■第二夜:騎士の生還
清冽な木々の香りがした。
モミの木の香り。
むかしから、それはバラージェ家の年末と年明けを彩るポプリの香りだ。
母:ソフィアの趣味であり、ゆえにアシュレにとっては身に染みついた……そして自らの誕生日と結びついた懐かしい香りだ。
だが、ここはあの懐かしいバラージェの屋敷ではない。
自分は、聖務を帯びてそこを出立し、自らの意志で法王庁から離反した。
だからここが生家であるはずがなかった。
それでアシュレにはわかった。森だ。ここは深い森であり、自分はそこにいるのだと。
自分はそのなかでいつのまにか深い眠りに落ちてしまったのだと。
不思議だった。
つい先ほどまで、息をすることさえままならぬ死闘のなかにあった気がした。
いや、そうではない。
気がしたなどどいうのは嘘だ。自分はたしかにそのなかにいた。
ほとんど休息らしい休息を取ることもなく、不眠不休で戦った。
夜魔の精鋭──月下騎士たち、土蜘蛛の姫巫女・凶手、法王庁から託された強大な殲滅の《ちから》を有する水瓶のカタチをした《フォーカス》:〈ハールート〉と、それを携えた女騎士:ジゼルによる断罪──あの死地を、自分はまたもどうやってか切り抜けることができたのか?
そうでないなら、死んでしまったのか。
ここは天の國なのか?
だって、ここは……こんなにも清々しく優しい空気に満たされている。
ただ、もしそうであるのだとすれば、腑に落ちないことがいくつもあった。
ひとつは、そのような場所に赴けるとはアシュレはもはや到底、信じていなかった。
聖務を放り出し、法王と法王庁、所属する聖堂騎士団を謀り、逃亡した。
夜魔と土蜘蛛──本来、人類の仇敵であるはずの二種族と共闘し、土蜘蛛の古き王:イズマとは友情を、そして、夜魔の姫とは互いが恋に落ちてしまった。
そればかりではない。
アシュレはシオンとの恋に落ちると同時に、もうひとりの女性をも愛してしまったのだ。
それこそは、巨大な《ねがいの器》:〈パラグラム〉とふたりの女──尼僧:アルマステラと幼なじみ:ユニスフラウの《ねがい》が成さしめた奇跡──いや、恋の呪い。
互いが互いを求めずにはいられない──そういう呪い。
アルマステラとユニスフラウ──ふたりの肉体と精神を受け継いだ女性:イリスベルダの胎内には──まだ、アシュレはうまく実感できないでいるのだが──アシュレの血を継いだ嬰児が宿っている。
それはかつて相対したオーバーロード:グランと、アルマステラ、そしてユニスフラウの《ねがい》によって強制された儀式によるものであり、これはアシュレのあずかり知らぬことであるが──カテル島大司教:ダシュカマリエが《救世主》と予言する運命の御子であった。
それなのにアシュレは、そのいまだ見ぬ自らの子供に曖昧模糊とした愛情を感じている。
だいたい、いったい何人の女性と自分は恋に落ちたり、関係を持ったり、許嫁であったりしたのだ? このあいだの死闘の最終局面で自分を殺そうとしたジゼルはまだ、法的にはアシュレの許嫁のはずだ。
どう足掻いたって、自分は天の國とやらに迎え入れられることはあるまい。
なによりここが天の國でない証拠があった。
それは痛みだ。全身が軋むように痛い。
すべての罪と苦しみから解き放たれた場所だというのが法王庁の天の國に関する触れ込みだから、この時点ですでに問題ありだ。
だとすれば、あとは地獄であるかもしれなかったが、それにしては随分と扱いが丁寧ではないか?
