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第26話 旅立ち

その後――予想に反して、穏やかな日常が流れていった。


騎士学校での生活。


ミシェルをはじめとした親友達との他愛ない会話。

授業。

合同演習。

食堂で騒ぐ昼休み。

放課後の訓練。


そして孤児院へ戻れば、ノアや弟妹達との賑やかな日々が待っている。


泣き虫だった子供が少しずつ成長し、

背の低かった子がいつの間にか肩まで届くようになっていた。


本当に穏やかだった。


だからこそ――一年半近い時間は、驚くほどあっという間に過ぎていった。


もちろん、その間も世界から戦いが消えたわけではない。


外周区画では幾度となくレムナント侵攻が発生し、不死隊の大規模動員も珍しくなくなっていた。


その影響は、騎士学校にも表れていた。


以前は実戦教官として度々姿を見せていたカイル=レオンハルトも、今ではほとんど学校へ現れない。


不死隊第1大隊隊長として、最前線を飛び回っているからだ。


セレス=クロイツも同様だった。


中央開発局での第十二翼関連計画と各兵装開発が本格化し、講義へ顔を出すことすら少なくなっていた。


昼休み。


中庭のベンチでパンを食べながら、ミシェルが小さく息を吐く。


「……なんか、ちょっと寂しいね」


アーデルハイドも静かに頷いた。


「うん。最近、本当にみんな忙しそう」


ヴァイス司教ですら、式典以外では姿を見る機会が激減していた。


孤児院へ来ることもほとんどなくなり、

今では顔を合わせるだけでも珍しい。


世界は、確実に何かへ向かって動き始めていた。


そして――。


昨年、ノア=エルセリオンは正式に不死隊への配属が決定した。


それだけでも異例だった。


だが、本当の衝撃はその配属先だった。


不死隊中央本隊。

特殊殲滅隊《白狼》を有する、第1大隊。


騎士学校卒業生史上初。


卒業と同時に第1大隊へ直接配属されたのである。


それはつまり――。


次代の《白狼》候補として期待されていることを意味していた。


騎士学校中に、その名は一気に広まった。


“ノア=エルセリオン”


