜひ貴方にお聞きしたい」

 凝視をやめないシオンに対し、しかし、ユガは平然と言った。

「あなたは、その男──人間を愛しているのか?」

「そうだッ! わたしは、わたしは、この、この男のものだッ!!」

 一瞬の迷いもなく、シオンがほとんど叫ぶように断言した。胸に手を当て、捕食衝動に紅く染まりかけた目を見開いて。

 

 それは夜魔の常識からすれば狂っているとしか思えない宣言。自ら狂人であると断言したに等しい告白。

 そして──ガイゼルロンの大公を弑逆しかけた公女の噂は、広く夜魔世界に知られたことであった。

 だからこそ、ユガディール旗下の騎士たちは、動揺したのだ。

 魔剣:〈ローズ・アブソリュート〉を佩く──“反逆のいばら姫”との遭遇に。

 そのうえで、シオンはいま、断言したのだ。

 人間への愛を。同族殺し、そして、家畜として夜魔世界では扱われるべきヒトの男への恋慕──そればかりか、シオンは自らをアシュレの所有物であるかのように呼わばったのだ。

 危険、と判断されてしかるべき言動だった。夜魔世界にあっては、この場で処断することさえありえるほどの事態であった。

 だが、ユガの顔に浮かんだのはまるで手のつけられないじゃじゃ馬を見出した──そして、そのじゃじゃ馬と共有する部分を自分が持ちえるがゆえの──苦笑だった。

 

「気に入った」

 ひとこと、ユガはそう言った。

 シオンは毒気を抜かれて、ユガを見つめることしかできない。

 ユガの目に嘘はなかった。むしろ、同志を見出した喜びすらそこにはあった。

 

「なん……だと?」

「わたしは、キミたちが気に入った。そう言ったんだ」

 ユガは言いなおし、それからもう一度アシュレの容体を診た。シオンの手を無造作にどける。


「だが、この少年の容態は普通ではない。このままでは助からない、とわたしが断言したのには理由がある。

 仮に病であるならばどれほど強大な病魔相手であろうと、わたしは誇りにかけて貴女とその愛する少年のために戦うことを約束しよう。また、疲弊であるのなら、必ず我が国の医療ともてなしで回復させて見せよう。

 だが、これは違う。これはそうではない。ただごとではない──異様な消耗が、彼を襲っているのだ。そう──」

 ──これではまるで、彼は内側から“吸血”されているようだよ。


 領主という立場からは考えられぬほど手慣れ、的確なユガの触診と診断にシオンは言葉を失った。それはまさしく、シオンが感じていたある疑念を言い当てていたからだ。

 アシュレのこの消耗は、立て続けに繰り返された激しい戦いのせいではないのではないか?──という。

 なぜなら、アシュレとシオンが共有する心臓は、アシュレに人間離れした再生能力と心肺の強化を与えていたからだ。

 その回復力は凄まじい。炭化した四肢を再建させるほどのものだ。

 カテル島・奥の院での激戦によって、アシュレの身体は痛めつけられ、〈ハールート〉の水流攻撃によって溺死寸前まで追い詰められた。

 けれども呼吸が復帰したいま、それはこの消耗の理由とはならない。

 多少の負傷であれば夜魔には及ばぬとはいえ人類とは比べ物にならない復元力でアシュレの身体は機能を復帰するはずなのだ。

 だとしたら、なぜ?

 なぜ、アシュレの衰弱は止まらないのか。

 シオンは、ユガの指摘によってその問いかけを意識化した。

 無意識レベルで考えることをやめていた問題が、顕在化したのだ。

 

「臓器共有……スレイブ化……」

 がちがちがちがちがちッ、とシオンの食いしばった歯が、いっそう強く鳴った。

 ユガはシオンの断片的な言葉から、しかし、確実に真実にたどり着こうとしていた。

「まさか、シオン、キミたちは──臓器共有者なのか?」

 どこを、どの部位を、とユガの目が聞いていた。

 シオンは答えられない。ただ、胸を押さえることしかできない。

 それで、ユガには充分だった。

「心臓──そうだと、いうのか──次元捻転二重体……キミたちは──ハイブリッド」

 まさか──ほんとうにそれを可能とするなんて。シオンの震えがユガの手に伝播した。

 

