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雨はやさしく噓をつく 第二部  作者: 黒崎 優依音
第十四章 誓いの空の下で
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◆2:The Words of a Mother



過ごしやすい気温の中、爽やかな五月の風が並んで歩く三人の間を吹き抜けた。


風に混ざって土のにおいや緑の葉のにおいも運ばれてくる。




ルアルクは生後半年を迎えたファリスを抱き、ユリカに合わせてゆったりと歩く。


ユリカはそっと左手をまだ目立たない下腹部に添えた。


ほぼ無意識に、そこにある命を守る仕草をしてしまうのは、間違いなく母親のそれだった。




「ユリカ、大丈夫? 無理はしないで」


「もう、大丈夫よ、ただ歩いているだけだから。


 あなたの基準に合わせたら、私は絶対安静の重病人になってしまうわ」


心配性な夫への対応も慣れたもので、さらりと躱すと教会のすぐ横手にあるナーバ邸への道を歩いた。




昨日のミスティアスの誕生日に合わせて行われた、王城での婚約発表を受けて、教会にもいくつか書類を提出した。


その中の一つが、成人後の後見人期間の延長をお願いするものだった。




「ありがとう、お父さん。


 正直まだまだ一人ではできないことだらけで……。


 覚えられる気しないけど……頑張る」


「気にしないで。


 僕なんかが、君にしてあげられることがあるのが嬉しいから。


 僕も完璧じゃないから、一緒に二人で学んでいこう」


シェイが残した公爵家としての役割を、ミスティアスがルアルクの手を借りながら学ぶ。


シェイは国家治安局――通称ガーディアンの仕事をしながらなんてことない顔でこなしていたのかと思うと、彼の凄さを改めてミスティアスは感じた。




「結婚したらこっちの家のほうをメインに暮らそうと思っているんだ」


ミスティアスが、ナーバ邸の外観を眺めながら言う。


「あら、いいと思うわ。


 シェイさん、賑やかなのが好きな人だから、あなたがそこで家族の輪を広げていくのをとても喜ぶと思うの」


「でも時々は帰ってきて。


 ミスティアス、君がいないと僕も寂しい」


穏やかに笑って言うユリカと対照的に、ルアルクは言葉通り寂しそうにミスティアスに伝えた。


女性が多い家の中で、男性二人は特に仲良しだ。


「心配しなくても、毎日チビたちと遊ぶために帰るし、あいつらのお腹を満たすためにも俺が料理しにくるよ」


「それなら、僕には願ったり叶ったりかな」


ミスティアスの言葉に、ルアルクはほっとしたように表情を緩めた。




「そうそう。アストレイド邸側はフィリアが住むんだって張り切っていましたよ」




その言葉を聞いて、さっきまでの笑顔のまま、ルアルクの表情が凍り付く。




「……フィリアが? ”誰と”住むとか、聞いているかな?」


「い、いえ! まだ具体的にはなにも!


 今はただ言っているだけかと!」


「そう、よかった」


ルアルクのどこか黒い笑顔に、ミスティアスが慌てて否定する。


その様子をみて、ユリカはまったく、とため息をこぼした。




「……ルアルク、あなたあまりそういうこと言うとフィリアに嫌われるわよ。


 フィリアも、リシェリアも、そしていつかはこの子も、自分の道を歩き出す。


 その時に優しく背中を押してあげるのが、親じゃないかしら?」


ユリカの真正面からの言葉に、彼はそっと目線を逸らした。


「わかっている……つもりだよ。


 ただ、あともう少しだけ、僕に守らせて欲しいんだ。


 娘を持つ父親の心はとても繊細になるんだよ」


「ふふ、過保護ね」




風が新緑の葉を揺らす。


ナーバ邸にはまた、新しい風が吹き始めていた。









ミスティアスは一人、重厚な扉の前に立つ。


家の中でも二つの私室にはさまれたこの部屋は、いわゆる“夫婦の寝室”だった。




もう、使われることのない、シェイとユリカの部屋。




(……ここだけが、まだ父さんと母さんの時間のままだ)




