第28話 第12翼適合実験1
アーデルハイドは、暗闇の中に立っていた。
どこまでも果てのない黒。
足元も。
空も。
世界そのものが失われたような静寂。
自分が立っているのか、浮いているのかさえ分からない。
――冷たい。
そう思った瞬間だった。
『……ようやく、届いた』
声が聞こえた。
アーデルハイドは息を呑む。
聞いたことのない声だった。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
透き通るように美しく。
優しく。
どこか懐かしい。
まるで子守歌のように、静かに胸へ染み込んでくる声。
その声が響くたび、暗闇の奥で淡い白い光が揺れた。
「……誰……?」
アーデルハイドの声は、小さく震えていた。
返事はすぐには来ない。
代わりに。
ふわり、と。
白銀の羽根が一枚、闇の中を漂った。
息を呑む。
羽根は光の粒子を零しながら、ゆっくりとアーデルハイドの目の前へ落ちてくる。
触れようとした瞬間――。
背中が脈動した。
ドクン――。
あの痛み。
演習の時に感じた熱。
思わず背中を押さえる。
すると、暗闇の奥で“何か”が目を開いた。
巨大だった。
あまりにも巨大。
世界そのもののような白い光。
無数の白銀の翼。
十二枚。
神々しいはずなのに、なぜか胸が苦しくなる。
『まだ、思い出さなくていい』
再び、その美しい声が響く。
今度は少しだけ近かった。
『けれど――お前は、もう歩き始めている』
その瞬間。
アーデルハイドの背後に、淡い白光が広がった。
羽根。
光。
翼の輪郭。
そして。
暗闇の中で、誰かが微笑んだ気がした。
――ハッ。
アーデルハイドは勢いよく息を吸い込んだ。
心臓が激しく脈打っている。
白い羽根。
あの声。
十二枚の翼。
夢――だったのか。
荒い呼吸のまま、ぼやけた視界をゆっくり動かす。
白い光が滲んでいた。
まだ覚醒しきっていない頭で周囲を見渡す。
「……え……」
声が掠れる。
自分が寝かされているものの異様さに、ようやく気づいた。
ひどく広いベッドだった。
まるで患者一人のためではなく、“何かを収容するため”に作られたような巨大な医療台。
視線を落とした瞬間、全身が強張る。
腕。
胸元。
首筋。
背中。
無数の計器と管が取り付けられていた。
透明なチューブの中を淡い青色の液体が流れている。
脈拍モニター。
神経波形。
適合率測定。
見たこともない数値が空間投影されていた。
ピッ――……
ピッ――……
静かな電子音だけが部屋に響く。
「……なに、これ……」
起き上がろうとした瞬間。
背中に激痛が走った。
「っ……!!」
息が止まる。
焼けるような熱。
まるで背中の内側に何か巨大なものが埋め込まれているような感覚。
その時だった。
『生体反応上昇。覚醒を確認しました』
機械音声が響く。
直後。
部屋の奥に並んでいたモニター群が一斉に起動した。
青白い光が暗い室内を照らす。
そして。
重い自動扉が、低い駆動音と共に開いた。
静かな駆動音と共に、三つの人影が室内へ入ってきた。
最初に見えたのは、白銀の法衣。
「……ヴァイス、司教……?」
掠れた声でアーデルハイドが呟く。
エデン=ノア最高司祭――ヴァイス=アークヴェル。
その隣には、長い銀髪を束ねた女性。
中央開発局局長、セレス=クロイツ。
そして最後に。
白銀の軍装を纏った男。
「……カイル、さん……」
不死隊第1大隊隊長。
白狼を率いる英雄。
三人とも、いつものような表情ではなかった。
特にセレスは、険しい目で空間投影された数値群を見つめ続けている。
カイルもまた無言だった。
その沈黙が、逆に部屋の空気を重くしていた。
アーデルハイドはゆっくりと身体を起こそうとする。
だが。
「っ……!」
背中に走った激痛に顔を歪める。
その瞬間。
ピピッ――!!