次世代最強候補。


そう呼ばれるようになるまで、時間はかからなかった。


そして――。


ノアが騎士学校を卒業し、孤児院を出る日が来た。


第1大隊所属者は中央管理区画内の専用宿舎への入居が義務付けられている。


常時出撃態勢を維持するためだった。


その日の孤児院は、どこか不思議な空気に包まれていた。


祝いの日のはずなのに、

皆どこか静かだった。


食堂ではシスター達が朝から慌ただしく動き回り、子供達も「ノアにーちゃんすごい!」「白狼だって!」とはしゃいでいる。


けれど。


その中心にいるノア本人だけは、いつも通りだった。


荷物も少ない。


古びた鞄一つ。

不死隊支給の黒いコート。

壁に立てかけられた長槍。


それだけだった。


「……本当にそれだけ?」


部屋の入口に立ったアーデルハイドが呆れたように言う。


ノアは振り返りもせず肩をすくめた。


「十分だろ」


「十分じゃないと思う」


「物増えるの嫌いなんだよ」


ぶっきらぼうな返事。


昔から変わらない。


けれど――。


その背中は、もう“孤児院の兄ちゃん”ではなかった。


不死隊中央本隊所属。


特殊殲滅隊《白狼》候補。


人類最前線へ向かう者の背中だった。


アーデルハイドは小さく視線を落とす。


窓の外では、弟妹達がノアを見送る準備をしていた。


騒がしい声が遠く聞こえる。


なのに。


胸の奥だけが妙に静かだった。


「……アデル?」


ノアが珍しく、少しだけ気遣うような声を出した。


アーデルハイドは誤魔化すように笑う。


「別に」


「嘘つけ」


即答だった。


思わずアーデルハイドが頬を膨らませる。


「……だって、寂しいものは寂しいし」


その言葉に、ノアは一瞬だけ目を丸くした。


次の瞬間、小さく吹き出す。


「なんだそれ」


「笑わないで」


「悪い悪い」


笑いながらそう言う声は、昔と変わらない。


喧嘩して。

からかわれて。

一緒に叱られて。


気付けば、ずっと隣にいた。


本当の兄妹ではない。


血も繋がっていない。


それでも。


アーデルハイドにとって、ノア=エルセリオンは間違いなく“家族”だった。


だからこそ。


孤児院からいなくなるという事実が、思っていた以上に胸へ刺さっていた。


しばらく沈黙が流れる。


やがてノアは立ち上がると、アーデルハイドの頭へ軽く手を乗せた。


「そんな顔すんな」


低い声だった。


「会えなくなるわけじゃねぇよ」


その言葉に、アーデルハイドは小さく唇を噛む。


……わかっている。


不死隊本部は中央区画にある。

会おうと思えば会える。


けれど。


もう今までみたいにはいかない。


同じ孤児院で暮らし、

毎日顔を合わせ、

くだらない話をする日々は終わる。


それが、どうしようもなく寂しかった。


ノアはそんなアーデルハイドを見て、小さく息を吐いた。


「……お前も、すぐ来るだろ」


「え?」


「不死隊」


当然のように言う。


「お前、昔から無茶するし」


「どういう意味それ」


「そのまんまの意味」


少しだけ笑うノア。


そして最後に。


「待ってる」


その一言だけを残して、ノアは部屋を出ていった。


扉が閉まる。


ノアの足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


その背中を見送った瞬間だった。


――何故か。


本当に何故かはわからなかった。


胸の奥が、ひどく苦しくなった。


不思議だった。


ノアの卒業は嬉しい。


不死隊第1大隊。

《白狼》候補。


それがどれほど凄い事なのか、アーデルハイドは理解している。


孤児院の皆も誇らしそうだった。

シスター達も泣きながら喜んでいた。


だから、自分も嬉しいはずだった。


なのに。


遠ざかっていくノアの背中が――。


幼い頃に見た父の背中と重なった。


そして。


あの日、自分を救ってくれたカイル=レオンハルトの背中とも。


守るために戦場へ向かう人間の背中。


もう戻れない場所へ進んでいく者の背中。


その瞬間。


胸の奥に、言葉にできない不安が走った。


「……あれ」


アーデルハイドは小さく呟く。


不思議なほど静かだった。


弟妹達の声も。

廊下を歩く足音も。


何故か遠く聞こえた。


視界が滲んでいた。


気づかなかった。


本当に、気づいていなかった。


ぽたり、と。


雫が制服へ落ちる。


「……え」


そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。


涙は止まらなかった。


静かに。

次々と。


頬を伝って落ちていく。


まるで今になってようやく、

“離れてしまう”という実感が押し寄せてきたかのようだった。


「なんで……」


嬉しいはずなのに。


誇らしいはずなのに。


なのに胸が苦しい。


怖い。


あの背中が、遠くへ行ってしまう気がした。


もう子供の頃みたいには戻れない。


孤児院で笑い合っていた日々が、

少しずつ終わっていく。


その事実を、アーデルハイドは今になってようやく理解してしまった。


窓の外では、弟妹達の笑い声が聞こえる。


「ノアにーちゃん!」

「すげー!!」


明るい声。


祝福の声。


なのにその部屋だけが、取り残されたように静かだった。