扉を開ける。


白いレースのカーテン、やわらかな花模様のラグ、窓辺には、若い頃の二人が笑う写真立て。


空気は少しだけラベンダーの香りが残っていて、整えられたベッドは今夜も誰も眠らない。




「……この部屋、もう“空き部屋”じゃなくす」


『……いいのか? ミスティアス。


 この部屋はシェイの気配が濃ぇぞ?」


「いい。このままここを悲しむ部屋のままにはしない」


自分で言って、自分で頷いていた。


父の書斎と研究室は、そのまま残す。


記憶の居場所として。




でも、ここは生活の部屋だ。


止まったままにしておく理由はない。




足が自然とベッドの前に向かう。


大きなキングサイズのベッドは、幼いリシェリアやミスティアスが何度も両親と一緒に寝た、思い出の場所だった。




四人が寝転んでも余裕のある広さ。




気が付いたら寝転んで天井を見ていた。


頭を撫でる父の大きな手の感触が胸に蘇ってくる。




「父さん……ありがとう」




一度、思い切り深呼吸して、そして再び起き上がる。


いつまでも“お父さんとお母さんの部屋”のままだと、家が前に進めない。




家具の配置はまたセレスと相談して決めるとして、まずは軽く掃除とカーテンを外すところから。




『なぁ、ミス。


 前に話しかけた、シェイフィルの話、教えてやるよ』


「ああ、うん。


 父さんの結婚前夜、だっけ?」


ベッドのマットレスを一旦ずらす。


『そうそう、結婚前夜。


 ”契約結婚”なのに指輪にもこだわって、あいつ基準の給料三ヶ月分だぜ?


 もらう相手が金額知ったら気軽に受け取れないようなものを、さも大したものではないですが……みたいな振りして贈るんだぜ?


 しかもどうしたら自然に渡せるか何度もシミュレーションして。


 オレにまで”ユリカさんだと思って受け答えお願いします”とか協力させやがった。


 今までいろいろな主人に仕えてきたオレでも、こういうお願いをされたのは初めてで本気で笑ったぜ!』


「うーわー……。


 あの人、母さん絡むとポンコツだよな」


『まったくだ。


 あいつのこと”英雄”だって崇めていたやつらが知ったら、泣いちまいそうな姿だったぜ』


言葉とは裏腹に、ナーバはくつくつと笑っているようだった。


きっと、英雄然とした父よりもポンコツな父の方が好きなのだろう。






夕方、チャイムの音がして、セレスが来た。


綺麗に結い上げた髪に大きなアメジストとダイアモンドが組み合わされたイヤリング、大人っぽい緋色ベースに黒リボンとレースが印象的なドレス。


一段ほど王女としての彼女が強い装い。


「今日の格好も似合っている。


 このドレスはお兄さんたちから?」


「そう、昨日のは父で、今日のは兄から。


 早くあなたに会いたくて、そのままの格好できちゃったの、ごめんなさい」


照れ臭そうに笑うその姿に、心の柔らかいところをぎゅっと掴まれるようだった。




部屋の奥からファリスの泣き声と両親の声が小さく聞こえる。


抱きしめたい気持ちは、ほんの少しだけ我慢した。




「今日はこの家の、寝室を片付けたんだ。


 俺たちの、”これからの部屋”になるように」


「し、寝室……を?