複数のモニター数値が跳ね上がった。
セレスの視線が鋭く動く。
「起き上がらないで」
即座にセレスが言った。
普段学校で見せる教師としての柔らかさはなかった。
開発局局長としての声だった。
「まだ神経接続が安定していない」
「……神経、接続……?」
意味が分からなかった。
混乱したまま視線を落とす。
自分の背中へ伸びる大量の管。
青白く発光する術式。
そして。
医療台周囲に並ぶ、見たこともない巨大な拘束装置。
その光景に、心臓が嫌な音を立てる。
「……私、どうなったんですか……?」
小さな声だった。
部屋が静まり返る。
ヴァイスは目を閉じる。
カイルは拳を握る。
そして。
セレスだけが、まっすぐアーデルハイドを見ていた。
その瞳には、迷いと覚悟の両方があった。
「――アーデルハイド」
セレスが静かに口を開く。
「あなたは、第十二翼兵装に選ばれた」
アーデルハイドは、しばらく言葉を理解できなかった。
「……第、十二翼……兵装……?」
口の中で繰り返す。
知っている。
もちろん知っていた。
騎士学校で何度も習った。
旧文明崩壊後。
星外降臨戦争末期。
人類が“女神”から奪い取った十二枚の翼。
その最後の一枚。
第十二翼兵装。
対レムナント戦における、人類最大最後の切り札。
だが同時に――。
誰にも扱えなかった兵器。
旧文明時代から現代に至るまで、適合者は存在しない。
起動実験は全て失敗。
莫大な神経侵食。
暴走。
精神崩壊。
肉体崩壊。
記録上、生還者はゼロ。
存在しているのに、人類には使えない。
切り札でありながら、永遠に封印された矛盾の兵器。
それが、第十二翼兵装。
だから。
「……そんなの、ありえない……」
アーデルハイドは呆然と呟いた。
視線が揺れる。
セレスを見る。
ヴァイスを見る。
カイルを見る。
誰一人、否定しなかった。
その瞬間。
背中が脈動した。
ドクン――。
「っ……!!」
激痛。
同時に。
部屋中のモニターが一斉に警告音を鳴らす。
《神経同期率上昇》
《天使核共鳴反応増大》
《第十二翼封印層・再励起確認》
赤い警告表示が次々と空間へ投影される。
青白い術式光が、アーデルハイドの背中から漏れ始めた。
「抑制出力上げて!」
セレスが即座に叫ぶ。
室内の封印術式が起動する。
ガコン――!!
医療台周囲の拘束装置が展開。
幾重もの光輪がアーデルハイドを包み込む。
アーデルハイドは息を呑んだ。
自分へ向けられている。
封印。
拘束。
抑制。
まるで危険物のように。
「……なんで……」
震える声が漏れる。
「なんで、そんな……」
怖かった。
自分の身体ではないみたいだった。
すると。
カイルが一歩前へ出た。
白銀の軍装が静かに揺れる。
そして彼は、苦しそうに目を細めながら言った。
「……お前のせいじゃない」
その声だけが、今のアーデルハイドには救いのように聞こえた。
「……いや……」
アーデルハイドの声が震える。
背中が熱い。
痛い。
怖い。
理解できない。
視界の端では、無数の数値が点滅している。
警告音。
術式光。
拘束装置。
その全てが、自分へ向けられていた。
「……なんで……」
ぽろり、と涙が落ちる。
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
第十二翼兵装。
適合者。
封印。
抑制。
その単語達が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「私……なに……?」
震える指が、自分の身体を抱きしめる。
冷たかった。
まるで自分自身が、自分ではなくなっていくみたいだった。
「……怖い……」
涙が止まらない。
アーデルハイドはその場で崩れるように泣き出した。
「怖いよ……!」
ずっと強くあろうとしてきた。
騎士学校でも。
演習でも。