 驚嘆──まるで伝説上の生物に遭遇したかのような純粋な驚き──そして、すぐさまその危険性を見抜いた王の顔になる。

 

「シオン、よく聞きたまえ。この少年はいま、まさしく“吸血”を受けているのだ。こんな事例があるとは、わたしも知らなかったが、この症状からみてまず、間違いない。一時に大量の構築資産リソースを失ったキミの肉体が、彼の肉体から《夢》を──上位者であるキミへと強制的に吸い上げているんだ」

 共有した心臓を介して。

 

 果たしてそれはこの時点では推測に過ぎなかったが、語られるシオンにも確信があった。

 上級夜魔たちが従者として養育した少年少女を非常時に“食料”とすることは慣例である。

 構築資産リソースである血、つまり《夢》の枯渇は究極的に言えば夜魔を死に至らしめることはない。

 ただ、その本能──狩猟生物としての獣性を極端に強め、最終的には二度と理性を取り戻せぬ殺戮者となるため──廃者、と夜魔たちはそれをいう──彼らは血液の補充を定期的に行う必要があるのだ。

 

 これまではシオンの肉体に溜め込まれた《夢》に充分な貯蓄資産リソースが存在した。

 それが、カテル島での戦闘によって失われた。

 その欠損を、シオンの心臓にして、アシュレの肉体に埋め込まれたそれが補おうとした。

 つまり、アシュレを食料と見なしているのは、シオンの肉体そのものなのだ。

 シオンの意志に関係なく、その肉体がアシュレの命を貪り食っているのだ。

 

 とっさにシオンが思いついた解決策は、自決であった。

 

 もちろん、真祖に連なる血筋──上位夜魔であるシオンは生半可な方法では死ねない。

 だが、まさにいま、シオンの肉体に突き立つ荊こそ、その不可能を可能にする聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉であった。

 けれども、シオンはすぐにその考えを打ち消さなければならなかった。

 アシュレの消耗が示すように、アシュレの肉体にありながら、その心臓はシオンをマスター、アシュレをスレイブと判断している。つまり、マスターであるシオンの消滅は、その身体部位である心臓の消滅を意味するのではないか?

 

 その仮説だけで充分だった。

 アシュレを死なせてしまうかもしれない賭けにシオンは出れなかった。実際、その仮説は正しかったのだ。

 

 でも、では、どうしたら。

 アシュレの肉体が衰弱していくのがシオンには手に取るようにわかった。

 

「吸血だ。《夢》を補充するのだ。それ以外にない」

 核心を突いてユガが言った。

 どうやって、シオンが聞いた。

 わかっているはずだ、とユガが答えた。

 

「ヒトを──襲えとでもいうのか──貴公も上位夜魔ならばわかるはずだ。このレベルの渇きを癒すには、いったいどれほどの血が《夢》が必要なのか」

 一般人なら数十人、いや、もっと──それも死なせるほど、飲まねばなるまい。

 英雄、と呼ばれる者たちでも──数人の命を危うくさせる。

 

 これほどの飢餓を帯びて、ひとたびその首筋に牙を埋めてしまったなら、シオンはもはや正気を保っていられるか──加減できるかどうか自信がない。

 死を覆すということは、それほどの《ちから》を要求することなのだ。

 いくども死の淵から甦るということは、他者の生存の可能性をそれだけ奪うことにほかならないのだ。

 

「それに、わたしは決めたのだ、もう、もう、だれも、この牙にはかけぬと……」

 しかし、とユガは言った。

「貴女の決意とは関係なく、貴女の肉体は現在進行形で、この少年から“吸血”しつつあるのだ」

 助けたいのだろう?

