■第四十四夜:遠い場所で(第三話エピローグ)
「さて……ますます我々の進む道は困難になりましたな」
ダシュカマリエの私室には、彼女以外に三人の男の姿があった。
ひとりは隻腕隻眼の男、カテル病院騎士団団長:ザベルザフト。
ひとりはカテル病院騎士団筆頭:ノーマン。
そして、最後のひとりはバラージェ家の執事であり、そして、その現当主:アシュレダウに斬り捌かれたはずの男――バートンであった。
本来、公言された恋人や妻でもない女性の部屋を訪うことは礼儀にも道徳にも反する。
それは妻帯を認めるグレーテル派の総本山:カテル島においてもかわらない。
それを知りながら、いまそこに三名の男たちが集うのは、大司教:ダシュカマリエの容態のためだ。
カテル島を襲った異変から、すでに一週間が過ぎようとしていた。
島自体は、首都にあたるカテル市を炎上させたものの、その後の急速な天候の回復もあり、復興ににぎわいを見せている。
なによりも攻め込んできた夜魔のことごとくを、彼らは撃退したのだ。
戦勝の祝いと、聖イクスの聖誕祭、生き延びた悦びに民衆は沸き立っていた。
もうすぐ年が移り変わる。
だが、首脳部に集う男たちの心中は、晴れやかとは言いがたかった。
たしかに聖母再誕は成った。
しかし、払った代価はあまりに大きかった。
戦没者は教団だけでも数百名、奥の院の施設は絶望的なまでに破壊され復旧の目処は立っていない。
聖遺物:〈コンストラクス〉は健在だが、それを扱うダシュカマリエの消耗は、著しい。
儀式による補助なしで、今後、〈コンストラクス〉を扱うことは難しいだろう。
なにより、法王庁使節、その聖騎士:ジゼルテレジアにすべてを目撃されていた。
生きて返してはならぬ相手だった。
しかし、あの戦いのあと、ジゼルは忽然と姿を消した。
転移したのか、それともあの光と光のぶつかり合いのなかで、消失したのか。
わからなかった。
ただ、法王庁特使であるラーンベルト・スカナベツキ――つまりベネストス枢機卿は法王庁に帰還した。
遅くとも一月の後には法王宮にて、すべてを報告するだろう。
そして、その報告を受けた法王:ヴェルジネス一世は、ほどなく十字軍の発動を宣言する。
その報告がどんなものであったのか、この十字軍がどこに向けられたものであったのかを、いまはまだ内容を語ることはできないが、その十字軍参画の要請がカテル病院騎士団に届くのは明けて二月の終わりのことである。
このとき届いた法王の勅詔は首脳部に困惑をあたえるのだが、それはまた後の話だ。
ジゼルテレジアからいかなる報告がなされ、ラーンベルトがどう判断し報告し、それによって法王と枢機卿団がどのような行動を起すものか。
この時点ではすべてが謎であったのだ。
「宗教会議、と相成りますか」
「異端審問官の到来が先かもしれませぬ」
「聖母……その存在の真偽を法王みずからが検めると、言い出すかもしれません」
三者が、異口同音に言った。
要約すればこうだ。カテル病院騎士団の方針をはっきりさせなければならない、と。
「聖母と、聖母の身篭る御子――《救世主》を守り通す。もし、法王猊下がこれにご賛同くださるならば、よし。そうでないなら、説き伏せるまで。そして、いよいよとなれば対決も辞さず。われわれは次代を担う、真に世界を変革しうる御方の誕生に立ち会おうとしているのだ。信念を揺らがすな」
ベッドの上から、ダシュカマリエが言った。
憔悴していても、その声には不動の信念が宿っていた。
「現実を見よ? これまで多くの同胞、同志を失いながらもわれらが立ったのはなんのためであったか? 戦火に家を焼かれ、親を、子を奪われた者たちに、帰るべき家を与えるためではなかったか? おぞましい病魔と対決し続けてきたのはなんのためであったか? この世から業病と業苦を駆逐し、ヒトがヒトとして生きていける世界を切り開き、作り上げるためではなかったか? 千年王国を作り上げるのだ! われらの手で!」
見よ、とダシュカマリエは夕闇迫る窓の外を指した。
遠景に人の輪があった。
子供たちが中央にいて、大人たちがその周囲でひざまずいていた。
帽子をとり、胸に当て祈りを捧げていた。
その中心にイリスがいた。
子供たちに投げかける慈愛の笑みは変わらないが、あの聖母としての正体、その顕現はそこにはない。
母としての強さを獲得しつつある女性がひとり、いるだけだ。
あの日、なにが起きたのか、ダシュカマリエもおぼろげながらにしか憶えていない。
たしかなことは、イリスが聖母となったという確信だけだ。
イリスの周りに集まる子供たち、その光景に胸を打たれ頭を垂れる人々は、教えを説かれたからでも強制されたからでも儀礼によってからでもない。
子供たちを慈しむイリスの姿に「なにか」を見出し、集まり、祈っているのだ。
そう――とダシュカは思う。わたしがそうであるように。
だからこそ、強く言葉にする。
「聖母と《救世主》――あの方は“炎”だ。この黄昏に飲み込まれつつある世界を照らし、人々の盲を開く“灯火”だ。で、あるならば我々はなにか? 薪である。その炎に身を投じ絶やさぬためにくべられるべき薪である」
そうであろう?