裏切りに、殺し、姦淫に不貞、異種族との密通、どう考えたって数世紀分は業火に焼かれなければならない計算だ。
それが、こんな程度なら、だれも地獄を恐れないだろう。
そして、アシュレはその痛みを知っている。
それは酷使され弱り切った肉体が、再生するときに上げる痛みだ。
生きている、とアシュレはそこでようやく思い立った。
自分は、どういうわけだか知らないが、なんとか、生き延びてここにいる。
そのとき、モミの木の香りに、密やかに、しかし、間違いようもなくバラの薫りが混じった。
アシュレは一際大きく、その芳香を胸に吸い込んだ。
間違えるはずがなかった。
それは正しくはバラではない。
愛しい夜魔の姫:シオンザフィルの匂いだ。
ぱちり、と目が覚めるのと、かちり、と部屋にカギが降ろされる音がするのは同時だった。
絨毯を踏む音とかすかに軋む床板、そしてドレスの裾が翻る衣擦れ──その足音の主は暖炉の火をかいぐり、薪をくべた。
世界のカタチが、それでアシュレにも少しあきらかになった。
部屋だ。広過ぎず狭過ぎず、質素だが快適に過ごすためのすべてが備えられた──そんな部屋ではないか、とアシュレは思った。
充分に火を熾し終えたのだろう。その足音がアシュレのそばまで来て、止まった。
ベッドに腰かける音がした。
どうして瞳を閉じてしまったものだか、アシュレにはわからない。
ただ、もしかしたら、この部屋の懐かしさを喚起させる木々の薫りが、アシュレに童心というよりも、子供じみた悪戯心を刺激したのかもしれなかった。
それはむかし、病弱だったころのアシュレに許されたささやかな慰めだ。
眠っているふりをする。そこに現われる人々の声、会話を黙って聞く。
そこに人間の本質が現れることをアシュレは知っている。聞かれていないと思っているとき、人々の口の端にのぼる言葉は、思いもよらず核心に近い場所にある。
お転婆だったユニスフラウや、枢機卿となりいまやアシュレより上の僧位についたレダマリアが実はアシュレにかなり好意を抱いてくれていることを、子供なりに察したのもこの悪戯のおかげではある。
そういえば、ユーニスは「わたしに病気を移してください。アシュレの病気を取り除いてください」となんども枕元で囁いたものだった。泣いていたな、とアシュレは思う。
後で顔をあわせることがあって動揺していると、お尻を蹴っ飛ばされたものだ。
ニヤけ面が、ムカツイタ。そんな理由だった。
アシュレはあのときと同じに、口の端が笑みのカタチになりそうになり、意志のちからでそれをねじ伏せなければならなかった。
ただ、このときの行為をアシュレは後悔した。
たしかに、そこには真実があった。切実な告白。シオンの。
問題はそれが、胸を締め上げられるような愛の告白であったことだ。
静かに、ささやくように、しかしなんども、愛を誓われた。
あなたのものだ、と告げられた。身も、心も、すべて。
震えるその声が、激情を押しとどめるために限界まで振り絞られた意志のちからによる抑制のためなのだと、わかった。
そのかわりに、なんども、なんども口づけされた。
胸に抱かれ、嗅がれた。シオンはアシュレの胸板に己の顔を押し当てて、泣きながら愛の代償にすべてを手放す、とさえ言った。
ずきり、とアシュレの胸が痛んだ。
物理的な痛みではない。それよりももっとずっと鮮やかな──心が感じる痛みだ。
どうやら、また自分はシオンにひどく心配をかけてしまったらしい。
シオンは意識の戻らぬ自分を毎日こうして見舞っては、そのたびにこうやって愛を誓ってくれていたらしい。
けれども、致命的にタイミングをアシュレは逸してしまっていた。
だから、声をかけることができたのは、シオンがまた髪をかいぐって、口づけをし、部屋を辞そうとしたときだった。
「姫君のくちづけで、男は意識を取り戻すというではないか。……いや、あれは姫君が目覚める話だったか……? どのみち、わたしではダメかな? 人間の男を惑わす夜魔の、その廃王女だものな」
