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■第四十二夜:聖なる改竄(かいざん)


 輝かしきものが、己の精神、こころに触れるのをジゼルは感じた。

 巨大な水柱の向こう――背後から。

 かぐわしき天上の花々と、ミルクの匂いを纏って。


 ざあっ、と水面が割れた。

 押しのけられたのなら、その分だけかさが増さなければ辻褄があわないのに、そのような兆候はどこにもない。

 荒れ狂っていた水面が、ぴたり、と静かになり、当然のように割れた。

 端的に言うならば、無理が押し通ったことになる。

 

 それは、ひとことでいえば“奇跡”が起きたということだ。

 

 やっとアシュレを独占できたことへの喜悦と興奮に満たされていたジゼルは、異変に気がつくのが少し遅れた。

 それから、思った。

 

 なぜ? と。

 

 わたしは、なにもしていない。

 まだ、〈ハールート〉に攻撃中止を命じていない。

 メインディッシュ――ダシュカマリエが残っているのだから。

 

 いったいなんの儀式であるか知らないが、こんな事態になるまで閉じこもっていた大司教には聞くべきことが山ほどある。

 儀式の成否など知ったことではないが、このような施設の存在を法王庁に報告せず、隠匿いんとくしていた事実は変わらない。

 かつて地下聖堂を査察した職員は騙されていたのだ。

 偽装されたのだ。

 

 カテル病院騎士団は、その首長たる大司教:ダシュカマリエは、そこで秘密裏に儀式を執り行った。

 

 話を聞く必要があるだろう。

 じっくりと、だ。

 話したくなくても、喋らせてやる。

 尋問だ。

 

 わたしたちを、法王庁を、神の代理人たる法王猊下の恩寵を一身に受けし我ら聖遺物管理課を、このジゼルテレジア・オーヴェルニュを、虚仮こけにしたのだ。

 相応の対価は払ってもらう――そう考えていた。

 

 だから、足元が割れ、そしてそれと同時に背後の水柱がまるで御簾みすが上がるように割れて――それが降臨したとき、反応できなかった。


 そっと、輝く手にすくい取られた。

 その手に触れた〈ハールート〉の水が、しぶきさえ上げず消滅していく。

 なんだ、と思った。振り返ろうとした。

 できなかった。

 

 まるで壊れ物を扱うようにそれはジゼルを包んだ。

 ちょうど、大きな白い鳥が己の翼の下に子供たちを匿うような仕草で。

 

 温かく、清潔な――日光にさらされた洗濯したてのシーツのような薫りがした。

 その優しさはやわらかく、染み入るようにジゼルを包み込む。

 巣から堕ちてしまったひな鳥を両手で護り包むように、ジゼルを慈しんだ。

 

 ジゼルは恐怖に駆られた。

 

 それはジゼルが望みながら得ることのできなかった充足だったからだ。

 生まれながらの異能者だった。

 家系の後継者となるべき兄たちが《スピンドル》を発現できずに埋もれていくのに、ジゼルは生まれついてその能力を顕現けんげんさせていた。

 

 水に触れていることなら、どんなことでも見聞きし、言い当てることができた。

 父も、母も、兄弟も、そして侍従たちも――優しかったが、その優しさがどこかよそよそしい、恐怖を底に秘めたものだったとしても、それはしかたがなかっただろう。

 

 恐かったのだ。ジゼルという天才が。

 そして、自分たちの期待通りに運ばないオーベルニュ家の運命について、彼らは落胆していたのだ。

 それをうわべの優しさ、団欒だんらん糊塗ことしていたに過ぎなかったのだ。

 

 それがジゼルにはわかった。

 痛いほどわかったからこそ、ジゼルは道化の仮面を身につけたのだ。

 不思議な子、変わっている子、と納得され諦められなければ生きていけないほど、息苦しかった。

 道化はおかしなことをするのが仕事だ。

 だれもそれをおかしいとは思わない。

 だから、道化になると決めた。

 

 そして、心のうちではどこの家でもそうなのだろうか、と自問し続けた。

 望まぬ異能を得てしまった者たちは、こんな窮屈な思いをしながら、その身を規律と因習に歪められながら生きるしかないのかと問い続けた。

 許嫁のバラージェ家に初めて訪ったとき、そうではないことを知った。

 

 なんども宿泊したジゼルは知っている。

 アシュレの裏表のない優しさ、ヒトを信じる心根の強さ、そして己の血の定め――それは《スピンドル》能力であり、貴族としての責務を前向きに受け入れることのできる度量の大きさ、土壌の豊かさがいったいどこで培われたものなのであるのかを。

 

 それは父:グレスナウや母:ソフィアの存在だけではない。

 

 幼なじみのユニスフラウやレダマリア、近習を務めるバートンをはじめとした使用人たち――そして、その家系を、アシュレに豊かな人間性を与えることのできる環境を営々として育み続けてきたバラージェ家の歴史を見せつけられた。

 

 いま、このあたたかさにジゼルが感じる恐れは、そのときに覚えたものに似ている。

 