こけた頬と目元が、ダシュカマリエの目に宿る灯火をいっそう強調した。
ザベルザフト、ノーマンが首肯する。
ただひとり、バートンだけは肯定も否定もしなかった。
「わたしだけは、中立の立場から、あなた方を見させていただく」
そう所信をあきらかにした。そしてそのことをだれも責めず、むしろ歓迎した。
「同じ思想で寄り集まった集団というものは、足元が見えないものだ。いざ、対外交渉に臨む時、視野狭窄に陥りがちなのは困る。歯に衣を着せぬ諌言をお願いしたい」
ダシュカマリエの言葉に、ただ、とバートンも言葉を継いだ。
「ただ、わたしは、バラージェ家当主、アシュレダウの味方です。それだけは断言しておきます。もし、最優先とするならば、若の命を基準とするでしょう」
充分だ、と三者が頷いた。
所信をあきらかとするもの同士はわかりあえる。
すくなくとも、相手に敬意を持つことができる。
公言することはその行動・行為に責任を負うということだからだ。
バートンは生きていた。たしかに斬られたが、アシュレのそれはバートンを切り捨てるための斬撃ではなかった。
アシュレの振った切っ先には回復の異能が発動していたのである。
カテル病院騎士団団長を証す長剣:〈プロメテルギア〉――いまは回収され、本来の持ち主:ザベルザフトの手に帰っている――は、その鋭利な切っ先でバートンを切断しながら、同時にその傷を塞いでいたのである。
それは病院騎士たちが野外で行う外科手術に用いる手法の転用だった。
もちろん、絶妙のタイミングでバートンが身をかわしていたせいもある。
そのあたりの呼吸、機微は合って当然だった。
アシュレに体術の基礎を教え、グレスナウ亡きあと、従士隊入団までの戦技教官を務めたのは他ならぬバートンだったからだ。
斬られて当然と覚悟し、望んだ戦場だった。
バートンは己が斬られること、そして、アシュレが抗戦の末に、すでに夜魔の掌中に心奪われ堕ちたと狂言することで、バラージェ家へのお咎めを最小限に留めようとした。
戦いに破れた潔白の騎士を操っているのは憎むべき夜魔の姫である、とそういう筋書きを書いたのだ。
その決意を聞いたザベルザフトは己の佩刀を預けた。
これは絶大な信頼の証しである。
己が斬られたとして、そして己を、過去を、家族との繋がりを斬る決断をしてさえ、自分の道を歩んでいくであろうとアシュレを信じたバートンを、ザベルもまた、信じたのである。
結果として、アシュレはバートンの予想の上を行った。
「これほど嬉しいことはない」
ザベルに佩刀を返却しながら、バートンは言ったものだ。
巣立っていく我が子を見守るような光が、その目にはあった。
あの一件以来、バートンはザベルの個人的な友人であり、相談役になりつつもある。
「公的には死者ゆえに……うまくお使いいただければ」
ただ、ほとぼりさめましたなら、一度、バラージェの家には戻りたく、とバートンは希望を述べた。
もちろん全員一致で承諾するところだ。
ダシュカマリエの宣言に、全員が賛同し、今後の具体的な方策が練られた。
被害を受けた人命とその家族への支援、ケア。
カテル市を中心とする復興・強化案。
そして奥の院へ通ずる通路の再封印、再結界、組織再編に対外的な摂政や、法王庁への対処――情報収集。
やるべきことは山積みだったが、そのなかでどうしても起さねばならぬ行動があった。
アシュレたちの捜索である。
イズマの《転移門》の使用に因る次元間の波動紋が検出されたことにより、あの場に居合わせた多くがどこかに転送されたことが判明した。
そう――土蜘蛛の凶手と夜魔の精鋭:月下騎士、加えてエクストラム法王庁・聖遺物管理課の聖騎士:ジゼルの猛威が吹き荒れる戦場を、イズマは巨大な次元転移によって一掃したのだ。その現場を見ていたものはいないが――そうであろうと推察された。
同時にダシュカマリエの口を借りた予言もあり、各々の転移の軌跡がいくつかに分断されていることもわかった。
おおまかな地域は特定できたものの、そこはじつにややこしいエリアであったのだ。
