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ハゲが晒される日

作者: 藤三井

 紀元前四十四年 三月十五日

       首都ローマ ポンペイウス回廊にて


 常日頃からアントニウスは疑問に思っていた。

 なぜ、自分の上司カエサルは、いつも市民冠(樫の枝で作られた冠)を被っているのだろうか。アントニウスがカエサルの部下となった日から、カエサルが市民冠を机に置いている姿など見たことがなかった。

 アントニウスは知らなかった。カエサルが市民冠で頭を隠しているのは、生え際の大きく後退した禿頭に悩まされているからだと。

 カエサルの腹心であり護衛でもあるアントニウスは、元老院議会への参加も許されている。そして今、当のカエサルは演壇に立ち、荘厳な面持ちの議員たちに小難しい言葉を投げかけているのだ。当然、頭には市民冠を乗せて。

 あの市民冠を下はどうなっているのか。何とかしてあの方の頭を直に見られないだろうか。四十歳過ぎのアントニウスの頭に、十代の少年のような思いが浮かんだ。

 どうすればあの市民冠を取り除けるだろうか。浅学で、腕っぷし一つのたたき上げであるアントニウスには、大したアイデアが思い浮かばなかった。


 その日の元老院の議題は、パルティア遠征についてのことだった。ギリシャを超え、さらに小アジアを横断するパルティア遠征はまさに国運を掛けた国家プロジェクトである。議員たちの表情も真剣そのものだった。

 回廊に座る議員たちに囲まれた中心の演壇で、カエサルは繰り返すように何度も力説した。ローマと並ぶ唯一の近隣諸国のパルティアは、何としてでも叩いておかねばいけない国なのだ。ローマの平和を確立するには、周辺国に対して優位性を保っておくのが絶対に必要だった。

 カエサルが背後の議員たちに向けて振り向くたびに、頭上の市民冠が少なからずズレるのを、アントニウスは見逃さなかった。しかしカエサルはサッと市民冠を整える。禿を人目につかせるのは避けたかった。


 何人もの議員がカエサルに同調した意見を出し始めたとき、一人の男が立ち上がった。その男の名はキンベルと言い、カエサルの部下である。しかし彼は上司であるカエサルとは、政治信条が異なっていた。

 カエサルは四百年続く共和政を時代にそぐわないものと感じ、事実上の独裁政治を目標としていた。反してキンベルはそのカエサルとは逆に共和政主義者である。そして何よりキンベルは、カエサルが禿頭を隠しているのが気に食わなかった。彼もカエサルと同様に禿ていたが、彼は禿であることを恥じてはいなかった。その彼にとって、同じ禿であるカエサルは、現実を受け入れない臆病者の禿だった。

 この時期、カエサル派と共和政派の対立が水面下で起きていたが、暴力を伴う事件までは発展しなかった。カエサルの頭がストレスで完全に禿げあがるような事態は起こらなかった。

 その共和政派のキンベルが、何も言わずに立ち上がったので、議員たちは何事かと囁き合う。当のキンベルは周囲の気も知らず、ゆっくりとカエサルの背後に忍び寄る。

 小さなざわめきがカエサルの耳に入る。それらを煩わしく思ったカエサルは、クルリと振り返る。

「諸君、少し静かにしてくれないか」

 彼は続けて何かを言おうとしたが、その声はキンベルがカエサルの両肩を掴んだことで遮られた。

 部下から突然の無礼を働かれたカエサルは、その部下に向けて言い放った。

「お前は私に暴力を振るうのか」

 キンベルは何も答えず、手に一層の力を込めた。カエサルはその両手を振り払おうとするが、キンベルは放さない。二人が動くたびに、両者の長衣(トーガ)が少しずつ乱れる。カエサルの頭上に鎮座する市民冠も僅かながらに揺れた。


 市民冠が僅かに動くのを見て、もう少しだ、とアントニウスは不謹慎にも期待した。自分の護衛すべき要人が、今まさに異常事態に巻き込まれていると言うのに、アントニウスはその場から立ち上がらなかった。

 まずアントニウスは、キンベルが本気でカエサルに危害を加えるとは思ってもいなかった。数年にわたる内乱の後、ローマの元老院は一枚岩なのだと彼は信じて疑わなかった。キンベルは少し強引な手を使ってでも、カエサルのパルティア遠征を取り止めさせたいのだろう、ぐらいにしか認識していなかった。

当時最高の知識人から「無教養な剣闘士並の男」と揶揄されたアントニウスには、政略と言うものがまったく欠けていた。抑え付けられていた反対勢力が我慢を爆発させるとどうなるか、彼は知らなかった。


