第35話 終局
奇跡だった。
誰もが、そう思った。
その瞬間。
アーデルハイドの背中から伸びていた三対六枚の白銀翼が――掻き消える。
一瞬だった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
白銀粒子へ分解され。
空間へ霧散していく。
「――っ!?」
開発局員達が息を呑む。
続いて。
背中に浮かび上がっていた中枢コアが、ゆっくりと光を失っていく。
ドクン。
最後の脈動。
そして。
白銀の円環は、静かにアーデルハイドの背中へ沈み込んだ。
皮膚の下へ。
肉体の奥へ。
再び封じられるように。
静かに。
完全に。
消えた。
術式モニターの警告表示が、一斉に変化する。
【高次元干渉率低下】
【封印共鳴反応減衰】
【対象安定化確認】
誰も動けなかった。
ただ、見ていた。
アーデルハイドの瞳を。
複数に分裂していた異形の瞳孔。
それが。
ゆっくりと。
一つへ戻っていく。
歪んでいた視線。
揺れていた焦点。
その全てが、少しずつ収束していく。
そして。
最後に残ったのは――。
いつもの。
透き通るような蒼い瞳だった。
「……ぁ……」
アーデルハイドの唇が微かに動く。
涙が滲む。
苦しそうに。
壊れそうに。
それでも。
確かに、アーデルハイド自身の目だった。
ミシェルが震える声で呟く。
「……アデル……?」
アーデルハイドは、ゆっくりと二人を見る。
ノア。
ミシェル。
抱きしめてくれている、大切な二人。
その瞬間。
張り詰めていた力が、全て切れた。
アーデルハイドの身体から、一気に力が抜ける。
「――っ」
崩れ落ちる。
だが。
床へ落ちることはなかった。
ノアが強く抱き止める。
ミシェルも必死に支える。
銀髪が、二人の腕の中へ流れ落ちる。
アーデルハイドは小さく息を吐いた。
瞳が、ゆっくり閉じていく。
その直前。
掠れた声が、微かに漏れた。
「……ごめん……」
次の瞬間。
完全に意識を失う。
静寂。
白銀粒子も、もう漂っていなかった。
崩壊しかけていた《オーロラ》も、静かに安定化していく。
最深封印区画にいた全員が、言葉を失っていた。
生きている。
アーデルハイドは。
まだ、人間として戻ってきた。
その事実を理解するまで。
誰も、しばらく動けなかった。
聖堂最上層。
中央監視議場。
巨大モニターに映る光景を前に――誰一人、動けずにいた。
崩壊寸前だった最深封印区画。
異形化した少女。
人類最強戦力ですら届かなかった壁。
そして。
奇跡のような生還。
評議員達は、ただ呆然とモニターを見つめていた。
軍部上層部ですら言葉を失っている。
封印管理局員は震えたまま立ち尽くしていた。
そんな中。
最初に動いたのは、ヴァイス=アークヴェルだった。
椅子から立ち上がる。
白銀の法衣が揺れる。
その瞬間。
議場の空気が変わった。
ヴァイスの瞳には、既に迷いがない。
統治者の目だった。
低く。
だが議場全体へ響く声で命じる。
「――不死隊待機班、最深封印区画へ急行」
「救援、負傷者回収、状況確認を最優先」
空間術式端末が一斉に起動する。
「中央開発局はオーロラ安定化を維持」
「高度医療班を追加投入しろ」
「第2大隊負傷者の生命維持を最優先とする」
矢継ぎ早に命令が飛ぶ。
止まっていた議場が、一気に動き始めた。
局員達が駆け出す。
通信術式が次々展開。
各部隊へ命令が送られていく。
その中で。
ヴァイスだけは、静かにモニターを見つめていた。
そこに映っているのは。
ノアとミシェルに抱きかかえられた、銀髪の少女。
異形ではない。
もう、普通の少女の姿だった。
ヴァイスは小さく息を吐く。
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……戻ってきたか」
その声には。
安堵と。
そして、底知れぬ不安が混じっていた。
