■第四十三夜:世界が裏返る日
「やめるんだ、イリスベルダ」
階下から声がした。
わたしを呼ぶのはだれ? とジゼルが反応した。
しかし、本当に反応したのは、そのジゼルをまるで人形遣いのように操る聖なるもの――イリス本人だった。
イリスの姿は、ひとことで言えば荘厳だった。
翼と花束、音楽と歌に護られていた。
純白の裸身は、しかしすでにヒトのものではなく、不要と無駄を削ぎ落とした聖なるものの姿となってそこにあった。
つまり、矛盾を抱えた生命のありようから逸脱した完全体――ヒトの理想が純粋に凝ったカタチ――ひとつの芸術品だった。
それは、聖母再誕の儀式とその暴走が生み出した存在である。
時間を、摂理を、概念をねじ曲げて成立するもの。
だが、破壊され尽した床の上に膝立ちになり、その御業を制止した男がした
イズマガルム・ヒドゥンヒ――土蜘蛛の忘れ去られた王。
エレとエルマ、ふたりの刺客によって繰り人形と化していたはずの男だった。
けれども、いまイリスに向って投げかけられた言葉には、はっきりと《意志》がある。
うう、とその足元で件の刺客姉妹がうめいた。
ごぼり、がふり、と水を吐く。
うっすらと目を開け、エレとエルマは、ふたりを庇うように立つイズマを見上げた。
立ち上がるほどの力がもう、彼女たちにはない。
本当に最後のひとしぼりまで、イズマを庇うためにすべての力を出し切ってしまったのだ。
全身が重度の打撲と擦り傷になっていた。
「ごめんよ、おそくなった」
イリスを見上げたまま、イズマがふたりに謝罪した。
たったそれだけのことで、報われたとふたりは感じてしまう。
そして、ふたりの気持ちが伝わったようにイズマが立ち上がった。
「やめるんだ、イリス。それ以上は、いけない」
イズマは言った。ヒトを、その心を、書き換えてはいけない。それがたとえ、敵であったとしても――。
イリスが深い慈愛の笑みで、小首を傾げて見せた。
それは了解、という意味ではない。
イズマの言葉が理解できない、という意味だ。
なぜ? という。
敵を味方に作り替えることの、どこに“悪”があるのか、という意味だ。
「生命の、生きていることの、自律性に――とくに奇跡を持って、善で持って――介入してはいけないんだ」
その娘を、放せ。
イズマは言った。普段の言動からは考えられない真摯さで。
いや、これがイズマなのだ、と床に倒れたまま、エレとエルマは思う。
こういう男だからこそ、ふたりは恋をしたのだ。
そして同時に、イズマの身を案じた。
危険だ、と感じた。相対するあの天使――いや、聖母と呼ぶのが正しいのか――そのあまりに完全過ぎる“悪”の不在、絶対善に裏打ちされた気配に戦慄して。
それなのに、もう全身に力が入らない。
イリスと呼ばれた聖母は、脱力したままのアシュレをかたわらに呼び寄せる。
翼とも花弁ともとれる手がその肉体をイリスの元へ運ぶ。
その肺腑から水が不可思議の《ちから》によって水が抜かれ、呼吸が回復する。
二度、三度、とアシュレは水を吐く。
イリスは冷えたアシュレの肉体に頬ずりする。
己の熱を分け与えるように。豊かな胸乳に抱き寄せる。
同じようにノーマンの傷を塞ぐ。
そして、そうしながらも、ジゼルを書き換えることをやめない。
そのふたつは彼女にとって矛盾なき“善”であり、まったき《救済》であった。
慈愛による救済――みずからのために命を賭してくれた騎士にして夫となる男への紛うことなき愛と、かつて敵対者であり、じっさいには正統な婚約者である女をその永劫の介添人として書き換えること――それらは完璧に矛盾なく、イリスのなかで《救済》として結論されていたのだ。
それをなぜ、イズマは止めようとするのか。
イリスにしてみれば、これこそ謎であった。
しかし、必ず理解してくれるであろう。この正しさを。
だから、いまは実行の時だ。《救済》の時だ。
イリスの神々しい笑顔はそう告げていた。
相対するイズマは、そこに言い表しようのない嫌悪感――吐き気を催すほどの邪悪を感じ取る。
それは生命の、自律性の、《意志》の尊厳を汚す行為だと、イズマは怒っていたのだ。
「やめろ」
言って、一歩、踏み出した。
イリスが困ったような顔をした。それはイズマからいわれのない怒りをぶつけられていることに対しての態度だ
聞き分けのない、しかし愛しくてたまらない子供を見るような瞳で、イリスはイズマを見る。
それから、同じようにイズマをその真っ白な手で、優しく包んだ。
伝えようとしたのだ。正しさを。悪意などないことを。“善”を。“愛”を。
「ちがうんだ――イリス。愛することも、信じることも、より善い世界を望むことも、なにひとつ間違ってなどいない。そうではなく――」
そうではなく――だからといって、その実現のために他者を《そうするちから》によって歪めてはいけないんだ。
それは、内発的で、自発的なものでなくてはならない。
ボクたちが影響を及ぼせるのは、及ぼしてもかろうじて許されるのは――外部的な働きかけだけだ。
ヒトを一冊の書物だとするのならば――そのページに言葉を描き込んでよいのは自分だけなんだ。
他者からの言葉を、行動を、行為をどう捉えるか――つまり判断は、《意志》は――その人間のものでなければならないんだ。