あるいは、そなたの妻となるべき女──イリスベルダならあるいは──。
言いながら身を翻すシオンの、未練を断ち切るような態度と素早さにそれはすこしは原因があったかもしれない。
かちゃり、とドアの開く音と、アシュレがシオンを呼ぶのは同時だった。
ぴくり、とその肉体が硬直し、飛び跳ねるように背筋が伸びるのを、アシュレは影絵のような光源のなかでたしかに観た。
都合の良すぎる奇跡を、そうであるがゆえににわかには信じられず、しかし、信じたいと願う心との間に生じる葛藤が、シオンにそのような行動を取らせたのだろう。
「シオン」
そうアシュレが再び呼びかけるまでの数秒、シオンは振り返らなかった。
そうして、振り返ったときのシオンの表情をアシュレは忘れない。
このままでは壊れてしまうのではないかという顔をシオンはした。
だから、アシュレはままならぬ肉体を寝床から引き剥がすように立ち上がった。
そして、たたらを踏んだ。
実際に抱き止められたのはアシュレのほうだ。
「おはよう」
間抜けすぎる挨拶だった。言うべきことが他に山ほどあるはずだった。
「寝過ぎだ、バカもの」
怒られた。当然だと思った。
「喉が渇いたよ」
「特製のスープをご馳走してやろう」
泣き笑いの声でシオンが言った。顔は見えなかったが、涙で頬が濡れているのがわかった。
「スープ? だれが作ったの?」
「わたし以外の誰がいるのだ? バカめ」
「それ……味見した?」
どすり、とみぞおちを小突かれた。アシュレは小さくうめく。
バカめ、ばかばかばかばか、大ばかものめ。シオンの悪態は止まらない。
アシュレに出来たことは互いの無事を確認することだった。
「無事だったんだね」
「無事とはいいがたいが……生き延びたよ」
やっと、現実を現実としてアシュレは認識できるようになりはじめていた。
途端に、あのカテル島での凄まじい死闘の記憶が脳裏にまざまざと甦ってきた。
そして、その結末も。
自分たちは転移したのだ。散り散りに。それはあまりに巨大な──人間などゴミ屑のように擦り潰されてもしかたがないほどの強大な力のぶつかり合いのさなかで。
そして、アシュレたちを助けてくれたのは神ではない。神意などでは断じてない。
ヒトだ。ヒトの《意志》だ。
イズマがその身を挺して、また救ってくれたのだ。
気がつくとポタポタと涙が出てきてしまった。シオンの涙が伝染してしまった。
「イズマは?」
そう訊くと、シオンはふるふると腕のなかで頭を振った。
わからない、という意味だろうと、アシュレは捉えることにした。
それ以外の意味に捉えたら、心が砕けてしまいそうだったからだ。
あの男が簡単にいなくなってしまうわけがない。
「捜そう」
こくり、とシオンが頷いた。安心した。そうだ。まだ生死は不明なだけだ。
可能性はまだ、あるのだ。
どれくらいそうしていただろう。
ぐう、とアシュレの腹が鳴った。生きてる証拠だ、と父やバートンなら言っただろう。そういえば、バートンは無事だっただろうか。ボクはうまくできただろうか。
とにもかくにも、まず、一口スープを飲みたかった。
記念すべき、シオンの、第一作目(推定)をだ。
かなり刺激的な目覚めになるかもしれない、とアシュレは前向きに捉えた。
だが、いつまでたっても夜魔の姫はアシュレを解放してくれなかった。
「シオン?」
アシュレは呼びかけた。それから、気がついた。
シオンのこの可愛らしい行動は、要求なのだ。思えばいつもそうだ。
こと自分自身の要求──要するに「わがまま」だとシオン自身が考えている物事をアシュレに要求するとき、シオンは極端に口下手になる。
だれかのために戦うとき、あれほど勇敢で毅然とした態度を崩さないシオンは、その反動なのか、自分の欲望を口にすることを恥ずべきことだと捉えているようなのだ。
