重装袴と鞘の旅人
眩い光が収まると、俺は鬱蒼と生い茂る森の中に立っていた。
どうやら無事に「現世」へ到着したらしい。
「ふむ……空気がおいしいな。まあ、これが普通なんだが」
宇宙空間やブラックホールでの修行に慣れきった体には、心地よいそよ風すら物足りなく感じる。
俺は自分の身なりを確認した。
上は簡素な道着、そして下には漆黒の『袴』を穿いている。これはナユタ師匠が「修行は終わるまで気を抜くな」と持たせてくれたものだ。
一見ただの布切れだが、実は星の核を編み込んで作られており、その重量は山一つ分に匹敵する。俺はこの超重量の袴を穿いて、平然と歩けるまでに1000年かかったのだ。周囲には影響はなく対象者のみに重さを与えてくる。
そして、腰に差しているのは一本の柄と一体化した鞘。刀はない。
「これで修行するのじゃ」
と、出発前に師匠の空間に生えていた世界樹の枝をポキッと折って、適当に削って作ったものだ。
「よし、とりあえず人がいそうな場所を探すか」
その時だった。
『グルルォォォォォォォォッ!!』
森の空気をビリビリと震わせる、耳を劈くような咆哮が響き渡った。
続いて、微かな悲鳴。
「おっ、人か……! 修行の成果、試させてもらうとするか!」
俺は山一つ分の重さの袴を揺らしながら、縮地で一気に音を置き去りにして駆け出した。
◇ ◇ ◇
「ひっ……!」
森の開けた場所で、豪華なドレスの裾を泥で汚した銀髪の少女が、絶望に顔を歪めてへたり込んでいた。
彼女の周囲には、鎧を着た屈強な護衛たちが血を流して倒れている。
彼らを蹂躙したのは、見上げるほどの巨体を誇る四つ足の獣だった。
全身から燃え盛る炎を噴き出し、三つの首を持つ魔犬——Sランク指定の災害級魔獣『三頭獄炎犬』だ。
「お嬢様……お逃げ、くだ……」
「ダメよ! 私一人逃げるなんてできない!」
少女——リリアーナ・フォン・アルジェント公爵令嬢は、震える手で自身の杖を構えたが、放った氷の魔法は魔獣の熱気で触れる前に蒸発してしまった。
『ガアァァァッ!!』
魔獣の三つの口から、周囲を一瞬で灰にするほどの極大の火球が放たれようとした、その時。
「——よっと」
突如として、リリアーナの目の前に見慣れない黒袴の青年が舞い降りた。
「え……?」
リリアーナが呆然とする中、青年は魔獣の極大火球を、なんと「素手」でペシッと払い除けたのだ。
火球は空高く飛んでいき、空中で爆発した。
「あっつ。なんだ今の、少しだけ熱かったぞ」
青年は手をパタパタと振っている。火傷一つ負っていない。
「な、あなた……逃げてください! それはSランク魔獣です! いくらなんでも丸腰で……!」
「丸腰じゃないさ。ちゃんと武器はある」
青年は腰から、ただの鞘を抜いた。
「さ、鞘…だけ……!?」
絶望するリリアーナをよそに、青年は静かに息を吐いた。
「——『気』の練成」
その瞬間、青年の雰囲気が一変した。
魔力とは全く違う、圧倒的で濃密な「何か」が青年の体を覆っていく。
1000年の修行で彼が身につけたのは、世界に満ちる魔法ではない。己の生命力と魂の力を極限まで圧縮し、理の力として具現化する『気』の操作だった。
青年が気を纏うと、彼の皮膚は鋼を優に超え、神の盾すら凌駕する硬度と化す。
そしてその『気』は手にした鞘へと流れ込み——ただの木の棒が、かすかに黄金色のオーラを放ち始めた。
『ゴルルルォォォォッ!!』
獲物を邪魔された魔獣が激昂し、巨大な爪を振り下ろす。城壁すら紙屑のように引き裂く一撃だ。
しかし青年は避けることすらせず、その爪を左肩で直接受け止めた。
ガキィィィィンッ!!!
「嘘……」
リリアーナは目を疑った。魔獣の爪が青年の肩に触れた瞬間、嫌な音を立てて爪の方から砕け散ったのだ。
「なるほど、現世の生き物ってのはこんなもんか。……じゃあ、俺の番な」
青年は気を纏った木剣を、無造作に上段に構え——そのまま、スッと振り下ろした。
剣圧すら生じない、ただの素振りのような一撃。
しかし。
ズパァァァァァァァァァンッ!!!!
木剣から放たれた『気』の刃が魔獣を通り抜け、はるか後方の森を割り、分厚い雲を真っ二つに切り裂いて、空に一筋の青空を作り出した。
「……え?」
Sランク魔獣は声を上げる暇もなく、まるで綺麗に切られた果物のように真っ二つに分かれ、光の粒子となって消滅した。
後に残されたのは、綺麗に舗装されたかのように一直線に切り拓かれた、見渡す限りの荒野だった。
「ふぅ。ちょっと気が入りすぎたか。これでも手加減したんだけどな」
青年——は、鞘を肩にポンポンと当てながら振り返った。
「怪我はないか? お嬢さん」
「あ……えっと……ええっ!?」
リリアーナはパニックに陥っていた。
魔力など一切感じなかった。詠唱も魔法陣もなかった。ただの鞘を振っただけで、Sランク魔獣を両断し、地形を変えてしまったのだ。
「あ、あの……! あなたは、一体何者なのですか……!?」
「俺? 俺はジン。ただの修行中の身さ。理人ってのになるためのな」
重い袴を引きずりながら爽やかに笑うジンを見て、リリアーナは思わずポカンと口を開けることしかできなかった。