適合実験は、終局を迎えた。
崩壊寸前だった最深封印区画も、辛うじて安定を取り戻していた。
高度封印術式は最低出力状態で維持。
白銀粒子も完全に沈静化。
第十二翼中枢コア反応は、アーデルハイド内部で停止状態へ移行した。
そして――。
アーデルハイド=セラフィーネは、そのまま聖堂深層域最奥。
封印区画内部に存在する高度医療室へ移送された。
そこは通常医療区画ではない。
対高次元汚染対応。
封印術式内蔵壁面。
神経侵食観測装置。
旧文明時代の生命維持設備。
国家最高機密対象専用の、完全隔離医療室だった。
白いベッド。
静かな機械音。
眠ったままの銀髪の少女。
その周囲を、高度医療班と中央開発局員達が慌ただしく動き回っている。
神経波形。
脳波。
高次元侵食率。
封印共鳴値。
どれも未だ正常とは言えなかった。
だが。
生きている。
アーデルハイドは、生還した。
それだけで奇跡だった。
そして。
適合実験全体の被害報告もまた、“奇跡”としか言いようがなかった。
重軽傷者――二百九十五名。
不死隊第2大隊――百二十五名。
後方支援部隊――八十五名。
白狼隊――四十二名。
封印区画損壊率――三十七%。
《オーロラ》一時崩壊寸前。
人類史上最大級の高次元暴走事故。
本来なら。
数千単位の死者が出てもおかしくなかった。
だが――。
死者。
ゼロ。
誰も、それを信じられなかった。
第2大隊隊員達も。
白狼も。
呼吸停止寸前だった。
あと数秒遅れていれば全滅していた者すらいる。
それでも。
誰一人、死ななかった。
高度医療班の処置。
白狼の即応。
《オーロラ》の維持。
様々な要因はあった。
だが。
それだけでは説明がつかなかった。
まるで。
“何か”が、最後の一線だけは越えさせなかったようだった。
聖堂最上層。
中央監視議場。
被害報告書を見つめながら、誰も言葉を発さない。
沈黙の中。
セレス=クロイツが、小さく呟く。
「……ありえない」
掠れた声だった。
「本来なら、全員死んでいてもおかしくなかった」
誰も否定できない。
あの瞬間。
第十二翼は、完全に異形化しかけていた。
それなのに。
最後の最後で。
アーデルハイドは、自我を取り戻した。
そして。
誰も殺さなかった。
ヴァイスは静かに目を閉じる。
脳裏に浮かぶ。
涙を流しながら。
“みんなを傷つけないで”と呟いていた少女。
異形へ呑まれながら。
それでも。
最後まで抗っていた。
ヴァイスはゆっくりと目を開く。
そして、小さく呟いた。
「……あの子が抗ったのだろう」
神へ。
第十二翼へ。
運命そのものへ。
人間として。
最後まで。
必死に。
その抗いが。
奇跡を起こしたのかもしれなかった。
その後。
エデン=ノア全域は、未曾有の混乱に包まれた。
第十二翼適合実験。
国家最高機密。
本来なら歴史の裏へ完全秘匿されるはずだったその実験は、あまりにも被害が大きすぎた。
聖堂深層域封鎖。
不死隊大規模負傷。
中央開発局緊急再編。
各部隊の移動。
何も知らされていない一般隊員達ですら、“何かが起きた”ことだけは察していた。
だが。
その中心人物達には、そんな混乱に構っている余裕すらなかった。
ミシェル=アークライトは、その後――両親にこっぴどく叱られた。
当然だった。
中央封鎖線突破。
高次元汚染領域突入。
異形化対象への直接接触。
どれも、本来なら即時拘束案件ですらおかしくない。
中央情報管理局局長室。
リリアの怒声が響いた。
「あなた、自分が何したか分かってるの!?」
「死ぬところだったのよ!?」
ミシェルは珍しく縮こまっていた。
視線を逸らしながら、小さく肩を震わせている。
エドワードも額を押さえながら深く息を吐いた。
「普通なら始末書百枚じゃ済まんぞ……」
だが。
最後までミシェルは言い返した。
涙目になりながら。
それでも。