キミが決めてはいけないんだ。
その人間の《意志》は、その人間のものでなければならないんだ。
イズマは泣いていた。叫び、伝えようとした。
イリスはその涙を、まるで幼子をあやすように拭いてやろうとする。
イズマは首を振った。そうじゃない。そうじゃないんだよ。
「ボクは、キミの《夢》に、加担できない」
それから、決別を選択した。
そのとき、起こったことをできるかぎり記す。
イズマの肉体が裏返るようにして再構成された。
それはどこかイリスの姿に似た存在だった。
純粋で、完全で、それゆえに悲しい姿だった。
美しいのに孤独で、至高であるのに寂寥として、研ぎ澄まされているがゆえに触れがたい――そんな空気を纏っていた。
甲冑とも彫刻ともとれる美しい黄金の肉体に、瞳を思わせる紅い宝玉がいくつも埋め込まれていた。
「イビサス……われらが……失われし神」
倒れ伏すふたりの土蜘蛛の姫巫女が、寄り添うように身を起し、その名を呼んだ。
イズマはその身を神と崇められた存在、イビサスと融合していたのだ。
それは己の信念を貫き、永劫と戦うための選択であり、同時に危険な賭けだった。
その《ちから》を振うたび、イズマは希釈され、希薄となる。
たとえば、オーバーロードさえ退けうる極限的な能力:《ムーンシャイン・フェイヴァー》は、このイビサスの肉体を《フォーカス》として扱い、イズマのそれを触媒として引き起こす現象であった。
そのたびにイズマの肉体、そして精神もが、すり減らされていくのだ。
代償として、である。
からん、と音を立てて、その肉体に突き立っていたはずの〈傀儡針〉が抜け落ちた。
「もっとはやく、こうすべきだったんだけど……ふたりの想いが意外と強くて……呪縛を解くのに随分とかかってしまったよ」
愛されていたことを感謝するように、イズマが一度だけふたりを振り返って言った。
エレによって撃ち込まれた〈傀儡針〉にはエレだけのものではなく、エルマの《スピンドル》をも練り込まれていた。
それはその呪縛を解くのにふたつの呪式を同時並行で解体しなければならないことを意味している。
しかし、イズマの指摘は単にその複雑さに言及してのことではなかった。
それは――そこに練りつけられたイズマへの愛の深さについてであった。
敵対的な《ちから》であったなら、神の肉体そのものであるイビサスを内包するイズマは、そう時間をかけず〈傀儡針〉を中和しただろう。
イビサスは邪神であり、陰謀や策略の神であった。悪意は、その《ちから》の根源である。
けれども、ふたりの姫巫女が注いだものは、歪んでいても敬愛と思慕、恋慕の変じたものであった。
それも自分たちを裏切った男に対していまだに注がれる愛だった。
それがうわべだけのものでないことを、エレとエルマはその行動でことごとくに示してきた。
いまもまた、荒れ狂う暴力の狂乱からイズマを身を挺して護り切った。
それは強さだ。強度だ。見えずに、だが、たしかにあって働く《ちから》だ。
それでも一度だけ、イズマはその拘束を解きかけた。
アシュレとシオン、ノーマンの三人が連携し見せた攻撃にエレが巻き込まれた瞬間だ。
とっさにエレを庇うことを優先した。
そのために《ちから》を振った。結果として解呪に失敗した。
しかし、視点を別角度に移せば、エレとエルマによる束縛は、逆にイズマの命脈を護ってきたのだとも言えた。
なぜなら、このイビサスを顕現させることは、イズマにとって捨て身の、一か八かの賭けであったからだ。
自己犠牲的な――イズマ自身はこの言葉を心底毛嫌いしていたのだが――行為であったからだ。
そのことにイズマは礼を言ったのだ。
おやめください、とエレとエルマ、ふたりの姫巫女が懇願した。
わかったからだ。
いまからイズマの行使する《ちから》がどれほど強大で、ゆえにどれほどイズマを消耗させるか――もしかすると、イズマという存在を過去・現在・未来に渡って――つまり記憶からも、消し去ってしまうかもしれない行為だということを。
もしかしたら、ふたりの姫巫女は、理解したのかもしれない。
イズマがこれほどの切り札を持ちながら、なぜ、初遭遇の段階でそれを振わず、それどころか甘んじて〈傀儡針〉を受けたのか。
その理由を。
あるいは、イズマは、自分たちの怨念と思慕を、受け止めようとしたのではないか。
そうすることでしか 晴らされぬものがあることを、知っていたのではないか?
つまり、すべては自分たち土蜘蛛の凶手を退けるためではなく、その心を受け止めようとする策略だったのではないか?
だれかの心を助けるための謀略――そのためにあえて我が身を的にした。
ふたりの姫巫女の推察は、正しい。
だからこそ、エレとエルマは、叫んだのだ。声を限りに。
「我が殿! 旦那様――イズマ様! いけません、それは、それだけは――」
だが、イズマはやめなかった。
イリスが、その《ちから》の集中に反応した。
極限と極限がぶつかり合う。
絶白と金色がぶつかり合い、音が消え、色彩が失われ、天地の別がなくなって――。
ぐるり、と世界が裏返る。
アシュレはその最中で、意識を取り戻した。
だれかの、こえを、聞いた気がした。