そのせいだろう。
感情が閾値を超えると、途端にまるで馬上突撃のように極端な行動に出ることがある。
いや、今回は全面的にアシュレが悪かった。確認すべきこと、語るべきことははまだまだあった。
イズマをはじめ仲間たちの安否を気づかうのは当然のことではあった。
そして肉体が激しく空腹を訴えていたし、苦痛は限界だった。正直立っていることさえ、つらかった。
けれども、だからといって後回しにしてよいはずがなかった。
アシュレは自らがどれほどの期間、意識を失っていたのかをしらない。その間じゅう、シオンは胸の潰れるような思いで、毎日、ああやってアシュレを介抱してくれていたのだ。
誤魔化すことなど到底できない強く衝動的な愛情にアシュレは突き動かされた。
アシュレはシオンの腰を抱き寄せる。
拒絶はなかった。
後頭部に指を潜り込ませる。自然なカタチで唇を合わせようとした。
そこで不自然な尖りに手が触れた。それはシオンの頭髪に潜んでいたのだ。
金属のような、鉱石のような手触り。複雑な彫刻──それも禍々しい。
アシュレはそれを知っている。
「シオン?」
アシュレはもう一度呼びかけた。
腕のなかのシオンがアシュレをまっすぐ見上げていた。
まさか、とアシュレは言った。
こくり、と紅潮して、恥じらってシオンが頷いた。
それは〈ジャグリ・ジャグラ〉──肉体を強制的に改変する忌まわしい《フォーカス》。土蜘蛛の凶手:エレによって打ち込まれたそれが、シオンの肉体にはいまだ突き立ったままだったのだ。
抜き取らなければならなかった。だがパーソナライズされていない《フォーカス》が、他の能力者に触れられたときどんな挙動を起すかは、アシュレはまさしく身を持って経験していた。
暴走し、シオンを──どんなにしてしまうかわからない。
それが全部で十三本もシオンの肉体には突き込まれているのだ。
取り除かなければ、いや、少なくとも制御しなければならなかった。
おそらく、エレが携えていた竜皮の道具入れがこのデバイスを格納するパーツなのだろう。
そこから引き離されたおのおの十三本のデバイスは相互の連絡を断ち切られ、命令系統が混乱して、譫妄のような状態にあるはずだ。
いつ暴走を起してもおかしくない。
いや、もしかしたらすでに事態は進行中かもしれない。
蒼白になったアシュレに、しかし、シオンは言った。ささやいて。
「恐い。どうしようもなく。どうされるか、わからなくて。どうなるのか」
だが、そなたには資格も権利もある。わからないのか? シオンはもう、完全に、そなたのものなのだぞ?
そなたにであれば、わたし、わたしは──。
その先をアシュレは言わせなかった。
ただ、そうしてすべてを捧げてくれたシオンに、その信頼に、アシュレは行動で報いるしか方法をしらない。
責任を取ることしかできない。
もちろん、シオンはアシュレがそういう男だとわかっていた。それは、わかり過ぎるほどに、だ。
だからこそ、すべてを許した。
むしろ、そうして欲しいと望んだ。
「そなたに変えられるのなら、わたしはすべてを受け入れられる」
「ボクは、ボクの欲望で、キミを変える。もちろん、除去する方法を最優先するけれど」
互いがあえて口にした。
それは誓いであり、責任の所在をあきらかにするための儀式だった。
だが、このとき、シオンは嘘をついていた。
いや、それは嘘ということは正確にはならないのかもしれない。
ただ、告げなかったというだけのことだ。
真実を告げることができなかった、というだけのことだ。
しかし、嘘をついている、という罪の意識の烙印が、シオンの心にはっきりと押されたのだ。
シオンはすでに改変されていたのである。
だれに?
ユガディール・アルカディル・マズナブ。
小国:トラントリムの領主にして夜魔の侯爵。
人間と夜魔の共存、共栄を目指す〈血の貨幣〉共栄圏の提唱者。
その手によって。