孤児院でも。
泣かないようにしていた。
迷惑をかけないようにしていた。
けれど今は無理だった。
背中の痛みが。
周囲の空気が。
自分を見る視線が。
全部が恐ろしい。
「……私、人間じゃ……ないの……?」
その言葉が零れた瞬間。
室内の空気が止まった。
ヴァイスが目を伏せる。
セレスの表情が揺れる。
カイルだけが、すぐに動いた。
彼は迷わず医療台の傍まで来る。
警告表示が浮かぶ。
《高次元粒子反応接近》
《接触危険性警告》
だがカイルは止まらなかった。
そして。
泣き崩れるアーデルハイドの前で片膝をつく。
「アーデルハイド」
低く、静かな声。
戦場で何度も死線を越えてきた男の声だった。
「こっちを見ろ」
震える蒼い瞳が、ゆっくりとカイルを見る。
カイルは真正面から、その瞳を見返した。
恐れるような目ではなかった。
化け物を見る目でもなかった。
ただ。
一人の少女を見る目だった。
「お前は人間だ」
迷いなく、カイルは言う。
「苦しんで、泣いて、怖がってる」
「だったら人間だ」
その言葉に、アーデルハイドの涙がまた溢れた。
「……でも……みんな……」
「違う」
カイルは遮る。
「誰もお前を化け物なんて見ていない」
その言葉のあと。
少しだけ苦しそうに、カイルは続けた。
「……少なくとも、俺は絶対にそう見ない」
「――アーデルハイド」
静かな声だった。
ヴァイス=アークヴェル。
エデン=ノア最高司祭。
国の統治者。
彼は泣き崩れるアーデルハイドへ向かって、ゆっくりと歩き出した。
だが、その瞬間。
「お待ちください!!」
周囲にいた研究員達が一斉に声を上げる。
「危険です!」
「まだ第十二翼反応が安定していません!」
「高次元粒子濃度が――」
誰もが顔を青ざめさせていた。
モニターには今も危険値が並んでいる。
第十二翼封印層の励起反応。
未知数の神経同期。
暴走可能性。
そして何より。
ヴァイスは、エデン=ノアの統治者だった。
もしここで何かあれば。
国家そのものが揺らぐ。
だからこそ、研究員達は止めた。
恐怖ではない。
使命感だった。
だが。
ヴァイスは歩みを止めない。
そして。
「――下がれ」
低く。
重く。
圧力を伴った一言が室内に響いた。
空気が凍る。
研究員達が言葉を失う。
その声音には、有無を言わせぬ威圧があった。
長年エデン=ノアを統べてきた者だけが持つ、本物の重み。
「ですが……!」
なおも誰かが声を上げかける。
その瞬間。
ヴァイスが振り返った。
ただ、それだけだった。
だが。
研究員達は息を呑み、誰一人それ以上言葉を続けられなかった。
ヴァイスは再び前を向く。
ゆっくりと。
泣き続けるアーデルハイドの前まで歩いていく。
警告表示が彼の周囲に浮かぶ。
《接近危険》
《高次元汚染領域》
それでも止まらない。
やがてヴァイスは、医療台の傍へ辿り着いた。
泣きながら身体を抱きしめる少女を見下ろす。
その蒼い瞳には、怯えしかなかった。
ヴァイスは静かに目を細める。
そして。
そっと、アーデルハイドの頭へ手を置いた。
研究員達が息を呑む。
高次元粒子警告値はなお上昇している。
だが。
ヴァイスは気にも留めなかった。
「……怖かったな」
その声は、とても静かだった。
統治者でも。
最高司祭でもない。
ただ、一人の大人としての声だった。
「よく頑張った」
アーデルハイドの肩が小さく震える。
「突然こんな場所で目を覚ませば、怖くて当然だ」
「分からなくて当然だ」
ヴァイスはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから今は、無理に理解しなくていい」
「……っ……」
アーデルハイドは涙を零しながら俯く。
ヴァイスの手は、変わらず頭の上にあった。
まるで幼い頃、孤児院で悪夢に怯えた子供を落ち着かせる時のように。