アーデルハイドは俯いたまま、涙を拭う事もできなかった。


ただ胸の奥で、小さく理解していた。


――あぁ。


自分はこんなにも、ノアの存在に支えられていたのだと。


 そして――。


その過酷な実戦訓練に、全員が耐えられるわけではなかった。


騎士学校を去る者も、多くいた。


前線適応訓練。


それは単純な実力試験ではない。


恐怖。

疲労。

極限状況。

死を想定した判断。


それらに精神が適応できるかどうかを見極める選別でもあった。


模擬戦闘中に動けなくなる者。


仲間の撃破判定を見るたびに過呼吸を起こす者。


何日も眠れなくなる者。


逆に、戦場への適性が高すぎる者もいた。


騎士学校は、その全てを冷静に記録していた。


そして適応困難と判断された者達は、前線科目から外される。


騎士学校内にも後衛職課程は存在している。


通信管制。

兵站管理。

医療技術。

術式解析。

観測支援。

兵装開発補助。


だが、それらは別の意味で過酷だった。


高度な知識。

演算能力。

術式理論。

膨大な情報処理能力。


前線とは違う才能が要求される。


そのため、後衛課程へ残れる者も決して多くはなかった。


結果として、多くの生徒達が学校を去っていく。


一般行政区。

工業区。

農業管理局。

民間企業。

都市維持機構。


それぞれ別の道へ進むのだ。


それは敗北ではない。


エデン=ノアという国家そのものが、戦う者だけで成り立っているわけではないからだ。


だが――。


それでも。


荷物をまとめ、静かに学校を去っていくクラスメイト達の姿は、訓練生達の心へ確実に影を落としていた。


昨日まで隣で笑っていた人間が、今日はいない。


教室の空席が、少しずつ増えていく。


その現実が、“自分達は本当に戦場へ向かっているのだ”という事実を嫌でも理解させた。


放課後。


静まり返った教室。


空いた席を見つめながら、ミシェルが小さく呟く。


「……減ったね」


アーデルハイドは静かに頷いた。


返事はできなかった。


窓の外では、夕暮れの鐘が鳴っている。


けれど、その音はどこか遠く感じた。


騎士学校はもう、“夢を見る場所”ではなくなっていた。


人類最前線へ立つ者を選別する場所へと、変わり始めていたのである。


 そんな過酷な日々の中で――。


アーデルハイドとミシェルの関係も、少しずつ変わっていった。


最初は気の合う友人だった。


昼休みに一緒に食事をして、

放課後に訓練をして、

くだらない話で笑い合う。


ただそれだけの関係だったはずなのに。


実戦訓練を重ねる度に、

二人は互いを支え合うようになっていった。


吹雪の市街地戦。


濃霧下での索敵戦。


撤退戦。


長時間継続演習。


極限状況の中で、

互いの声だけを頼りに動く場面も少なくなかった。


「右ルート崩壊する!」

「わかった、飛ぶ!」


「アデル後ろ!」

「ミシェル伏せて!」


一秒にも満たない判断。


互いを信じ切っていなければ成立しない連携だった。


気付けば。


二人は、ただの親友ではなくなっていた。


背中を預け合う戦友。


そう呼べるほどの関係になっていたのである。


そして――。


ミシェル=アークライトには、以前から幾度となく誘いが来ていた。


中央情報管理局。


エデン=ノア中枢情報網を統括する国家機関。


ミシェルの両親も所属する、人類最高峰の情報管理機関だった。


索敵能力。

情報処理速度。

同時演算適性。

戦場リンク能力。


どれを取っても、ミシェルは突出していた。


早期編入。


特別育成課程。


卒業前の中枢配属。


それは騎士学校の生徒達から見れば、破格どころではない待遇だった。


だが。


ミシェルは、その全てを断っていた。


放課後。


静かな教室。


夕日に照らされながら、ミシェルは端末を閉じて小さく息を吐く。


「……また来てた」


「情報管理局?」


アーデルハイドが聞くと、ミシェルは苦笑する。


「うん。“そろそろ来ないか”って」


半分困ったような笑みだった。


普通なら断る理由などない。


将来も保証される。


安全性も高い。


何より、生存率が前線とは比較にならない。


けれど。


ミシェルは静かに首を横へ振った。


「卒業したら、ちゃんと行くって約束してるし」


そう言ってから。


少しだけ視線を逸らす。


「……でも、まだいいかなって」


「え?」


ミシェルは少し照れくさそうに笑った。


「私、まだアデルと一緒にいたいし」


その言葉に、アーデルハイドは目を丸くする。


ミシェルは続けた。


「前線って怖いよ」


静かな声だった。


「正直、今でも怖い」


「……うん」


「でもさ」


ミシェルは小さく笑う。


「アデルいると、なんか大丈夫な気がする」


その言葉に、アーデルハイドは少しだけ困ったように笑った。


同時に理解していた。


それは、自分も同じだった。


苦しい演習も。

終わらない訓練も。

戦場のような日々も。


ミシェルが隣にいるだけで、不思議と前を向けた。


だから二人は。


互いに支え合うように、

少しずつ、

確かに絆を深めていったのである。

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