 ユガの手袋に包まれた両手がシオンの肩を掴んだ。

 力強い王の手に揺さぶられ、シオンは壊れそうな顔をした。

 

「だが、そうしてしまったなら、わたしは……同じになってしまう。あの男と、我が血に連なる呪われし一族と、まったくの同等になってしまう……」

 まさか、領民を──シオンは先ほど見た人間の従者たちの姿を思い出していた──わたしにあてがおうなどと言うのではあるまいな。

 そうであるのならば、断るッ。

 あえぎながら言うシオンに、ユガは静かなしかし強い口調で言ったのだ。

 

「勘違いをするな、シオンザフィル。わたしは王だ。このトラントリムの領主だ。

 わたしには権力とともに責任がある。

 わたしの家来も、領民も、ひとりとて貴女の牙にはかけさせぬ。

 たしかにわたしは貴女を個人的な客として招いた。

 だが、それと領民の生命を危機にさらすことを許したり、命を差し出させるよう命じることとは、まったく別のことだ」

 シオンはユガの目をまっすぐに見た。

 

 ユガの浅黒い肌のなかで凍りついた湖面のような色の瞳が、シオンを映していた。

 追い詰められ、あられもないほど動揺した顔だ。

 

「では……どうするというのだ?」

 その問いにユガは答えた。ゆっくりと。

 掌で自らを示しながら。

「わたしだよ、シオン。わたしの肉体ならば、わたしの一存で分け与えることができる」

「そなた……正気ではないな?」

「それほど枯渇するまで血を絶ってきた貴女ほどではない」

 ユガの目はこう言っていた。ようやく同志を見つけたのだと。

 

「《夢》について、わたしはずっと考え、独自に学んできたのだよ──シオン」

 愛称でユガが呼んだことに、シオンは気づけない。

 それはユガの宣言に気を取られていたからだ。

 

 自らを差し出す──わたしの血を飲め、とユガはシオンに言った。

 だが、それは夜魔の間では公然と行うことは慎むべき行為だ。同族間の“吸血”は夜魔に取って禁忌・・である。

 なぜならそれは、夜魔の血には夜魔の永劫の記憶が溶けているからだ。

 

 その記憶を相手に捧げることは、自らの根幹を譲り渡すことにほかならない。

 それはつまりアイデンティティを差し出すということだからだ。

 ワインの杯に、報償として上位者が一滴の血を垂らすことはある。

 一部の倒錯的な趣味人たちが、下僕に自らの血肉を食ませることもあるにはある。

 戦場で、盟友や恋人を救うため、自らの血を捧げる例もある。

 

 しかし、それらはすべて特例や異例であり、本義的には妻か夫、あるいは血を分けた子供にのみ、それも寝室のなかで行われるべき、人目をはばかる行為なのだ。

 特に首筋からのそれを許すことは、相手への隷属──肉体的にも精神的にも屈服することを意味する。

 逆に腕から、それを与えられ、受け入れることは、絶対の忠誠を誓うことであるとされる。

 記憶とともに思想や理想を流し込まれることに他ならないからだ。それはほとんど洗脳に近い。

 そして、その後に、返礼として首筋を要求されることは、大いにあることだった。契約や、盟約の意味があるのだ。

 

 ユガの提案はそこに抵触していたのだ。

 シオンのためらいをユガは的確に見抜いた。だから、すこし声のトーンを和らげて言った。

 

「シオン、貴女の戸惑いは、わたしにもよくわかる。しかし、ことは急を要するのだ

 なにが、貴女にとって“たいせつ”なのか、考えるのだ。

 そして、決断しなさい。わたしには、それは決められないことだ。

 ただ、時間は貴重だ。いま、この局面において、まさしく流れ出、失われる血潮と等価なのだ。

 すぐにも、貴女は決めなければならない」

 

 だが、ユガのそのとりなしも、シオンの決断を促すには足りない。

 シオンは誓いに縛られていたのである。

 それははるかむかし、〈ローズ・アブソリュート〉をシオンに託した男:ルグィンに──その霊前に誓ったことだった。

 

「わたしは同胞を救う。永劫の牢獄から解き放つ」

 そう誓った自分が、まさしくその忌まわしい永遠生に属する《ちから》に屈したなら、それは袂を分かったはずの同族と同じなのではないか?

