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雨はやさしく噓をつく 第二部  作者: 黒崎 優依音
第四章 鏡の記憶
9/18

◆1:Spring Thaw



sideミスティアス




風がぬるくて、空が眩しい。


冬のあいだ凍りついていた空気が、ようやく動き出した。




教会跡の前庭では、町の人たちが集まっていた。


瓦礫の片づけ、修理の相談、花壇の手入れ――それぞれができることを、できる範囲で。


春の光の中、笑い声が時おり混じる。




セレスはその輪の中にいた。


王族らしい立ち姿のまま、見よう見まねで箒を手にしている。


慣れない動作のはずなのに、やけに楽しそうだ。




「……まさか王子様が掃除とはね」


通りがかりの青年が笑いながら声をかける。




セレスは一瞬きょとんとして、すぐに笑みを浮かべた。


「生まれて初めて触りました。


 これ、なかなか奥が深いですね。


 持ち手の向き、合ってます?」


「逆ぅ!」と子どもたちが一斉にツッコむ。


セレスが素直に直し、また笑いがほどける。




青年が吹き出した。


「ははっ、ほんとに“いいとこの坊ちゃん”だな」


「ええ、否定はしません。でも今はただの掃除人です」




軽口を交わすたびに、周囲の人たちの笑いが増える。


少し前まで閉ざされていた空気が、ゆるやかに解けていくのがわかった。




ミスティアスは壁際に腰を下ろし、その様子を眺めていた。


あの王子が、こんなふうに笑うのを見るのは初めてだ。




フィリアが横に来て、同じ方向を見た。


「ねえ、楽しそうだね」


「……だな」


「前に会ったときより、ずっと柔らかい顔してる」


「ああ、いい顔してる」




フィリアがくすりと笑う。


「あなたも手伝ってきたら?」


「俺は見守る役」


「はいはい、“見守りの貴公子”」




軽く肘でつつかれて、ミスティアスは苦笑した。




視線の先で、セレスが箒を振り回して砂埃を立てた。


町の子どもたちが「きゃーっ!」と逃げ回り、彼が慌てて謝る。




その光景に、ミスティアスは知らず笑みをこぼしていた。




『――なあミス。』


「……なんだよ」


『お前、ほんと顔に出ねぇな。


 口角、あと三ミリ上げとけ。


 春が逃げるぞ』


「……うるさい」


『へいへい。でも悪くねぇ顔してる。


 冬の間の死人みてぇなツラより百倍マシだ』




ミスティアスは返事をしなかった。


けれど、指先に残る光の感触を思い出して、ほんの少しだけ笑った。




『……いいな、こういう時間。


 あの王子も、お前も、やっと“息してる”』




風がふっと吹いて、瓦礫の上の布が揺れた。


『春はいいねぇ。人も町も、全部やり直せる。


 俺もそろそろ寝ぼけてらんねぇな』




「ナーバ、お前が寝ぼけたら俺が困る」


『んじゃ起きてるよ。


 ……お前がまた笑うとこ、見たいしな』




――春ってのは、こういうもんだな。


寒さのあとに、少しうるさいくらいの笑いが戻ってくる。


その音が、妙に心地いい。




彼は深く息を吸った。


陽の光がまぶしくて、目を細める。


この場所に、確かに“生きてる”音が戻ってきていた。






sideユリカ




春の陽がやわらかく差し込んでいた。


崩れた教会の跡には、まだ石片と灰が残る。


けれど風はもう、冬の匂いではなかった。




ユリカは袖をまくり、瓦礫を丁寧に拾い上げていた。


その手首には、白いリボンが結ばれている。


ほどけそうになるたびに、彼女はそれを確かめるように撫でた。




――泣かないで、ユリカ。これ、君にあげる。




その声を、何度も心の奥で繰り返した。




「……母さん、手伝うよ」


ミスティアスが声をかける。


後ろには、祈りの石を抱えたフィリアと箒を愉しげに握るセレスの姿もあった。




「ありがとう。気をつけてね。瓦礫の下はまだ脆いから」


ユリカが微笑むと、フィリアも頷いてそっと手を伸ばした。


「じゃあ僕はここを掃いたらいいのかな」


大きな瓦礫が取り除かれた後をセレスが掃き清める。


四人で並んで作業をしていると、門の方から小さな声が聞こえた。




「……あの、すみません」




振り向くと、旅装の二人が立っていた。


少女――エルは、陽光の粒を集めたような亜麻色の髪を風に揺らしている。


瞳は淡く金色に光り、どこか不思議な静けさを宿していた。


隣には、碧がかった銀髪の青年――スティリオ。


冷静な紫の瞳が、壊れた教会を見渡している。




「あなたが……ここの方ですか?」


「ええ。いまは再建の途中で……。


 もしお困りなら、どうぞ中へ。少しなら休めますよ」




ユリカがそう言うと、少女が小さく息を呑み、


「……ありがとう」と微笑んだ。


その笑顔が光を受けた瞬間――




ユリカの手首に結んだリボンが、ふわりとほどけて風に舞った。


「……あ」


エルが反射的に手を伸ばす。


金の瞳がリボンを追い、指先が触れた、その瞬間だった。




眩い光が、静寂の教会に広がった。




「な……に、これ……?」


エル自身も戸惑ったように呟く。


スティリオが思わず腕を伸ばし、彼女を支えた。




光が膨らみ、空気が震える。


次の瞬間、視界が溶けて――世界が変わった。