 なんだか……恥ずかしいね」


かぁ、と頬が色付くのをみて、彼の方も恥ずかしくなってきて頬が熱くなってくる。


「……見てみる?」


「……うん」




二人で、重厚な雰囲気の扉の前に立つ。


そっとノブに手をかけ扉を開くと、初夏の風と共に茜に染まった夕日が飛び込んできた。


「今はカーテン外してレースしかないから西日が強く感じるけど、カーテンを付けたらそうでもないと思う。


 セレスの好きな色のカーテンを一緒に選ぼう」


うん、とセレスは素直に頷き、身体を少し彼に預けるように寄り添う。


ミスティアスの手が、彼女の腰に回り、抱き寄せた。


「ミスティアス一人に任せたらモノトーンだけになっちゃう?」


「たぶんなっちまうな」


その言い方に、二人の間に笑いがこぼれた。




「この部屋、何年も止まったままだったんだよ。


 俺の中で、帰ってこない父さんの象徴で、いなくなった父さんの象徴でもあった」


遠くを見るミスティアスの横顔を見つめながら、セレスは静かに言葉の続きを待つ。




「でも、そうじゃないんだよな。


 ここは、”俺の生まれた部屋”だ。


 父さんと母さんの、愛の空間。


 だったら、俺たちがそれを引き継ぐのが、正しいんじゃないかなって思ったんだ」




「うん……。


 ここはもう”止まった部屋”じゃない。


 私たちの、”始まりの部屋”」




ぎゅっと彼女を抱く腕に力を込める。


離さないと誓うように。




「セレス」


彼女の耳のあたりに手をかけて、そっと優しく顔を近付ける。


彼女の方からも、腰に腕を回してくれる。


ふわっと二人の影が重なった瞬間、ぬるい魔力が溢れて混ざり合った。




角度を変えながら、何度も口づける。


二人の体温が、ぴったり同じ温度になるように。




「……ねぇ、ミスティアス」


「ん?」


「いつだったか、私が”君を溶かせたらいいな”って言っていたの覚えてる?」


「ああ、そういえばそんなこと、言っていたな」




出会ってそこまでまだ立っていない時期。


あのころの彼女は、時々難しい言葉を投げかけてくる、少し年上の王子だった。




「……それ、間違いだった」


「間違い?」


「そう。間違い。


 ”溶けた”のは私の方だった。


 王子としての私も、人を好きになって愛する私も、全部私のほうが溶かされていたの」


「……俺も、確かに君に溶かされたよ。


 これからも溶け合って、ちょうど良い温度に落ち着いたらいい」


言いながら、自分でも笑ってしまう。


照れくさい。


だけど、嘘はひとつも混じっていない。


セレスは頬を染め、ゆっくりと頷いた。






夜。


賑やかな名前のない家でのいつもの食卓と比べると、ずっと静かな食卓だった。


ユリカがシチューを、ルアルクが焼きたてのパンを並べてくれて、四人で短い食卓を囲んだ。


ファリスが近くのクーハンの中で眠っている。


やがて、「私たち、きょうはこのあたりで帰るわね」とユリカが笑って食卓を立ち、二人は静かに名前のない家のほうへと帰る支度を始めた。


ファリスを抱いたルアルクが帰る荷物をまとめる間、ミスティアスは母と共に玄関へ向かう。




廊下には、夜風が少し入り込んでいる。


ユリカは扉の前でふと立ち止まり、振り返って彼に穏やかに笑いかけた。




「ねえ、ミスティアス。


 あなた、結婚までは“待つ”つもりって言ってたわね?」


投げかけられた唐突な言葉とその内容に、一気にミスティアスの頬が赤く染まる。


「なっ……なんの話だよっ!


 なんでそんなこと母さんが知ってるんだ!!」


「ふふ、嘘の付けない子。


 ”女子会”の情報収集能力、恐ろしいでしょう?」


「プライバシーの侵害を訴えたいくらいだ……」


いたずらっぽく笑う母に、ミスティアスがげんなりとした表情で答えた。




「それを聞いて、思いやりのある優しい子って思ったわ。


 さすがシェイさんの子。


 ……でもね、変わらぬ明日が、必ず来るとは限らないのよ。


 だから、“今日”を抱きしめることを恐れないで」




「……“節度を保て”と言っていた母親が、そういうこと、息子に言う?」


母が暗に言いたいことを正しく理解して、気まずさから目を逸らす。




「しょうがないでしょう? 前は婚約前だったから大切なことだったの。


 それにこういう話、本来は父親の役目かもしれないけど――


 シェイさんがいないのなら、彼の引き継ぎをするのも、残された母の役目よ。


 流石に、ルアルクには荷が重いでしょう?」




「……そりゃ、まぁ……」




「あなたが優しすぎて、つい心配になるの。


 セレスちゃんを大切にするのはいいけれど、守ることと、距離を置くことは別物よ」


「……うん」




ユリカは微笑んで、彼の肩にそっと手を置いた。




「――後悔しないように。


 それが、母からの最後の口出し」




廊下に、外の夜風がふっと吹き込む。


カーテンが揺れ、灯がゆらいだ。


そのまま玄関を出ると、ルアルクが後から荷物を抱えて追いついてくる。


ユリカは微笑み、彼の手から小さな包みを受け取ると、まるで昔からの癖のように、自然に彼の唇に触れた。




「……後悔しないって、こういうこと」




「ちょ、ちょっと……ユリカ……!」


顔を真っ赤にして固まるルアルク。


ファリスを抱いたセレスは、思わずその目をそっと覆う。




ミスティアスは呆れながらも、口の端で笑った。


「いや……お父さん固まってしまってるし。


 というかいい年して子どもの前で何やってんだよ」




「でも、いいでしょう?」


ユリカは振り返り、柔らかく言う。




「そういえば父さんも俺たちの前で遠慮なくキスする人だった」


記憶の中の父を思い出す。


遺跡調査にいくあの朝も、今思えば名残惜しそうに三回もキスをねだって母を困らせていた。




「あれね。あくまで挨拶、愛情表現の延長だからできるのよ。


 二人きりの”特別なキス”は、決して子どもたちの前ではしなかったわ」




ユリカの目が、少し遠くを見つめる。


痛みを抱えた、柔らかい笑顔を浮かべて。




「変わらない明日は、ずっとは来ないの。


 だから今日をしっかり抱きしめるのよ。


 あなたが私の背中を押してくれた日から、私も遠慮をやめたの」




ミスティアスは母の言葉を受け止めて、そっとセレスティアを見つめる。


黒髪に藍色の目をした妹を抱く彼女の姿が、未来の自分の子を抱く姿を覗き見ているようで、少しだけ照れくさくて眩しい。


セレスはファリスをルアルクに渡すと、「またね」と優しく声をかけた。


ファリスが小さな手で、ぎゅっとセレスの指を掴んで別れを惜しんでいるようだった。




ユリカはそのまま踵を返し、ファリスを抱いたルアルクとゆっくりと並んで歩き出す。




廊下に残る花の香りと、足音の余韻。


ミスティアスはしばらくそれを見送って、ぽつりと呟いた。




「……“今日”を、抱きしめる……か」




夜の風が頬を撫でる。


彼は深呼吸をして、ほんの少し大人びた顔で、セレスの隣へ歩き出した。




外には、初夏の星々が静かに瞬いていた。





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