 数百年に渡り、同胞の血にまみれ続けてきた自らの歩みを、否定してしまうのではないか? “吸血”の性にとらわれた同族と、その後、対峙できるのか?

 血の魔性に屈することになるのではないか?

 結局のところ、夜魔は“吸血”なくして生きられぬと認めてしまうことなのではないのか?

 それは、シオンが掲げ、拠所としてきた人類との共栄という理想を自ら踏みにじることではないか?

 シオンは葛藤する。

 

 その眼前でユガが手袋を外した。

 

 夜魔らしい、なめらかな、美しい手だった。

 男としての骨気となめし皮のように張りのある肌が、この男がどのような人物か示している気がした。

 

 手首には青く静脈が浮いて見えた。そこからの“吸血”は上位者から下位者へ──隷属を意味している。

 ユガは小なりとはいえ一国の領主であり、首筋を捧げることなどありえない。

 カタチばかり拒絶するシオンは、しかし、そこからもはや視線を外すことが出来ずにいた。

 

「どうした? まだ、ためらいがあるのか?」

 ユガは困った子供を見出したような表情をした。それからしばらく思案した。

 風景は飛ぶように過ぎていくが、屋敷までは随分とかかる。夜半過ぎの満月が西の空にかかりはじめた。ユガはため息をついて、窓に幕を引いた。

 

「強情な方だ……夜魔は結局のところ“吸血”なくしては生きられない。それが、わたしの七〇〇年を超える生で得た結論だよ」

 シオンの煩悶をユガは一言で喝破した。七〇〇年分の重みが、ずしり、とシオンにのしかかった。

 だが、ユガはいたずらにシオンを追い詰めようとしていたのではない。

 それを証明するように別の可能性を提案した。

 

「ただ、一時的なら別の方法がなくはない。効率も、即効性も劣るが……たしかに」

 そこまで言ってユガは口ごもった。それまでの切れ味鋭い口調とはうってかわった、戸惑いを含んだ言葉だった。

 なんだ、それは、とシオンは目線で訊いた。

 

「貴女も、人間と恋に落ちたなら経験があるのではないか?」

 その目を見つめ返し、ユガが言った。

 わたしもむかし、人間の女に恋をしたのだ、とシオンには聞こえた。

 まさか、と渇きひび割れて貼り付く唇が震えるように動いた。

 そうだ、とユガは答えた。

 

「わたしは、生涯で三度、妻を娶った。すべて──ヒトの娘だったよ」

 だから、ヒトの生み出す《夢》とその授受について、貴女よりはるかに詳しい。

 その作法についても。

 

「ヒトの愛の作法のなかには……たしかにそれがある」

 出来るはずがない、とシオンは思った。

 ユガの言葉に嘘はない。シオン自身がそれは身を持って体験した出来事だ。

 アシュレと肌を合わせるたび、シオンはそれを感じてきた。

 

 肉体に注がれたアシュレの想い──《夢》がシオンの肉体を満たしていくのをはっきりと感じた。他のどんな──“吸血”を除く──方法でも得られなかった充足がそこにはあったのだ。

 

 ただ、あまりのことにそれをアシュレには告げられなかった。

 認めて口にしてしまったら、アシュレにどう思われてしまうか、考えるだけで全身が火を噴きそうだった。

 むろん、それはアシュレとであるから、と自分に結論して納得させた。

 アシュレは特別であり、それ以外の男とこのような関係に陥るなどありえない、とシオンは考えていた。

 だからユガの提案など到底受け入れることなどできない、と断じただろう。

 

 以前なら。

 

 しかし、それは厳然たる事実であり、同時にシオンが“吸血”を選択できぬ以上、他に方法がないように思えた。

 シオンは煩悶した。試してみる価値のある提案ではあるかもしれなかった。だが、同時に、試しただけだ、と許されるようなことでないこともわかっていた。

 鋭い切っ先を喉元に突きつけられているように感じた。

 だが、シオンは、決めなくてはならなかった。時間があまりになかったのだ。

 