 バラージェ家から差し出された許嫁としての地位――やがてアシュレの妻として迎えられ、その家系を受け継ぎ紡ぐ一員として受け入れられること――に言いようのない恐怖を覚えたのだ。

 わたしは本当は、そちら側の人間ではない、とあきらかにすることが恐かった。

 

 苦労して身につけてきた道化の仮面が引き剥がされたとき、いったいどんな自分が露呈ろていするのか――顔のない虚ろがそこにあるような気がしてならなかった。

 だから、聖騎士昇格を期に距離を置いた。

 なんとか破談にできぬものか、と。

 

 だれとも知れぬ男の子を身篭る、というのはどうだろう、とまで考えた。

 めかけとして引き取られる、というのはどうだろう、とまで考えた。

 

 そのためには相手の男がオーヴェルニュとバラージェ両家より、格上でなければならない。

 最適な相手がいた。枢機卿である。

 もちろん、えり好みはした。

 

 脂ぎっていたり、枯れ過ぎていたり、陰湿な男は好みではない。

 そして、ラーンに白羽の矢が立った。

 

 最初はそんな不純な動機だったはずだ。だが、いつのまにか本当に魅かれていた。

 ラーンの真性は、知識と技術、そして真理への限りない興味だけでできている。

 優しさはラーンが僧職界をうまく渡っていくための礼儀作法、仮面でしかない。

 その心は真に冷酷無比――己の興味の向くものに対してさえ……いや、興味があればこそ。

 

 そして、己の好奇心を充足させるためならば、どんなに非道にもなれる男。

 

 それが道化の仮面をかぶり続け、その実、強力過ぎる異能に翻弄され続けてきたジゼルにはわかりすぎるほどわかった。

 ラーンに冷酷に命じられるときほど――それが聖務であれ、背徳的な奉仕であれ――ジセルの心が安らぐことはない。

 そういう、残酷さで求められることにジゼルは充足を覚える。

 

 だから、〈シヴニール〉を持って危険な広範囲殲滅用の異能を躊躇いなく行使し、自らの祖父とさえ慕ってきたはずの使用人:バートンを一刀のもとに斬り伏せ、家系と国家からの決別を選択したアシュレの行動に、ジゼルは心を打たれていたのだ。

 

 いや、正直に言う。欲情した。

 こんな判断ができる男になっていたのか、と。

 

 と同時に、激しい落胆と嫉妬を憶えた。

 それはアシュレの心がすでに夜魔の姫のものになっているということにだ。

 神器:ハールート〉の聖水が焼かないのならば、アシュレの肉体はいまだ夜魔のものではない。

 心を縛られているだけだ。

 しかし、完全な操り人形ではないことはすぐにわかる。

 そうでなければ、あのように素早く立ち回れない。

 あれほど鮮やかに連携できるはずがない。

 なにより、アシュレはバートンの申し出に、葛藤していた。

 それは操り人形に――完全な下僕にできることではない。

 

 つまり、夜魔の姫はアシュレの心に強い“恋慕”“思慕”を植え付け、それによる自発的な行動を促しているのだ。 

 それがジセルの怒りに火を着けた。

 

 この女の、このおんなのためになら、アシュレ――オマエはすべてを振り捨てるというのか。

 そう思った瞬間、視界が真っ赤に染まった。

 

 なぜ、わたしのためにはしてくれなかった。

 オマエたちの輪に加わることなどできないおんな・・・だとわかっていたはずだ。

 光の側に入れぬおんな・・・だとわかったいたはずだ。

 どうして、こちらに来てくれなかった。

 輪の外に出て、おまえのぬくもりであたためてはくれなかった。

 そうしてくれさえいれば、そうしてくれさえいれば、ボクはオマエのそばに居れたのに。

 

 逆恨みだった。理不尽な怒りであった。

 

 だが、それは真情であった。

 これまで溜め込んできた激情がきつく詰められていた栓をはじき飛ばし、あふれ出た。

 現実には容赦のない殺戮として。

 

 そして、その激情に酔っていたからこそ、ジゼルにはこの“手”の伝えるぬくもりが恐ろしかった。

 さわるな、と抗おうとした。ふれるな、と拒もうとした。

 それなのに肉体がこわばり、動けない。

 

 翼の音がして。

 花びらが舞い。

 楽団と、言祝ぎの聖歌が降り注ぎ。

 光がさして。

 それが、ゆっくりと背後から。

 歩み寄って。

 触れる。

 

 同時に、ジゼルは手にすくい取られたアシュレを見る。

 まだかろうじて生きている。

 呼吸は止まっているが、命の炎は燃え尽きていない。

 

 “愛してあげてください”――背後のものが、そう言った。


 とたんに、ジゼルは激しい罪悪感に打ちのめされた。

 変わり果てたアシュレの姿にショックを受けたのだ。

 だが、それが自分の心に由来するものでないことを知り、さらに恐怖する。

 

 “愛してあげてください”――背後のものがジゼルを背後から抱きしめてきた。

 それはあたたかく、やわらかく、清浄で、清潔な匂いがした。

 

 こう言い換えてもよい。

 まったき善の、と。

 

 天使そのものに触れられているようだと、ジゼルには思えた。

 それはあまりに穢れなく、美しく、完全で――それゆえに恐ろしかった。

 

