◆3:Freeze & Flame
sideミスティアス
森の奥は、夜になると風の音すら吸い込んでしまう。
焚き火の赤がゆらぎ、木々の影が雪の上に長く落ちていた。
「先に祈ってくるね」
フィリアが言って、結界石を手に少し離れた祈りの台へ向かう。
その姿を見送るミスティアスの耳に、ナーバの低い声が落ちた。
『……まだ泣いてんじゃねえか? あの子』
「見てやりたいけど……あいつ、祈りの時は一人にしてほしいって言うんだ」
『ああ、強がるタイプだもんな』
小さく笑って、火の枝をつつく。
火花がはじけて雪に落ちると、白い煙が上がった。
セレスは少し離れた場所で、自分の外套を外し、焚き火のそばに掛けて乾かしている。
昼間の戦闘で氷の破片を受け、裾が濡れていたのだ。
ミスティアスがそれを見て声をかける。
「乾いたら寝とけよ。今日は冷える」
「そうしたいけど……君の剣の唸り声がうるさくて眠れないかも」
「……こいつのせいにすんなよ」
『おい、王子、喧嘩売ってんのか?』
セレスが肩をすくめて笑う。
その仕草が、焚き火の光を受けてどこか柔らかく見えた。
「……君、変わってるね」
「何が」
「他人に踏み込みそうで、踏み込まない」
「――さあな」
目を逸らそうとした瞬間、セレスが軽く息を呑んだ。
上着の留め具がぱちりと外れた音がして、彼の身体を覆っていた布がふわりと緩む。
「……っ」
反射的に手を伸ばし、彼の肩口を押さえた。
その指先の下、触れた身体の線は――想像していたものとまるで違った。
「おい、これ……」
セレスは一瞬だけ息を止めたが、すぐに視線を上げて言った。
「……見た通り。私は“王子”じゃない」
その声は、焚き火の音と同じくらい淡々としていた。
「母の見栄のために生まれた“王子”よ。
側妃に負けたくなくて、自分の唯一の子が王女なんて許せなかった。
……だから私は、あの人のために男にされたの」
彼女は笑った。けれどそれは、笑いの形をした呼吸だった。
「くだらない話。忘れていい」
ミスティアスは何も言わず、ただ視線を外した。
外套を脱ぎ、彼女に差し出す。
「寒いだろ」
セレスは一瞬だけ彼を見上げた。
その目の奥に、かすかな戸惑い。
「……優しいんだね。危ないよ。
人はそういう優しさで、壊れることがある」
「壊れたら、どうする」
「さあ……。その時は、壊した人が責任を取ればいいんじゃない?」
焚き火がまた弾け、光が二人の間を照らした。
ミスティアスは何も返さない。
セレスは小さく息を吐いて、外套の中に顔を隠した。
「……ほんと、愚かね」
そう呟いた自分の声に、
彼女自身が少し驚いていた。
渡された外套は大きく、肩からすっぽり包まれる。
袖が長すぎて、指先が隠れた。
「似合うよ」
「やめて。……少し恥ずかしい」
彼女はそう言いながらも微笑んだ。
火の粉が舞い、雪の冷たさを消していく。
ナーバが低くつぶやく。
『……いい夜だな。お前、泣き虫の姫さんに会った時みたいな顔してるぞ』
「やめろ」
『また守ろうとしてるんだろ?』
「……違うよ。守りたいんじゃなくて、放っとけないだけだ」
視線を火に戻すと、外套の奥でセレスが小さく息をしていた。
その肩の動きが、雪よりも儚く揺れる。
(……放っとけない、なんて。
俺も少し、父さんに似てきたのかもしれないな)
雪が舞い、夜が深く沈む。
祈りを終えたフィリアの足音が、遠くから近づいてきた。
二人は視線を交わし、何もなかったように焚き火に目を戻す。
そして、ただ静かに、夜は更けていった。
sideミスティアス
夜明け前の森は、静けさの底で息をひそめていた。
雪の上に淡い光が差し、氷のような冷気が肌を刺す。
ミスティアスは剣を抜き、吐息で白く曇った刃を見つめた。
傍らでは、セレスが外套の裾を整えながら、淡く光る魔法具の留め具を調整している。
その仕草には無駄がなく、どこか儀式めいていた。
「……気配がする」
フィリアが小さく呟く。
祈りの石が彼女の掌で淡く光り、結界が薄く震えた。
「三体、前方。距離、四十メルト」
ミスティアスは短く応じ、足場を確かめる。
ナーバが低く唸る。
『来るぞ。闇喰いの下位種だ』
黒い霧のような影が木々の間を走り抜け、形を持たないまま雪を焼いた。
その気配だけで、空気がざらりと重くなる。
セレスが一歩前へ出る。
「私が温度を下げる。君はその間に斬れる?」
「任せろ」
彼女の指先が青く光る。
瞬間、空気が凍りついた。
風が止まり、雪片が宙に留まる。
動きを止めた闇の影に、ミスティアスは一閃を叩き込む。
刃は空を切ったように見えた。だが、霧の核が弾け、光が静かに散った。
『ひとつ。残り二つだ』
「了解」
セレスが息を吐き、髪が赤みを帯びる。
空気が一転して熱を帯び、氷が蒸気に変わる。
その熱に照らされて、影が身を捩った。
「冷と熱、両方使えるのか……」
「バランスをとるのが難しいんだよ。
君の魔力、少し貸りる。
――触れていい?」
「ああ」
指が重なり、温度が揺れる。
黒の魔力が、青と赤の間をゆらめく。
それが混ざり合い、爆ぜた光が闇を貫いた。
残りの二体が、蒸気とともに霧散する。
雪が落ちる音が戻った。
世界が息を吹き返したように静かになる。
「……やるじゃないか」
「あなたもね」
セレスが微笑み、手を離す。
ミスティアスは少し遅れて気づいた。
掌が、まだ温かかった。
フィリアが駆け寄る。
「大丈夫? 二人とも」
「問題ない」
「……少し熱いだけ」
セレスがそう言って笑う。
頬が赤く染まり、息が白く溶けた。
ナーバがぼそりと呟く。
『まるで、恋人同士の訓練だな』
「黙っとけ」
『おう、了解。だが図星だろ』
ミスティアスは無視して剣を収めた。
見上げた空は、冬の雲の切れ間から淡い光を差し始めている。
戦いのあとに残る静けさ。
それは、どこか満ち足りた沈黙だった。
◇
焚き火が小さくはぜる音だけが、夜明けの森に残っていた。
揺れる炎の向こうで、フィリアが眠っている。
その隣には、外套に包まれたセレス。
あの細い肩が、まだかすかに震えている気がした。
(あのとき、手を離すのが惜しいと思ったのは……どうしてだろう)
黒の魔力は、いつも冷たいはずなのに、
彼女の手を通ったときだけ、やけに穏やかだった。
ナーバが小さく唸る。
『……なあ、ミス。お前、背負い過ぎだ』
「違う。ただ、放っとけなかっただけだ」
火の粉が舞い上がり、静かに消える。
その光が、少しだけ父の背中に似て見えた。
(俺はまだ、父さんみたいにはなれない。)
(でも、誰かを守りたいって気持ちは、きっと――同じなんだろう。)
焚き火の熱が指先に残る。
不思議と、寒くなかった。