*** *** ***




目の前の景色が、色とりどりのリボンが並ぶ雑貨屋の棚の前へと変わる。


まだ10歳にもならないだろう、栗色の髪に藍色の目をした少年が商品棚に手を伸ばして見比べてはまた戻すのを繰り返していた。




「その歳で、ずいぶん真剣な顔だねぇ」


店主が声をかけると、少年――ルアルクはびくりと肩を揺らした。




「……え?」




「好きな子にでもあげるのかい?」


「……っ」




声にならない。


否定の言葉も出てこなくて、顔だけが見る間に赤くなる。




店主が目を細めて笑った。


「ああ、なるほど。そんな顔なら、何も言わなくていい」


「……別に、そういうんじゃ……」




小さく呟いたその声は、蝉の音にかき消された。






店の外に出ると、真夏の日差しが眩しかった。


紙袋の中には、小さな白いリボンがひとつ。


何度も悩んで、何十回も見比べて、やっと選んだ。




「泣いてた子には、明るい色がいいよ」


店主の言葉を思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。




(似合うだろうか。喜んでくれるだろうか)




彼女の笑顔を思い浮かべた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。


息をするのも忘れるほど、心臓がうるさかった。




その感覚を、彼はまだ知らなかった。


けれど――その日、確かに何かが始まった。






「……ユリカ、これ」


小さく差し出したリボンを、少女は目を丸くして見つめた。




「わあ……きれい」


そして、笑った。




「泣かないで、ユリカ。


 これ、君にあげる」




「……ありがと、ルアルク」


彼女の笑顔。


涙混じりだけど、世界を照らすような光。




その笑顔を見た瞬間、世界が変わった。


光が差したとか、風が吹いたとか、そういうことじゃない。


ただ、自分の中の何かが、確かに動いた。




(ああ――この人の笑顔を、守りたい)




少年は言葉もなく見惚れて――




(この人が笑ってくれるなら、僕は何だってする)




その幼い誓いが、金色の光とともに空へ溶けていく。






*** *** ***




sideミスティアス




ミスティアスは息を呑んだ。


胸の奥が、誰かの心臓みたいに高鳴る。


見知らぬ少年――いや、幼いルアルクの心の鼓動が、自分の中に響いてくる。




(なんだ、これ……)




ユリカが笑う。


光の中で、白いリボンを手にして。


その笑顔を見た瞬間、世界があたたかい色に変わった。




胸が熱くて、痛くて、泣きそうになる。




「――これが、“好き”か」




誰の声でもなく、感情そのものが言葉を持った。




『へぇ……ミスティアスもやっと恋を知ったか』


「……なんだよ」


『その感情を人間は“恋”って呼ぶんだろ?


 いいよな、青春ってやつ』




ナーバの軽い声が、少し照れ臭くて、でも優しく胸に響く。


彼は返事をしなかった。


だけど、胸の中に熱はまだ残っていた。




「……まるで、夢を覗かれているみたいね。


 忘れてはいなかったの。


 ただ……自分の中では、もっと小さな記憶だったのよ」




その声が少し震えていて、ユリカらしい理性と優しさが滲む。




「ルアルク……あんな顔していたなんて」




その呟きにミスティアスは母を見る。


優しい、慈愛に満ちた表情だった。




その視線に気が付いたユリカが笑う。


「ふふ、あなたの父さんとは違う優しさでしょう?」


「……ああ。でも、わかる気がする、


 あの人のこと、好きになった理由」




「……お父さん……。


 ユリカさんのあの時の笑顔……。


 お父さん、きっと嬉しかったと思うよ」




フィリアの言葉に、ユリカが照れたように笑う。




エルは、一人震える指先で何かを探るように自分の右耳に触れた。


そこには赤い石のついたイヤーカーフが日の光を反射して光っていた。


「……あたしも誰かをこんな風に想っていた……はず。


 この胸の高鳴りを……知っている。


 なのに、その相手が誰だったか、何も思い出せない」




「大丈夫、ゆっくり深呼吸。


 呼吸を合わせて、吐いて、息を吐ききるように吐くことだけに集中して」


隣で寄り添うスティリオがエルを落ち着かせる。


その様子をあまり深く見ていてはいけない気がして、そっと彼は目を逸らした。




『……なぁ、ミス』


「……なんだよ」


『人の”好き”を覗くのは、案外キツいだろ。


 でもそれ、悪いことじゃねぇ。


 お前も誰かを守りたいって気持ち、もう知っているだろ』


「……守りたい、か」


『そう。愛とか恋とか難しい言葉より、そっちのが性に合ってんだろ?』




彼は小さく息を吐いた。




一人、壁際で箒片手にぼんやりと立ち尽くしているセレスに気が付くと、ミスティアスはそちらに近づき、彼の肩にポンッと軽く触れた。




『ほらな、もう守りてぇ顔してる』




ゆっくりと彼の視線がミスティアスの方へと向く。


アメジストの瞳が、迷うように揺らいでいた。


「今日は、時間はあるのか?」


「あ、ああ……問題ない、と思う」


「なら、うちに泊まっていけよ。


 ――話がある」





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