 アントニウスに代わり、席を立つ男が一人いることに他の議員たちは気付かなかった。カエサルとキンベルの取っ組み合いに目を奪われていたからだ。

 会議中に立ち上がったその男、ブルータスの姿を視認した人々は誰もがこう思った。彼がカエサルをあの暴漢から守るのだ、と。彼に続いて何人もの男が立ち上がり、ブルータスの後を追うように、音を立てずカエサルにゆっくりと近寄る。その人数はブルータスを含めて十三人に達した。彼らの姿にカエサルは気がつかない。キンベル相手に必死で、周りに気を向ける暇がなかったのだ。


 カエサルは周りの議員たちに助けを求めなかった。恐らく彼は、自分の腹心であるアントニウスが助けてくれると思っていたのだ。もしくは、これからパルティア遠征の総司令官となる身である自分が、一人の男に肩を捕まれたくらいで助けを求めるのは無様なことだと自負していたのだろう。

「手を放せキンベル。お前の行動は元老院を辱めるに等しいものだぞ」

 カエサルの顔はみるみる険しくなり、声も徐々に怒声に変わりつつある。対してキンベルの顔は固まったままであった。その表情には並々ならぬ覚悟が感じられた。カエサルはようやく、肩を掴むキンベルの右手を渾身の力で払いのけた。頭上の市民冠が後頭部まで大きくずれ、少しずつ前頭部の禿があらわになる。そして、カエサルが気付くと、自分を取り囲むように、ブルータスら十三人の男が立っていた。

 彼らは、カエサルが自分たちに何か言葉を発すると同時に、各人が懐から短剣を取り出した。そしてその中の一人、カシウスと言う名の男が、短剣をカエサルに向ける。

「(「)あなたはローマを、共和政を破壊する男だ!」

 この短い一言を言い切るまでに、カシウスの短剣はカエサルの左脇腹に深々と刺さった。そして他の者たちも次々と短剣を抜き、カエサルに襲い掛かる。十四本の刃が一斉に一人の男を狙ったのだ。

 カエサルは暗殺者の一人に、自分の愛人の息子であるブルータスがいることに気付くと、霞むような声を出した。

「お前もか、若造」

 背中からさらなる刺突を受け、カエサルが大きくよろめく。そのせいで、かろうじて頭に乗っていた市民冠が床に落ちた。傷口を押さえ、彼は震える声で出来る限り叫んだ。

「み、見るなっ。私の頭を見るべきではないっ」

 カエサルは全身に二十三ヵ所の刀傷と、禿頭を晒される辱めを受け、短剣が引き抜かれるとその場に倒れ込んだ。

彼は絶命するまでに残された最後の力を振り絞り、自身の長衣(トーガ)で全身を覆い隠した。死に際の姿を衆目に晒したくはないと考えたのだ。しかし力及ばず、長衣(トーガ)は彼の禿頭を隠すまでには至らなかった。さぞや無念なことであっただろう。


 カエサル暗殺は、まさに一瞬の出来事だった。

 キンベルがカエサルに掴みかかったと思えば、そこに十三人の男が加わってカエサルを刺殺し、彼の禿頭を回廊の全員に晒したのだ。しかも犯人のほとんどがカエサルの部下たちだった。暗殺の一部始終を目の当たりにした元老院議員たちが呆然としてしまうのも無理はなかった。アントニウスもその中の一人だった。何より、自分が敬服する上官が禿を隠すことのみに市民冠を被っていたことが、アントニウスにとって最大の驚きだった。

 暗殺者らはカエサルが絶命するのを見届けると、辺りを振り返る。血糊が付いた短剣を手にし、返り血を浴びた集団を見て逃げ出さない者はいない。議員たちはポンペイウス回廊で唯一の出口である南扉から我先にと逃げ出した。アントニウスも同じだった。強靭な肉体を持つ彼でもさすがに丸腰では、剣を持った十四人には勝てなかった。


 誰もいなくなった回廊で、暗殺者集団は立ち尽くしていた。彼らは、自分たちと同じ思いの元老院議員が、カエサル暗殺に対して賛美の拍手を送ってくれると信じて疑わなかった。しかし賛同者はいない。ブルータスたちはあまりに過激派であったのだ。カエサルに反発する人々は、穏健派が多かったことを彼らは把握していなかった。

 ブルータスは足元に転がっているカエサルの市民冠を拾い上げ、頭上高くにかざして叫ぶ。

「禿の独裁者は死んだ! 共和政の伝統は守られた!」

 返事はない。彼の声が、むなしく建物内に響き渡るだけである。


 この日、禿の英雄カエサルは凶刃に倒れた。内乱を収束した男の死によって、ローマは再び内乱の炎に飲まれるのだった。禿のユリウス・カエサル、五十五歳の日であった。


 カエサル最期の言葉が「ブルータス」ではなく「若造」なのは、スエトニウスの『皇帝伝』を参考にしたからです。

 (スエトニウスの著書では「若造」ではなく「息子」である)

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― 新着の感想 ―
[一言] 笑ってはいけないんでしょうが。あまりにも内容が秀逸すぎて、思わず笑ってしまいました。よいものを読ませていただき有難うございました。
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