「……でも、行かなかったらアデルが一人だったもん」
その一言に。
リリアもエドワードも、しばらく何も言えなくなった。
そして。
ノア=エルセリオン。
アーデルハイドを抱きしめ、高次元粒子へ直接晒された代償は大きかった。
神経焼損。
全身粒子侵食。
複数箇所筋断裂。
特に両腕は深刻だった。
無理もない。
暴走寸前の第十二翼へ、真正面から接触したのだ。
本来なら即死していてもおかしくなかった。
そのため。
ノアもまた、深層域医療区画で長期入院を余儀なくされた。
それでも。
目を覚ました第一声は。
「……アデルは」
だった。
高度医療班が呆れるほどだった。
そして。
カイル=レオンハルト。
彼だけには、休む時間すら与えられなかった。
白狼隊。
第2大隊。
第3大隊。
第4から第10大隊まで含めた一時再編。
負傷者補充。
深層域封鎖。
軍部強硬派への対応。
全てを抱えたまま。
カイルは、再び前線へ戻っていった。
まるで何事もなかったかのように。
だが。
その背中を見た者達は、皆理解していた。
もう以前のカイルではない。
第十二翼を知った。
人類の限界を見た。
その上で。
なお戦場へ戻っていく。
その姿は。
既に、“次の総司令”そのものだった。
そして。
第十二翼適合実験から数週間後――。
エデン=ノア中央軍部。
最高司令任命式。
歴戦の老将、グラン=ヴァルディスは静かに軍帽を置いた。
そして。
白銀の軍装を纏う青年へ向き直る。
「……あとは頼む」
短い言葉だった。
だが。
その意味を理解できぬ者はいない。
カイル=レオンハルト。
正式に。
エデン=ノア不死隊総司令へ就任。
史上最年少。
異例中の異例。
だが。
反対する者は、もういなかった。
白翼の少女が現れた日。
同時に。
エデン=ノアもまた、新たな時代へ足を踏み入れていた。
暗闇だった。
果てがない。
上下も。
左右も。
時間の感覚すら存在しない。
静寂だけが、世界を満たしていた。
アーデルハイドは、その黒の中に立っていた。
裸足だった。
白いワンピースだけを纏い、銀髪を揺らしながら、静かに周囲を見渡す。
「……ここ……」
声は、どこにも反響しない。
夢。
そう理解していた。
だが。
ただの夢ではないことも、本能で分かっていた。
その時だった。
――ドクン。
空間が脈動する。
暗闇の奥。
遥か彼方。
何か巨大な“光”が、ゆっくりと明滅した。
アーデルハイドの瞳が揺れる。
次の瞬間。
無数の白銀粒子が、闇の中へ舞い始める。
羽毛のようだった。
幻想的で。
けれど、どこか恐ろしい。
粒子はゆっくりと集束し、一つの形を作り始める。
翼。
白銀の巨大な翼だった。
機械にも見える。
生物にも見える。
神々しいのに。
どこか異形。
その翼は、暗闇の中で静かに浮かんでいた。
アーデルハイドは息を呑む。
「……第十二翼」
口から自然に言葉が漏れた。
すると。
翼が、ゆっくりと脈動する。
――ドクン。
その瞬間。
頭の中へ直接声が響いた。
『――ようやく』
声ではない。
言葉ですらない。
直接、意識へ流れ込んでくる。
古い。
遥か昔から存在しているような感覚。
アーデルハイドは一歩後ずさる。
「……誰」
沈黙。
そして。
翼が再び脈動する。
『お前は、私を拒まなかった』
『だから私は、お前を選んだ』
アーデルハイドの胸がざわつく。
違う。
これは会話じゃない。
もっと根源的な何か。
神経。
魂。
存在そのものへ触れてくる感覚。
アーデルハイドは唇を噛む。
脳裏に浮かぶ。
暴走。
複眼。
倒れていった隊員達。
そして。
ノアとミシェル。
「……違う」
掠れた声。
「私は、そんなものになりたくない」
翼が静かに揺れる。
『何故』
「傷つけたくないから」
即答だった。
震えながら。
それでも、アーデルハイドは真っ直ぐ翼を見る。
「みんなを傷つけるくらいなら、私は――」