 “愛してあげてください”――背後のものがそういうたびに、アシュレに対する愛しさがどうしようもなく心にあふれ、それを感じるたびにアシュレを傷つけた自分に対する罪悪感でジゼルは心が壊れていくのを感じる。

 

 くしゃり、ぱきり、と音がする。

 どうして、どうして、こんな――ひどいことを、わたしは、ボクはアシュレに。

 

 “愛してあげてください”――責める調子などまるでないのに、そう囁かれるたび、その清浄なかおりを嗅ぐたびに、ジゼルの心は耐え切れない罰を受けるように折れてしまう。

 

 はい、とジゼルは頷く。

 愛します、と声にする。そうするほか、ゆるされる方法がないのだと、知っている。

 償います、と涙する。

 どんな手段を用いても。

 このひとを救います、と宣誓する。

 

 “だいじょうぶ”――背後にいる聖なるものはジゼルの宣誓を受け取り、請け負う。

 このひとは死なせない。

 よかった、ほんとうによかった、とジゼルはあえぎながら、喉を反らして、嗚咽して、なんどもつぶやく自分を発見する。

 聖なるものの浸透力は圧倒的で、ジゼルはもう自分が話しているのか、聖なるものがジゼルの口を借りて話しているのか、わからない。

 くしゃくしゃに壊れてしまった卑小な自分の心の代わりに、なにか・・・がジゼルを操っている。

 

 “でも……しんぱいなのです”――聖なるものが言わんとすることが、ジゼルにはよくわかった。

 いやそれは、聖なるものが考えていることがジゼルの考えであるかのように流れ込んでいるだけなのかも知れなかったのだが。

 

 それは今後のことだ。

 この愛しい男が、これから立ち向かう困難のことだ。

 法王庁を、国家を敵に回し、凶状持ちの異端者としてアシュレダウは世界を這いずり回ることになる。

 そう思うだけで、ジセルの胸は潰れそうになるほど軋むのだ。

 

 いや、ほんとうに軋んでいるのは背後に寄り添う聖なるものの慈悲深き心なのだが、それがいまのジゼルには我がこととして感じられる。

 侵食を受けているのだ。

 “守護してあげてもらえませんか”――カタチは懇願であり提案だったが、その言葉には抗いがたい強制力があった。

 アシュレダウを護れ、という有無を言わせぬ圧力だった。

 

 ジゼルは打ち壊され潰れていく自分の心に、聖なるものが侵入して、精神を流し込むのを感じる。

 ちょうどジゼルが〈ハールート〉でこの奥の院を沈めたように、それがかさを増すたびにアシュレへのどうしようもない愛がジゼルを打ちのめす。

 

 護るっ、護りますっ。

 どうしようもなくなってジゼルは叫ぶ。ぱくぱくと空気を求め唇が動く。

 叩きつけるような精神の流入を感じるたび、ジゼルの肉体にはこれまで味わったことのない快絶が走り、熱が満たされていくのだ。

 自分が失われていくのに、快感なのだ。

 

 “絶対に裏切らない存在――守護天使になってあげてくれませんか”――ついに聖なるものは決定的な要求をジゼルにした。

 応じたら、わたしはほんとうに消えてしまう、とジゼルは思った。

 

 同時に、それがなんだ、という声もした。

 こんな卑小な心の持ち主と、やがて救い主の父となる偉大な騎士を比べ、躊躇することなどあるのか、という声がした。

 

 それはジゼル好みの冷酷さだった。

 当然だった。ジゼル自身の声だったのだから。

 

 聖なるものの侵入は、すでにそこまで及んでいたのだ。

 アシュレダウの守護天使となる。

 絶対の味方、絶対の愛、永劫に連れ添い、ともに道のりを歩むもの。

 

 それはすばらしいことのように思えた。

 そこには燃焼がある気がした。

 そうだ。これが答えなのだ、とジセルは感得した。

 寒さに凍え、他者の炎に憧れながらも怯え、嫉妬し、己を欺き続ける――そんな生き方と決別する方法がある、とジセルは思い至っていた。

 

 それは、みずからを燃焼させることだ。

 炎となることだ。

 炎となり、かたわらの愛しいヒトをあたため続けることだ。

 

 だが、ジゼルは知らない。炎とヒトは決してひとつにはなれない。

 どれほどぬくもりを欲しても、火に飛び込めば、ヒトは灼かれ死に至るがゆえに。

 

 神話や伝説に語られる英雄たちの多くが孤独に死ぬのは、その証左に他ならない。

 彼らほど苛烈に、徹底的に、かけらさえ残さず燃焼することは――ヒトにはほとんど不可能な振る舞いなのだ。

 

 “なって、くださいますか”――その事実を伏せたまま、あるいは思いもよらぬのか――聖なるものは確認を取る。

 その声色はあくまで優しかった。

 慈母のように。聖母のように。

 同時にそれは、逆らいがたい威厳をもそなえていた。


 聖なる任務への服従に対する官能を掻き立てる声だった。


 はい、とジゼルが答えようとした瞬間だった。



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