オズマドラ帝国領内――帝都近傍、ステップ地帯、そしてビブロンズ帝国首都:ヘリアティウムから北東へ――ここもすでに、オズマドラに隣接する森林地帯におよんでいたのである。
なににせよそれは大陸の広範な地域に跨がっていた。
それでも生存は予言により保証されていのだから、幸運という他ない。
転移系異能の暴発は、悲惨な結果を招く。
あの状況で、この程度の誤差で済んだのだから、イズマガルムの手腕おそるべしという評価が妥当であろう。
だが、捜索隊をだれにしたものか、その選定には苦心しなければならなかった。
現実的な話をすれば、ザベルはもとより、ノーマンを動かすことも得策とは言えなかった。
もし、夜魔が捲土重来を期して復讐戦を挑んできたなら、あるいは法王庁が強硬な態度で迫ってきたなら――ノーマンの戦闘能力は重要な要となるはずであった。
だが、それでもノーマンを派遣することにカテル病院騎士団の意志は一致したのである。
ただ、彼ひとりを派遣するわけにはいかなかった。
探索、捜索となれば世渡りに馴れたサポート役が、最低でもひとりは必要だったのだ。
「わたしが参りましょう」
バートンは進言し、全員が適役と任じた。
もっともこのあと意外過ぎる人物が同道することになり、激しい議論が交されることになるのだが、それもまたあとの話だ。
まずは、《転移門》を単独で行使でき、占術にも長けたイズマを探し出すことが先決であろうと決定が降った。
予言を精査したところ、だれがどこへ転移したものかはおおまかにはわかっていたのである。
ただ、そのなかに土蜘蛛を思わせるものが二回、複数箇所に渡って現れた。
「どちらかは、土蜘蛛の凶手のものだろう」
そうノーマンが言った。
ということは、あの災厄を招いたふたりの姫巫女のうちどちらか、最悪ふたりともが、生存している可能性があるのだ。
「しかし、行ってみなければわかりますまい」
ノーマンが出立するのは年を越して、二月ほども経ってからだ。
自身の体力の回復、準備――場所は敵国:アラム領内である。万全の体勢で臨まねばならなかった。
※
どこだ……ここは。
全身を包み込む温かい感触と水音にアシュレは微睡んでいる自分を発見する。
爽快な木々とともに鮮烈なバラの薫りが肺腑に流れ込み、覚醒を促す。
夢でも、視ていたのか……いや。
現実と夢の側の境があわあわとしてわからなくなり、アシュレは向こう側に引き戻されそうになる。
だから、アシュレを覚醒させたのははっきりと、外部からの、他者からの刺激だった。
がちゃり、と無言でドアが開かれた。
ぱちり、ぱちり、と薪のはぜる音がした。青い草色の衣服を纏っていた。
だれなのかはすぐにわかった。
アシュレはその名を呼んだ。シオンザフィル。愛しい夜魔の姫。
呼ばれて、シオンは微笑んだ。
起きたか、と問われた。
もしかして、ボクはまたずいぶんと寝ていたのかな、と問い返した。
喉が渇いたよ、とアシュレは言った。
身体があちこち軋んでうまく立ち上がれない。
スープを作ってあるぞ、とシオンが言い、え、とアシュレは固まってしまった。
その拍子にバランスを崩してたたらを踏む。
転げるということはなかった。
ただ、全力で戦った肉体が回復するには時間が必要なのだ。
すっと、シオンに抱き止められた。
華奢に見えても、そしていかに《フォーカス》に認められていたとしても、シオンは巨大な大剣:〈ローズ・アブソリュート〉を扱う超戦士だ。
アシュレ程度の質量は難なく抱き止められる。
結果としてふたりは強く抱きあう格好になった。
「無事だったんだね」
「無事とはいいがたいが……生き延びたよ」
「ボクも、そうらしい。なにが、どうなったのかわからないけど、イクスさまにお祈りしたい気分だよ」
もちろん、アシュレにもわかっていた。
おぼろげながら、あの瞬間をアシュレは知覚していたのだ。
だんだんと意識がはっきりしてくるにつれ、あれが現実に起こったことだとわかってきた。
助けてくれたのは神ではない。神意などでは断じてない。
ヒトだ。ヒトの《意志》だ。
イズマがその身を挺して、また救ってくれたのだ。