そこで言葉が止まる。
怖かった。
自分の中にある“何か”が。
あの時感じた、圧倒的な力が。
翼は沈黙する。
しばらくして。
再び、意識へ声が響いた。
『人は弱い』
『脆く』
『すぐ壊れる』
『だから滅びた』
静かな声だった。
怒りもない。
悲しみもない。
ただ、事実を告げるような声。
アーデルハイドは拳を握る。
「それでも……!」
声を上げる。
「それでも、人は生きてる!」
「ノアも!」
「ミシェルも!」
「カイル隊長も!」
「みんな、生きようとしてる!」
暗闇へ声が響く。
アーデルハイドの瞳には、涙が滲んでいた。
「だから私は……!」
「人のままでいたい……!」
静寂。
世界が止まる。
白銀の翼が、ゆっくりと脈動する。
その時だった。
暗闇の奥。
翼のさらに向こう側。
巨大な“何か”の存在を、感じた気がした。
十二枚の翼。
星を覆うほど巨大な気配。
無数の光輪。
理解した瞬間、狂いそうになるほどの存在感。
だが。
次の瞬間には消えていた。
静寂だけが残る。
そして。
白銀の翼は、ゆっくりとアーデルハイドへ近づく。
逃げられない。
だが。
不思議と恐怖はなかった。
翼は、静かに彼女の前で止まる。
そして。
最後に、一つだけ言葉が響いた。
『ならば抗え』
『人として』
『最後まで』
その瞬間。
白銀の光が、世界を包み込んだ。
微かな電子音が響いていた。
規則正しい機械音。
生命維持装置。
神経観測モニター。
高次元粒子測定器。
様々な機器の音が、静かな空間へ溶け込んでいる。
アーデルハイドは、ゆっくりと目を開けた。
ぼやけた視界。
白い天井。
重い身体。
まるで長い夢を見ていたようだった。
「……っ」
喉が乾いている。
身体を動かそうとして、そこで違和感に気づく。
視界の周囲。
透明な壁。
いや。
ガラスだった。
アーデルハイドは小さく目を見開く。
自分がいる場所。
それは普通の病室ではない。
厚い封印ガラスに囲まれた、隔離室だった。
壁面には無数の術式が刻まれている。
白銀の封印ライン。
空間固定術式。
対高次元干渉結界。
まるで。
“危険物”を閉じ込める檻だった。
アーデルハイドの胸が、小さく痛む。
その時だった。
ガラスの向こう側で、誰かが声を上げる。
「――覚醒しました!!」
空気が一気に動く。
医療班員達が端末へ駆け寄る。
中央情報管理局員達が慌ただしくモニターを確認し始める。
無数の数値が空中へ展開されていく。
【対象覚醒確認】
【神経波形安定】
【高次元侵食率低下傾向】
アーデルハイドは静かに視線を動かす。
ガラスの外。
大量のモニター。
忙しなく動く医療班。
情報局員達。
そして。
そのさらに後方。
白銀の軍装を纏った白狼隊員達の姿も見えた。
その中には。
包帯だらけのまま壁にもたれ、こちらを見ているノアの姿もあった。
ミシェルもいる。
目を真っ赤にしながら、それでも笑っていた。
白狼隊員達も、静かにアーデルハイドを見つめている。
恐怖ではない。
確認するように。
“戻ってきた”ことを。
アーデルハイドは小さく目を伏せる。
――やっぱり。
そう思ってしまう。
自分は、もう普通じゃない。
あの日。
第十二翼を取り込んでしまった時から。
その時だった。
ガラス越しに、一人の白狼隊員が小さく姿勢を正す。
その動きにつられるように、周囲の空気が変わる。
規則正しい軍靴の音。
静かな足音。
白狼隊員達が道を開く。
そして。
ガラスの向こうへ、一人の男が姿を現した。
白銀の軍装。
長い銀髪。
静かな青い瞳。
カイル=レオンハルトだった。
アーデルハイドの瞳が、微かに揺れる。
カイルはガラス越しに、しばらく何も言わずアーデルハイドを見る。
まるで。
本当に“戻ってきた”のか確認するように。
やがて。
小さく息を吐き。
静かな声で言った。
「……おかえり、アーデルハイド」




