◆1:Cold Open: A Quiet Breakup
sideミスティアス
夕暮れの王都は、冬の風が頬を切るほど冷たかった。
吐く息が白く溶け、空には薄い雪雲がかかっている。
ミスティアスは壁にもたれたまま、手袋の端をいじっていた。
その前で立ち止まっているのは、赤毛の少女。
一週間ほど前に彼に告白し、いちおう“付き合っている”ことになっている相手だった。
彼女の指先が震えているのを、彼は黙って見ていた。
「ねえ、ミスティアス……」
「ん?」
「どうして、あなたは……いつもそうなの」
問いの意味が分からず、彼は首を傾げる。
彼女は一歩、近づいた。
彼の胸元を掴むようにして、つま先で伸びあがる。
唇が触れた。
柔らかく、熱を帯びて、それでも一瞬の出来事。
彼は動かない。
拒まないし、抱き寄せもしない。
ただ、受け止めるだけ。
少女が目を開けた時、そこにあったのは“何も返さない”瞳。
「……ごめん、やっぱり無理みたい」
小さく、それでもはっきりとした声。
目の前の少女は、寒そうに外套の袖を握りしめたまま視線を落としていた。
ミスティアスは苦笑した。
驚くほど、胸の奥は静かだった。
「そっか。……ありがとな」
「……どうして?」
「え?」
「あなたからは、何も返ってこない。
私が“好き”って言っても、ただ笑って、困った顔をするだけ」
言葉の刃は痛くなかった。
ただ、雪が降るみたいに、静かに胸の中に落ちていった。
「ごめん。俺、誰かに追いつくのが下手なんだ」
少女は何も言わず、少しだけ唇を噛み、それから踵を返した。
その背中が人波に溶けていくまで、ミスティアスはただ立ち尽くしていた。
冷たい風が頬を撫でた。
ナーバが腰の鞘の中で低く唸る。
『……またフラれたな』
「言うなよ」
『お前さ、“受け身の貴公子”とか呼ばれそうだな。動かないくせにモテるタイプ』
「知らねえよ、そんな称号」
軽口のつもりだった。
けれど声が思いのほか掠れて、自分でも笑ってしまう。
『……お前、またやっちまってたぞ』。
「何を」
『“守る”つもりで、何もしてねえやつ。』
「……違うだろ。ただ、望まれなかっただけ」
『望まれねえのは、お前が何も望まねえからだ』
ミスティアスは目を閉じ、深く息を吐いた。
白い息が陽光の中に溶ける。
「……父さんが聞いたら、笑うだろうな」
『いや、泣くな。間違いなく』
空を見上げると、灰色の雲の切れ間から、薄い光が滲んでいた。
雪が降りそうだ。
去っていく少女の背を見送るでもなく、ミスティアスはその場に立ち尽くしていた。
風の音と、ナーバの小さなため息だけが響く。
『……お前、本当に“鈍感の天才”だな』
「放っておけ」
『放っとけねえよ。あんな綺麗な子泣かせておいて、眉ひとつ動かねえとか――』
ナーバの愚痴を遮るように、後ろから声がした。
冷たい風の中、柔らかく笑うような声。
「――わあ、罪作りだね」
石畳の向こうで、ストロベリーブロンドが光る。
「通りすがりに、静かな終わりを見ただけ。ごめん」
彼は肩をすくめ、優雅に礼をした。
「セレスタン・エル・ランス・リアギス。
この国の――まあ、第三王子です」
その声は冷たいのに、不思議と温かさを帯びていた。
冬の空気に似た、矛盾した温度。
「……王族?」
「正確には“王族の端っこ”だね」
青年――いや、“王子”は笑った。
灰色の空の下、彼の髪は淡い陽光を受けてわずかに赤く揺れる。
冬の空気の中で、それはまるで凍てつく炎のようだった。
マントの下には王族らしい刺繍の入った上着を着ているが、肩口や袖には細かな擦り傷があり、整いすぎた貴族の装いというよりも、どこか旅装めいた実用性のにおいがした。
胸元をゆるく留めた外套の内側には、魔法具と思しき金糸の留め具が光を反射している。
そのデザインは、“体の線を隠す”にはあまりに自然で――
それが意図的なものだと、このときはまだ誰も気づかない。
「安心して。今日は君に求婚に来たわけじゃない」
片手を軽く上げる仕草も優雅だが、どこか芝居がかっていた。
「討伐依頼の相談だよ。
……シェイ様の息子、ミスティアス・ディアンヌ・ナーバ殿。
君にしか、頼めないことなんだ」
――この瞬間から、何かが動き出す。
彼はまだ知らない。
この出会いが、
“受け身の恋”しか知らなかった彼の心を、
ゆっくりと、熱で溶かしていくことになるとは――。
sideミスティアス
王都の大通りは薄い雪に覆われていた。
白い息がひとつ、またひとつ流れていく。
討伐依頼の書状を手にしたまま、ミスティアスは立ち止まった。
視線の先には、城門の前で待っているストロベリーブロンドの青年。
セレスタン・エル・ランス・リアギス。
――この国の第三王子。
「で? 本気で俺を連れてく気か?」
「もちろん。シェイ様の息子を借りられるなら百人力だろう?」
「……簡単に言うなよ」
「難しく考えすぎだよ。魔物は理屈で止まらない」
ミスティアスは沈黙したまま、雪の上に視線を落とした。
靴先が白を掻く。
冷たい風の中、手袋越しにナーバの柄を握りしめる。
『……行くのか?』
「まだ、わからない」
セレスが軽く首を傾げる。
「そんなに迷うこと?」
「俺が行って、何ができる」
「戦えばいい」
「闇は、斬っても消えない」
その言葉に、セレスがふっと笑った。
「……ああ、なるほど。
“黒の守護者”と同じことを言うんだ」
ミスティアスの眉がぴくりと動く。
「知ってるのか、父を」
「“黒の守護者”を知らない王族なんていないよ。
でも、私は――“彼みたいにはならない”って思ってる」
「……どういう意味だ」
「信じることばかり上手で、頼るのが下手な人だったんでしょう?」
「……」
沈黙。
雪がひとひら、ミスティアスの肩に落ちた。
『おい、ミス。』
ナーバが小さく唸る。
『そいつ、お前の癇に障るタイプだぞ』
セレスは構わず笑みを崩さない。
「怖いんでしょ、“父上の幻影”に負けるのが。
誰かに見られるたびに、“シェイ様の息子”って呼ばれる。
でも――君自身は、誰なのかな?」
その瞬間、ミスティアスは顔を上げた。
紫の瞳をまっすぐに捉える。
「……俺は、俺だよ。
“誰の息子”でもなく、“俺”として行く。
――あんたの挑発に乗るわけじゃないけどな」
セレスの唇がゆるく持ち上がる。
「それでいい。じゃあ、出発は明日。日の出と同時に」
踵を返し、マントが風に翻る。
冬の陽が、淡い金糸の留め具に反射した。
ミスティアスはため息を吐く。
『……やっぱ行くのか』
「放っておけない」
『そういうとこ、そっくりだな……あの人に』
「……うるさいな」
手の中の剣が、雪の光を返す。
その刃に映るのは、もう迷っていない自分の顔だった。