気がつくとポタポタと涙が出てきてしまった。
喉が渇くわけだ。
「イズマは?」
そう訊くと、シオンはふるふると腕のなかで頭を振った。
わからない、という意味だろうと、アシュレは捉えることにした。
それ以外の意味に捉えたら、心が砕けてしまいそうだったからだ。
あの男が簡単にいなくなってしまうわけがない。
第一、ボクたちはまだ、彼を覚えているじゃないか。
「捜そう」
こくり、とシオンが頷いた。
どれくらいそうしていただろう。
ぐう、とアシュレの腹がなった。
生きてる証拠だ、と父やバートンなら言っただろう。
そういえば、バートンは無事だっただろうか。ボクはうまくできただろうか。
とにもかくにも、まず、一口スープを飲みたかった。
記念すべき、シオンの、第一作目(推定)をだ。
かなり刺激的な目覚めになるかもしれない、とアシュレは前向きに捉えた。
だが、いつまでたっても夜魔の姫はアシュレを解放してくれなかった。
「シオン?」
アシュレは呼びかけた。それから、気がついた。
シオンのこの可愛らしい行動は、要求なのだ。
思えばいつもそうだ。こと自分自身の要求――要するに「わがまま」だとシオン自身が考えている物事をアシュレに要求するとき、シオンは極端に口下手になる。
だれかのために戦うとき、あれほど勇敢で毅然とした態度を崩さないシオンは、その反動なのか、自分の欲望を口にすることを恥ずべきことだと捉えているようなのだ。
そのせいで、まるで馬上突撃のように極端な行動に出ることがある。
もしかして、これはそういう要請なのではないかしらん、とアシュレは思い至り、シオンの腰を抱き寄せた。
拒絶はなかった。
後頭部に指を潜り込ませる。自然なカタチで唇を合わせようとした。
そこに不自然なものを発見する。
金属のような、鉱石のような手触り。複雑な彫刻――それも禍々しい。
アシュレはそれを知っている。
「シオン?」
アシュレはもう一度呼びかけた。
腕のなかのシオンがアシュレをまっすぐ見上げていた。
まさか、とアシュレは言った。
こくり、と紅潮して、恥じらってシオンが頷いた。
それは《ジャグリ・ジャグラ》――肉体を強制的に改変する忌まわしい《フォーカス》が、シオンの肉体には突き立ったままだったのだ。
抜き取らなければならなかった。
だがパーソナライズされていない《フォーカス》が、他の能力者に触れられたときどんな挙動を起すかは、アシュレはまさしく身を持って経験していた。
暴走し、シオンを――どんなにしてしまうかわからない。
それが全部で十三本もシオンの肉体には突き込まれているのだ。
取り除かなければ、いや、少なくとも制御しなければならなかった。
おそらく、エレが携えていた竜皮の道具入れがこのデバイスを格納する総体なのだろう。
そこから引き離されたおのおの十三本のデバイスは相互の連絡を断ち切られ、命令系統が混乱して、譫妄のような状態にあるはずだ。
いつ暴走を起してもおかしくない。いや、もしかしたらすでに事態は進行中かもしれない。
蒼白になったアシュレに、しかし、シオンは言った。ささやいて。
「恐い。どうしようもなく。どうされるか、わからなくて。どうなるのか」
だが、そなたには資格も権利もある。わからないのか?
シオンはもう、完全に、そなたのものなのだぞ?
そなたにであれば、わたし、わたしは――。
その先をアシュレは言わせなかった。
ただ、そうしてすべてを捧げてくれたシオンに、その信頼に、アシュレは行動で報いるしか方法をしらない。
責任を取ることしかできない。
もちろん、シオンはアシュレがそういう男だとわかっていた。それは、わかり過ぎるほどに、だ。
だからこそ、すべてを許した。
むしろ、そうして欲しいと望んだ。
「そなたに変えられるのなら、受け入れられる」
「ボクは、ボクの欲望で、キミを変える。もちろん、除去する方法を最優先するけれど」
互いがあえて口にした。
それは誓いであり、責任の所在をあきらかにするための儀式だ。
大きく時代が動く音がした。
抗うものがいるかぎり、歴史は紡がれていく。