 アシュレはその間も衰弱の度を増していた。

 

 シオンはアシュレを見た。ほんとうは考えるまでもなかったことだ。

 ただ、あまりに得たものが多すぎて、しあわせに浸りすぎて、シオンはなにが一番なのか、それを決めること、決め続けて生きることを、すこしの間、怠っていたのだ。

 それは責められるようなことではないはずだ。

 

 けれども、シオンのような生き方を決めた者は、そうやって決断から擁護される場所にいることは出来ない。

 それを忘れていた──シオンは自嘲する。

 

 そして、ついにシオンが崖から飛び降りるように決断しようとした瞬間──それは起きた。

 ぞるり、と身体の内側──骨や、内臓、神経のまわりをおぞましい生き物に這い回られるような感触を、シオンは憶えた。ぞ、と悪寒に首筋の毛が立った。

 

 なぜ、いま、この瞬間でなければならないのか?

 運命の采配をシオンが呪うより疾く、十三の悪意がその内側から芽吹いた。

 

 衣類を透過し、まさしく植物の新芽が螺旋のように捻じれて出てくるのと同じ原理で、尖端を現した──それ。

 禍々しい呪具であった。おぞましい外観をしていた。ひとめ見ただけでその忌まわしい用途に察しがつく品であった。

 忌まわしき負の《フォーカス》──〈ジャグリ・ジャグラ〉。

 許されざる人体改造のための器具、その総称であった。

 

「これは」とユガが呻き、シオンが身を捩った。

 苦悶にであったなら、どれほど、それはよかったであろう。

 激痛であったなら、それはどれほど幸せであったろう。

 しかし、それは恥辱であり屈辱ではあったが──誤魔化すことなどできない純粋な快楽であった。

 

 その名を口にするのも憚られる十三本で一組を成すこの〈ジャグリ・ジャグラ〉は、ひとたび犠牲者の肉体に潜り込むと、命令者がその収納具であるスクロールに抜き取り収めるまで留まり続ける。

 そして、一定時間、命令の入力がない場合は自動的に飽和改変を行う──こう言ってよいのなら──邪悪な自立意志を備えてもいた。

 それがいま、シオンの内側で目を醒ましたのだ。

 

 ユガはそのさまを、まさしく瞠目して観ていた。

 シオンがさらなる窮状に追い詰められていることはわかった。

 その恐ろしい異形の器具が、シオンを内側から苦しめていることも見てとれた。

 そこから流れ込む《ちから》に翻弄され、シオンから決断能力が失われていることを理解した。

 だから、ユガは最善と思われることを実行する。

 ただ──その行為、そこに及んだとき、その心の働きを、自らのフェアネスのために、ユガは忘れない。

 後にシオンに告げさえもする。

 

 眼前でアシュレの命を救うため、煩悶し、苦悶するシオンの姿に、そして〈ジャグリ・ジャグラ〉の邪悪な《ちから》によって流し込まれる強制的な官能、暴力的な快楽に身を震わせるシオンのすべてに──ユガは心を奪われたのだ。

 それはユガのなかで消えかけていた、もうすでに名前さえ失われてしまったはずの“なにか”に火を灯してしまった。

 とっくの昔に消し去ったはずの、すでに過ぎ去ってしまったと思い込んでいた熱。

 心は風を得て、ざわめいていた。擦れ切り、渇き切った彼の心の森にもし、風に煽られざわめくものがあるのだとしたら──それは森すべてを焼き尽すほのお以外にはありえなかっただろう。

 

 それを、野心と呼ぶべきか、支配欲と呼ぶべきか──あるいは独占欲と記すべきか。

 そのどれもが、皮肉にも支配者には必ず必要な──覇気と呼ばれる類いの徳であった。

 

 ともかくも──この夜以来、ユガは領主としてではなく、ひとりの男として“反逆のいばら姫”を遇することを決めたのだ。




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